鏡というのは、嘘をつかない道具だと思われている。
ぼくはそうは思わない。鏡は、左右を入れ替えるという一点において、生まれてから一度も本当のことを映したことがない。右手を上げれば、鏡の中の誰かは左手を上げる。それを自分だと思い込めるのは、人間の目がいい加減だからだ。
だから、鏡の中に自分そっくりの誰かを見つけても、驚く必要はない。
驚くべきなのは、その誰かが、鏡の外を歩いていた時だ。
その日の昼、ぼくはあの路地を通った。
通り道だから、と彼女には言った。嘘ではない。骨董アパートから大学へ行くのに、あの路地を抜けるのは、いくつかある道のうちの一つだ。いくつかあるうちの一つを、その日に限って選んだ理由を、ぼくは自分に訊かないことにした。
黄色いテープの前に、彼女が立っていた。
窓際のいちばん後ろの、堀北さんだった。
彼女は、テープの向こうの、洗われた石畳を見ていた。
見ている、というより、見えてしまっているものから目を逸らせない、という立ち方だった。昼の光の中で、そこに何もないことを、何度も確かめているような。
ぼくは、人が死んだ場所は昼の方が怖い、と言った。
言ってから、余計なことを言ったと思った。けれど、言わずに通り過ぎるには、彼女の背中はあまりにまっすぐだった。まっすぐすぎる背中というのは、どこかで折れる準備をしている。
《君は、何か見た?》
訊いたのは、ほとんど反射だった。
いいえ、と彼女は言った。
その一言の前に、ほんの一瞬だけ、間があった。心臓が一度強く打つくらいの間。嘘をつく人間が、嘘の形を整えるのにかかる時間。ぼくはその時間を、嫌というほど知っている。ぼく自身が、毎日使っている時間だからだ。
彼女は、何かを見たのかもしれない。そう思ったところで、考えるのをやめた。
何を見たのかは、訊かなかった。訊けば、答えが返ってくる。返ってきた答えを、ぼくはたぶん、持て余す。
持て余すものは、もう島で十分に抱えてきた。
午後の一般教養に、彼女は来なかった。
窓際のいちばん後ろの列が、全部空いていた。彼女の席も、ぼくの席も、そのあいだの一つも。
ぼくは、いつもの席に座った。
一つ空けた向こうに、誰もいない。誰もいないのに、ぼくは一つ空けて座った。隣に座る理由も、二つ空ける理由もなかった。一つ空けておくことが、いつの間にか、ぼくの座り方になっていた。
座り方というのは、相手がいなくても変わらないものらしい。
四月の後半、ぼくが島へ行っていたあいだ、彼女はこの列で、ぼくの席を見ていたと、巫女子ちゃんは言った。見ていないふりをして、見ていた、と。
今日は、ぼくが見ていた。
見ていないふりをする相手がいないので、普通に見ていた。
講義のあと、廊下で巫女子ちゃんに捕まった。
「いっくん! 明日だよ、明日! 忘れてないよね!」
「忘れてないよ」
「ほりきたさんも来てくれたらいいのになー。今日、休みだったでしょ。あとでメッセージ送ってみる。いっくんからも言ってよ」
「ぼくから言っても、変わらないよ」
「変わるかもしれないじゃん! 《落とし物の財布、ただし拾ったのは持ち主本人》みたいなっ!」
意味は分からなかった。分からなかったけれど、巫女子ちゃんが本気で堀北さんを待っていることだけは分かった。
本気で誰かを待っている人間を、ぼくはまぶしいと思う。まぶしいものを長く見ていると、目が痛くなる。だからぼくは、いつも少しだけ目を逸らす。
その時も、逸らした。
五月十三日。金曜日の夜。
鴨川の河川敷を、ぼくは一人で歩いていた。
理由はない。島から戻ってから、部屋で天井を見ている時間が長くなった。天井の木目の染みの数を、もう全部覚えてしまった。長くなりすぎると、天井の染みが別のものに見えてくる。別のものに見えてくる前に、ぼくは外へ出ることにしている。
河川敷には、等間隔に恋人たちが座っていた。こちらに来てから聞いた話は本当だった。三メートルおきに、二人ずつ。誰かが定規で測ったみたいに、正確な間隔で。
