跡地、という言葉は、何かがあった場所に、何もないことを言う。
何もないのに、何かがあったことだけは、残る。残っているのは、建物ではなく、名前の方だ。名前は、壊れない。壊れないものだけが、跡地に立っている。
九月の最後の日の夕方、赤い車は、澄百合学園の門の前で止まった。
門は、六月と同じ形をしていた。
形だけが、同じだった。
塀は、まだ高かった。
高い塀の内側に、六月、私は三日間いた。糸の廊下に立ち、刃物の前で動かず、理事長室の扉の前で、十二の部位を見た。
塀の向こうの校舎の窓は、どれも暗かった。
「誰もいないな」
潤さんが、エンジンを切った。
「生徒も、先生も、もういない。六月で、全部終わった。……終わった場所を、狐の面の男は、もう一回使うんだとさ」
門の脇の通用口が、開いていた。
六月、潤さんが、どこからか取り出した鍵で開けた扉だった。
今日は、鍵が要らなかった。
誰かが、先に開けていた。
「いーたんたちは、もう中だな」
潤さんは、通用口の前で、一度だけ、私を振り返った。
「りんねちゃん。……ここから先は、あたしの隣から離れんなよ」
「隣の隣でも、いいと言われました」
「言ったな。じゃあ、隣の隣だ」
「どこが、隣の隣ですか」
「あたしの横の、そのまた横」
「通用口は、一人ずつしか、通れません」
潤さんは、通用口の幅を見た。肩幅一つ分の、鉄の扉だった。
「……じゃあ、縦だ。縦の、隣の隣」
「縦に並ぶのは、後ろと言います」
「細けえな、りんねちゃんは」
潤さんは、通用口をくぐった。
私は、一つ分の間を空けて、その後に続いた。
中庭を抜けた先に、体育館があった。
第二体育館、と、扉の上に書いてあった。
扉は、開いていた。
中は、明るかった。天井の照明が、全部点いていた。誰もいない学校の、誰もいない体育館の照明が、全部点いている。それだけで、ここが、誰かのために用意された場所なのだと分かった。
床に、白い線が引いてあった。
バスケットボールのコートの線。バレーボールのコートの線。何色かの線が、重なり合って、床の上に、いくつもの四角を描いていた。
四角の内側と外側。線を踏めば、反則になる。線の内側にいる者だけが、点を取ることができる。
高校の体育館の床にも、同じ線が引いてあった。
あの学校では、線の内側で取った点は、クラスの点になった。クラスの点は、そのまま、私たちの暮らしになった。線の内側にいることが、暮らしの全部だった。
一年生の秋、体育祭の三日前に、私は、非常階段で、あの人に、教えて、と頼んだ。
線の内側で点を取る方法ではなく、別のことを。
あの人は、線の内側のことを、何も教えなかった。座れ、と言った。降りるな、と言った。どちらも、線とは関係のない言葉だった。
今、私は、線の外側に立っていた。
扉の内側、線の外側。
ここで点を取る者は、誰もいない。取られるのは、点ではない。
それが分かっていて、私は、線を一本、跨いだ。
跨いでも、笛は鳴らなかった。笛を吹く人は、この体育館には、いなかった。
いるのは、物語を見ている人だけだった。
床の真ん中に、人が立っていた。
彼がいた。
三人の向こう、体育館の奥の、舞台の上に、狐の面の男が座っていた。
舞台の縁に、腰を下ろしていた。足を、ぶらぶらさせていた。着流しの裾から、雪駄の先が覗いていた。
「よう」
「──俺の敵。それから、俺の娘」
潤さんの肩が、私の一つ前で、ほんの少しだけ動いた。
「それから」
西東さんの面が、私の方を向いた。
「……ふん。並行世界まで、来たか」
体育館の中の、誰も、何も言わなかった。
崩子さんが、ちらりと、私を見た。
萌太くんも、私を見た。
彼だけが、私を見なかった。舞台の上の、狐の面を、まっすぐ見ていた。
「みいこさんの毒を、解いてもらいます」
彼が、言った。
「約束どおり」
「約束は、していない。俺が言ったのは、ここへ来たら物語が進む、ということだけだ」
西東さんは、舞台の縁から、立ち上がった。
「来たな。……物語を、進めよう」
舞台の袖から、人が出てきた。
三人だった。
一人は、銀縁の眼鏡の、細身の男。
