ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

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第35話 孫(馬子)

跡地、という言葉は、何かがあった場所に、何もないことを言う。

 

何もないのに、何かがあったことだけは、残る。残っているのは、建物ではなく、名前の方だ。名前は、壊れない。壊れないものだけが、跡地に立っている。

 

九月の最後の日の夕方、赤い車は、澄百合学園の門の前で止まった。

 

門は、六月と同じ形をしていた。

 

形だけが、同じだった。

 

 

 

 

 

塀は、まだ高かった。

 

高い塀の内側に、六月、私は三日間いた。糸の廊下に立ち、刃物の前で動かず、理事長室の扉の前で、十二の部位を見た。

 

塀の向こうの校舎の窓は、どれも暗かった。

 

「誰もいないな」

 

潤さんが、エンジンを切った。

 

「生徒も、先生も、もういない。六月で、全部終わった。……終わった場所を、狐の面の男は、もう一回使うんだとさ」

 

門の脇の通用口が、開いていた。

 

六月、潤さんが、どこからか取り出した鍵で開けた扉だった。

 

今日は、鍵が要らなかった。

 

誰かが、先に開けていた。

 

「いーたんたちは、もう中だな」

 

潤さんは、通用口の前で、一度だけ、私を振り返った。

 

「りんねちゃん。……ここから先は、あたしの隣から離れんなよ」

 

「隣の隣でも、いいと言われました」

 

「言ったな。じゃあ、隣の隣だ」

 

「どこが、隣の隣ですか」

 

「あたしの横の、そのまた横」

 

「通用口は、一人ずつしか、通れません」

 

潤さんは、通用口の幅を見た。肩幅一つ分の、鉄の扉だった。

 

「……じゃあ、縦だ。縦の、隣の隣」

 

「縦に並ぶのは、後ろと言います」

 

「細けえな、りんねちゃんは」

 

潤さんは、通用口をくぐった。

 

私は、一つ分の間を空けて、その後に続いた。

 

 

 

 

 

中庭を抜けた先に、体育館があった。

 

第二体育館、と、扉の上に書いてあった。

 

扉は、開いていた。

 

中は、明るかった。天井の照明が、全部点いていた。誰もいない学校の、誰もいない体育館の照明が、全部点いている。それだけで、ここが、誰かのために用意された場所なのだと分かった。

 

床に、白い線が引いてあった。

 

バスケットボールのコートの線。バレーボールのコートの線。何色かの線が、重なり合って、床の上に、いくつもの四角を描いていた。

 

四角の内側と外側。線を踏めば、反則になる。線の内側にいる者だけが、点を取ることができる。

 

高校の体育館の床にも、同じ線が引いてあった。

 

あの学校では、線の内側で取った点は、クラスの点になった。クラスの点は、そのまま、私たちの暮らしになった。線の内側にいることが、暮らしの全部だった。

 

一年生の秋、体育祭の三日前に、私は、非常階段で、あの人に、教えて、と頼んだ。

 

線の内側で点を取る方法ではなく、別のことを。

 

あの人は、線の内側のことを、何も教えなかった。座れ、と言った。降りるな、と言った。どちらも、線とは関係のない言葉だった。

 

今、私は、線の外側に立っていた。

 

扉の内側、線の外側。

 

ここで点を取る者は、誰もいない。取られるのは、点ではない。

 

それが分かっていて、私は、線を一本、跨いだ。

 

跨いでも、笛は鳴らなかった。笛を吹く人は、この体育館には、いなかった。

 

いるのは、物語を見ている人だけだった。

 

床の真ん中に、人が立っていた。

 

彼がいた。

 

崩子(ほうこ)さんと、萌太(もえた)くんが、その両脇にいた。崩子さんは、背筋を伸ばしていた。萌太くんは、いつもの火のついていない煙草を、今日は、くわえていなかった。両手が、空いていた。

 

三人の向こう、体育館の奥の、舞台の上に、狐の面の男が座っていた。

 

舞台の縁に、腰を下ろしていた。足を、ぶらぶらさせていた。着流しの裾から、雪駄の先が覗いていた。

 

「よう」

 

西東(さいとう)さんの声が、体育館に響いた。

 

「──俺の敵。それから、俺の娘」

 