その間隔の、ちょうど真ん中を歩いていると、自分が定規の目盛りの一つになったような気がした。
等間隔。間も、隔も、どちらも離れていることを言う字だ。離れていることを二度言って、等しい、で念を押す。恋人たちは、よほど離れていたいらしい。
等間隔というのは、誰かが決めたものではない。
最初の一組が座る。次の一組は、最初の一組から、近すぎず遠すぎない場所を選ぶ。三組目は、二組目から同じだけ離れる。そうやって、誰も相談していないのに、三メートルという数字ができあがる。
誰も相談していないのに、全員が同じ距離を選ぶ。
それは、思いやりなのだろうか。それとも、恐れなのだろうか。他人の幸福を邪魔しないための距離なのか、他人の幸福に邪魔されないための距離なのか。
たぶん、どちらでもない。
人は、自分がどれくらい離れていれば安心できるのかを、身体で知っている。知っているから、何も考えずに座れる。考えずに座れる人間を、ぼくは少しだけ羨ましいと思う。
ぼくはいつも、座る前に考えてしまう。考えて、結局、誰とも等間隔にならない場所に座る。
大教室の窓際で、一つ空けて座るように。
四条大橋が近づいてきた。
橋の下は暗かった。街の明かりが川面に落ちて、揺れていた。
足音がした。
ぼくの後ろから。ぼくと同じ速さで。
ぼくが止まると、足音も止まった。
ニュースの見出しが、頭の中に浮かんだ。京都連続通り魔事件。被害者は七人。夜に、繁華街の近くで。
ここは繁華街の近くで、今は夜だった。
振り返らなかった。振り返らないまま、橋の下の暗がりに入った。入ってから、振り返った。暗いところの方が、相手の顔がよく見えないかわりに、自分の顔もよく見られない。
そこにいたのは、ぼくだった。
いや、ぼくではない。背丈はぼくより低い。百五十センチに届くかどうか。髪は白とまだらに染めていて、右の頬に刺青が入っている。右耳に三連のピアス、左耳には携帯のストラップがぶら下がっていた。
似ているところは、一つもなかった。
背の高さも、髪の色も、顔つきも、着ているものも。ぼくはこんなに目立つ格好をしない。目立つ格好をする勇気がない。向こうは、目立つことを少しも恐れていない格好だった。恐れていないのか、恐れるということを知らないのか。
一つもないのに、ぼくは、鏡を見ていると思った。
向こうも、同じ顔をしていた。驚いた顔ではなかった。驚くべきなのに驚けない、という顔だった。たぶん、ぼくもそういう顔をしていた。
先に口を開いたのは、向こうだった。
「……なんだ、お前」
声は若かった。ぼくと同じくらいの年だろう。
「それは、こっちが訊きたい」
「訊きたいのはこっちだっつってんだろ。後ろから見てて、気持ち悪かったんだよ。歩き方が、俺そっくりで」
向こうは、手の中のものを回した。街の明かりが一瞬だけ反射した。刃物だった。小さくて、薄くて、よく手入れされている。
その刃が、いつの間にか、ぼくの喉の前にあった。
動いたのが見えなかった。見えなかったけれど、ぼくは驚かなかった。驚くより先に、ああ、そういうものか、と思った。
「普通、ここで悲鳴の一つも上げるだろ」
「上げた方がいいなら、上げるけど」
「……傑作だぜ」
傑作。優れた作品のこと。ぼくのどこが作品なのかを訊こうとして、やめた。失敗作だと言い直されたら、ぼくには反論の材料がない。
向こうは、笑わなかった。笑わないまま、刃を下ろした。下ろして、手の中でもう一度回して、どこかにしまった。どこにしまったのかも、見えなかった。
「やめだ。お前を殺すと、なんか自分を殺すみてえで寝覚めが悪い」
「それは、ありがたい」
「ありがたがるな。気持ち悪い」
向こうは、本気で気持ち悪そうな顔をした。ぼくも、たぶん同じ顔をしていた。
橋脚にもたれて、二人で川を見た。
