写真というのは、見られるために撮るものだと思われている。
違う。写真の大半は、誰にも見られないまま、どこかにしまわれる。見られなかった写真は、撮られなかった写真と、何も違わないのかもしれない。
それでも撮る人間がいる。
見られないと知っていて、それでも撮る人間が。
一週間が経った。
語学の教室では、教師が出席を取るたびに、四つの名前のところで声が少しだけ止まった。
葵井さんが隣の席を取っておいてくれたのは、ほんのひと月前のことだった。頼まれていないのに取っておくのが友達の始まりだ、と言って。私はその席に、今日も一人で座っている。取っておいてくれる人がいないのに、同じ席に座っている。
大教室の窓際のいちばん後ろでは、あの男が、私の隣を一つ空けて座っていた。
彼は、変わらなかった。何もせず、何も持たず、前を向いていた。江本さんが死んだことを、彼は知っているはずだった。誕生会にいた六人の一人として、刑事に話を聞かれたはずだった。それでも、変わらなかった。
変わらないことが、私には、少しだけ許せなかった。
許せない、と思った。羨ましいのかもしれない、とは思わないことにした。
その週、
答えを聞いたあとで、佐々さんは少しだけ黙った。
「堀北さん。あなたは、何かを見ていますね」
断定だった。質問の形をしていなかった。
「見ていません」
「そうですか」
佐々さんは、責めるような顔をしなかった。ただ、分かっている、という顔をした。分かっていて、私が自分から言うのを待っているように見えた。
「見たことを言わないでいるのは、思っているより、ずっと疲れることですよ」
それだけ言って、佐々さんは帰っていった。
名刺は、三枚になっていた。
日曜日の昼、出かける前に、ノートを開いた。
いちばん後ろのページ。十一桁。もう、紙を見なくても、指が覚えていた。
かければ、綾小路くんはまた、行くなと言う。同じ答えを、同じ平らな声で。正しい答えを三度もらっても、正しさは増えない。増えないのに、三度目の方が重い。一度目は助言で、三度目は命令になる。
命令を受け取ったら、私はたぶん、行けなくなる。
行けなくなりたくなかった。
画面に表示した番号の上で、指が止まっていた。止まったまま、時計の針だけが進んだ。午後一時。二時。三時。
三時を過ぎて、私は画面を消した。
かけなかった。
かけなかったことを、綾小路くんは知らない。知らないまま、綾小路くんは正しいままでいる。私だけが、正しくない方へ歩いていく。
鞄に、写真と名刺を入れた。名刺は三枚とも入れた。何かあった時に、どれか一枚でも手に取れるように。
それが、私に用意できた、唯一の正しさだった。
部屋を出る時、鍵を二度確かめた。
一度目は、閉まっているかを。二度目は、自分がまだ引き返せるかを。
引き返さなかった。
日曜日の夕方、私は鴨川の河川敷に立っていた。
行くな、と綾小路くんは言った。会えば、お前が三人目になる、と。
正しかった。
正しい答えを手に持ったまま、私は三条の橋の方へ歩いた。
なぜ来たのか、自分でもうまく説明できなかった。通報する前に、確かめたかった。そう言えば、筋は通る。筋が通りすぎている理由は、たいてい本当の理由ではない。それは、もう知っていた。
河川敷には、等間隔に恋人たちが座っていた。三メートルおきに、二人ずつ。その間隔の中に、一人だけ、間隔を外れて座っている人影があった。
橋の下の、少し暗くなったところ。
膝の上に、カメラを載せていた。
恋人たちの等間隔の中に、一人だけ、どの間隔にも属さない場所。そこを選んで座るのは、私も同じだった。大教室の窓際で、一つ空けて座る人間の隣の隣で。人の作った距離の外側に座る人間は、遠くからでも、すぐに見分けがつく。
「来てくれたんですね。来ないかと思ってました」
佐倉さんは、立ち上がらなかった。座ったまま、私を見上げた。
眼鏡の奥の目が、高校の頃より少しだけ落ち着いていた。あ、あの、と言いかけて飲み込む癖が、消えていた。消えたのか、どこかにしまったのか、私には分からなかった。
「通報しなかったんですね」
「……まだ、していないだけよ」
