ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

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第6話 告白(酷薄)

写真というのは、見られるために撮るものだと思われている。

 

違う。写真の大半は、誰にも見られないまま、どこかにしまわれる。見られなかった写真は、撮られなかった写真と、何も違わないのかもしれない。

 

それでも撮る人間がいる。

 

見られないと知っていて、それでも撮る人間が。

 

 

 

 

 

一週間が経った。

 

葵井(あおいい)さんは、語学の授業に来なかった。貴宮(あてみや)さんも、宇佐美くんも来なかった。二十人の教室で、四つの席が空いていた。三つは、来なくなった三人の席だった。もう一つは、もう誰も座らない席だった。

 

語学の教室では、教師が出席を取るたびに、四つの名前のところで声が少しだけ止まった。

 

葵井さんが隣の席を取っておいてくれたのは、ほんのひと月前のことだった。頼まれていないのに取っておくのが友達の始まりだ、と言って。私はその席に、今日も一人で座っている。取っておいてくれる人がいないのに、同じ席に座っている。

 

大教室の窓際のいちばん後ろでは、あの男が、私の隣を一つ空けて座っていた。

 

彼は、変わらなかった。何もせず、何も持たず、前を向いていた。江本さんが死んだことを、彼は知っているはずだった。誕生会にいた六人の一人として、刑事に話を聞かれたはずだった。それでも、変わらなかった。

 

変わらないことが、私には、少しだけ許せなかった。

 

許せない、と思った。羨ましいのかもしれない、とは思わないことにした。

 

その週、佐々(ささ)さんがもう一度、私の部屋に来た。三度目だった。同じ質問をされて、私は同じ答えを返した。

 

答えを聞いたあとで、佐々さんは少しだけ黙った。

 

「堀北さん。あなたは、何かを見ていますね」

 

断定だった。質問の形をしていなかった。

 

「見ていません」

 

「そうですか」

 

佐々さんは、責めるような顔をしなかった。ただ、分かっている、という顔をした。分かっていて、私が自分から言うのを待っているように見えた。

 

「見たことを言わないでいるのは、思っているより、ずっと疲れることですよ」

 

それだけ言って、佐々さんは帰っていった。

 

名刺は、三枚になっていた。

 

 

 

 

 

日曜日の昼、出かける前に、ノートを開いた。

 

いちばん後ろのページ。十一桁。もう、紙を見なくても、指が覚えていた。

 

かければ、綾小路くんはまた、行くなと言う。同じ答えを、同じ平らな声で。正しい答えを三度もらっても、正しさは増えない。増えないのに、三度目の方が重い。一度目は助言で、三度目は命令になる。

 

命令を受け取ったら、私はたぶん、行けなくなる。

 

行けなくなりたくなかった。

 

画面に表示した番号の上で、指が止まっていた。止まったまま、時計の針だけが進んだ。午後一時。二時。三時。

 

三時を過ぎて、私は画面を消した。

 

かけなかった。

 

かけなかったことを、綾小路くんは知らない。知らないまま、綾小路くんは正しいままでいる。私だけが、正しくない方へ歩いていく。

 

鞄に、写真と名刺を入れた。名刺は三枚とも入れた。何かあった時に、どれか一枚でも手に取れるように。

 

それが、私に用意できた、唯一の正しさだった。

 

部屋を出る時、鍵を二度確かめた。

 

一度目は、閉まっているかを。二度目は、自分がまだ引き返せるかを。

 

引き返さなかった。

 

 

 

 

 

日曜日の夕方、私は鴨川の河川敷に立っていた。

 

行くな、と綾小路くんは言った。会えば、お前が三人目になる、と。

 

正しかった。

 

正しい答えを手に持ったまま、私は三条の橋の方へ歩いた。

 

なぜ来たのか、自分でもうまく説明できなかった。通報する前に、確かめたかった。そう言えば、筋は通る。筋が通りすぎている理由は、たいてい本当の理由ではない。それは、もう知っていた。

 

河川敷には、等間隔に恋人たちが座っていた。三メートルおきに、二人ずつ。その間隔の中に、一人だけ、間隔を外れて座っている人影があった。

 