なぜそうなったのか、ぼくにもよく分からない。分からないまま、ぼくたちは並んでいた。並んでいる、というより、鏡の前に立っている、と言う方が近かった。
「ニュースの通り魔、君か」
「さあな」
防犯カメラにも、決定的なものは映っていない。ニュースは、そう言っていた。
「カメラには、映らないのか」
「映ってるよ、どっかに。フードかぶった、ちっこい影がな。顔のねえ影なんて、この町には観光客の数だけいる。……かはは」
「七人」
「六人だ」
向こうは、即答した。
「七人目は、俺じゃねえ」
ぼくは、川を見たまま訊いた。
「嘘をついてるかもね」
「俺は首なんか絞めねえよ。絞めるってのは、手間がかかる。手間かけて殺すのは、殺したあとに何かしたい奴のやり方だ。俺は好きでやってるわけじゃねえ」
「好きでもないのに、六人も」
「理由がねえんだよ。好きとか嫌いとか、そういう理由が」
向こうは、自分の手を見た。
「でもな、あの七人目をやった奴は、たぶん同じだ。理由がねえ方の奴だ。手口は違うけど、匂いが同じなんだよ。……兄貴が嗅ぎつけそうな匂いだ」
兄貴、という言葉が、橋の下の暗がりに、少しだけ浮いて聞こえた。
「兄貴」
ぼくは、その言葉だけを繰り返した。意味は訊かなかった。
向こうは、ぼくが訊かなかったことに、少しだけ驚いたようだった。驚いて、それから、勝手に続けた。
「血は繋がってねえけど、兄貴だ。そいつが、こういうのにうるせえんだよ。同じ匂いの奴を見つけたら、放っとかねえ。……俺のことも、放っといてくれりゃいいんだけどな。面倒くせえ奴だ」
「その兄貴の周りの人なら、首を絞めるのか」
「絞める奴もいるだろ。得物は人それぞれだ。俺はこれだし」
向こうは、どこからか出したナイフを、指の上で一回転させて、またどこかにしまった。
「七人目の現場の近くでな、夜中に、ぴかっと光ったって話があるらしい。近所の婆さんが、雷かと思ったってよ。雷なんか鳴ってねえのに」
「光った」
「カメラのフラッシュじゃねえかって、俺は思ってる。殺して、撮ったんだ。ご丁寧に」
夜中の光、と聞いて、昼の路地が浮かんだ。
黄色いテープの前で、洗われた石畳を見ていた背中。君は何か見たかと訊いた時の、ほんの一瞬の間。
あの路地は、七人目の現場だった。
昨夜、どこかで何かが光ったらしい。
彼女が見たものと、婆さんが見た光が、同じものだという証拠は、どこにもない。
どこにもない証拠を、勝手に繋げて、勝手に一つの絵にする。それは、ぼくが島で一度やって、取り返しのつかないことになったやり方だ。分かった気になって、分かったようなことを言って、分かっていなかった。
だから、繋げない。
繋げないでおく。
繋がりかけたものを、手の中で、ばらばらのまま持っておく。それがどれだけ重くても、組み立てて答えにするよりは、まだましだ。
答えは、組み立てた人間のものになる。組み立てた人間は、その答えに責任を持たなければならない。
ぼくには、もう、責任を持てる答えが残っていない。
向こうは、川面を見た。
「そういうことする奴は、俺の知ってる連中にはいなかった。新しい奴だ。新しくて、まだ誰にも見つかってねえ奴」
見つかる、というのが誰にとってのことなのか、向こうは言わなかった。言わないまま、川面から目を上げなかった。
ぼくには、兄弟というものがよく分からない。分からないものを、分かったふりで聞くのは、ぼくの得意分野のはずだった。
それなのに、その夜は、うまく分かったふりができなかった。
「お前、名前は」
向こうが訊いた。
ぼくは、少し考えた。
「名乗るほどの名前じゃない」
名は体を表す、と言う。表すほどの体を、ぼくは持ち合わせていない。体を表さない名前なら、名乗らない方が、名前に対して誠実だ。
「なんだそれ」
「君は」
「
あっさりと、名乗った。名乗ることに、何のためらいもなかった。ためらいがないのは、名前を重いと思っていないからだろう。ぼくとは、ちょうど逆だ。
