ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

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第5話 絞殺(考察)

疑う理由が見つからないから、信じる。

 

逆だ。疑う理由を探すのをやめたから、信じたことにしているだけだ。探せば見つかるかもしれないものを、もう探さないと決めた時、人はそれを確信と呼ぶ。

 

だから確信は、いつも少しだけ、怠けている。

 

 

 

 

 

写真の裏には、小さな字でこう書いてあった。

 

〈来週の日曜日の夕方、鴨川の、三条の橋の下で。〉

 

その下に、名前が一つ。

 

佐倉。

 

丸みのある、小さな字だった。急いで書いたのではない。一文字ずつ、丁寧に書いた字だった。高校の頃、配られたプリントの隅に、何度か見たことのある字だった。

 

私は写真を机の上に伏せて置いた。伏せても、白い光は消えなかった。

 

 

 

 

 

朝、部屋のチャイムで目が覚めた。

 

眠っていたことに、自分で驚いた。写真を伏せたあと、椅子に座ったまま、いつの間にか眠っていたらしい。首が痛かった。夢は見なかった。見なかったのか、覚えていないだけなのか。白い光だけが、瞼の裏に薄く残っていた。目を開けても、しばらく消えなかった。

 

ドアを開けると、二日前と同じ二人が立っていた。

 

黒い髪の女性の刑事と、サングラスの男性の刑事。佐々(ささ)と、斑鳩(いかるが)。

 

「朝早くに、すみません」

 

佐々さんは、二日前と同じ声で言った。同じ声なのに、目だけが違った。二日前は、何かを確かめる目だった。今朝は、何かを見つけた目だった。

 

「昨夜、江本智恵(えもとともえ)さんのお部屋にいらっしゃいましたね」

 

「……はい。誕生会に呼ばれたので」

 

「江本さんが、今朝、ご自宅で亡くなっているのが見つかりました」

 

言葉の意味が、すぐには入ってこなかった。

 

訃報、という言葉が、遅れて頭に浮かんだ。訃の字の右側は、占いの卜だ。占いの字を借りて、もう占いようのないことを知らせる。言葉はいつも、起きてしまったことにだけ、正確だ。

 

「首を、絞められていました」

 

絞める、と、締める、と、閉める。どれも、しめる、と読む。首を絞める。紐を締める。扉を閉める。ひらがなにしてしまえば、どれも同じ動作に聞こえる。漢字というのは、たぶん、同じ音の中から、取り返しのつかない方を選り分けるためにある。

 

佐々さんは、私の顔を見ていた。見て、私が何を言うのかを待っていた。

 

私は、何も言えなかった。

 

首を絞められていた。

 

その一言で、三日前の白い光が、頭の中で一度に弾けた。路地の暗がり。重なる二つの影。首に巻きついたストラップ。倒れた男。うまく撮れた写真を見る時の、小さな頷き。

 

そして、昨夜の郵便受けの封筒。

 

 

 

 

 

佐々さんは、一つずつ質問をした。

 

何時に部屋に着いたか。誰が来ていたか。何時に帰ったか。帰る時、江本さんは何をしていたか。

 

私は、一つずつ答えた。見たとおりに。

 

十一時過ぎに、六人がマンションの前で別れたこと。江本さんがエントランスの明かりの下で手を振っていたこと。首にかけたネックストラップの飾りが、光っていたこと。

 

「ネックストラップ」

 

佐々さんが、その言葉を繰り返した。

 

「はい。誕生日プレゼントで。貴宮(あてみや)さんが渡したものです」

 

佐々さんと斑鳩さんが、一瞬だけ目を合わせた。

 

「そのストラップが、お部屋のどこにも見当たらないんです」

 

私は、黙った。

 

首を絞めたもの。

 

見当たらないストラップ。

 

頭の中で、二つの言葉が、勝手に一つに重なった。重ねてはいけないと分かっていて、重なるのを止められなかった。

 

「堀北さん」

 

佐々さんの声が、少しだけ低くなった。

 

「江本さんと、いちばん親しかったのは、どなたですか」

 

「葵井(あおいい)さんです。高校からの友達だと聞きました」

 

「葵井巫女子(あおいいみここ)さん」

 

佐々さんは、手帳に何かを書いた。

 