まだ、と、もう。どちらも、時間の途中に立っている言葉だ。まだ、と言った人間は、もう、の手前で足を止めている。止めている理由を、言葉は教えてくれない。
「そうですか」
佐倉さんは、少しだけ笑った。笑い方は、高校の頃と同じだった。同じなのに、どこか違った。笑っている自分を、少し後ろから見ているような笑い方だった。
江本さんの言葉を、思い出した。もう一人の自分が、後ろから見ている。
私は、佐倉さんの隣には座らなかった。一人分空けて、立っていた。座ってしまえば、話を聞く側になる。立っていれば、まだ問い詰める側でいられる。そう考えて立っていることが、自分でも少しだけ卑怯に思えた。
「
「……いいえ」
「首を絞められて死んだわ。一週間前。誕生日の夜に。首にかけていたストラップが、なくなっていた」
佐倉さんは、首を傾げた。
「それを、私がやったと思ってるんですか」
「思っているわ」
言葉にすると、思っていたよりも簡単だった。簡単なことが、かえって怖かった。
佐倉さんは、少しのあいだ、川の方を見ていた。夕方の光が、水面で揺れていた。
「それは、私じゃないです」
静かな声だった。
「撮ってないので」
短い答えだった。それが理由になると、佐倉さんは本気で思っている顔をしていた。
撮っていない、が、殺していない、の証明になる。そういう理屈が通じる相手と、私は、川べりで話をしている。
「あの夜、私に見られたことは、怖くなかったの」
「怖くなかったです。今も」
佐倉さんは、膝の上のカメラを持ち上げた。電源を入れて、背面の画面をこちらに向けた。
「あ、見ますか」
古いカメラだった。高校の頃に佐倉さんが持っていたのと、同じ型に見えた。角の塗装が剥げて、下の金属が覗いていた。ストラップは、首に当たる部分だけが、擦れて色が薄くなっていた。何年も、同じところに掛け続けてきた跡だった。
画面に、写真が一枚だけ表示されていた。
暗い路地。倒れた男。白い光。
郵便受けに入っていたのと、同じ写真だった。
佐倉さんが、ボタンを押した。次の写真は、出てこなかった。前の写真も、出てこなかった。
「一枚だけです」
「……どういう意味」
「撮ったのは、まだ一枚だけです。私、ころした人は、必ず撮るので」
その言葉の意味を、私はすぐには受け取れなかった。
受け取れない、のではない。受け取らない、のだ。受け取ったら、私の確信が崩れる気がした。
「消したのかもしれない」
「消しません。撮ったものは、消さないです。絶対に」
佐倉さんは、カメラの電源を切った。
「赤木くんに渡した写真も、一枚も消してないです。元のデータは、全部持ってます」
赤木くんの名前が出て、私は息を止めた。
佐倉さんは、川を見たまま話した。
「一年生の秋に、夏の写真を渡したんです。封筒に入れて。私が写ってるのは、入れませんでした。撮ったのは私なので」
知っていた。
あの日、昇降口で、佐倉さんが赤木くんに封筒を差し出すのを、私は見ていた。
「赤木くん、中を見なかったんです」
佐倉さんの声は、平らだった。
「受け取って、鞄に入れて、それだけでした。そのあと、すぐ、いなくなっちゃいました」
いなくなった。
その朝のことを、私はよく覚えている。
あの日曜日の卓から、二週間も経っていなかった。朝のホームルームで、茶柱先生は出席簿から顔を上げずに言った。
《赤木しげるは、昨日付で退学した》
理由は、言わなかった。誰も訊かなかった。
隣の席は、もう空いていた。綾小路くんの席だ。その一週間前に、綾小路くんも辞めていた。教室の後ろの方が、急に広くなった。広くなった教室で、私は前を向いていた。前を向いて、後ろを見ないようにしていた。
赤木くんの机の中は、空だった。教科書も、ノートも、最初から無かったみたいに。
煙草の匂いも、しなかった。
前の週まで、あの人は確かにいた。いたはずの人が、いなかったことになっていく。机の中から、廊下から、購買の前から。一日ごとに、少しずつ。
佐倉さんは、あの朝、教室の後ろの方に座っていたはずだ。
私は、佐倉さんの顔を見なかった。誰の顔も、見なかった。
「見てもらえなかった写真って、撮らなかった写真と、何が違うんでしょうね」