人識。人を識る、と書く。人を識る名前の男が、人を殺して歩いている。ぼくの方は、人を見て知る病気のくせに、見ても知らないまま歩いている。識って殺す男と、見て知らない男。鏡の左右は、こういうふうに入れ替わるものらしい。
「名前がねえなら、俺が付けてやるよ」
人識は、ぼくの顔をしげしげと見た。
「欠陥製品」
「ひどいな」
「どっか一個、決定的に足りてねえ顔してる。だから欠陥製品だ」
言い返すつもりはなかった。言い返せるほど、間違っていなかった。
代わりに、ぼくは言った。
「じゃあ、君は人間失格だ」
欠陥製品と人間失格。製品として欠けているのと、人間として失っているのと。欠けているのは部品で、失っているのは資格だ。部品なら足せるけれど、資格は一度失えば戻らない。どちらがましなのかは、たぶん、どちらにも分からない。
人識は、一瞬だけ黙った。黙って、それから、喉の奥で笑った。今夜初めて、笑った。
「傑作だぜ」
別れ際、人識はもう一度だけ振り返った。
「七人目の奴のこと、見つけても、俺には教えなくていいぜ、欠陥製品」
「どうして」
「あれの匂いを兄貴が嗅ぎつけたら、兄貴が京都に来る。……俺は、兄貴には会いたくねえんだよ。来る前に、この町を出る」
それだけ言って、人識は河川敷の階段を上がっていった。上がりきったところで、街の明かりに紛れて、見えなくなった。
ぼくは、橋の下に一人で残った。
川面に、街の明かりが揺れていた。揺れているのは明かりの方なのか、水の方なのか、ぼくには分からなかった。
七人目。首を絞める。兄貴が嗅ぎつけそうな匂い。
ぼくはそのどれも、知らない方がよかった。
知ってしまったことを、ぼくは誰にも言わないだろう。言う相手がいない。いないことを、今夜は少しだけ、ありがたいと思った。
戯言だけどね。
◇
誕生日を祝うというのは、相手が生まれたことを喜ぶことだと思われている。
違う。祝うのは、相手がまだ生きていることを、確かめ合うことだ。一年に一度、ここにいるね、と言い合う。言い合わないと、人は誰がまだここにいるのか、すぐに分からなくなる。
だから、祝われない人間は、少しずつ消えていく。
祝う側に回らない人間も、同じように。
十四日の夕方、私は江本さんの住むマンションの前に立っていた。
行かないと決めていた。決めたことを、昨日の夜、自分で崩した。
あの夜から、部屋に一人でいられなくなっていた。
いると、目を閉じるたびに白い光が浮かぶ。浮かぶ光を消すために、誰かの声が要った。誰の声でもよかった。それが
警察には、まだ言っていない。通報しろ、と綾小路くんは言った。正しい答えだった。正しいと分かっていて、私はまだ、スマートフォンに一一〇を打てずにいた。打てば、佐倉さんの名前を言うことになる。
今朝、葵井さんのメッセージに、行く、とだけ返した。返事は、すぐに来た。飛び跳ねている絵が、三つ続けて届いた。
マンションに向かう前に、駅前の雑貨屋に寄った。
誕生日の贈り物を選ぶのは、何年ぶりだろう。兄に何かを贈ったことはない。高校の三年間で、誰かに何かを贈ったことも、たぶんない。贈り物の選び方を、私は知らなかった。
贈る、と、送る。音は同じだ。送るのは、届けばいい。贈るのは、届いた先で、喜ばれなければならない。一字違うだけで、責任の重さが変わる。
棚の前で、しばらく立っていた。
ガラスの小物の棚があった。小さな瓶や、ビーズの飾りが並んでいた。江本さんの耳元でも、小さな光物が揺れていた。どれも、窓辺に置けば光りそうだった。
手を伸ばしかけて、やめた。
光る物は、江本さんがもうたくさん持っているだろう。好きな物を、好きだと知っている人間が贈るのは、少しだけ図々しい気がした。私は、江本さんのことを、光る物が好きだということしか知らない。
結局、ハンカチを選んだ。薄い青の、無地の。