一人は、背の低い女の人だった。眼鏡をかけていた。人形のように整った顔をしていた。両手の指に、細い糸のようなものが、何本も絡んでいた。
最後の一人は、男だった。
四十を少し過ぎたくらいに見えた。灰色の着物を着ていた。眼鏡はかけていなかった。かけていない代わりに、目が、異様に静かだった。湖の、底の方の水のような目だった。
その三人の後ろから、もう一人、出てきた。
子どもだった。
十四か、十五に見えた。髪は橙色だった。夕日の、いちばん濃いところの色だった。華奢な体つきで、男の子なのか女の子なのか、分からなかった。分からないのに、その子が立った瞬間に、体育館の空気が、一度だけ、重くなった。
その子の目は、どこも見ていなかった。
開いているのに、見ていなかった。
「紹介しよう」
西東さんが、言った。
「
孫。
出町柳の夜、この人は、言った。海の向こうに、子どもを作り直す場所がある。俺の孫は、そこで作られた。
作られた子が、ここに立っていた。
「人類最強の、次。……人類最終だ」
潤さんの背中が、強ばった。
強ばったのを、私は、一つ後ろから見ていた。
八月の夜、狐の面の男の話をした時に、この人の肩が強ばった。今朝、ここへ来る赤い車の中で、自分より強い奴などいないと言った時に、この人の声が揺れた。
今、この人の背中が、強ばっていた。
「真心は、今、三人に繋がれている」
西東さんは、舞台の上から、三人を順に指さした。
「奇野が、体の力を。
時宮時刻。
湖の底のような目の男が、ほんの少しだけ、頭を下げた。
「繋がれていれば、真心は、俺の言うことを聞く。……さて、俺の敵。浅野みいこの薬が欲しければ、俺の孫の前に、立ってみろ」
時宮時刻、と呼ばれた男が、一歩、前に出た。
体育館の床が、鳴った。
鳴った音が、妙に、長く響いた。
「お客人が、多い」
低い声だった。
湖の底から、浮かんでくるような声だった。
「物語の邪魔にならぬよう、少し、静かにしていただきましょう」
時刻さんは、私たちの方を、ゆっくりと見回した。
見回しただけだった。
手も、動かさなかった。言葉も、それ以上は言わなかった。
見回した目が、崩子さんを通り過ぎた。
崩子さんの背筋が、ふっと、緩んだ。
萌太くんを通り過ぎた。
萌太くんの両手が、だらりと、下がった。
潤さんを通り過ぎた。
潤さんの肩が、一瞬だけ、止まった。止まって、それから、潤さんは、自分の頬を、平手で強く打った。乾いた音が、体育館に響いた。
「……っ、効くかよ、こんなもん」
潤さんは、頭を振った。振った頭が、少しだけ、揺れていた。
彼を通り過ぎた。
彼は、まばたきを、二回した。
二回して、それから、膝が、少しだけ、折れた。折れかけて、踏みとどまった。
「……いーたん」
潤さんが、呼んだ。
彼は、答えなかった。目が、どこか遠くを見ていた。
崩子さんも、萌太くんも、同じ目をしていた。
開いているのに、見ていない目。
想影真心の目と、同じだった。
時刻さんの目が、最後に、私を通り過ぎた。
通り過ぎて、それから、戻ってきた。
戻ってきて、止まった。
私は、時刻さんを見ていた。
何が起きているのか、分からなかった。
崩子さんが急に力を抜いた理由も。萌太くんの手が下がった理由も。潤さんが自分の頬を打った理由も。彼の膝が折れかけた理由も。
分からないまま、私は、立っていた。
立ったまま、時刻さんを、見ていた。
「……何かしら」
私が、言った。
時刻さんは、答えなかった。
湖の底のような目が、ほんの少しだけ、揺れた。
揺れて、もう一度、私を見た。
さっきより、深く。
私の目の中を、覗き込むように。
何も、起きなかった。
私は、首を傾げた。
「えと、何をしてるのかしら」
体育館が、静かになった。
舞台の上で、西東さんが、面の顎に手を当てていた。
奇野さんが、眼鏡の位置を直しかけて、手を止めていた。
右下さんという人が、糸の絡んだ指を、宙で止めていた。
時刻さんは、長いあいだ、私を見ていた。
それから、初めて、表情を変えた。
驚いた顔だった。