撮らなかった写真は、どこにもない。見てもらえなかった写真は、どこかにある。どこかにあるのに、誰の目の中にもない。ない、と、ある、のどちらが寂しいのか、私には答えられなかった。
佐倉さんは、私の方を見なかった。
「私、ずっとそれを考えてました。考えてるうちに、学校にいる理由が、分からなくなって。二年生の時に、辞めました。どうして辞めたのかは、自分でもよく分からないです。分からないまま、外に出て、カメラだけ持って、いろんなところを撮って歩きました」
「外で、何を撮っていたの」
訊いてから、訊くべきことではなかったと思った。佐倉さんは、少しだけ嬉しそうな顔をした。高校の頃、誰かに写真のことを訊かれた時にだけ見せた顔だった。
「いろいろです。朝の港とか。誰もいない廃校の体育館とか。夜の高速道路の下とか。人がいなくなったあとの場所が、好きなんです。人がいたことだけが、残ってるところ」
人のいない路地の写真集を、私は図書館で開いた。あの写真集と、佐倉さんの言う写真は、たぶん同じ種類のものだった。
「人は、撮らなかったの」
「撮らなかったです。撮っても、みんな、カメラを向けると顔を作るので。作った顔は、要らないです」
佐倉さんは、膝の上のカメラを撫でた。
「本当の顔は、誰も見てない時にしか、出てこないんです」
「それで……人を」
「理由は、ないです」
佐倉さんは、あっさりと言った。
「あの夜の人にも、何の理由もないです。ただ、撮りたかったんです。最後の顔を。誰も見てない時の、本当の顔を」
私は、何も言えなかった。
佐倉さんは、少しだけ間を置いて、訊いた。
「赤木くん、どこに行ったんですか」
私は、答えられなかった。
知らない、というのが本当だった。けれど、知らない、とだけ答えるのは、本当のことの半分でしかない気がした。
あの人は、私に、そう言った。言って、一週間後に、いなくなった。来た時と同じように、行き先も告げずに。
その言葉を、佐倉さんに渡すべきなのか、私には分からなかった。渡せば、佐倉さんは、それを抱えて生きていくことになる。見てもらえなかった写真と一緒に。
「……知らないわ」
半分だけを、渡した。
知らない、は、半分の本当だった。半分の本当を渡すのは、嘘をつくのと、どれくらい違うのだろう。違わないのなら、私はまた一つ、嘘を増やしたことになる。
「そうですか」
佐倉さんは、それ以上は訊かなかった。訊かない代わりに、川の向こうの空を見た。
「どこかで、元気してるといいな」
小さな声だった。私に言ったのではなかった。
日が、少しずつ沈んでいった。
河川敷の恋人たちが、一組ずつ立ち上がっていった。等間隔が、少しずつ崩れていった。
佐倉さんが、ようやく私の方を見た。
「堀北さんは、おりたんですか」
私は、何も返せなかった。
おりる、には二つの字がある。下りる、なら、また上ればいい。降りる、の方は、雨や雪と同じ字だ。降ったものは、空へは戻らない。佐倉さんがどちらの字で言ったのかを、私は訊けなかった。
「一年生の秋の堀北さん、誰かの隣に座ってました。写真、何枚も撮ったので、知ってます。今は、誰の隣にも座ってないんですね。見れば、分かります。私、誰も見てない時の顔ばっかり探してきたので」
佐倉さんは、立ち上がった。カメラを首にかけた。ストラップが、首の後ろで一度、揺れた。
「江本さんのことは、私じゃないです。信じなくてもいいです」
「信じないわ」
「はい、そうですよね」
佐倉さんは、少しだけ頭を下げた。高校の昇降口で、封筒を渡したあとと同じように。
それから、橋の下の暗がりの方へ歩いていった。
走らなかった。急ぎもしなかった。
私は、河川敷に一人で残った。
信じない、と言った。
言ったことを、取り消すつもりはなかった。ストラップで首を絞める人間を、私は一人しか知らない。理由のない殺人をする人間も、一人しか知らない。
それなのに、佐倉さんの言葉が一つだけ、頭の中から出ていかなかった。
《撮ったのは、まだ一枚だけです》
《私、ころした人は、必ず撮るので》
日が沈みきった。河川敷は暗くなった。
暗くなった川の向こうで、誰かがフラッシュを焚いた気がした。振り向くと、何も光っていなかった。