潤さんの肩が、私の一つ前で、ほんの少しだけ動いた。

 

「それから」

 

西東さんの面が、私の方を向いた。

 

「……ふん。並行世界まで、来たか」

 

体育館の中の、誰も、何も言わなかった。

 

崩子さんが、ちらりと、私を見た。

 

萌太くんも、私を見た。

 

彼だけが、私を見なかった。舞台の上の、狐の面を、まっすぐ見ていた。

 

「みいこさんの毒を、解いてもらいます」

 

彼が、言った。

 

「約束どおり」

 

「約束は、していない。俺が言ったのは、ここへ来たら物語が進む、ということだけだ」

 

西東さんは、舞台の縁から、立ち上がった。

 

「来たな。……物語を、進めよう」

 

 

 

 

 

舞台の袖から、人が出てきた。

 

三人だった。

 

一人は、銀縁の眼鏡の、細身の男。奇野(きの)さんだった。病院で、浅野さんの膝に花束を置いた男。私を見て、少しだけ、片手を上げた。

 

一人は、背の低い女の人だった。眼鏡をかけていた。人形のように整った顔をしていた。両手の指に、細い糸のようなものが、何本も絡んでいた。紫木(ゆかりき)さんの糸とは違った。紫木さんの糸は、切るための糸だった。この人の糸は、繋いでおくための糸に見えた。

 

最後の一人は、男だった。

 

四十を少し過ぎたくらいに見えた。灰色の着物を着ていた。眼鏡はかけていなかった。かけていない代わりに、目が、異様に静かだった。湖の、底の方の水のような目だった。

 

 

 

その三人の後ろから、もう一人、出てきた。

 

子どもだった。

 

 

 

十四か、十五に見えた。髪は橙色だった。夕日の、いちばん濃いところの色だった。華奢な体つきで、男の子なのか女の子なのか、分からなかった。分からないのに、その子が立った瞬間に、体育館の空気が、一度だけ、重くなった。

 

その子の目は、どこも見ていなかった。

 

開いているのに、見ていなかった。

 

「紹介しよう」

 

西東さんが、言った。

 

「想影真心(おもかげまごころ)。……俺の孫だ」

 

孫。

 

出町柳の夜、この人は、言った。海の向こうに、子どもを作り直す場所がある。俺の孫は、そこで作られた。

 

作られた子が、ここに立っていた。

 

「人類最強の、次。……人類最終だ」

 

潤さんの背中が、強ばった。

 

強ばったのを、私は、一つ後ろから見ていた。

 

八月の夜、狐の面の男の話をした時に、この人の肩が強ばった。今朝、ここへ来る赤い車の中で、自分より強い奴などいないと言った時に、この人の声が揺れた。

 

今、この人の背中が、強ばっていた。

 

「真心は、今、三人に繋がれている」

 

西東さんは、舞台の上から、三人を順に指さした。

 

「奇野が、体の力を。右下(みぎした)るれろが、手足を。……時宮時刻(ときのみやじこく)が、心を」

 

時宮時刻。

 

湖の底のような目の男が、ほんの少しだけ、頭を下げた。

 

「繋がれていれば、真心は、俺の言うことを聞く。……さて、俺の敵。浅野みいこの薬が欲しければ、俺の孫の前に、立ってみろ」

 

 

 

 

 

時宮時刻、と呼ばれた男が、一歩、前に出た。

 

体育館の床が、鳴った。

 

鳴った音が、妙に、長く響いた。

 

「お客人が、多い」

 

低い声だった。

 

湖の底から、浮かんでくるような声だった。

 

「物語の邪魔にならぬよう、少し、静かにしていただきましょう」

 

時刻さんは、私たちの方を、ゆっくりと見回した。

 

見回しただけだった。

 

手も、動かさなかった。言葉も、それ以上は言わなかった。

 

見回した目が、崩子さんを通り過ぎた。

 

崩子さんの背筋が、ふっと、緩んだ。

 

萌太くんを通り過ぎた。

 

萌太くんの両手が、だらりと、下がった。

 

潤さんを通り過ぎた。

 

潤さんの肩が、一瞬だけ、止まった。止まって、それから、潤さんは、自分の頬を、平手で強く打った。乾いた音が、体育館に響いた。

 