この人が驚くのは、たぶん、とても珍しいことなのだろうと思った。そう思わせる驚き方だった。
「……効かない、のではないな」
時刻さんが、言った。
自分に言い聞かせるような声だった。
「入れない。……扉の前に、誰かが座っている」
扉の前に、誰かが座っている。
六月の潤さんも。九月の西東さんも。この夏から、何人もの人が、私の顔の後ろに、誰かを見た。
この人は、それを、扉の前、と言った。
「心に入るには、扉がいる。扉は、迷いのところに開く。……お前には、迷いがある。迷っているのに、扉の前に、誰かが座っていて、どかない」
時刻さんの目が、少しだけ、細くなった。
「どかない誰かを、私は、知らない。……その誰かは、お前に、何と言った」
私は、答えなかった。
答えなかったけれど、胸の奥で、あの言葉が、鳴った。
《一つだけ約束しろ。降りるな》
時刻さんは、私の顔を、見ていた。
見ていて、何かを、読み取ったようだった。
読み取って、ゆっくりと、首を振った。
「……どかない者に、操想術は、届かない。届かせる場所が、ない」
時刻さんは、一歩、下がった。
下がって、舞台の上の西東さんを、振り返った。
「主よ。この娘は、私の術の外におります」
「知っている」
西東さんは、言った。
「それは、俺の並行世界だ。……放っておけ。放っておいても、物語の邪魔はせん。邪魔をする力が、ないからな」
邪魔をする力が、ない。
その通りだった。
私には、何もできない。
崩子さんが、萌太くんが、彼が、潤さんまでが、何かに捕まっているのに、私だけが立っていて、私には、何もできなかった。
「……堀北、さん」
小さな声が、した。
崩子さんだった。
遠くを見ていた目が、ほんの少しだけ、こちらへ戻ってきていた。
「わたしの、肩を」
私は、崩子さんの隣へ歩いた。
一つも、空けずに。
崩子さんの肩に、手を置いた。
崩子さんの肩が、私の手の下で、小さく、震えた。
「……戻ってきました」
崩子さんの目に、色が戻っていた。
「堀北さんの手が、重かったので」
重かった、と崩子さんは言った。
何も持っていない手だった。
何も持っていない手の重さで、この子は、戻ってきた。
私は、萌太くんの隣へ歩いた。
萌太くんの肩に、手を置いた。
萌太くんが、まばたきをした。
「……あれ、先生。僕、今、何してました」
「立っていたわ。目を開けたまま」
「それは、困りましたね」
萌太くんは、笑った。笑いながら、額の汗を、袖で拭った。
私は、彼の隣へ歩いた。
隣の、隣ではなく。
隣へ。
彼の肩に、手を置いた。
彼は、すぐには、戻ってこなかった。
遠くを見たまま、小さく、何かを言っていた。
聞き取れなかった。
聞き取れないまま、私は、手を置いていた。
置いていると、彼の目が、ゆっくりと、こちらへ戻ってきた。
戻ってきて、私を見た。
一つも空けていない距離で、私を見た。
「……君、ここに、いたんだ」
「いたわ」
「隣に」
「今だけよ」
彼は、少しだけ、笑った。
時刻さんが、その様子を、湖の底の目で、じっと見ていた。
見ていて、何も言わなかった。
何も言わないかわりに、もう一度だけ、小さく首を振った。
それから先のことを、私は、順番に覚えていない。
覚えているのは、音だけだ。
西東さんが、何かを言った。
右下さんの指が、糸を一本、緩めた。
橙色の髪の子が、初めて、こちらを見た。
見た、と思った次の瞬間には、潤さんの体が、私の横を、飛んでいった。
飛んでいって、体育館の壁に当たって、落ちた。
萌太くんが、崩子さんを背中にかばって、前に出た。
前に出た、と思った次の瞬間には、二人とも、床に倒れていた。
体育館の扉から、黒いマントの影が、飛び込んできた。
髪の長い、背の高くない影。
「ぎゃはははっ!」
出夢さんだった。
出夢さんは、まっすぐに、橙色の髪の子へ向かっていった。
向かっていって、それから。
それから、音がした。
一度だけ。
何かが、折れる音だった。
私は、目を閉じなかった。
閉じなかったけれど、何が起きたのかは、見えなかった。速すぎて、見えなかった。見えなかったものを、私は、見たとは言えない。