橋の下の、少し暗くなったところ。

 

膝の上に、カメラを載せていた。

 

恋人たちの等間隔の中に、一人だけ、どの間隔にも属さない場所。そこを選んで座るのは、私も同じだった。大教室の窓際で、一つ空けて座る人間の隣の隣で。人の作った距離の外側に座る人間は、遠くからでも、すぐに見分けがつく。

 

 

 

 

 

「来てくれたんですね。来ないかと思ってました」

 

佐倉さんは、立ち上がらなかった。座ったまま、私を見上げた。

 

眼鏡の奥の目が、高校の頃より少しだけ落ち着いていた。あ、あの、と言いかけて飲み込む癖が、消えていた。消えたのか、どこかにしまったのか、私には分からなかった。

 

「通報しなかったんですね」

 

「……まだ、していないだけよ」

 

まだ、と、もう。どちらも、時間の途中に立っている言葉だ。まだ、と言った人間は、もう、の手前で足を止めている。止めている理由を、言葉は教えてくれない。

 

「そうですか」

 

佐倉さんは、少しだけ笑った。笑い方は、高校の頃と同じだった。同じなのに、どこか違った。笑っている自分を、少し後ろから見ているような笑い方だった。

 

江本さんの言葉を、思い出した。もう一人の自分が、後ろから見ている。

 

私は、佐倉さんの隣には座らなかった。一人分空けて、立っていた。座ってしまえば、話を聞く側になる。立っていれば、まだ問い詰める側でいられる。そう考えて立っていることが、自分でも少しだけ卑怯に思えた。

 

「江本智恵(えもとともえ)を、知っている?」

 

「……いいえ」

 

「首を絞められて死んだわ。一週間前。誕生日の夜に。首にかけていたストラップが、なくなっていた」

 

佐倉さんは、首を傾げた。

 

「それを、私がやったと思ってるんですか」

 

「思っているわ」

 

言葉にすると、思っていたよりも簡単だった。簡単なことが、かえって怖かった。

 

佐倉さんは、少しのあいだ、川の方を見ていた。夕方の光が、水面で揺れていた。

 

 

 

「それは、私じゃないです」

 

 

 

静かな声だった。

 

「撮ってないので」

 

短い答えだった。それが理由になると、佐倉さんは本気で思っている顔をしていた。

 

撮っていない、が、殺していない、の証明になる。そういう理屈が通じる相手と、私は、川べりで話をしている。

 

「あの夜、私に見られたことは、怖くなかったの」

 

「怖くなかったです。今も」

 

佐倉さんは、膝の上のカメラを持ち上げた。電源を入れて、背面の画面をこちらに向けた。

 

「あ、見ますか」

 

古いカメラだった。高校の頃に佐倉さんが持っていたのと、同じ型に見えた。角の塗装が剥げて、下の金属が覗いていた。ストラップは、首に当たる部分だけが、擦れて色が薄くなっていた。何年も、同じところに掛け続けてきた跡だった。

 

画面に、写真が一枚だけ表示されていた。

 

暗い路地。倒れた男。白い光。

 

郵便受けに入っていたのと、同じ写真だった。

 

佐倉さんが、ボタンを押した。次の写真は、出てこなかった。前の写真も、出てこなかった。

 

「一枚だけです」

 

「……どういう意味」

 

「撮ったのは、まだ一枚だけです。私、ころした人は、必ず撮るので」

 

その言葉の意味を、私はすぐには受け取れなかった。

 

受け取れない、のではない。受け取らない、のだ。受け取ったら、私の確信が崩れる気がした。

 

「消したのかもしれない」

 

「消しません。撮ったものは、消さないです。絶対に」

 

佐倉さんは、カメラの電源を切った。

 

「赤木くんに渡した写真も、一枚も消してないです。元のデータは、全部持ってます」

 

 

 

 

 

赤木くんの名前が出て、私は息を止めた。

 

佐倉さんは、川を見たまま話した。

 

「一年生の秋に、夏の写真を渡したんです。封筒に入れて。私が写ってるのは、入れませんでした。撮ったのは私なので」

 

知っていた。

 

あの日、昇降口で、佐倉さんが赤木くんに封筒を差し出すのを、私は見ていた。

 

