疑う理由が見つからないから、信じる。
逆だ。疑う理由を探すのをやめたから、信じたことにしているだけだ。探せば見つかるかもしれないものを、もう探さないと決めた時、人はそれを確信と呼ぶ。
だから確信は、いつも少しだけ、怠けている。
写真の裏には、小さな字でこう書いてあった。
〈来週の日曜日の夕方、鴨川の、三条の橋の下で。〉
その下に、名前が一つ。
佐倉。
丸みのある、小さな字だった。急いで書いたのではない。一文字ずつ、丁寧に書いた字だった。高校の頃、配られたプリントの隅に、何度か見たことのある字だった。
私は写真を机の上に伏せて置いた。伏せても、白い光は消えなかった。
朝、部屋のチャイムで目が覚めた。
眠っていたことに、自分で驚いた。写真を伏せたあと、椅子に座ったまま、いつの間にか眠っていたらしい。首が痛かった。夢は見なかった。見なかったのか、覚えていないだけなのか。白い光だけが、瞼の裏に薄く残っていた。目を開けても、しばらく消えなかった。
ドアを開けると、二日前と同じ二人が立っていた。
黒い髪の女性の刑事と、サングラスの男性の刑事。
「朝早くに、すみません」
佐々さんは、二日前と同じ声で言った。同じ声なのに、目だけが違った。二日前は、何かを確かめる目だった。今朝は、何かを見つけた目だった。
「昨夜、
「……はい。誕生会に呼ばれたので」
「江本さんが、今朝、ご自宅で亡くなっているのが見つかりました」
言葉の意味が、すぐには入ってこなかった。
訃報、という言葉が、遅れて頭に浮かんだ。訃の字の右側は、占いの卜だ。占いの字を借りて、もう占いようのないことを知らせる。言葉はいつも、起きてしまったことにだけ、正確だ。
「首を、絞められていました」
絞める、と、締める、と、閉める。どれも、しめる、と読む。首を絞める。紐を締める。扉を閉める。ひらがなにしてしまえば、どれも同じ動作に聞こえる。漢字というのは、たぶん、同じ音の中から、取り返しのつかない方を選り分けるためにある。
佐々さんは、私の顔を見ていた。見て、私が何を言うのかを待っていた。
私は、何も言えなかった。
首を絞められていた。
その一言で、三日前の白い光が、頭の中で一度に弾けた。路地の暗がり。重なる二つの影。首に巻きついたストラップ。倒れた男。うまく撮れた写真を見る時の、小さな頷き。
そして、昨夜の郵便受けの封筒。
佐々さんは、一つずつ質問をした。
何時に部屋に着いたか。誰が来ていたか。何時に帰ったか。帰る時、江本さんは何をしていたか。
私は、一つずつ答えた。見たとおりに。
十一時過ぎに、六人がマンションの前で別れたこと。江本さんがエントランスの明かりの下で手を振っていたこと。首にかけたネックストラップの飾りが、光っていたこと。
「ネックストラップ」
佐々さんが、その言葉を繰り返した。
「はい。誕生日プレゼントで。
佐々さんと斑鳩さんが、一瞬だけ目を合わせた。
「そのストラップが、お部屋のどこにも見当たらないんです」
私は、黙った。
首を絞めたもの。
見当たらないストラップ。
頭の中で、二つの言葉が、勝手に一つに重なった。重ねてはいけないと分かっていて、重なるのを止められなかった。
「堀北さん」
佐々さんの声が、少しだけ低くなった。
「江本さんと、いちばん親しかったのは、どなたですか」
「
「
佐々さんは、手帳に何かを書いた。
「葵井さんは、昨夜、帰り道の零時ごろに、江本さんから電話をもらったとおっしゃっています。《今日はありがとう》と。短い電話だったそうです」
零時ごろ。
私たちがマンションの前で別れたのは、十一時過ぎだった。その一時間近くあとまで、江本さんは生きていたことになる。