無難なものを選んだ。好みを読まれるという難を、一つだけ避けた。
「ほりきたさん! 来たー!」
インターホン越しでも、声が大きかった。大きすぎて、エントランスに誰もいないことに、少しだけ安心した。
部屋は、思っていたより片づいていた。片づけたのは、たぶん今日のためだった。普段の江本さんの部屋は、もう少し、物が多いのだろう。
ワンルームより少し広い間取りに、低いテーブルが一つ。テーブルの上に、ケーキと、紙皿と、ジュースの瓶。窓辺に、小さな光物がいくつか並んでいた。ガラスの小瓶や、ビーズの飾り。耳元で揺れていたのと、同じ種類の光だった。
六人で座ると、部屋は少し狭かった。
葵井さん、
彼は、私より先に来ていた。部屋の隅で、膝を抱えるように座っていた。何も持たず、何もせず、ただそこにいた。
私が入っていくと、彼は顔を上げた。上げて、一度だけ目が合った。それから、何も言わずに、少しだけ横にずれた。
彼の隣が、一つ空いた。
私はその空いた場所には座らなかった。一つ空けた、その向こうに座った。
葵井さんが、さっと彼の反対側の隣に滑り込んだ。
「いっくんの隣、もーらい!」
もらう、というのは、誰かが持っていたものを受け取ることだ。その隣を、誰が持っていたというのだろう。持っていた覚えのないものを、私は取られた気がした。
葵井さんは笑っていた。笑いながら、私と彼の間に空いたままの場所を、一瞬だけ見た。見て、すぐに目を逸らした。
その一瞬が、なぜか、目に残った。
ケーキを切り分けている時、江本さんが私の隣に来て、小さな声で言った。
「堀北さんは、どうして京都に来たの?」
葵井さんには、まだ訊かれていなかった。訊かれていたら、たぶん、はぐらかしていた。江本さんの訊き方は、はぐらかす隙間を残さない訊き方だった。
「……誰も私を知らない場所を、選んだら、京都だったの」
江本さんは、少しだけ目を見開いて、それから、分かる、というように頷いた。
「私もね、ちょっとそういうとこある。中学の時、長く入院してて。一年、遅れちゃったの。だから私、みんなより一個上なんだ。今日で二十歳」
「……そうだったの」
「高校に入った時、同じ中学の子が誰もいなくて、ほっとしたの。誰も、私が休んでた一年を知らないから。巫女子ちゃんに会ったのは、そこ。巫女子ちゃん、私が一個上だって知っても、何も変わらなかった」
江本さんは、葵井さんの方を見た。葵井さんは、テーブルの向こうで、宇佐美くんに何かを言って笑っていた。
「だから私、巫女子ちゃんに憧れてるの。私には、あんなふうに、人のところに飛び込んでいけないから」
「あなたは、飛び込まなくても、届くわ」
言ってから、自分でも驚いた。そんなことを言うつもりはなかった。
江本さんは、目を丸くして、それから、ゆっくり笑った。
「堀北さん、優しいね」
「優しくないわ。見たままを言っただけ」
「見たままを言える人は、優しいよ」
優しい、は、優れる、と同じ字だ。見たままを言うのは、優れているからではない。ほかのやり方を知らないだけだ。知らないことを優しさと呼ばれて、私は、訂正の仕方も知らなかった。
言い返そうとして、言い返せなかった。
誕生会は、葵井さんの声で進んだ。
葵井さんが話し、宇佐美くんが相槌を打ち、貴宮さんが時々、短く突っ込みを入れた。貴宮さんは、私と同じくらい口数が少なかった。少ないのに、場の空気を一番よく読んでいた。葵井さんが騒ぎすぎると、貴宮さんが一言で落ち着かせる。
蝋燭は、吹き消すためにある。灯すのは一瞬で、消すのが本番だ。誕生日というのは、たぶん、そういう祝い方をする。
ケーキの蝋燭を吹き消したあと、宇佐美くんがスマートフォンを掲げた。
「はい、みんな集まって! 記念に一枚!」
葵井さんと江本さんと貴宮さんが、テーブルの向こうに寄り集まった。宇佐美くんが、画面を見ながら、腕を伸ばして角度を探した。