「赤木くん、中を見なかったんです」

 

佐倉さんの声は、平らだった。

 

「受け取って、鞄に入れて、それだけでした。そのあと、すぐ、いなくなっちゃいました」

 

いなくなった。

 

その朝のことを、私はよく覚えている。

 

あの日曜日の卓から、二週間も経っていなかった。朝のホームルームで、茶柱先生は出席簿から顔を上げずに言った。

 

《赤木しげるは、昨日付で退学した》

 

理由は、言わなかった。誰も訊かなかった。

 

隣の席は、もう空いていた。綾小路くんの席だ。その一週間前に、綾小路くんも辞めていた。教室の後ろの方が、急に広くなった。広くなった教室で、私は前を向いていた。前を向いて、後ろを見ないようにしていた。

 

赤木くんの机の中は、空だった。教科書も、ノートも、最初から無かったみたいに。

 

煙草の匂いも、しなかった。

 

前の週まで、あの人は確かにいた。いたはずの人が、いなかったことになっていく。机の中から、廊下から、購買の前から。一日ごとに、少しずつ。

 

佐倉さんは、あの朝、教室の後ろの方に座っていたはずだ。

 

私は、佐倉さんの顔を見なかった。誰の顔も、見なかった。

 

「見てもらえなかった写真って、撮らなかった写真と、何が違うんでしょうね」

 

撮らなかった写真は、どこにもない。見てもらえなかった写真は、どこかにある。どこかにあるのに、誰の目の中にもない。ない、と、ある、のどちらが寂しいのか、私には答えられなかった。

 

佐倉さんは、私の方を見なかった。

 

「私、ずっとそれを考えてました。考えてるうちに、学校にいる理由が、分からなくなって。二年生の時に、辞めました。どうして辞めたのかは、自分でもよく分からないです。分からないまま、外に出て、カメラだけ持って、いろんなところを撮って歩きました」

 

「外で、何を撮っていたの」

 

訊いてから、訊くべきことではなかったと思った。佐倉さんは、少しだけ嬉しそうな顔をした。高校の頃、誰かに写真のことを訊かれた時にだけ見せた顔だった。

 

「いろいろです。朝の港とか。誰もいない廃校の体育館とか。夜の高速道路の下とか。人がいなくなったあとの場所が、好きなんです。人がいたことだけが、残ってるところ」

 

人のいない路地の写真集を、私は図書館で開いた。あの写真集と、佐倉さんの言う写真は、たぶん同じ種類のものだった。

 

「人は、撮らなかったの」

 

「撮らなかったです。撮っても、みんな、カメラを向けると顔を作るので。作った顔は、要らないです」

 

佐倉さんは、膝の上のカメラを撫でた。

 

「本当の顔は、誰も見てない時にしか、出てこないんです」

 

「それで……人を」

 

「理由は、ないです」

 

佐倉さんは、あっさりと言った。

 

「あの夜の人にも、何の理由もないです。ただ、撮りたかったんです。最後の顔を。誰も見てない時の、本当の顔を」

 

私は、何も言えなかった。

 

 

 

 

 

佐倉さんは、少しだけ間を置いて、訊いた。

 

「赤木くん、どこに行ったんですか」

 

私は、答えられなかった。

 

知らない、というのが本当だった。けれど、知らない、とだけ答えるのは、本当のことの半分でしかない気がした。

 

《(・)前(・)の(・)晩(・)ま(・)で(・)、(・)卓(・)に(・)座(・)っ(・)て(・)た(・)。(・)目(・)が(・)覚(・)め(・)た(・)ら(・)、(・)こ(・)こ(・)に(・)い(・)た(・)》

 

あの人は、私に、そう言った。言って、一週間後に、いなくなった。来た時と同じように、行き先も告げずに。

 

その言葉を、佐倉さんに渡すべきなのか、私には分からなかった。渡せば、佐倉さんは、それを抱えて生きていくことになる。見てもらえなかった写真と一緒に。

 

「……知らないわ」

 

半分だけを、渡した。

 