「堀北さんのところには、何か連絡は」
「いいえ。私は、江本さんの連絡先を知りませんから」
「そうですか」
佐々さんは、また手帳に書いた。書いて、閉じた。
江本さんを殺したのが誰なのかを、私はもう決めていた。
「二日前、あなたは事件の夜、何も見ていないとおっしゃいました」
「……はい」
「今回も、何か見たり聞いたりしたことは」
心臓が、二日前と同じように一度だけ強く打った。
「ありません」
嘘をついた。
今度は、半分ではなかった。
佐々さんは、私の顔をしばらく見ていた。見て、それから、名刺をもう一枚差し出した。二日前と同じ名刺だった。
「前にお渡ししたものを、なくされたかと思って」
なくしてはいなかった。机の上に、ノートの隣に置いてある。
佐々さんは、それを知っていて、もう一枚渡したのだと思った。二枚目の名刺は、一枚目より重かった。
同じ紙なのに、渡された理由が違うだけで、重さが変わる。
刑事が帰ったあと、スマートフォンが鳴った。
葵井さんからだった。
出ると、葵井さんは泣いていた。泣いて、言葉になっていなかった。智恵ちゃんが、智恵ちゃんが、と何度も繰り返して、それから、ほりきたさん、と私の名前を呼んだ。
『ほりきたさん、どうしよう、あたし、あたし……』
その先は、聞き取れなかった。
私は、何と言えばいいのか分からなかった。大丈夫、とは言えなかった。大丈夫ではない。分からない、とも言えなかった。私には、分かっていることが一つだけあった。
分かっていることを、言えなかった。
葵井さんの泣き声を、電話が切れるまで、ただ聞いていた。
切れる直前に、葵井さんは、一度だけはっきりした声で言った。
『昨日、来てくれて、ありがとう』
それから、電話は切れた。
ありがとう、と言われたのは、二度目だった。一度目は、昨夜、マンションの前で別れる時に。手を握られて、力が入りすぎていた手で。
同じ言葉を、同じ人から、一晩をはさんで二度聞いた。一度目は温かかった。二度目は、ひどく遠かった。遠いところから、誰かが無理に声を届けているような、そんな響き方だった。
午後、私は江本さんのマンションの前に行った。
行って何をするつもりだったのかは、分からない。分からないまま、昨夜と同じ道を歩いた。
エントランスの前に、黄色いテープが張られていた。テープの手前に、花束がいくつか置かれていた。一昨日の昼、あの路地で見たのと、同じ光景だった。同じ光景を、三日のうちに二度見ることになるとは思っていなかった。
テープの少し離れたところに、三人がいた。
葵井さんは、貴宮さんの胸に顔を埋めていた。肩が、小さく震え続けていた。貴宮さんは、葵井さんの頭を片手で抱えて、もう片方の手で、背中をゆっくり叩いていた。叩く間隔が、一定だった。何度も、こうしてきた手に見えた。
宇佐美くんは、二人から一歩離れて立っていた。
私に気づいたのは、宇佐美くんだった。
「あ、堀北さんも来たんだ」
宇佐美くんは、いつもの人当たりのいい笑顔を作りかけて、途中でやめた。やめた顔は、笑顔とも、泣き顔とも違った。何かを測っている顔だった。
「来てくれたんだね。智恵ちゃん、喜ぶよ」
喜ぶ、と現在形で言った。言い間違えたのか、わざとなのか、分からなかった。
喜んだ、と言えば、過去になる。喜ぶ、と言えば、まだ続いている。語尾一つの違いで、人はまだ死なずにいられる。宇佐美くんの言葉の中で、江本さんは、もう少しだけ生きていた。
貴宮さんが、葵井さんの頭越しに、私を見た。
見て、何も言わなかった。言わない代わりに、葵井さんを抱える腕に、少しだけ力を入れたように見えた。私から、葵井さんを隠すように。
私は、テープの前で、花束を見た。