「葵井さんは、昨夜、帰り道の零時ごろに、江本さんから電話をもらったとおっしゃっています。《今日はありがとう》と。短い電話だったそうです」

 

零時ごろ。

 

私たちがマンションの前で別れたのは、十一時過ぎだった。その一時間近くあとまで、江本さんは生きていたことになる。

 

「堀北さんのところには、何か連絡は」

 

「いいえ。私は、江本さんの連絡先を知りませんから」

 

「そうですか」

 

佐々さんは、また手帳に書いた。書いて、閉じた。

 

江本さんを殺したのが誰なのかを、私はもう決めていた。

 

「二日前、あなたは事件の夜、何も見ていないとおっしゃいました」

 

「……はい」

 

「今回も、何か見たり聞いたりしたことは」

 

心臓が、二日前と同じように一度だけ強く打った。

 

「ありません」

 

嘘をついた。

 

今度は、半分ではなかった。

 

佐々さんは、私の顔をしばらく見ていた。見て、それから、名刺をもう一枚差し出した。二日前と同じ名刺だった。

 

「前にお渡ししたものを、なくされたかと思って」

 

なくしてはいなかった。机の上に、ノートの隣に置いてある。

 

佐々さんは、それを知っていて、もう一枚渡したのだと思った。二枚目の名刺は、一枚目より重かった。

 

同じ紙なのに、渡された理由が違うだけで、重さが変わる。

 

 

 

 

 

刑事が帰ったあと、スマートフォンが鳴った。

 

葵井さんからだった。

 

出ると、葵井さんは泣いていた。泣いて、言葉になっていなかった。智恵ちゃんが、智恵ちゃんが、と何度も繰り返して、それから、ほりきたさん、と私の名前を呼んだ。

 

『ほりきたさん、どうしよう、あたし、あたし……』

 

その先は、聞き取れなかった。

 

私は、何と言えばいいのか分からなかった。大丈夫、とは言えなかった。大丈夫ではない。分からない、とも言えなかった。私には、分かっていることが一つだけあった。

 

分かっていることを、言えなかった。

 

葵井さんの泣き声を、電話が切れるまで、ただ聞いていた。

 

切れる直前に、葵井さんは、一度だけはっきりした声で言った。

 

『昨日、来てくれて、ありがとう』

 

それから、電話は切れた。

 

ありがとう、と言われたのは、二度目だった。一度目は、昨夜、マンションの前で別れる時に。手を握られて、力が入りすぎていた手で。

 

同じ言葉を、同じ人から、一晩をはさんで二度聞いた。一度目は温かかった。二度目は、ひどく遠かった。遠いところから、誰かが無理に声を届けているような、そんな響き方だった。

 

 

 

 

 

午後、私は江本さんのマンションの前に行った。

 

行って何をするつもりだったのかは、分からない。分からないまま、昨夜と同じ道を歩いた。

 

エントランスの前に、黄色いテープが張られていた。テープの手前に、花束がいくつか置かれていた。一昨日の昼、あの路地で見たのと、同じ光景だった。同じ光景を、三日のうちに二度見ることになるとは思っていなかった。

 

テープの少し離れたところに、三人がいた。

 

葵井さんは、貴宮さんの胸に顔を埋めていた。肩が、小さく震え続けていた。貴宮さんは、葵井さんの頭を片手で抱えて、もう片方の手で、背中をゆっくり叩いていた。叩く間隔が、一定だった。何度も、こうしてきた手に見えた。

 

宇佐美くんは、二人から一歩離れて立っていた。

 

私に気づいたのは、宇佐美くんだった。

 

「あ、堀北さんも来たんだ」

 

宇佐美くんは、いつもの人当たりのいい笑顔を作りかけて、途中でやめた。やめた顔は、笑顔とも、泣き顔とも違った。何かを測っている顔だった。

 

「来てくれたんだね。智恵ちゃん、喜ぶよ」

 

喜ぶ、と現在形で言った。言い間違えたのか、わざとなのか、分からなかった。

 

喜んだ、と言えば、過去になる。喜ぶ、と言えば、まだ続いている。語尾一つの違いで、人はまだ死なずにいられる。宇佐美くんの言葉の中で、江本さんは、もう少しだけ生きていた。

 

貴宮さんが、葵井さんの頭越しに、私を見た。

 