月曜日、葵井さんが語学の授業に戻ってきた。教室の扉が開いた時、何人かが顔を上げて、すぐに下ろした。誰も、何も言わなかった。
痩せていた。痩せる、と、窶れる。どちらも肉が落ちることだが、窶れる方には、落ちた理由が書いてある。葵井さんは、窶れていた。一週間で、頬の線が変わっていた。目の下に、薄い影ができていた。朱の混じった髪が、少し伸びていた。
教室に入ってくると、葵井さんはまっすぐ私の隣に来た。来て、座った。何も言わなかった。いつもなら、座る前に三つは喋っている子だった。
貴宮さんと宇佐美くんは、来なかった。二人の席に、春の日差しだけが当たっていた。
授業のあいだ、葵井さんは一度も前を見なかった。机の上の、自分の手を見ていた。
指先に、細い赤い線が一本、走っていた。何かを強く握りしめた時にできる、紐の跡のような線だった。私はそれを見て、何も思わなかった。思わなかったのは、思うことを、まだ自分に許していなかったからだ。佐倉さんではないかもしれない、という考えは、河川敷から帰った夜からずっと、頭の隅で小さく鳴り続けていた。鳴り続けている音を、私は聞こえないふりをしていた。
授業が終わると、葵井さんは私の袖を掴んだ。
「ほりきたさん。明日の夜、うちに来てくれない?」
声が、かすれていた。
「一人で、いられないの。いっくんも、呼んだから」
葵井さんの手は、震えていた。
私は、その手を振り払えなかった。
払う。振り払う。追い払う。支払う。払う、という字は、いつも何かを手放す時に使う。私は、何も手放さなかった。払わずに、掴まれたままでいた。
十日ほど前の夜、部屋に一人でいられなくて、私は誕生会に行った。同じことを、葵井さんは今、私に頼んでいた。
火曜日の夕方、堀川通りを北へ歩いた。
行くと答えたわけではなかった。それでも、葵井さんの手を振り払わなかった時点で、私はもう行くことを選んでいた。
歩きながら、二日前の河川敷を思い出していた。
《堀北さんは、降りたんですか》
佐倉さんの声は、責めてもいなかった。哀れんでもいなかった。ただ、写真に写ったものを、写ったとおりに言っただけだった。誰も見ていない時の顔ばかり探してきたので、見れば分かる、と。
見れば分かるほど、私は降りていたのかもしれない。
葵井さんの部屋に行くのは、降りた人間のすることだろうか。座り直す人間のすることだろうか。
どちらでもない気がした。
一人でいられないと泣く人間の隣に、一人でいられなかった人間が行く。それは、卓に座ることとは違う。誰かの空いた席を、埋めに行くだけだ。
それでも、足は止まらなかった。
堀川通りの向こうに、葵井さんのマンションが見えた。窓に、明かりがついていた。一つだけ。
エントランスを抜けて、階段を上がった。
葵井さんの部屋は、江本さんの部屋より散らかっていた。カーテンが半分だけ閉まっていて、開いている半分から、堀川通りの車の光が、天井を順番に横切っていった。床に、服や本や、開けたままの菓子の袋が散らばっていた。片づける気力が、たぶんなかったのだろう。
彼は、先に来ていた。
部屋の隅で、膝を抱えて座っていた。誕生会の夜と、同じ座り方だった。
私は、彼の隣を一つ空けて座った。
葵井さんは、私たちの真ん中に座った。座って、お茶を出そうとして、湯呑みを一つ落とした。割れなかった。割れなかった湯呑みを、葵井さんは拾わずに、しばらく見ていた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
最初に口を開いたのは、彼だった。
「葵井さん」
彼が葵井さんを苗字で呼ぶのを、私は初めて聞いた。いっくん、と呼ばれ続けてきた相手を。
葵井さんの肩が、小さく跳ねた。
「ストラップは、どこにある」
部屋の空気が、止まった。
葵井さんは、彼を見た。見て、笑おうとした。笑えなかった。笑えない顔のまま、口を開いた。
「……何、言ってるの、いっくん」
「智恵ちゃんの首にかかっていたやつだ。細い革の。光る飾りが一つ付いた」
彼の声は、平らだった。責めてもいなかった。ただ、事実を並べているだけだった。