何も持ってこなかったことに、その時ようやく気づいた。
「……ごめんなさい。何も持たずに来たわ」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
手ぶら、という言葉がある。手が、ぶらぶらしている、ということだ。持つものがない手は、行き場がない。行き場のない手を、私は、鞄の持ち手に戻した。
葵井さんが、貴宮さんの胸から、少しだけ顔を上げた。泣き腫らした目で、私を見た。
「ほりきたさん」
それだけ言って、また顔を埋めた。
私は、それ以上そこにいられなかった。
いる資格が、私にはない気がした。私は、江本さんが死んだ理由を、知っていると思っている。知っていると思っていることを、ここにいる誰にも言っていない。言わないまま、花束の前に立っている。
それは、たぶん、嘘をつくのと同じことだった。
部屋に戻って、机の前に座った。
伏せた写真と、二枚の名刺と、ノート。
写真を表に返した。暗い路地と、倒れた男。フラッシュの白。撮った人間は写っていない。
裏を返した。〈来週の日曜日の夕方、鴨川の、三条の橋の下で。佐倉〉
この封筒が郵便受けに入っていたのは、昨夜だった。私が誕生会から帰る前に。つまり昨夜、佐倉さんは私の部屋の近くにいた。私の住んでいる場所を、知っていた。
そして昨夜、江本さんは首を絞められて死んだ。
ストラップで絞めて殺す人間を、私は一人だけ知っている。
疑う理由を、一つずつ並べた。
疑う。疑わしい。疑いようがない。同じ字が、並べ方次第で、反対の意味になる。
佐倉さんが江本さんを殺したとして、どうやって江本さんの部屋に入ったのか。江本さんは、私たちが帰ったあと、一人だった。誰かを部屋に入れたのなら、知っている相手のはずだ。
知っている相手。
佐倉さんと江本さんに、接点はない。ない、と思う。思う、というのは正確ではない。ないことを、私は確かめていない。確かめようもない。佐倉さんが二年生で学校を辞めてから、どこで何をしていたのか、私は何も知らない。
知らないことを、ないことにして、私は推理を進めていた。
進めていると気づいて、止めようとした。
止められなかった。
佐倉さんが江本さんを知っているはずがない。江本さんの部屋を知っているはずがない。理由がない。
理由がない、というのが、いちばん怖い答えだった。三日前の路地で倒れた男にも、たぶん理由はなかった。
私は、探すのをやめた。
夜、二度目の電話をかけた。
三回目の呼び出し音で、つながった。
『堀北か』
『二人目よ』
私は、今朝のことを話した。江本さんのこと。首を絞められていたこと。見当たらないストラップ。昨夜の郵便受けの写真。裏の字。
綾小路くんは、二日前と同じように、最後まで黙って聞いた。
『佐倉さんだと思う』
私は、そう言った。言ってから、言ったことの重さに、少しだけ手が震えた。
綾小路くんは、少しだけ間を置いた。
『佐倉と、江本という女子に、接点はあるのか』
『……分からない』
『分からないのか、ないのか』
分からない、と、ない。間にあるのは、分から、の三文字だけだ。その三文字の中に、私が確かめなかった全部が入っていた。
『分からないの。佐倉さんが学校を辞めてから何をしていたのか、私は何も知らないわ』
『そうか』
綾小路くんの声は、変わらなかった。
『分からないことがあるのは、構わない。分からないことを、分からないと言えるなら、それでいい。ただ、分からないことが一つあっても、答えは変わらない』
『どうして』
『お前が見たものが、事実だからだ。佐倉は人を殺した。お前はそれを見た。佐倉はお前を知っている。お前の住んでいる場所も知っている。江本の件が佐倉かどうかに関係なく、その四つは変わらない』