見て、何も言わなかった。言わない代わりに、葵井さんを抱える腕に、少しだけ力を入れたように見えた。私から、葵井さんを隠すように。

 

私は、テープの前で、花束を見た。

 

何も持ってこなかったことに、その時ようやく気づいた。

 

「……ごめんなさい。何も持たずに来たわ」

 

誰に言ったのか、自分でも分からなかった。

 

手ぶら、という言葉がある。手が、ぶらぶらしている、ということだ。持つものがない手は、行き場がない。行き場のない手を、私は、鞄の持ち手に戻した。

 

葵井さんが、貴宮さんの胸から、少しだけ顔を上げた。泣き腫らした目で、私を見た。

 

「ほりきたさん」

 

それだけ言って、また顔を埋めた。

 

私は、それ以上そこにいられなかった。

 

いる資格が、私にはない気がした。私は、江本さんが死んだ理由を、知っていると思っている。知っていると思っていることを、ここにいる誰にも言っていない。言わないまま、花束の前に立っている。

 

それは、たぶん、嘘をつくのと同じことだった。

 

部屋に戻って、机の前に座った。

 

伏せた写真と、二枚の名刺と、ノート。

 

写真を表に返した。暗い路地と、倒れた男。フラッシュの白。撮った人間は写っていない。

 

裏を返した。〈来週の日曜日の夕方、鴨川の、三条の橋の下で。佐倉〉

 

この封筒が郵便受けに入っていたのは、昨夜だった。私が誕生会から帰る前に。つまり昨夜、佐倉さんは私の部屋の近くにいた。私の住んでいる場所を、知っていた。

 

そして昨夜、江本さんは首を絞められて死んだ。

 

 

 

ストラップで絞めて殺す人間を、私は一人だけ知っている。

 

 

 

疑う理由を、一つずつ並べた。

 

疑う。疑わしい。疑いようがない。同じ字が、並べ方次第で、反対の意味になる。

 

佐倉さんが江本さんを殺したとして、どうやって江本さんの部屋に入ったのか。江本さんは、私たちが帰ったあと、一人だった。誰かを部屋に入れたのなら、知っている相手のはずだ。

 

知っている相手。

 

佐倉さんと江本さんに、接点はない。ない、と思う。思う、というのは正確ではない。ないことを、私は確かめていない。確かめようもない。佐倉さんが二年生で学校を辞めてから、どこで何をしていたのか、私は何も知らない。

 

知らないことを、ないことにして、私は推理を進めていた。

 

進めていると気づいて、止めようとした。

 

止められなかった。

 

佐倉さんが江本さんを知っているはずがない。江本さんの部屋を知っているはずがない。理由がない。

 

理由がない、というのが、いちばん怖い答えだった。三日前の路地で倒れた男にも、たぶん理由はなかった。

 

私は、探すのをやめた。

 

 

 

 

 

夜、二度目の電話をかけた。

 

三回目の呼び出し音で、つながった。

 

『堀北か』

 

『二人目よ』

 

私は、今朝のことを話した。江本さんのこと。首を絞められていたこと。見当たらないストラップ。昨夜の郵便受けの写真。裏の字。

 

綾小路くんは、二日前と同じように、最後まで黙って聞いた。

 

『佐倉さんだと思う』

 

私は、そう言った。言ってから、言ったことの重さに、少しだけ手が震えた。

 

綾小路くんは、少しだけ間を置いた。

 

『佐倉と、江本という女子に、接点はあるのか』

 

『……分からない』

 

『分からないのか、ないのか』

 

分からない、と、ない。間にあるのは、分から、の三文字だけだ。その三文字の中に、私が確かめなかった全部が入っていた。

 

『分からないの。佐倉さんが学校を辞めてから何をしていたのか、私は何も知らないわ』

 

『そうか』

 

綾小路くんの声は、変わらなかった。

 

『分からないことがあるのは、構わない。分からないことを、分からないと言えるなら、それでいい。ただ、分からないことが一つあっても、答えは変わらない』

 

『どうして』

 

『お前が見たものが、事実だからだ。佐倉は人を殺した。お前はそれを見た。佐倉はお前を知っている。お前の住んでいる場所も知っている。江本の件が佐倉かどうかに関係なく、その四つは変わらない』

 

四つの事実を、綾小路くんは指を折るように並べた。並べ方に、迷いがなかった。

 