「……っ、効くかよ、こんなもん」

 

潤さんは、頭を振った。振った頭が、少しだけ、揺れていた。

 

彼を通り過ぎた。

 

彼は、まばたきを、二回した。

 

二回して、それから、膝が、少しだけ、折れた。折れかけて、踏みとどまった。

 

「……いーたん」

 

潤さんが、呼んだ。

 

彼は、答えなかった。目が、どこか遠くを見ていた。

 

崩子さんも、萌太くんも、同じ目をしていた。

 

開いているのに、見ていない目。

 

想影真心の目と、同じだった。

 

時刻さんの目が、最後に、私を通り過ぎた。

 

通り過ぎて、それから、戻ってきた。

 

戻ってきて、止まった。

 

私は、時刻さんを見ていた。

 

何が起きているのか、分からなかった。

 

崩子さんが急に力を抜いた理由も。萌太くんの手が下がった理由も。潤さんが自分の頬を打った理由も。彼の膝が折れかけた理由も。

 

分からないまま、私は、立っていた。

 

立ったまま、時刻さんを、見ていた。

 

「……何かしら」

 

私が、言った。

 

時刻さんは、答えなかった。

 

湖の底のような目が、ほんの少しだけ、揺れた。

 

揺れて、もう一度、私を見た。

 

さっきより、深く。

 

私の目の中を、覗き込むように。

 

何も、起きなかった。

 

私は、首を傾げた。

 

「えと、何をしてるのかしら」

 

 

 

 

 

体育館が、静かになった。

 

舞台の上で、西東さんが、面の顎に手を当てていた。

 

奇野さんが、眼鏡の位置を直しかけて、手を止めていた。

 

右下さんという人が、糸の絡んだ指を、宙で止めていた。

 

時刻さんは、長いあいだ、私を見ていた。

 

それから、初めて、表情を変えた。

 

驚いた顔だった。

 

この人が驚くのは、たぶん、とても珍しいことなのだろうと思った。そう思わせる驚き方だった。

 

「……効かない、のではないな」

 

時刻さんが、言った。

 

自分に言い聞かせるような声だった。

 

「入れない。……扉の前に、誰かが座っている」

 

扉の前に、誰かが座っている。

 

六月の潤さんも。九月の西東さんも。この夏から、何人もの人が、私の顔の後ろに、誰かを見た。

 

この人は、それを、扉の前、と言った。

 

「心に入るには、扉がいる。扉は、迷いのところに開く。……お前には、迷いがある。迷っているのに、扉の前に、誰かが座っていて、どかない」

 

時刻さんの目が、少しだけ、細くなった。

 

「どかない誰かを、私は、知らない。……その誰かは、お前に、何と言った」

 

私は、答えなかった。

 

答えなかったけれど、胸の奥で、あの言葉が、鳴った。

 

《一つだけ約束しろ。降りるな》

 

時刻さんは、私の顔を、見ていた。

 

見ていて、何かを、読み取ったようだった。

 

読み取って、ゆっくりと、首を振った。

 

「……どかない者に、操想術は、届かない。届かせる場所が、ない」

 

時刻さんは、一歩、下がった。

 

下がって、舞台の上の西東さんを、振り返った。

 

「主よ。この娘は、私の術の外におります」

 

「知っている」

 

西東さんは、言った。

 

「それは、俺の並行世界だ。……放っておけ。放っておいても、物語の邪魔はせん。邪魔をする力が、ないからな」

 

邪魔をする力が、ない。

 

その通りだった。

 

私には、何もできない。

 

崩子さんが、萌太くんが、彼が、潤さんまでが、何かに捕まっているのに、私だけが立っていて、私には、何もできなかった。

 

「……堀北、さん」

 

小さな声が、した。

 

崩子さんだった。

 

遠くを見ていた目が、ほんの少しだけ、こちらへ戻ってきていた。

 

「わたしの、肩を」

 

私は、崩子さんの隣へ歩いた。

 

一つも、空けずに。

 

崩子さんの肩に、手を置いた。

 

崩子さんの肩が、私の手の下で、小さく、震えた。

 

「……戻ってきました」

 

崩子さんの目に、色が戻っていた。

 

「堀北さんの手が、重かったので」

 

重かった、と崩子さんは言った。

 