四つの事実を、綾小路くんは指を折るように並べた。並べ方に、迷いがなかった。
迷いのない並べ方をされると、並べられたものが、全部正しく見えた。
『……江本さんも、佐倉さんだと思う?』
『お前の話を聞く限り、そう考えるのがいちばん筋が通る』
『……そうね』
『なら、答えは変わらない。通報しろ。今度は、写真もある。佐倉が会おうとしているなら、なおさらだ。行くな。会えば、お前が三人目になる』
正しかった。
二日前と同じように、一つ残らず、正しかった。
今度は、手の中で答えになった気がした。
『分かったわ』
そう言って、電話を切った。
電話を切ったあと、しばらく、スマートフォンの暗い画面を見ていた。
画面に、自分の顔が映っていた。
赤木くんなら、こういう時、どうしただろう。
考えても仕方のないことを、考えた。あの人は、博打打ちの年寄りみたいな口を利くくせに、時々ひどく子どもだった。缶を開けずにポケットに入れる。パンをかじりながら廊下を歩く。要らない千点棒を、出したいからと言って出す。晒した当たり牌を、平気で見逃す。
正しい牌を、平気で捨てる人だった。
捨てて、それでも最後には、卓の全部を持っていった。
捨て牌。捨てたはずの牌が、河に並んで、全部、相手に読まれる。捨てたものほど、よく見られる。麻雀というのは、そういうふうにできていた。
私には、あの人の真似はできない。あの人は、自分が正しいかどうかを、一度も気にしているようには見えなかった。だから、正しくない方を選べたのだと思う。
私は、気にする。正しいかどうかを、いつも気にする。気にして、正しい方を選んで、選んだあとで、それが本当に正しかったのかを、また気にする。
綾小路くんの答えは、正しい。
正しい答えをもらったのだから、私はもう、気にしなくていいはずだった。
写真を、もう一度だけ見た。
暗い路地。倒れた男。白い光。
撮った人間は、どこにも写っていない。
写っていないことが、私には、全部を語っているように思えた。
正しい答えを、私は手に入れた。
入れたはずだった。
手に入れる、というのは、手の中に入れることだ。手の中に入れたものは、手を開かない限り、自分にも見えない。
机の上の名刺に手を伸ばして、伸ばしたまま、その夜は、番号を押さなかった。
◇
言葉というのは、口から出たら、もう話した人間のものではなくなる。
聞いた人間のものになる。聞いた人間が、それをどう受け取って、どこへ持っていって、何に使うのか。話した人間には、もう何も決められない。
だから、何気なく口にした一言が、誰かの首に巻きつくこともある。
ぼくはそれを、いつも後になって知る。
五月十八日。水曜日の夜。
骨董アパートの部屋で、ぼくは天井を見ていた。
誕生会から、四日が経った。
刑事には、事件の翌日に一度、話を聞かれた。誕生会に来ていた六人の一人として。何時に着いて、何時に帰ったか。帰る時、智恵ちゃんは何をしていたか。ぼくは聞かれたことに答えた。答えられることは、多くなかった。
今日の昼、骨董アパートに、また刑事が来た。
二度目だった。黒い髪をまっすぐ伸ばした、背の高い女性の刑事。前と同じ、佐々という人だった。後ろに、サングラスの男性が立っていた。
「誕生会の夜のことを、もう一度だけ」
ぼくは、同じことを答えた。十一時過ぎに六人で別れて、ぼくは反対の方向へ帰った。誰にも会わなかった。
佐々さんは、手帳を見ながら言った。