「堀北さんも! いっくんも!」
私は、座ったまま動かなかった。
写真に写るのは、苦手だった。写った自分が、いつも誰かの隣で、少しだけ浮いて見える。それを、あとで見せられるのが嫌だった。
部屋の隅で、彼も動かなかった。
「えー、二人とも!」
葵井さんが、こちらを振り返った。振り返って、何か言いかけて、やめた。
私と彼は、写真の枠の外にいた。枠の外に、一人分空けて、並んで座っていた。
葵井さんは、その並び方を見ていた。見て、それから、宇佐美くんの方に向き直って、いつもの声で言った。
「じゃあ、四人で! はい、チーズ!」
チーズ、と言えば、口の端が上がる。笑顔の中身ではなく、笑顔の形だけを作る言葉だ。その言葉は、枠の外の二人には届かなかった。届かない場所にいることを、私たちは、たぶん選んでいた。
シャッターの音が、一度鳴った。
画面には、四人が写っていたのだろう。写っていない二人のことは、写真は覚えていない。
覚えているのは、写真を撮る前に、こちらを振り返った葵井さんの目だけだった。
プレゼントの時間になった。
葵井さんは、大きな包みを渡した。貴宮さんは、小さな包み。宇佐美くんは、図書カード。私は、薄い青のハンカチを渡した。江本さんは包みを開けて、ハンカチを窓の明かりにかざした。光る物ではないのに、かざした。かざして、少しだけ笑った。
かざしたのは、ハンカチだけだった。それでも、喜び方は、どれも同じに見えた。同じように喜べるのも、一つの才能だと思った。
図書カードにも、ハンカチにも、同じ顔で、ありがとうと言った。比べない、というのは、比べられたくない人間がいちばん最初に覚えることなのかもしれない。一年遅れた、と江本さんは言った。それ以上は、言わなかった。
貴宮さんの小さな包みから出てきたのは、ネックストラップだった。細い革の紐に、小さな光る飾りが一つ付いている。
江本さんは、それを首にかけた。
「似合うね」
言ったのは、部屋の隅の彼だった。
部屋が、ほんの少しだけ静かになった。
彼が自分から何かを言ったのは、たぶん、この部屋に来て初めてだった。江本さんは、少し驚いた顔をして、それから笑った。葵井さんは、笑っていなかった。笑っていない顔を、すぐに笑顔に戻した。
戻すまでの一瞬を、私は見てしまった。
少し空気を吸いたくて、ベランダに出た。
先客がいた。貴宮さんだった。手すりにもたれて、指に煙草を挟んでいた。火はついていなかった。
私に気づくと、貴宮さんは煙草を箱に戻した。
「吸わないの」
「吸わない人の前では、吸わない」
吸わない人の前では、吸わない。言葉の上では、同じ語が二度並んでいるだけだ。並べただけで、それは気遣いになっていた。
貴宮さんは、それだけ言った。言ってから、手すりの外の夜を見た。
しばらく、二人とも黙っていた。部屋の中から、葵井さんの笑い声が聞こえてきた。いつもより、少しだけ高い声だった。
「巫女子、今日、ずっとあいつのこと見てる」
貴宮さんが言った。あいつ、というのが誰のことかは、訊かなくても分かった。
「知ってるわ」
「あいつ、気づいてないよね」
「……たぶん」
貴宮さんは、煙草の箱をポケットの中で握った。
「堀北さん。あいつの隣、座らないでやって」
私は、貴宮さんの横顔を見た。
「座っていないわ。一つ空けて座っているもの」
「その一つが、巫女子には、いちばん遠いんだよ」
貴宮さんは、それ以上は何も言わなかった。言わずに、部屋の中へ戻っていった。葵井さんの笑い声が、少しだけ大きくなって、また元に戻った。
私は、ベランダに一人で残った。
一つ空けた席が、誰かにとって、いちばん遠い。
遠い、の反対は、近い、ではないのかもしれない。届く、なのかもしれない。近くにいても、届かない席がある。
その意味を、私はまだ、うまく受け取れなかった。
夜が更けて、葵井さんと貴宮さんと宇佐美くんが、コンビニへ買い出しに出た。