何も持っていない手だった。

 

何も持っていない手の重さで、この子は、戻ってきた。

 

私は、萌太くんの隣へ歩いた。

 

萌太くんの肩に、手を置いた。

 

萌太くんが、まばたきをした。

 

「……あれ、先生。僕、今、何してました」

 

「立っていたわ。目を開けたまま」

 

「それは、困りましたね」

 

萌太くんは、笑った。笑いながら、額の汗を、袖で拭った。

 

私は、彼の隣へ歩いた。

 

隣の、隣ではなく。

 

隣へ。

 

彼の肩に、手を置いた。

 

彼は、すぐには、戻ってこなかった。

 

遠くを見たまま、小さく、何かを言っていた。

 

聞き取れなかった。

 

聞き取れないまま、私は、手を置いていた。

 

置いていると、彼の目が、ゆっくりと、こちらへ戻ってきた。

 

戻ってきて、私を見た。

 

一つも空けていない距離で、私を見た。

 

「……君、ここに、いたんだ」

 

「いたわ」

 

「隣に」

 

「今だけよ」

 

彼は、少しだけ、笑った。

 

時刻さんが、その様子を、湖の底の目で、じっと見ていた。

 

見ていて、何も言わなかった。

 

何も言わないかわりに、もう一度だけ、小さく首を振った。

 

 

 

 

 

それから先のことを、私は、順番に覚えていない。

 

覚えているのは、音だけだ。

 

西東さんが、何かを言った。

 

右下さんの指が、糸を一本、緩めた。

 

橙色の髪の子が、初めて、こちらを見た。

 

見た、と思った次の瞬間には、潤さんの体が、私の横を、飛んでいった。

 

飛んでいって、体育館の壁に当たって、落ちた。

 

萌太くんが、崩子さんを背中にかばって、前に出た。

 

前に出た、と思った次の瞬間には、二人とも、床に倒れていた。

 

体育館の扉から、黒いマントの影が、飛び込んできた。

 

髪の長い、背の高くない影。

 

「ぎゃはははっ!」

 

出夢さんだった。

 

出夢さんは、まっすぐに、橙色の髪の子へ向かっていった。

 

向かっていって、それから。

 

それから、音がした。

 

一度だけ。

 

何かが、折れる音だった。

 

私は、目を閉じなかった。

 

閉じなかったけれど、何が起きたのかは、見えなかった。速すぎて、見えなかった。見えなかったものを、私は、見たとは言えない。

 

見えたのは、そのあとだった。

 

体育館の床の真ん中に、出夢さんが、倒れていた。

 

マントの下の、白い拘束衣が、白くなかった。

 

彼が、出夢さんのそばへ、這うように近づいていった。

 

私は、その一つ後ろに、立っていた。

 

出夢さんの目が、彼を見た。

 

見て、口の端を、大きく吊り上げた。

 

「……よう、おにーさん」

 

乾いた声だった。乾いていて、もう、ほとんど、声になっていなかった。

 

「人識(ひとしき)は、生きてるよ。……死んだって、狐の旦那には、言っといたけど」

 

「出夢くん」

 

「ぎゃは。……帳尻、合わなかったな」

 

出夢さんの目が、ほんの一瞬だけ、私の方へ動いた。

 

殺し屋の前で、震えねえのな。

 

八月の夜、外灯の下で、この人は、そう言った。

 

今、この人の目は、何も言わなかった。

 

言わないまま、どこも見なくなった。

 

 

 

 

 

潤さんが、壁際で、身を起こそうとしていた。

 

起こそうとして、起き上がれなかった。

 

赤い髪が、床に広がっていた。

 

舞台の上から、西東さんが、降りてきた。

 

雪駄の音が、ぺたぺたと、体育館に響いた。

 

西東さんは、潤さんのそばに、しゃがみ込んだ。

 

「よく、やった」

 

西東さんの声は、低かった。

 

「お前は、強い。だが、まだ、終わっていない。……終わっていない者は、連れていく」

 

潤さんの腕を、肩に回した。

 

潤さんは、抵抗しなかった。できなかったのかもしれなかった。

 

「……りんね、ちゃん」

 

潤さんの声が、した。

 

壁際から、私の方へ。

 