見えたのは、そのあとだった。
体育館の床の真ん中に、出夢さんが、倒れていた。
マントの下の、白い拘束衣が、白くなかった。
彼が、出夢さんのそばへ、這うように近づいていった。
私は、その一つ後ろに、立っていた。
出夢さんの目が、彼を見た。
見て、口の端を、大きく吊り上げた。
「……よう、おにーさん」
乾いた声だった。乾いていて、もう、ほとんど、声になっていなかった。
「
「出夢くん」
「ぎゃは。……帳尻、合わなかったな」
出夢さんの目が、ほんの一瞬だけ、私の方へ動いた。
殺し屋の前で、震えねえのな。
八月の夜、外灯の下で、この人は、そう言った。
今、この人の目は、何も言わなかった。
言わないまま、どこも見なくなった。
潤さんが、壁際で、身を起こそうとしていた。
起こそうとして、起き上がれなかった。
赤い髪が、床に広がっていた。
舞台の上から、西東さんが、降りてきた。
雪駄の音が、ぺたぺたと、体育館に響いた。
西東さんは、潤さんのそばに、しゃがみ込んだ。
「よく、やった」
西東さんの声は、低かった。
「お前は、強い。だが、まだ、終わっていない。……終わっていない者は、連れていく」
潤さんの腕を、肩に回した。
潤さんは、抵抗しなかった。できなかったのかもしれなかった。
「……りんね、ちゃん」
潤さんの声が、した。
壁際から、私の方へ。
「降りろって、言ったら、降りろって、言ったよな」
「言いました」
「……言わねえよ」
潤さんは、少しだけ、笑った。
「あんたは、降りないんだろ。……だったら、降りんな。あたしの代わりに、いーたんの隣の隣に、座ってろ」
西東さんが、潤さんを担いで、立ち上がった。
狐の面が、最後に、私の方を向いた。
「並行世界」
西東さんが、言った。
「俺の敵に、薬をやる。浅野みいこは、助かる。……物語は、進んだ」
西東さんは、彼の方へ、小さな瓶を一つ、放った。
瓶は、彼の膝の上に、落ちた。
彼は、それを、見なかった。
出夢さんの顔を、見ていた。
「縁が《合わなかったら》、また会おう」
西東さんは、潤さんを担いだまま、体育館の扉の方へ歩いていった。
その後に、橙色の髪の子が、ついていった。
その後に、奇野さんと、右下さんが。
最後に、時刻さんが。
時刻さんは、扉のところで、一度だけ、振り返った。
湖の底の目が、私を見た。
「……扉の前に座っている誰かに、伝えておけ」
時刻さんは、言った。
「私の術は、この世の人間の心になら、必ず入る。……入れなかったのは、お前が初めてだ、と」
扉が、閉まった。
体育館の照明が、まだ、全部点いていた。
誰もいなくなった学校の、誰もいなくなった体育館で、照明だけが、全部点いていた。
床の上に、出夢さんがいた。
壁際に、崩子さんと萌太くんが、肩を寄せ合っていた。
彼は、出夢さんのそばに、座っていた。
膝の上に、小さな瓶が、載っていた。
私は、彼の、一つ空けた隣に、座った。
床に、直に。
七回転んで、八回目に、座る。
紫木さんの声が、聞こえた気がした。
ここは、紫木さんの学校だった。
紫木さんの学校の床に、私は、座っていた。
この世の人間の心になら、必ず入る、と時刻さんは言った。
入れなかった、と。扉の前に、誰かが座っていたから。
あの人は、前の晩まで、卓に座っていた。目が覚めたら、ここにいた。
ここ、というのは、この世界のことだったのかもしれない。
この世界に、座る場所のない人が、半年と少しだけ、この世界の、私のすぐ近くの席に座っていた。
私は、膝の上で、手を組んだ。
指先は、冷たかった。
冷たかったけれど、まだ、動いた。
「……出夢くんは」
彼が、出夢さんの顔を見たまま、言った。
「ぼくを、殴った人なんだ。八月に。潤さんを呼び出すために。……腕と、胸を」
「知っているわ」
「なのに、今、ぼくのことを、おにーさんって呼んだ」
彼は、出夢さんの、開いたままの目を見ていた。
「殴った相手を、最後に、そう呼ぶ人がいるんだね。……ぼくは、殴られたことを、まだ、許してない。許してないのに、今、この人が、おにーさんって呼んでくれたことが、たぶん、一生、残る」