知らない、は、半分の本当だった。半分の本当を渡すのは、嘘をつくのと、どれくらい違うのだろう。違わないのなら、私はまた一つ、嘘を増やしたことになる。

 

「そうですか」

 

佐倉さんは、それ以上は訊かなかった。訊かない代わりに、川の向こうの空を見た。

 

「どこかで、元気してるといいな」

 

小さな声だった。私に言ったのではなかった。

 

日が、少しずつ沈んでいった。

 

河川敷の恋人たちが、一組ずつ立ち上がっていった。等間隔が、少しずつ崩れていった。

 

佐倉さんが、ようやく私の方を見た。

 

 

 

「堀北さんは、おりたんですか」

 

 

 

私は、何も返せなかった。

 

おりる、には二つの字がある。下りる、なら、また上ればいい。降りる、の方は、雨や雪と同じ字だ。降ったものは、空へは戻らない。佐倉さんがどちらの字で言ったのかを、私は訊けなかった。

 

「一年生の秋の堀北さん、誰かの隣に座ってました。写真、何枚も撮ったので、知ってます。今は、誰の隣にも座ってないんですね。見れば、分かります。私、誰も見てない時の顔ばっかり探してきたので」

 

佐倉さんは、立ち上がった。カメラを首にかけた。ストラップが、首の後ろで一度、揺れた。

 

「江本さんのことは、私じゃないです。信じなくてもいいです」

 

「信じないわ」

 

「はい、そうですよね」

 

佐倉さんは、少しだけ頭を下げた。高校の昇降口で、封筒を渡したあとと同じように。

 

それから、橋の下の暗がりの方へ歩いていった。

 

走らなかった。急ぎもしなかった。

 

 

 

 

 

私は、河川敷に一人で残った。

 

信じない、と言った。

 

言ったことを、取り消すつもりはなかった。ストラップで首を絞める人間を、私は一人しか知らない。理由のない殺人をする人間も、一人しか知らない。

 

それなのに、佐倉さんの言葉が一つだけ、頭の中から出ていかなかった。

 

《撮ったのは、まだ一枚だけです》

 

《私、ころした人は、必ず撮るので》

 

日が沈みきった。河川敷は暗くなった。

 

暗くなった川の向こうで、誰かがフラッシュを焚いた気がした。振り向くと、何も光っていなかった。

 

 

 

 

 

月曜日、葵井さんが語学の授業に戻ってきた。教室の扉が開いた時、何人かが顔を上げて、すぐに下ろした。誰も、何も言わなかった。

 

痩せていた。痩せる、と、窶れる。どちらも肉が落ちることだが、窶れる方には、落ちた理由が書いてある。葵井さんは、窶れていた。一週間で、頬の線が変わっていた。目の下に、薄い影ができていた。朱の混じった髪が、少し伸びていた。

 

教室に入ってくると、葵井さんはまっすぐ私の隣に来た。来て、座った。何も言わなかった。いつもなら、座る前に三つは喋っている子だった。

 

貴宮さんと宇佐美くんは、来なかった。二人の席に、春の日差しだけが当たっていた。

 

授業のあいだ、葵井さんは一度も前を見なかった。机の上の、自分の手を見ていた。

 

指先に、細い赤い線が一本、走っていた。何かを強く握りしめた時にできる、紐の跡のような線だった。私はそれを見て、何も思わなかった。思わなかったのは、思うことを、まだ自分に許していなかったからだ。佐倉さんではないかもしれない、という考えは、河川敷から帰った夜からずっと、頭の隅で小さく鳴り続けていた。鳴り続けている音を、私は聞こえないふりをしていた。

 

授業が終わると、葵井さんは私の袖を掴んだ。

 

「ほりきたさん。明日の夜、うちに来てくれない?」

 

声が、かすれていた。

 

「一人で、いられないの。いっくんも、呼んだから」

 

葵井さんの手は、震えていた。

 

私は、その手を振り払えなかった。

 

払う。振り払う。追い払う。支払う。払う、という字は、いつも何かを手放す時に使う。私は、何も手放さなかった。払わずに、掴まれたままでいた。

 

十日ほど前の夜、部屋に一人でいられなくて、私は誕生会に行った。同じことを、葵井さんは今、私に頼んでいた。

 