「降りろって、言ったら、降りろって、言ったよな」

 

「言いました」

 

「……言わねえよ」

 

潤さんは、少しだけ、笑った。

 

「あんたは、降りないんだろ。……だったら、降りんな。あたしの代わりに、いーたんの隣の隣に、座ってろ」

 

西東さんが、潤さんを担いで、立ち上がった。

 

狐の面が、最後に、私の方を向いた。

 

「並行世界」

 

西東さんが、言った。

 

「俺の敵に、薬をやる。浅野みいこは、助かる。……物語は、進んだ」

 

西東さんは、彼の方へ、小さな瓶を一つ、放った。

 

瓶は、彼の膝の上に、落ちた。

 

彼は、それを、見なかった。

 

出夢さんの顔を、見ていた。

 

「縁が《合わなかったら》、また会おう」

 

西東さんは、潤さんを担いだまま、体育館の扉の方へ歩いていった。

 

その後に、橙色の髪の子が、ついていった。

 

その後に、奇野さんと、右下さんが。

 

最後に、時刻さんが。

 

時刻さんは、扉のところで、一度だけ、振り返った。

 

湖の底の目が、私を見た。

 

「……扉の前に座っている誰かに、伝えておけ」

 

時刻さんは、言った。

 

「私の術は、この世の人間の心になら、必ず入る。……入れなかったのは、お前が初めてだ、と」

 

扉が、閉まった。

 

体育館の照明が、まだ、全部点いていた。

 

誰もいなくなった学校の、誰もいなくなった体育館で、照明だけが、全部点いていた。

 

床の上に、出夢さんがいた。

 

壁際に、崩子さんと萌太くんが、肩を寄せ合っていた。

 

彼は、出夢さんのそばに、座っていた。

 

膝の上に、小さな瓶が、載っていた。

 

私は、彼の、一つ空けた隣に、座った。

 

床に、直に。

 

七回転んで、八回目に、座る。

 

紫木さんの声が、聞こえた気がした。

 

ここは、紫木さんの学校だった。

 

紫木さんの学校の床に、私は、座っていた。

 

この世の人間の心になら、必ず入る、と時刻さんは言った。

 

入れなかった、と。扉の前に、誰かが座っていたから。

 

あの人は、前の晩まで、卓に座っていた。目が覚めたら、ここにいた。

 

ここ、というのは、この世界のことだったのかもしれない。

 

この世界に、座る場所のない人が、半年と少しだけ、この世界の、私のすぐ近くの席に座っていた。

 

私は、膝の上で、手を組んだ。

 

指先は、冷たかった。

 

冷たかったけれど、まだ、動いた。

 

「……出夢くんは」

 

彼が、出夢さんの顔を見たまま、言った。

 

「ぼくを、殴った人なんだ。八月に。潤さんを呼び出すために。……腕と、胸を」

 

「知っているわ」

 

「なのに、今、ぼくのことを、おにーさんって呼んだ」

 

彼は、出夢さんの、開いたままの目を見ていた。

 

「殴った相手を、最後に、そう呼ぶ人がいるんだね。……ぼくは、殴られたことを、まだ、許してない。許してないのに、今、この人が、おにーさんって呼んでくれたことが、たぶん、一生、残る」

 

許していないのに、残る。

 

斑鳩(いかるが)さんに、知らないと嘘をついた朝を、思い出した。あの嘘は、この人を守るためだったのか。それとも、彼を守るためだったのか。

 

どちらでも、同じことだった。

 

同じことになってしまった。

 

「目を、閉じてあげないの」

 

私が言うと、彼は、首を振った。

 

「ぼくがやると、たぶん、手が震える。……震えた手で閉じられるの、この人、嫌がると思う。殺し屋の前で震えねえ、って、君のことを面白がってた人だから」

 

彼は、私を見た。

 

一つ空けた場所から、私を。

 

私は、少しだけ、迷った。

 

迷ってから、膝で、出夢さんのそばへ寄った。

 

白くない白い拘束衣の、すぐ横に。

 

右手を、出夢さんの瞼の上に、そっと置いた。

 

置いて、下ろした。

 

指先は、冷たかった。冷たかったけれど、震えなかった。

 

震えなかったことを、この人に、見せたかったのかもしれなかった。もう、見られないのに。

 