許していないのに、残る。
どちらでも、同じことだった。
同じことになってしまった。
「目を、閉じてあげないの」
私が言うと、彼は、首を振った。
「ぼくがやると、たぶん、手が震える。……震えた手で閉じられるの、この人、嫌がると思う。殺し屋の前で震えねえ、って、君のことを面白がってた人だから」
彼は、私を見た。
一つ空けた場所から、私を。
私は、少しだけ、迷った。
迷ってから、膝で、出夢さんのそばへ寄った。
白くない白い拘束衣の、すぐ横に。
右手を、出夢さんの瞼の上に、そっと置いた。
置いて、下ろした。
指先は、冷たかった。冷たかったけれど、震えなかった。
震えなかったことを、この人に、見せたかったのかもしれなかった。もう、見られないのに。
開いていた目が、閉じた。
「……人識くんは、生きている、と言ったわね」
「言った」
「伝えるの。誰かに」
「伝えない。伝える相手が、いない。……いるとしたら、人識くん本人だけだ」
彼は、出夢さんの閉じた目を見ていた。
「この人の嘘は、守るための嘘だった。守られた人が、守られたことを知らないまま、生きてる。……それで、たぶん、いいんだ」
守られたことを、知らないまま。
私の顔の後ろに座っている誰かも、きっと、守ったことを、知らない。
知らないまま、扉の前に、座っている。
門の前で、迎えを待った。
赤い車は、門の脇に止まったままだった。
「いー兄の免許は、オートマ限定なんです」
萌太くんが、赤い車を見ながら言った。
「あの車は、動かせません。……潤さんの車を、潤さん以外が動かせたら、それはそれで、怖いですけど」
萌太くんは、門柱に背中を預けていた。
口に、煙草をくわえていた。
火が、ついていた。
彼と崩子さんは、少し離れた石段に座っていた。崩子さんは、彼の膝の上の小さな瓶を、黙って見ていた。彼は、何も見ていなかった。
私は、萌太くんの、一つ空けた隣に立った。
「吸うのね」
「今日だけです」
萌太くんは、煙を、門の上の暗い空へ吐いた。
「いつもは、くわえるだけにしてるんです。崩子が、匂いを嫌がるので。……今日は、崩子が、何も言いませんでした」
崩子さんは、何も言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
「先生」
萌太くんが、言った。
「昨日も言いましたけど。……僕の家は、死神の家なんです」
私は、萌太くんを見た。
萌太くんは、空を見ていた。
「運命に背く人を、看取る家。……変な家でしょう。僕の家は、そういう家です。……崩子の家から、二人で出てきました。出てきたけど、僕の目だけは、死神の家のままなんです。死ぬ予定の人と、死なない予定の人が、なんとなく、分かる」
「分かるの」
「なんとなく、ですよ。当たるとは限らない」
萌太くんは、煙草を、指で挟み直した。
「先生は、死ぬ予定のない顔をしてます。……なのに、死ぬ場所に、来る。今日も、来た。死ぬ予定のない人が、死ぬ場所に来ると、死神の目には、どう映ると思いますか」
「分からないわ」
「僕にも、分かりません」
萌太くんは、笑った。
「運命の方が、避けて通ってるみたいに見えるんです。……背いてもいないのに」
背いてもいないのに、運命の方が避けて通る。
扉の前に、誰かが座っている。
時刻さんも、そう言った。
萌太くんは、それから、少しだけ黙った。
黙って、石段の崩子さんを見た。
崩子さんは、彼の膝の瓶から、目を離していなかった。
「先生」
萌太くんの声が、少しだけ、低くなった。
「崩子を、よろしく」
私は、萌太くんを見た。
萌太くんは、笑っていた。
笑っているのに、目が、少しも笑っていなかった。
「どうして、私に頼むのかしら」
「先生は、逃げないから。……逃げない人にしか、頼めないことって、あるでしょう」
「あなたが、いるでしょう」
「いますよ。今は」
萌太くんは、煙草を、門柱に押しつけて消した。
消した煙草を、ポケットに入れた。
「今は、いるんです。……先生、僕の目は、家のままだって、言いましたよね」