「犯人は、あれを持っていった。持っていく理由があるのは、あのストラップに意味がある人間だけだ。あれに意味をつけたのは、ぼくだ。似合うね、と言った」
葵井さんの顔から、色が抜けていった。
「ぼくがあの夜、最初に自分から口にしたのは、あの一言だった。あの一言を、いちばんよく覚えている人間は誰か。ぼくはずっと、考えないようにしていた」
「零時二分に、葵井さんは、智恵ちゃんから電話をもらった。今日はありがとう、と言われた。そう刑事に話したね」
葵井さんの指が、膝の上で一度だけ跳ねた。
「智恵ちゃんのスマホには、葵井さんへの発信が、三十秒。アプリの通話だから、電話会社の記録には残らない。アプリの会社の記録は、警察が頼んでも、すぐには出てこない。今あるのは、二台の画面の履歴だけだ。履歴は、どの電話機からかけたかしか覚えていない。誰が智恵ちゃんのスマホを握っていて、どこからかけたのかは、画面のどこにも出てこない」
彼は、淡々と続けた。
「智恵ちゃんの部屋の座布団は、六枚あった。あの夜、ぼくは使わなかったから、一枚余っていた。その一枚が、窓辺に寄せてあった。智恵ちゃんが倒れていた、すぐそばに。誰かが、智恵ちゃんの隣に座ったんだ。みんなが帰ったあとで。智恵ちゃんが、隣に座らせてもいいと思える誰かが」
葵井さんは、何も言わなかった。
どうして彼が、倒れていた場所のことまで知っているのか。私は訊かなかった。訊けば、答えが返ってくる気がした。
葵井さんは、言わないまま、彼を見ていた。見ていた目から、少しずつ、何かが抜けていった。
私は、息を止めていた。
止めたまま、葵井さんを見た。
違う、と思った。葵井さんではない。首を絞めるのは、佐倉さんだ。ストラップで、理由もなく。私は見た。この目で。
見たのは、路地の男だった。
江本さんではなかった。
葵井さんは、長いあいだ黙っていた。
それから、ゆっくりと立ち上がって、本棚の奥に手を入れた。
取り出したのは、細い革の紐だった。小さな光る飾りが、一つ付いていた。
部屋の明かりを受けて、飾りが一度だけ光った。
エントランスの明かりの下で、一度だけ光ったのと、同じ光り方だった。
「……ずるかったの」
葵井さんの声は、もう、跳ねていなかった。
「智恵ちゃん、いっくんとすぐ仲良くなった。あたしが一か月かけても、いっくん、あたしのこと、ちゃんと見てくれなかったのに。智恵ちゃんは、一晩で。いっくんが、自分から、似合うねって」
葵井さんは、ストラップを両手で握った。
「それに、ほりきたさんも」
私の名前が出て、私は動けなくなった。
「ほりきたさんは、いっくんの隣の隣に座れるの。何も言わなくても、何もしなくても。一つ空けて、そこにいられるの。あたしは、隣に座っても、いっくんの中に入れないのに」
葵井さんは、私を見た。
泣いてはいなかった。
「あたしが欲しかったのは、隣の席じゃなかったの。ほりきたさんの、一つ空けた、あそこだったの」
葵井さんは、ストラップを見下ろした。
「みんなと別れて、むいみちゃんたちと途中まで一緒に帰って、それから、忘れ物したって言って、一人で戻ったの。智恵ちゃん、すぐ開けてくれた。巫女子ちゃん、どうしたのって。窓のとこで、また光るの並べてて。あたし、隣に座ったの。座布団、一個余ってたから」
葵井さんの声は、平らだった。平らなまま、言葉だけが続いた。
「智恵ちゃん、今日楽しかったねって。いっくん、似合うって言ってくれたって。嬉しそうに、これ、触ってて」
ストラップの飾りが、葵井さんの指の間で、小さく揺れた。
「そのあとのことは、あんまり、覚えてない」
葵井さんは、少しのあいだ黙った。
「電話は、智恵ちゃんのスマホから、あたしのにかけた。いつものアプリで。暗証番号、智恵ちゃんの誕生日なの。みんな知ってた。三十秒。今日はありがとうって、自分で言って、自分で聞いた」
葵井さんは、小さく笑った。
「《誕生日プレゼント、ただし差出人は自分》みたいな、感じ」
誰も、笑わなかった。
葵井さんは、私の方を向いた。
「ほりきたさん。あたしのこと、警察に言う?」
私は、答えられなかった。
言うべきだった。正しいことは、それだった。綾小路くんなら、迷わずそう言う。