開いていた目が、閉じた。

 

「……人識くんは、生きている、と言ったわね」

 

「言った」

 

「伝えるの。誰かに」

 

「伝えない。伝える相手が、いない。……いるとしたら、人識くん本人だけだ」

 

彼は、出夢さんの閉じた目を見ていた。

 

「この人の嘘は、守るための嘘だった。守られた人が、守られたことを知らないまま、生きてる。……それで、たぶん、いいんだ」

 

守られたことを、知らないまま。

 

私の顔の後ろに座っている誰かも、きっと、守ったことを、知らない。

 

知らないまま、扉の前に、座っている。

 

 

 

 

 

門の前で、迎えを待った。

 

赤い車は、門の脇に止まったままだった。

 

「いー兄の免許は、オートマ限定なんです」

 

萌太くんが、赤い車を見ながら言った。

 

「あの車は、動かせません。……潤さんの車を、潤さん以外が動かせたら、それはそれで、怖いですけど」

 

萌太くんは、門柱に背中を預けていた。

 

口に、煙草をくわえていた。

 

火が、ついていた。

 

彼と崩子さんは、少し離れた石段に座っていた。崩子さんは、彼の膝の上の小さな瓶を、黙って見ていた。彼は、何も見ていなかった。

 

私は、萌太くんの、一つ空けた隣に立った。

 

「吸うのね」

 

「今日だけです」

 

萌太くんは、煙を、門の上の暗い空へ吐いた。

 

「いつもは、くわえるだけにしてるんです。崩子が、匂いを嫌がるので。……今日は、崩子が、何も言いませんでした」

 

崩子さんは、何も言わなかった。

 

言えなかったのかもしれない。

 

「先生」

 

萌太くんが、言った。

 

「昨日も言いましたけど。……僕の家は、死神の家なんです」

 

私は、萌太くんを見た。

 

萌太くんは、空を見ていた。

 

「運命に背く人を、看取る家。……変な家でしょう。僕の家は、そういう家です。……崩子の家から、二人で出てきました。出てきたけど、僕の目だけは、死神の家のままなんです。死ぬ予定の人と、死なない予定の人が、なんとなく、分かる」

 

「分かるの」

 

「なんとなく、ですよ。当たるとは限らない」

 

萌太くんは、煙草を、指で挟み直した。

 

「先生は、死ぬ予定のない顔をしてます。……なのに、死ぬ場所に、来る。今日も、来た。死ぬ予定のない人が、死ぬ場所に来ると、死神の目には、どう映ると思いますか」

 

「分からないわ」

 

「僕にも、分かりません」

 

萌太くんは、笑った。

 

「運命の方が、避けて通ってるみたいに見えるんです。……背いてもいないのに」

 

背いてもいないのに、運命の方が避けて通る。

 

扉の前に、誰かが座っている。

 

時刻さんも、そう言った。

 

萌太くんは、それから、少しだけ黙った。

 

黙って、石段の崩子さんを見た。

 

崩子さんは、彼の膝の瓶から、目を離していなかった。

 

「先生」

 

萌太くんの声が、少しだけ、低くなった。

 

「崩子を、よろしく」

 

私は、萌太くんを見た。

 

萌太くんは、笑っていた。

 

笑っているのに、目が、少しも笑っていなかった。

 

「どうして、私に頼むのかしら」

 

「先生は、逃げないから。……逃げない人にしか、頼めないことって、あるでしょう」

 

「あなたが、いるでしょう」

 

「いますよ。今は」

 

萌太くんは、煙草を、門柱に押しつけて消した。

 

消した煙草を、ポケットに入れた。

 

「今は、いるんです。……先生、僕の目は、家のままだって、言いましたよね」

 

私は、何も言えなかった。

 

萌太くんは、それ以上は、何も言わなかった。

 

石段の方から、崩子さんが、立ち上がって、こちらへ歩いてきた。

 

萌太くんの方ではなく、私の方へ。

 

私の前で、止まった。

 

「堀北さん」

 

「何かしら」

 

「さっき、あの人の目が、わたしを通り過ぎた時」

 

崩子さんは、自分の肩に、手をやった。私が手を置いた、その場所に。

 