私は、何も言えなかった。
萌太くんは、それ以上は、何も言わなかった。
石段の方から、崩子さんが、立ち上がって、こちらへ歩いてきた。
萌太くんの方ではなく、私の方へ。
私の前で、止まった。
「堀北さん」
「何かしら」
「さっき、あの人の目が、わたしを通り過ぎた時」
崩子さんは、自分の肩に、手をやった。私が手を置いた、その場所に。
「わたしは、遠くへ、連れていかれそうになりました。……家に。生まれた家に。みんなが誰かに仕えている家の、いちばん奥の部屋に。そこへ戻れば、楽になれると、思いかけました」
崩子さんの声は、平らだった。
平らなまま、少しだけ、掠れていた。
「堀北さんは、どこにも、連れていかれなかったんですね」
「何も、起きなかったわ」
「何も起きなかったのは、どうしてですか」
私は、答えられなかった。
本当に、分からなかった。
時刻さんは、扉の前に誰かが座っていると言った。どかない者には、届かない、と。それが誰なのかを、私は、たぶん、知っている。知っているけれど、どうしてその人が、そこに座っているのかは、知らない。
知らないことを、知っているふりで答えるのは、嫌だった。
「分からないわ」
崩子さんは、しばらく、私を見ていた。
まばたきの少ない目で。
「……分からないのに、平気なんですね」
「平気ではないわ。分からないことは、いつも、怖いのよ」
「怖いのに、立っていた」
「立っていることしか、できなかったからよ」
崩子さんは、少しだけ、目を伏せた。
伏せたまま、言った。
「わたしは、仕える家に生まれました。仕えるというのは、自分の扉の前に、主を座らせることです。……主が座っていれば、誰も、中に入れません。でも、わたしは、まだ、誰も座らせていません」
扉の前が、空になる。
「だから、わたしの扉の前は、空です。……だから、あの人の目が、入ってきかけました」
崩子さんは、顔を上げた。
「堀北さんの扉の前に座っている人は、いなくならない人なんですね」
いなくならない人。
あの人は、いなくなった。あの卓の一週間後に、何も残さずに。
いなくなったのに、扉の前には、まだ、座っている。
「……いなくなったわ」
私は、言った。
「いなくなったけれど、どいていないの」
崩子さんは、目を、少しだけ見開いた。
それから、小さく、頭を下げた。
八月の病院のエレベーターの前で、あの席はあなたの席です、と言った時と、同じ、まっすぐな目のままだった。
崩子さんは、石段へ戻っていった。
戻って、彼の隣に、また座った。
一つ、空けて。
道の向こうから、車のライトが、近づいてきた。
車は、門の前で止まった。
運転席から、鈴無さんが降りてきた。降りてきて、門の前の私たちを、一人ずつ、見た。
彼を。崩子さんを。萌太くんを。それから、私を。
数えるような見方だった。来た時の数と、今の数を、合わせるような。
合わなかった。
鈴無さんは、何も訊かなかった。
訊かないまま、後ろの座席のドアを、開けた。
「乗りなさい。全員。……話は、あとで、聞く人が聞くわ。アタシは、運ぶだけだわよ」
運ぶだけ、と鈴無さんは言った。
説教をしない時の、この人の声だった。
助手席の窓の内側に、青いものが見えた。
玖渚さんは、このあと、いちばん初めに、彼の数を数えるのだろう。数えて、合っていることを確かめて、それから、合わなかった分の数を、カメラの向こうで、一人で数えるのだろう。
萌太くんは、門柱から背を離して、石段の方へ歩いていった。
崩子さんの隣に、しゃがみ込んだ。
一つも、空けずに。
崩子さんが、萌太くんの肩に、頭を預けた。
私は、門の前に立ったまま、その二人を、見ていた。
死ぬ予定の人と、死なない予定の人が、なんとなく分かる、と萌太くんは言った。
萌太くんは、自分のことを、どちらだと思っているのだろう。
訊かなかった。
訊いたら、答えが返ってきてしまう気がした。
返ってきた答えを、私は、たぶん、持っていられない。持っていられないものを、萌太くんは、たぶん、もう、一人で持っている。一人で持っている人の妹を、よろしく、と頼まれた。