 

 

 

 

火曜日の夕方、堀川通りを北へ歩いた。

 

行くと答えたわけではなかった。それでも、葵井さんの手を振り払わなかった時点で、私はもう行くことを選んでいた。

 

歩きながら、二日前の河川敷を思い出していた。

 

《堀北さんは、降りたんですか》

 

佐倉さんの声は、責めてもいなかった。哀れんでもいなかった。ただ、写真に写ったものを、写ったとおりに言っただけだった。誰も見ていない時の顔ばかり探してきたので、見れば分かる、と。

 

見れば分かるほど、私は降りていたのかもしれない。

 

葵井さんの部屋に行くのは、降りた人間のすることだろうか。座り直す人間のすることだろうか。

 

どちらでもない気がした。

 

一人でいられないと泣く人間の隣に、一人でいられなかった人間が行く。それは、卓に座ることとは違う。誰かの空いた席を、埋めに行くだけだ。

 

それでも、足は止まらなかった。

 

堀川通りの向こうに、葵井さんのマンションが見えた。窓に、明かりがついていた。一つだけ。

 

エントランスを抜けて、階段を上がった。

 

葵井さんの部屋は、江本さんの部屋より散らかっていた。カーテンが半分だけ閉まっていて、開いている半分から、堀川通りの車の光が、天井を順番に横切っていった。床に、服や本や、開けたままの菓子の袋が散らばっていた。片づける気力が、たぶんなかったのだろう。

 

彼は、先に来ていた。

 

部屋の隅で、膝を抱えて座っていた。誕生会の夜と、同じ座り方だった。

 

私は、彼の隣を一つ空けて座った。

 

葵井さんは、私たちの真ん中に座った。座って、お茶を出そうとして、湯呑みを一つ落とした。割れなかった。割れなかった湯呑みを、葵井さんは拾わずに、しばらく見ていた。

 

しばらく、誰も何も言わなかった。

 

最初に口を開いたのは、彼だった。

 

「葵井さん」

 

彼が葵井さんを苗字で呼ぶのを、私は初めて聞いた。いっくん、と呼ばれ続けてきた相手を。

 

葵井さんの肩が、小さく跳ねた。

 

 

 

「ストラップは、どこにある」

 

 

 

部屋の空気が、止まった。

 

葵井さんは、彼を見た。見て、笑おうとした。笑えなかった。笑えない顔のまま、口を開いた。

 

「……何、言ってるの、いっくん」

 

「智恵ちゃんの首にかかっていたやつだ。細い革の。光る飾りが一つ付いた」

 

彼の声は、平らだった。責めてもいなかった。ただ、事実を並べているだけだった。

 

「犯人は、あれを持っていった。持っていく理由があるのは、あのストラップに意味がある人間だけだ。あれに意味をつけたのは、ぼくだ。似合うね、と言った」

 

葵井さんの顔から、色が抜けていった。

 

「ぼくがあの夜、最初に自分から口にしたのは、あの一言だった。あの一言を、いちばんよく覚えている人間は誰か。ぼくはずっと、考えないようにしていた」

 

「零時二分に、葵井さんは、智恵ちゃんから電話をもらった。今日はありがとう、と言われた。そう刑事に話したね」

 

葵井さんの指が、膝の上で一度だけ跳ねた。

 

「智恵ちゃんのスマホには、葵井さんへの発信が、三十秒。アプリの通話だから、電話会社の記録には残らない。アプリの会社の記録は、警察が頼んでも、すぐには出てこない。今あるのは、二台の画面の履歴だけだ。履歴は、どの電話機からかけたかしか覚えていない。誰が智恵ちゃんのスマホを握っていて、どこからかけたのかは、画面のどこにも出てこない」

 

彼は、淡々と続けた。

 

「智恵ちゃんの部屋の座布団は、六枚あった。あの夜、ぼくは使わなかったから、一枚余っていた。その一枚が、窓辺に寄せてあった。智恵ちゃんが倒れていた、すぐそばに。誰かが、智恵ちゃんの隣に座ったんだ。みんなが帰ったあとで。智恵ちゃんが、隣に座らせてもいいと思える誰かが」