迷いのない並べ方をされると、並べられたものが、全部正しく見えた。

 

 

 

『……江本さんも、佐倉さんだと思う?』

 

『お前の話を聞く限り、そう考えるのがいちばん筋が通る』

 

『……そうね』

 

『なら、答えは変わらない。通報しろ。今度は、写真もある。佐倉が会おうとしているなら、なおさらだ。行くな。会えば、お前が三人目になる』

 

正しかった。

 

二日前と同じように、一つ残らず、正しかった。

 

今度は、手の中で答えになった気がした。

 

『分かったわ』

 

そう言って、電話を切った。

 

 

 

 

 

電話を切ったあと、しばらく、スマートフォンの暗い画面を見ていた。

 

画面に、自分の顔が映っていた。

 

赤木くんなら、こういう時、どうしただろう。

 

考えても仕方のないことを、考えた。あの人は、博打打ちの年寄りみたいな口を利くくせに、時々ひどく子どもだった。缶を開けずにポケットに入れる。パンをかじりながら廊下を歩く。要らない千点棒を、出したいからと言って出す。晒した当たり牌を、平気で見逃す。

 

正しい牌を、平気で捨てる人だった。

 

捨てて、それでも最後には、卓の全部を持っていった。

 

捨て牌。捨てたはずの牌が、河に並んで、全部、相手に読まれる。捨てたものほど、よく見られる。麻雀というのは、そういうふうにできていた。

 

私には、あの人の真似はできない。あの人は、自分が正しいかどうかを、一度も気にしているようには見えなかった。だから、正しくない方を選べたのだと思う。

 

私は、気にする。正しいかどうかを、いつも気にする。気にして、正しい方を選んで、選んだあとで、それが本当に正しかったのかを、また気にする。

 

綾小路くんの答えは、正しい。

 

正しい答えをもらったのだから、私はもう、気にしなくていいはずだった。

 

写真を、もう一度だけ見た。

 

暗い路地。倒れた男。白い光。

 

撮った人間は、どこにも写っていない。

 

写っていないことが、私には、全部を語っているように思えた。

 

正しい答えを、私は手に入れた。

 

入れたはずだった。

 

手に入れる、というのは、手の中に入れることだ。手の中に入れたものは、手を開かない限り、自分にも見えない。

 

机の上の名刺に手を伸ばして、伸ばしたまま、その夜は、番号を押さなかった。

 

 

 

 

 

◇

 

 

 

 

 

言葉というのは、口から出たら、もう話した人間のものではなくなる。

 

聞いた人間のものになる。聞いた人間が、それをどう受け取って、どこへ持っていって、何に使うのか。話した人間には、もう何も決められない。

 

だから、何気なく口にした一言が、誰かの首に巻きつくこともある。

 

ぼくはそれを、いつも後になって知る。

 

 

 

 

 

五月十八日。水曜日の夜。

 

骨董アパートの部屋で、ぼくは天井を見ていた。

 

誕生会から、四日が経った。

 

刑事には、事件の翌日に一度、話を聞かれた。誕生会に来ていた六人の一人として。何時に着いて、何時に帰ったか。帰る時、智恵ちゃんは何をしていたか。ぼくは聞かれたことに答えた。答えられることは、多くなかった。

 

今日の昼、骨董アパートに、また刑事が来た。

 

二度目だった。黒い髪をまっすぐ伸ばした、背の高い女性の刑事。前と同じ、佐々という人だった。後ろに、サングラスの男性が立っていた。

 

「誕生会の夜のことを、もう一度だけ」

 

ぼくは、同じことを答えた。十一時過ぎに六人で別れて、ぼくは反対の方向へ帰った。誰にも会わなかった。

 

佐々さんは、手帳を見ながら言った。

 

「江本さんのスマートフォンを調べました。零時二分に、葵井巫女子さんへ、通話アプリで発信した履歴が残っています。三十秒ほど。アプリの会社にも照会をかけていますが、返事には時間がかかります。建物の防犯カメラは、春から故障したままでした。葵井さんは、帰り道でその電話を受けたとおっしゃっています。《今日はありがとう》と言われたそうです。それと、江本さんが首にかけていたストラップが、まだ見つかっていません」

 

「零時二分」

 