「江本さんのスマートフォンを調べました。零時二分に、葵井巫女子さんへ、通話アプリで発信した履歴が残っています。三十秒ほど。アプリの会社にも照会をかけていますが、返事には時間がかかります。建物の防犯カメラは、春から故障したままでした。葵井さんは、帰り道でその電話を受けたとおっしゃっています。《今日はありがとう》と言われたそうです。それと、江本さんが首にかけていたストラップが、まだ見つかっていません」
「零時二分」
「ええ。少なくともその時刻までは、江本さんはご無事だったことになります」
佐々さんは、ぼくの顔を見ていた。何かを確かめる目だった。何を確かめているのかは、分からなかった。
刑事が帰ったあと、ぼくは四畳の真ん中に座って、その数字を転がした。
零時二分。三十秒。今日はありがとう。
零時。零の時、と書く。何も始まっていない時刻に、一日の礼を言う。今日はありがとう、の今日は、その電話が鳴った時には、もう昨日になっていた。言葉の方が、時計より一日遅れていたのだ。
ぼくは、そこまで考えて、考えるのをやめた。
その先を考えないように、天井の染みを数え始めた。数は、朝と同じだった。同じであることに、今日は少しも安心できなかった。
午後の大教室に、堀北さんはいた。
窓際のいちばん後ろ。両隣と前の二列が空いている。本を開いて、ページをめくっていなかった。
誕生会から、四日。彼女も、誕生会の六人の一人として、刑事に話を聞かれたはずだった。
ぼくは、いつもの席に座った。一つ空けた、その向こう。
彼女は、顔を上げなかった。上げなかったけれど、ページの上で止まっていた指が、少しだけ動いた。動いて、また止まった。
彼女は、何かを決めた顔をしていた。
決めた顔、というのは、たいてい、疑うのをやめた顔のことだ。ぼくは、その顔を島で何度も見た。見た顔の持ち主が、その後どうなったのかも。
何を決めたのかは、訊かなかった。訊くのは、答えを受け取る約束をすることだ。
返ってきた答えが、間違っていたら。
ぼくには、それを正す資格がない。正しい答えを持っていないぼくには、人の答えを間違いだと言う資格もない。
講義が終わるまで、ぼくは前を向いていた。彼女は、一度もページをめくらなかった。
窓の外で、何かが小さく鳴った。
窓ガラスを、外から爪で弾く音だった。
ここは二階だ。二階の窓を外から叩く知り合いは、ぼくにはいない。知り合いでない誰かが窓を叩く理由を、ぼくは三つほど思いついて、三つとも、あまり歓迎できるものではなかった。
窓を開けると、雨樋に片手でぶら下がった人間がいた。白いまだらの髪。顔の刺青。左耳の、携帯のストラップ。
「よう、欠陥製品」
「どうやって登ってきたんだ」
「登ったんじゃねえ、ぶら下がってんだよ。入れろ」
ぼくは、窓を大きく開けた。
「狭えな」
「家賃一万円だから」
「一万で四畳か。一畳二千五百円。安いのか高いのか分かんねえな」
「畳の上で死ねるなら、安い」
「死ぬ予定でもあんのかよ」
「予定はない。予感はある」
「傑作だぜ」
人識は、部屋の隅に転がっていたスマートフォンを、足の先で突ついた。
「お前、これ使ってんのか」
「使ってない」
「だろうな。持ってるだけって顔してる」
人識は、自分のスマートフォンを取り出した。画面にひびが入っていた。ひびの向こうで、ニュースの見出しが光っていた。
人識は、ニュースを見ていた。
京都で女子大生が殺された。首を絞められて。通り魔の連続事件との関連を、警察は調べている。
「あれ、お前の知り合いだろ」
「どうして分かる」
「今、それ見た時のお前の顔。知り合いが死んだ奴の顔だ」
人識は、ぼくの顔を一度だけ見て、すぐに画面に戻した。一度見れば分かる、という言い方だった。鏡の中の顔なら、一度見れば分かる。
「七人目の奴かと思ってな。首を絞めてる」
「同じ匂いがするか、確かめに来たのか」
「そういうこった」