けれど、私は、佐倉さんのことも、まだ誰にも言っていない。人を殺した人間を一人、黙って見逃している私が、もう一人を突き出す。その順番が、正しいのかどうか、私には分からなかった。
「……分からないわ」
それが、私に言える、いちばん本当のことだった。
分からない、は、答えではない。答えではないものを、答えの代わりに渡した。
葵井さんは、少しだけ目を見開いて、それから、泣きそうな顔で笑った。
「ほりきたさんって、やっぱり、正直だね」
私は、何も言えなかった。
橋は架かっていない、と葵井さんは言った。ひと月あまり前の廊下で。《無人島が二つ、ただし橋は架かってない》みたいだった、と。
彼が、立ち上がった。
葵井さんの前に立った。立って、葵井さんを見下ろした。
「葵井さん」
もう一度、苗字で呼んだ。
「君は、自分がここにいることを、これからも許していけるのか」
葵井さんは、彼を見上げた。
見上げて、それから、少しだけ笑った。
いつもの笑い方だった。廊下で私を呼び止めて、意味の分からない比喩を投げてきた時と、同じ笑い方だった。
「《告白、ただし相手は刑事さん》みたいな、感じかな」
彼と二人で、マンションを出た。
堀川通りを、一人分空けて、並んで歩いた。
「警察に、言うの」
私は訊いた。
「ぼくは、何も言わない」
「どうして」
「言っても言わなくても、たぶん、同じだから」
意味が分からなかった。分からないまま、私は何も言い返さなかった。
歩き出してすぐ、背の高い人影とすれ違った。
貴宮さんだった。
コンビニの袋を提げていた。葵井さんの部屋へ戻るところなのだろう。私たちを見て、足を止めた。
貴宮さんの目が、彼を見た。それから、私を見た。それから、マンションの上の方を見た。葵井さんの部屋の窓の方を。
何も言わなかった。
言わずに、私たちの横を通り過ぎて、エントランスに入っていった。通り過ぎる時、コンビニの袋が、私の腕に少しだけ当たった。
袋の中で、缶が二つ、ぶつかる音がした。たぶん、葵井さんと自分の分。
貴宮さんは、何かを知っていたのだろうか。知っていて、毎晩、二人分の缶を提げて、この階段を上っていたのだろうか。
私には、分からなかった。
交差点で、彼は反対の方向へ曲がった。何も言わずに。一つ空けた距離が、そのまま広がっていった。
翌朝、刑事から電話があった。
『
それ以上の言葉は、耳に入らなかった。
電話を切って、机の前に座った。
伏せた写真が一枚。名刺が三枚。ノート。
ノートのいちばん後ろを開いた。番号は、もう指が覚えていた。
三回目の呼び出し音で、つながった。
『堀北か』
『葵井巫女子さんが、亡くなったわ』
私は、話した。昨夜の葵井さんの部屋のこと。ストラップのこと。葵井さんが、ずるかった、と言ったこと。今朝の電話のこと。
綾小路くんは、黙って聞いた。
『江本さんを殺したのは、佐倉さんじゃなかった』
『そうか』
『あなたの答えは、間違った相手に向いていたわ』
少しだけ、間があった。
『お前の話は、佐倉が殺したという前提だった。前提が違えば、答えも変わる。それだけだ』
前提。前に提げる、と書く。私は、佐倉さんという名札を、事件の前に提げて歩いていた。提げているものの重さで、前が見えなくなっていた。
それだけ。
綾小路くんは、何も間違っていなかった。間違えたのは、前提を差し出した私の方だった。疑うのをやめて、佐倉さんだと決めつけて、決めつけた前提を、正しい答えに作り変えてもらった。
『……私が、間違えたのね』
『お前が見たものは、間違っていない。佐倉は人を殺した。それは変わらない』
『それでも』
それでも、の先が出てこなかった。
綾小路くんは、待たなかった。
『佐倉の件は、まだ終わっていない。気をつけろ』
正しかった。
私は、何も言わずに電話を切った。今度は、分かったわ、とも言わなかった。
写真を表に返した。暗い路地。倒れた男。白い光。
《撮ったのは、まだ一枚だけです》
佐倉さんは、嘘をついていなかった。
綾小路くんの答えは、正しかった。一つ残らず、正しかった。正しいまま、間違った相手に向いていた。
私は、正しい答えを手に入れたと思っていた。
疑う理由を探すのを、やめていただけだった。