部屋には、江本さんと、彼と、私が残った。
江本さんは、窓辺の光物を一つずつ手に取って、並べ直していた。首には、さっきのストラップが揺れていた。
「堀北さん」
江本さんが、振り返らずに言った。
「堀北さんって、自分がもう一人いるって思ったこと、ある?」
意味が分からなかった。
分からないまま、私は答えなかった。江本さんは答えを待たずに、続けた。
「私ね、時々思うの。こうやってみんなと楽しくしてる自分を、もう一人の自分が、ちょっと後ろの方から見てるって。見てて、ああ、楽しそうだね、って、他人事みたいに思ってるの」
江本さんは、光物の小瓶を一つ、窓の外の明かりにかざした。
「そっちの自分の方が、本当なのかもしれないって、思ったりする」
私は、何も言えなかった。
言えなかったのは、分からなかったからではない。分かりすぎたからだ。高校の三年間、私が前に出るたびに、少し後ろからもう一人の私が、それを数えていた。
部屋の隅で、彼が、小さく言った。
「後ろから見てる方も、たぶん、楽しくはないよ」
江本さんは、振り返った。振り返って、彼を見た。見て、少しだけ笑った。さっき、ストラップを褒められた時と、同じ笑い方だった。
「いっくんも、そうなんだ」
彼は、答えなかった。
答えないことが、答えになっていた。
十一時を過ぎて、お開きになった。
葵井さんは、最後まで騒がしかった。騒がしいまま、私の手を握って、来てくれてありがとう、と言った。握る手に、少しだけ力が入りすぎていた。
マンションの前で、六人は別れた。葵井さんと貴宮さんと宇佐美くんは、同じ方向へ。彼は、何も言わずに反対の方向へ。江本さんは、エントランスの明かりの下で、手を振っていた。首のストラップの飾りが、明かりを受けて一度だけ光った。
帰り道は、一人だった。
葵井さんたちとも、彼とも、違う方向だった。送っていこうか、と宇佐美くんが言ったのを、私は断った。断ってから、断ったことを少しだけ後悔した。
夜道は、二日前と同じ暗さだった。
大通りを選んだ。あの路地は、通らなかった。通らないと決めて、遠回りをした。遠回りをしているあいだ、ずっと、路地の方角を意識していた。意識しないようにするほど、そちらの方角だけが、夜の中で重たく感じられた。
佐倉さんは、今夜もどこかで、カメラを首から下げて歩いているのだろうか。
人の少ない通りで、後ろから足音がした。
私は、振り返らなかった。振り返らないまま、少しだけ歩く速さを上げた。足音は、ついてこなかった。角を曲がると、もう聞こえなかった。
ただの通行人だったのだろう。
ただの通行人だったはずだ。
それでも、部屋に着くまで、指の震えが止まらなかった。
誕生会の部屋の温度が、まだ少しだけ手のひらに残っていた。葵井さんに握られた手。力が入りすぎていた手。あの温度と、夜道の冷たさが、同じ手のひらの上で混じっていた。
人の隣にいると、温かい。
温かいから、離れた時に、寒さが分かる。
私はそれを、高校の三年間で、一度だけ知った。一年生の秋の、卓の上で。隣に座っていた人の体温など、感じたこともなかったはずなのに、立ち上がった時、なぜか、隣の方だけが寒かった。
部屋に帰り着いたのは、十二時近かった。
郵便受けを開けた。チラシが二枚と、封筒が一つ入っていた。
封筒には、宛名も差出人もなかった。
宛名のない手紙は、誰に宛てたものでもない。差出人のない手紙は、誰からでもあり得る。誰でもない誰かから、誰でもない誰かへ。それが、私の郵便受けに入っていた。
中に入っていたのは、写真が一枚だけだった。
暗い路地。壁の染み。石畳の上に、男が一人、倒れている。フラッシュの白い光が、男の顔を残酷なくらいはっきりと照らしていた。
二日前の夜の、あの路地だった。
写真のどこにも、撮った人間は写っていなかった。
私は、写真を裏返した。
裏には、小さな字で、何かが書いてあった。