 

葵井さんは、何も言わなかった。

 

どうして彼が、倒れていた場所のことまで知っているのか。私は訊かなかった。訊けば、答えが返ってくる気がした。

 

葵井さんは、言わないまま、彼を見ていた。見ていた目から、少しずつ、何かが抜けていった。

 

私は、息を止めていた。

 

止めたまま、葵井さんを見た。

 

違う、と思った。葵井さんではない。首を絞めるのは、佐倉さんだ。ストラップで、理由もなく。私は見た。この目で。

 

見たのは、路地の男だった。

 

江本さんではなかった。

 

 

 

 

 

葵井さんは、長いあいだ黙っていた。

 

それから、ゆっくりと立ち上がって、本棚の奥に手を入れた。

 

取り出したのは、細い革の紐だった。小さな光る飾りが、一つ付いていた。

 

部屋の明かりを受けて、飾りが一度だけ光った。

 

エントランスの明かりの下で、一度だけ光ったのと、同じ光り方だった。

 

 

 

「……ずるかったの」

 

 

 

葵井さんの声は、もう、跳ねていなかった。

 

「智恵ちゃん、いっくんとすぐ仲良くなった。あたしが一か月かけても、いっくん、あたしのこと、ちゃんと見てくれなかったのに。智恵ちゃんは、一晩で。いっくんが、自分から、似合うねって」

 

葵井さんは、ストラップを両手で握った。

 

「それに、ほりきたさんも」

 

私の名前が出て、私は動けなくなった。

 

「ほりきたさんは、いっくんの隣の隣に座れるの。何も言わなくても、何もしなくても。一つ空けて、そこにいられるの。あたしは、隣に座っても、いっくんの中に入れないのに」

 

葵井さんは、私を見た。

 

泣いてはいなかった。

 

「あたしが欲しかったのは、隣の席じゃなかったの。ほりきたさんの、一つ空けた、あそこだったの」

 

葵井さんは、ストラップを見下ろした。

 

「みんなと別れて、むいみちゃんたちと途中まで一緒に帰って、それから、忘れ物したって言って、一人で戻ったの。智恵ちゃん、すぐ開けてくれた。巫女子ちゃん、どうしたのって。窓のとこで、また光るの並べてて。あたし、隣に座ったの。座布団、一個余ってたから」

 

葵井さんの声は、平らだった。平らなまま、言葉だけが続いた。

 

「智恵ちゃん、今日楽しかったねって。いっくん、似合うって言ってくれたって。嬉しそうに、これ、触ってて」

 

ストラップの飾りが、葵井さんの指の間で、小さく揺れた。

 

「そのあとのことは、あんまり、覚えてない」

 

葵井さんは、少しのあいだ黙った。

 

「電話は、智恵ちゃんのスマホから、あたしのにかけた。いつものアプリで。暗証番号、智恵ちゃんの誕生日なの。みんな知ってた。三十秒。今日はありがとうって、自分で言って、自分で聞いた」

 

葵井さんは、小さく笑った。

 

「《誕生日プレゼント、ただし差出人は自分》みたいな、感じ」

 

誰も、笑わなかった。

 

葵井さんは、私の方を向いた。

 

「ほりきたさん。あたしのこと、警察に言う?」

 

私は、答えられなかった。

 

言うべきだった。正しいことは、それだった。綾小路くんなら、迷わずそう言う。

 

けれど、私は、佐倉さんのことも、まだ誰にも言っていない。人を殺した人間を一人、黙って見逃している私が、もう一人を突き出す。その順番が、正しいのかどうか、私には分からなかった。

 

「……分からないわ」

 

それが、私に言える、いちばん本当のことだった。

 

分からない、は、答えではない。答えではないものを、答えの代わりに渡した。

 

葵井さんは、少しだけ目を見開いて、それから、泣きそうな顔で笑った。

 

「ほりきたさんって、やっぱり、正直だね」

 

私は、何も言えなかった。

 

橋は架かっていない、と葵井さんは言った。ひと月あまり前の廊下で。《無人島が二つ、ただし橋は架かってない》みたいだった、と。

 

 

 

 

 

彼が、立ち上がった。

 