人識は立ち上がった。
「部屋、どこだ」
エントランスには、まだ警察の黄色いテープが残っていた。夜風で、テープの端が小さく鳴っていた。花束が、いくつも置かれていた。花束の一つに、カードが挟まっていた。〈智恵ちゃんへ〉と、丸い字で書いてあった。人は、いなかった。夜の十一時を過ぎると、事件のあった建物の前に、わざわざ立つ人間はいない。
人識は、テープの下をくぐった。くぐって、オートロックの扉の前で、袖から細い金属を取り出した。鍵穴に差し込んで、ひねった。それだけで、扉が開いた。
「便利だな。鍵屋になれる」
「錠開け専用だよ。鍵屋なんざやらねえよ」
「冗談だろ」
「さあな」
智恵ちゃんの部屋の扉も、同じようにして開いた。
明かりは点けなかった。点ければ、外から見える。人識が、小さな懐中電灯を点けた。手のひらで光を半分覆って。光の輪が、部屋の中をゆっくりと動いた。
四日前と、ほとんど同じだった。低いテーブル。紙皿の残り。窓辺の光物。ガラスの小瓶と、ビーズの飾り。誰かが片づけたのか、ケーキの皿だけがなくなっていた。
テーブルの周りに、座布団が六枚、並んでいた。
座布団の団は、もともと丸いもののことだという。六枚の丸が、テーブルを丸く囲んでいた。
ほとんど、誕生会の夜のままだった。五枚は、テーブルを囲む位置にあった。一枚だけが、窓辺の方へ寄せられていた。
あの夜、ぼくは部屋の隅に座っていた。座布団は使わなかった。だから、六枚のうち一枚は、最初から余っていたはずだ。
余っていた一枚が、窓辺に寄せられている。
窓辺の方へ。
床に、白いテープで、人の形が描かれていた。
窓辺の、すぐ下だった。
人識は、白い人型の前にしゃがんだ。しゃがんで、しばらく何も言わなかった。光の輪が、床の上で止まっていた。
「……違えな」
「何が」
「兄貴が嗅ぎつける匂いじゃねえ」
人識は立ち上がった。立ち上がって、部屋の中をもう一度見回した。
「七人目の奴は、理由がねえ方の奴だ。路地で見ず知らずの男を絞めて、それで終わりだ。何も持っていかねえし、何も残さねえ。ここは違う。ここには、理由の匂いがする」
「理由」
「誰かが、この女を殺したかったんだよ。この女じゃなきゃ駄目だった。そういう殺しだ。俺らのとは、全然違う」
「君のは、何人まで続くんだ」
訊いてから、訊くべきことではなかったと思った。人識は、少しも嫌な顔をしなかった。
「十二」
「十二」
「人間ってのは、だいたい十二通りに分かれるんだよ。型の違う奴に、一人ずつ会ってる。六つは済んだ。残りは六つだ」
十二。時計の文字盤と同じ数だ。一周すれば、針は元の場所に戻る。元の場所に戻るために人を殺すのだとしたら、それはもう殺しではなく、確かめ算だ。何を確かめているのかは、たぶん、こいつ自身にもまだ分かっていない。
窓辺の光物を、ぼくは見ていた。
ガラスの小瓶。ビーズの飾り。誕生会の夜、智恵ちゃんはこれを、一つずつ並べ直していた。並べ直しながら、もう一人の自分の話をした。楽しくしている自分を、少し後ろから、もう一人の自分が見ている、と。
《後ろから見てる方も、たぶん、楽しくはないよ》
ぼくは、そう言った。
言ったあとで、彼女は振り返って、ぼくを見て、少しだけ笑った。いっくんも、そうなんだ、と。ぼくは答えなかった。
あの夜、ぼくが彼女に言ったのは、似合うね、と、後ろから見てる方も楽しくはない、の二つだけだった。
二つとも、本当のことだった。
本当のことしか言わなかったのに、彼女は死んだ。
嘘をついていれば、何か変わったのだろうか。似合わないね、と言っていれば。後ろから見ている方が楽しいよ、と言っていれば。
変わらなかっただろう。