「ええ。少なくともその時刻までは、江本さんはご無事だったことになります」

 

佐々さんは、ぼくの顔を見ていた。何かを確かめる目だった。何を確かめているのかは、分からなかった。

 

刑事が帰ったあと、ぼくは四畳の真ん中に座って、その数字を転がした。

 

零時二分。三十秒。今日はありがとう。

 

零時。零の時、と書く。何も始まっていない時刻に、一日の礼を言う。今日はありがとう、の今日は、その電話が鳴った時には、もう昨日になっていた。言葉の方が、時計より一日遅れていたのだ。

 

ぼくは、そこまで考えて、考えるのをやめた。

 

その先を考えないように、天井の染みを数え始めた。数は、朝と同じだった。同じであることに、今日は少しも安心できなかった。

 

 

 

 

 

午後の大教室に、堀北さんはいた。

 

窓際のいちばん後ろ。両隣と前の二列が空いている。本を開いて、ページをめくっていなかった。

 

誕生会から、四日。彼女も、誕生会の六人の一人として、刑事に話を聞かれたはずだった。

 

ぼくは、いつもの席に座った。一つ空けた、その向こう。

 

彼女は、顔を上げなかった。上げなかったけれど、ページの上で止まっていた指が、少しだけ動いた。動いて、また止まった。

 

彼女は、何かを決めた顔をしていた。

 

決めた顔、というのは、たいてい、疑うのをやめた顔のことだ。ぼくは、その顔を島で何度も見た。見た顔の持ち主が、その後どうなったのかも。

 

何を決めたのかは、訊かなかった。訊くのは、答えを受け取る約束をすることだ。

 

返ってきた答えが、間違っていたら。

 

ぼくには、それを正す資格がない。正しい答えを持っていないぼくには、人の答えを間違いだと言う資格もない。

 

講義が終わるまで、ぼくは前を向いていた。彼女は、一度もページをめくらなかった。

 

 

 

 

 

窓の外で、何かが小さく鳴った。

 

窓ガラスを、外から爪で弾く音だった。

 

ここは二階だ。二階の窓を外から叩く知り合いは、ぼくにはいない。知り合いでない誰かが窓を叩く理由を、ぼくは三つほど思いついて、三つとも、あまり歓迎できるものではなかった。

 

窓を開けると、雨樋に片手でぶら下がった人間がいた。白いまだらの髪。顔の刺青。左耳の、携帯のストラップ。

 

「よう、欠陥製品」

 

「どうやって登ってきたんだ」

 

「登ったんじゃねえ、ぶら下がってんだよ。入れろ」

 

ぼくは、窓を大きく開けた。

 

人識(ひとしき)は、音もなく四畳の真ん中に降り立った。部屋を見回して、それから、天井を見上げた。

 

「狭えな」

 

「家賃一万円だから」

 

「一万で四畳か。一畳二千五百円。安いのか高いのか分かんねえな」

 

「畳の上で死ねるなら、安い」

 

「死ぬ予定でもあんのかよ」

 

「予定はない。予感はある」

 

「傑作だぜ」

 

 

 

 

 

人識は、部屋の隅に転がっていたスマートフォンを、足の先で突ついた。

 

「お前、これ使ってんのか」

 

「使ってない」

 

「だろうな。持ってるだけって顔してる」

 

人識は、自分のスマートフォンを取り出した。画面にひびが入っていた。ひびの向こうで、ニュースの見出しが光っていた。

 

人識は、ニュースを見ていた。

 

京都で女子大生が殺された。首を絞められて。通り魔の連続事件との関連を、警察は調べている。

 

「あれ、お前の知り合いだろ」

 

「どうして分かる」

 

「今、それ見た時のお前の顔。知り合いが死んだ奴の顔だ」

 

人識は、ぼくの顔を一度だけ見て、すぐに画面に戻した。一度見れば分かる、という言い方だった。鏡の中の顔なら、一度見れば分かる。

 

「七人目の奴かと思ってな。首を絞めてる」

 

「同じ匂いがするか、確かめに来たのか」

 

「そういうこった」

 

人識は立ち上がった。

 

「部屋、どこだ」

 

 

 

 

 

西大路(にしおおじ)を少し入った、静かな通りのマンションだった。

 