「わたしは、遠くへ、連れていかれそうになりました。……家に。生まれた家に。みんなが誰かに仕えている家の、いちばん奥の部屋に。そこへ戻れば、楽になれると、思いかけました」

 

崩子さんの声は、平らだった。

 

平らなまま、少しだけ、掠れていた。

 

「堀北さんは、どこにも、連れていかれなかったんですね」

 

「何も、起きなかったわ」

 

「何も起きなかったのは、どうしてですか」

 

私は、答えられなかった。

 

本当に、分からなかった。

 

時刻さんは、扉の前に誰かが座っていると言った。どかない者には、届かない、と。それが誰なのかを、私は、たぶん、知っている。知っているけれど、どうしてその人が、そこに座っているのかは、知らない。

 

知らないことを、知っているふりで答えるのは、嫌だった。

 

「分からないわ」

 

崩子さんは、しばらく、私を見ていた。

 

まばたきの少ない目で。

 

「……分からないのに、平気なんですね」

 

「平気ではないわ。分からないことは、いつも、怖いのよ」

 

「怖いのに、立っていた」

 

「立っていることしか、できなかったからよ」

 

崩子さんは、少しだけ、目を伏せた。

 

伏せたまま、言った。

 

「わたしは、仕える家に生まれました。仕えるというのは、自分の扉の前に、主を座らせることです。……主が座っていれば、誰も、中に入れません。でも、わたしは、まだ、誰も座らせていません」

 

扉の前が、空になる。

 

「だから、わたしの扉の前は、空です。……だから、あの人の目が、入ってきかけました」

 

崩子さんは、顔を上げた。

 

「堀北さんの扉の前に座っている人は、いなくならない人なんですね」

 

いなくならない人。

 

あの人は、いなくなった。あの卓の一週間後に、何も残さずに。

 

いなくなったのに、扉の前には、まだ、座っている。

 

「……いなくなったわ」

 

私は、言った。

 

「いなくなったけれど、どいていないの」

 

崩子さんは、目を、少しだけ見開いた。

 

それから、小さく、頭を下げた。

 

八月の病院のエレベーターの前で、あの席はあなたの席です、と言った時と、同じ、まっすぐな目のままだった。

 

崩子さんは、石段へ戻っていった。

 

戻って、彼の隣に、また座った。

 

一つ、空けて。

 

道の向こうから、車のライトが、近づいてきた。

 

鈴無(すずなし)さんの、白い車だった。

 

車は、門の前で止まった。

 

運転席から、鈴無さんが降りてきた。降りてきて、門の前の私たちを、一人ずつ、見た。

 

彼を。崩子さんを。萌太くんを。それから、私を。

 

数えるような見方だった。来た時の数と、今の数を、合わせるような。

 

合わなかった。

 

鈴無さんは、何も訊かなかった。

 

訊かないまま、後ろの座席のドアを、開けた。

 

「乗りなさい。全員。……話は、あとで、聞く人が聞くわ。アタシは、運ぶだけだわよ」

 

運ぶだけ、と鈴無さんは言った。

 

説教をしない時の、この人の声だった。

 

助手席の窓の内側に、青いものが見えた。

 

玖渚(くなぎさ)さんだった。クッションを抱えて、窓に額をつけていた。まばたきを、一度もしていなかった。いつもより、さらに、していなかった。

 

玖渚さんは、このあと、いちばん初めに、彼の数を数えるのだろう。数えて、合っていることを確かめて、それから、合わなかった分の数を、カメラの向こうで、一人で数えるのだろう。

 

萌太くんは、門柱から背を離して、石段の方へ歩いていった。

 

崩子さんの隣に、しゃがみ込んだ。

 

一つも、空けずに。

 

崩子さんが、萌太くんの肩に、頭を預けた。

 

私は、門の前に立ったまま、その二人を、見ていた。

 

死ぬ予定の人と、死なない予定の人が、なんとなく分かる、と萌太くんは言った。

 

萌太くんは、自分のことを、どちらだと思っているのだろう。

 

訊かなかった。

 

訊いたら、答えが返ってきてしまう気がした。

 

返ってきた答えを、私は、たぶん、持っていられない。持っていられないものを、萌太くんは、たぶん、もう、一人で持っている。一人で持っている人の妹を、よろしく、と頼まれた。

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