変わらなかったと思うのは、ぼくが自分を許すための、いちばん安い方法だ。安い方法だと分かっていて、ぼくはそれを選ぶ。選ばないと、この部屋から出られなくなる。
人識は、窓辺の光物を一つ手に取った。ガラスの小瓶だった。懐中電灯の光を受けて、小さく光った。
「なあ、欠陥製品。この女、何か持ってなかったか。光る物とか」
ぼくは、思い出した。
細い革の紐に、小さな光る飾りが一つ。
首にかけて、エントランスの明かりの下で、一度だけ光った。
「ネックストラップ」
「それ、どこにある」
「なくなってる。刑事が言っていた。部屋のどこにも見当たらないって」
人識は、小瓶を窓辺に戻した。戻す時に、元の位置から少しもずらさなかった。殺人鬼の手つきとは思えないほど、丁寧だった。
「傑作だぜ」
笑ってはいなかった。
帰り道、鴨川の河川敷を歩いた。
人識は、ぼくの少し前を歩いていた。小さな背中だった。ナイフをどこに隠しているのか、外からは全く分からない背中だった。
「首を絞めたもんを、持って帰った」
人識が、前を向いたまま言った。
「普通は捨てる。持ってたら、自分が絞めましたって言ってるようなもんだからな。それでも持って帰ったんなら、そいつにとって、そのストラップは凶器じゃなかったんだよ」
「凶器じゃないなら、何だ」
「さあな。それはお前の方が分かるんじゃねえの」
人識は、振り返らなかった。
「なあ、欠陥製品。お前、あの女が死ぬ前に誰かと電話したって話、知ってるか」
人識が、続けた。
「知ってる。零時二分。三十秒」
「刑事が嗅ぎ回ってたからな。近所の奴らが噂してたぜ。死ぬ前に、友達に電話してたんだとさ」
人識は、鼻を鳴らした。
「電話なんか、殺した奴がかけりゃいいだけだろ」
身もふたもない言い方だった。
ぼくが講義のあいだも、帰ってからも、天井の染みを数えながら避けていたところに、人識は一歩で踏み込んだ。踏み込んで、何でもないことのように、そこに立っていた。
「……そう考えることも、できる」
「できるって何だよ。そうなんだろ」
「そうかもしれない。そうじゃないかもしれない」
「傑作だぜ。お前、答えが目の前にあっても、拾わねえのな」
拾わない、というのは正確ではない。
拾ったら、それを誰かに向けなければならなくなる。拾い上げて、名前を付けて、その人の前に差し出す。それを、ぼくはしたくない。
ぼくは、歩きながら、思い出していた。
誕生会の夜。プレゼントの時間。細い革のストラップ。智恵ちゃんが首にかけた時、ぼくは何と言ったか。
ぼくが、あの部屋に来て、初めて自分から口にした言葉だった。
部屋が、ほんの少しだけ静かになった。彼女は笑った。笑っていない顔が、一つあった。その顔はすぐに笑顔に戻った。戻るまでの一瞬を、ぼくは見ていた。
見ていて、何も思わなかった。
何も思わなかったことを、今になって、思い出している。
三条の橋のたもとで、人識と別れた。別れ際、人識は橋の欄干に片手をかけて、少しだけ川を見下ろした。見下ろして、何も言わなかった。言わないことが、この男にしては珍しかった。
「七人目の奴は、そのうち兄貴が嗅ぎつける。嗅ぎつけたら、来る。来る前に、俺は京都を出る」
「この部屋の方は」
「こっちは、お前の問題だろ」
人識は、それだけ言って、橋の上の明かりの中に消えた。
ぼくは、河川敷に一人で残った。
言葉というのは、口から出たら、もう話した人間のものではなくなる。
似合うね、と言ったのは、ぼくだ。
その言葉を、誰がどこへ持っていったのか、ぼくには分かりかけている気がした。分かりかけたものを、ぼくは組み立てないでおいた。
組み立てなければ、まだ、分からないままでいられる。
戯言だけどね。