エントランスには、まだ警察の黄色いテープが残っていた。夜風で、テープの端が小さく鳴っていた。花束が、いくつも置かれていた。花束の一つに、カードが挟まっていた。〈智恵ちゃんへ〉と、丸い字で書いてあった。人は、いなかった。夜の十一時を過ぎると、事件のあった建物の前に、わざわざ立つ人間はいない。

 

人識は、テープの下をくぐった。くぐって、オートロックの扉の前で、袖から細い金属を取り出した。鍵穴に差し込んで、ひねった。それだけで、扉が開いた。

 

「便利だな。鍵屋になれる」

 

「錠開け専用だよ。鍵屋なんざやらねえよ」

 

「冗談だろ」

 

「さあな」

 

智恵ちゃんの部屋の扉も、同じようにして開いた。

 

明かりは点けなかった。点ければ、外から見える。人識が、小さな懐中電灯を点けた。手のひらで光を半分覆って。光の輪が、部屋の中をゆっくりと動いた。

 

四日前と、ほとんど同じだった。低いテーブル。紙皿の残り。窓辺の光物。ガラスの小瓶と、ビーズの飾り。誰かが片づけたのか、ケーキの皿だけがなくなっていた。

 

テーブルの周りに、座布団が六枚、並んでいた。

 

座布団の団は、もともと丸いもののことだという。六枚の丸が、テーブルを丸く囲んでいた。

 

ほとんど、誕生会の夜のままだった。五枚は、テーブルを囲む位置にあった。一枚だけが、窓辺の方へ寄せられていた。

 

あの夜、ぼくは部屋の隅に座っていた。座布団は使わなかった。だから、六枚のうち一枚は、最初から余っていたはずだ。

 

余っていた一枚が、窓辺に寄せられている。

 

窓辺の方へ。

 

床に、白いテープで、人の形が描かれていた。

 

窓辺の、すぐ下だった。

 

人識は、白い人型の前にしゃがんだ。しゃがんで、しばらく何も言わなかった。光の輪が、床の上で止まっていた。

 

 

 

「……違えな」

 

 

 

「何が」

 

「兄貴が嗅ぎつける匂いじゃねえ」

 

人識は立ち上がった。立ち上がって、部屋の中をもう一度見回した。

 

「七人目の奴は、理由がねえ方の奴だ。路地で見ず知らずの男を絞めて、それで終わりだ。何も持っていかねえし、何も残さねえ。ここは違う。ここには、理由の匂いがする」

 

「理由」

 

「誰かが、この女を殺したかったんだよ。この女じゃなきゃ駄目だった。そういう殺しだ。俺らのとは、全然違う」

 

「君のは、何人まで続くんだ」

 

訊いてから、訊くべきことではなかったと思った。人識は、少しも嫌な顔をしなかった。

 

「十二」

 

「十二」

 

「人間ってのは、だいたい十二通りに分かれるんだよ。型の違う奴に、一人ずつ会ってる。六つは済んだ。残りは六つだ」

 

十二。時計の文字盤と同じ数だ。一周すれば、針は元の場所に戻る。元の場所に戻るために人を殺すのだとしたら、それはもう殺しではなく、確かめ算だ。何を確かめているのかは、たぶん、こいつ自身にもまだ分かっていない。

 

窓辺の光物を、ぼくは見ていた。

 

ガラスの小瓶。ビーズの飾り。誕生会の夜、智恵ちゃんはこれを、一つずつ並べ直していた。並べ直しながら、もう一人の自分の話をした。楽しくしている自分を、少し後ろから、もう一人の自分が見ている、と。

 

《後ろから見てる方も、たぶん、楽しくはないよ》

 

ぼくは、そう言った。

 

言ったあとで、彼女は振り返って、ぼくを見て、少しだけ笑った。いっくんも、そうなんだ、と。ぼくは答えなかった。

 

あの夜、ぼくが彼女に言ったのは、似合うね、と、後ろから見てる方も楽しくはない、の二つだけだった。

 

二つとも、本当のことだった。

 

本当のことしか言わなかったのに、彼女は死んだ。

 

嘘をついていれば、何か変わったのだろうか。似合わないね、と言っていれば。後ろから見ている方が楽しいよ、と言っていれば。

 

変わらなかっただろう。

 