葵井さんの前に立った。立って、葵井さんを見下ろした。

 

「葵井さん」

 

もう一度、苗字で呼んだ。

 

「君は、自分がここにいることを、これからも許していけるのか」

 

葵井さんは、彼を見上げた。

 

見上げて、それから、少しだけ笑った。

 

いつもの笑い方だった。廊下で私を呼び止めて、意味の分からない比喩を投げてきた時と、同じ笑い方だった。

 

「《告白、ただし相手は刑事さん》みたいな、感じかな」

 

 

 

 

 

彼と二人で、マンションを出た。

 

堀川通りを、一人分空けて、並んで歩いた。

 

「警察に、言うの」

 

私は訊いた。

 

「ぼくは、何も言わない」

 

「どうして」

 

「言っても言わなくても、たぶん、同じだから」

 

意味が分からなかった。分からないまま、私は何も言い返さなかった。

 

歩き出してすぐ、背の高い人影とすれ違った。

 

貴宮さんだった。

 

コンビニの袋を提げていた。葵井さんの部屋へ戻るところなのだろう。私たちを見て、足を止めた。

 

貴宮さんの目が、彼を見た。それから、私を見た。それから、マンションの上の方を見た。葵井さんの部屋の窓の方を。

 

何も言わなかった。

 

言わずに、私たちの横を通り過ぎて、エントランスに入っていった。通り過ぎる時、コンビニの袋が、私の腕に少しだけ当たった。

 

袋の中で、缶が二つ、ぶつかる音がした。たぶん、葵井さんと自分の分。

 

貴宮さんは、何かを知っていたのだろうか。知っていて、毎晩、二人分の缶を提げて、この階段を上っていたのだろうか。

 

私には、分からなかった。

 

交差点で、彼は反対の方向へ曲がった。何も言わずに。一つ空けた距離が、そのまま広がっていった。

 

 

 

 

 

翌朝、刑事から電話があった。

 

『葵井巫女子(あおいいみここ)さんが、ご自宅で亡くなっているのが見つかりました』

 

それ以上の言葉は、耳に入らなかった。

 

電話を切って、机の前に座った。

 

伏せた写真が一枚。名刺が三枚。ノート。

 

ノートのいちばん後ろを開いた。番号は、もう指が覚えていた。

 

三回目の呼び出し音で、つながった。

 

『堀北か』

 

『葵井巫女子さんが、亡くなったわ』

 

私は、話した。昨夜の葵井さんの部屋のこと。ストラップのこと。葵井さんが、ずるかった、と言ったこと。今朝の電話のこと。

 

綾小路くんは、黙って聞いた。

 

『江本さんを殺したのは、佐倉さんじゃなかった』

 

『そうか』

 

『あなたの答えは、間違った相手に向いていたわ』

 

少しだけ、間があった。

 

『お前の話は、佐倉が殺したという前提だった。前提が違えば、答えも変わる。それだけだ』

 

前提。前に提げる、と書く。私は、佐倉さんという名札を、事件の前に提げて歩いていた。提げているものの重さで、前が見えなくなっていた。

 

それだけ。

 

綾小路くんは、何も間違っていなかった。間違えたのは、前提を差し出した私の方だった。疑うのをやめて、佐倉さんだと決めつけて、決めつけた前提を、正しい答えに作り変えてもらった。

 

『……私が、間違えたのね』

 

『お前が見たものは、間違っていない。佐倉は人を殺した。それは変わらない』

 

『それでも』

 

それでも、の先が出てこなかった。

 

綾小路くんは、待たなかった。

 

『佐倉の件は、まだ終わっていない。気をつけろ』

 

正しかった。

 

私は、何も言わずに電話を切った。今度は、分かったわ、とも言わなかった。

 

写真を表に返した。暗い路地。倒れた男。白い光。

 

《撮ったのは、まだ一枚だけです》

 

佐倉さんは、嘘をついていなかった。

 

綾小路くんの答えは、正しかった。一つ残らず、正しかった。正しいまま、間違った相手に向いていた。

 

私は、正しい答えを手に入れたと思っていた。

 

疑う理由を探すのを、やめていただけだった。

 

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