変わらなかったと思うのは、ぼくが自分を許すための、いちばん安い方法だ。安い方法だと分かっていて、ぼくはそれを選ぶ。選ばないと、この部屋から出られなくなる。

 

人識は、窓辺の光物を一つ手に取った。ガラスの小瓶だった。懐中電灯の光を受けて、小さく光った。

 

「なあ、欠陥製品。この女、何か持ってなかったか。光る物とか」

 

ぼくは、思い出した。

 

細い革の紐に、小さな光る飾りが一つ。

 

首にかけて、エントランスの明かりの下で、一度だけ光った。

 

「ネックストラップ」

 

「それ、どこにある」

 

「なくなってる。刑事が言っていた。部屋のどこにも見当たらないって」

 

人識は、小瓶を窓辺に戻した。戻す時に、元の位置から少しもずらさなかった。殺人鬼の手つきとは思えないほど、丁寧だった。

 

「傑作だぜ」

 

笑ってはいなかった。

 

 

 

 

 

帰り道、鴨川の河川敷を歩いた。

 

人識は、ぼくの少し前を歩いていた。小さな背中だった。ナイフをどこに隠しているのか、外からは全く分からない背中だった。

 

「首を絞めたもんを、持って帰った」

 

人識が、前を向いたまま言った。

 

「普通は捨てる。持ってたら、自分が絞めましたって言ってるようなもんだからな。それでも持って帰ったんなら、そいつにとって、そのストラップは凶器じゃなかったんだよ」

 

「凶器じゃないなら、何だ」

 

「さあな。それはお前の方が分かるんじゃねえの」

 

人識は、振り返らなかった。

 

「なあ、欠陥製品。お前、あの女が死ぬ前に誰かと電話したって話、知ってるか」

 

人識が、続けた。

 

「知ってる。零時二分。三十秒」

 

「刑事が嗅ぎ回ってたからな。近所の奴らが噂してたぜ。死ぬ前に、友達に電話してたんだとさ」

 

人識は、鼻を鳴らした。

 

「電話なんか、殺した奴がかけりゃいいだけだろ」

 

身もふたもない言い方だった。

 

ぼくが講義のあいだも、帰ってからも、天井の染みを数えながら避けていたところに、人識は一歩で踏み込んだ。踏み込んで、何でもないことのように、そこに立っていた。

 

「……そう考えることも、できる」

 

「できるって何だよ。そうなんだろ」

 

「そうかもしれない。そうじゃないかもしれない」

 

「傑作だぜ。お前、答えが目の前にあっても、拾わねえのな」

 

拾わない、というのは正確ではない。

 

拾ったら、それを誰かに向けなければならなくなる。拾い上げて、名前を付けて、その人の前に差し出す。それを、ぼくはしたくない。

 

ぼくは、歩きながら、思い出していた。

 

誕生会の夜。プレゼントの時間。細い革のストラップ。智恵ちゃんが首にかけた時、ぼくは何と言ったか。

 

《(・)似(・)合(・)う(・)ね(・)》

 

ぼくが、あの部屋に来て、初めて自分から口にした言葉だった。

 

部屋が、ほんの少しだけ静かになった。彼女は笑った。笑っていない顔が、一つあった。その顔はすぐに笑顔に戻った。戻るまでの一瞬を、ぼくは見ていた。

 

見ていて、何も思わなかった。

 

何も思わなかったことを、今になって、思い出している。

 

 

 

 

 

三条の橋のたもとで、人識と別れた。別れ際、人識は橋の欄干に片手をかけて、少しだけ川を見下ろした。見下ろして、何も言わなかった。言わないことが、この男にしては珍しかった。

 

「七人目の奴は、そのうち兄貴が嗅ぎつける。嗅ぎつけたら、来る。来る前に、俺は京都を出る」

 

「この部屋の方は」

 

「こっちは、お前の問題だろ」

 

人識は、それだけ言って、橋の上の明かりの中に消えた。

 

ぼくは、河川敷に一人で残った。

 

言葉というのは、口から出たら、もう話した人間のものではなくなる。

 

似合うね、と言ったのは、ぼくだ。

 

その言葉を、誰がどこへ持っていったのか、ぼくには分かりかけている気がした。分かりかけたものを、ぼくは組み立てないでおいた。

 

組み立てなければ、まだ、分からないままでいられる。

 

戯言だけどね。

 

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