謝るというのは、自分が間違っていたと認めることだと思われている。
違う。謝るのは、自分が間違っていたことを、相手に預けることだ。預けられた相手は、それを受け取るか、突き返すかを選ばなければならない。
だから謝罪は、謝る側よりも、謝られる側に重い。
重いと分かっているから、人は時々、謝れない。
綾小路くんとの電話を切ってから、写真を表に返して、また伏せた。伏せた写真の上に、手を置いた。置いたまま、日が暮れて、夜になった。
十一時を過ぎて、部屋を出た。
行き先は、決めていなかった。決めていないまま、鴨川の方へ歩いた。
夜の河川敷には、もう、恋人たちはいなかった。等間隔に座る人のいない川は、ただ、暗くて、音だけがした。
橋の手前まで来た時、川の音に、別の音が混じった。
靴が、砂利を蹴る音。
それから、短く、息を呑む音。
橋の下の暗がりだった。
外灯の光が、橋桁の手前で途切れていた。途切れた先に、人影が二つ、あった。
一つは、砂利の上に、片膝をついていた。
左の腕を、右の手で、押さえていた。
押さえた指のあいだから、黒いものが、ゆっくりと、垂れていた。
見覚えのある、細い背中だった。
誰にでも似ている背中だった。
もう一つの人影は、その前に、立っていた。
髪の長い、女の人の影だった。顔は、暗くて見えなかった。右手に、何かを握っていた。外灯の端の光を、一度だけ、細く跳ね返した。
刃物だった。
私は、足を止めた。
止めたまま、動けなかった。
五月十二日の夜と、同じだった。路地の先の暗がりで、私は、立ち止まった。立ち止まって、何もしなかった。
刃物を握った影が、膝をついた背中の方へ、一歩、踏み出した。
その時、橋の上から、何かが落ちてきた。
落ちてきた、と思った。
小さな影だった。フードを被っていた。欄干を越えて、音もなく、砂利の上に降りた。
降りた場所は、刃物の影と、膝をついた背中の、ちょうど間だった。
刃物の影が、後ろへ跳んだ。
跳んで、それから、背を向けて、走った。
河川敷の暗がりを、南へ。長い髪が、走るたびに、背中で揺れた。
フードの影は、追わなかった。
追わずに、ポケットに手を入れたまま、走り去る背中を、見ていた。
「……傑作だぜ」
低い、少年のような声だった。
フードの影は、膝をついた背中を、一度だけ、見下ろした。
見下ろして、何か、短く言った。
聞き取れなかった。
それから、フードの影は、私の方を見た。
見た、と思った。
顔は、見えなかった。フードの奥の暗がりから、目だけが、一瞬、外灯の光を拾った。
拾って、すぐに、消えた。
フードの影は、橋桁の裏の暗がりへ入っていった。
入っていって、それきり、出てこなかった。
足音も、しなかった。
私は、そこで、ようやく、足が動いた。
砂利の上を、走った。
膝をついた背中の、すぐ横に、しゃがんだ。
「……あなた」
彼が、顔を上げた。
いつもの顔だった。何も浮かんでいない顔。外灯の端の光の中で、少しだけ、白かった。
「……堀北さん。どうして、こんなところに」
「歩いていたの。……腕を」
「かすっただけだよ」
彼は、左の腕を押さえたまま、言った。
押さえた指のあいだから、まだ、黒いものが、垂れていた。かすっただけの量では、なかった。
私は、鞄を持っていなかった。ハンカチも、持っていなかった。何も持たずに、部屋を出てきていた。
何も持っていない手で、何もできなかった。
「救急車を」
「呼ばないで」
彼は、すぐに言った。
「呼んだら、警察も来る。……警察が来たら、さっきの人のことを、話さなきゃいけなくなる」
「話せばいいでしょう。刃物を持っていたのよ」
「分かってる」
彼は、少しだけ、黙った。
「分かってるから、今夜は、話さない」
私は、彼の顔を見た。
何も浮かんでいない顔の奥で、何かが、一つ、決まっていた。決まったものを、この人は、私に、渡すつもりがないように見えた。
「……さっきの人は、誰」
彼は、答えなかった。
答えないまま、ゆっくりと、立ち上がった。
立ち上がる時、少しだけ、ふらついた。
ふらついて、自分で、踏みとどまった。
「病院には、自分で行く。……夜間の、知ってる所がある」
「一人で」
「一人で。……君は、帰って」
彼は、橋桁の裏の暗がりの方を、一度だけ見た。
フードの影が消えた方を。
「さっきのは、助けてくれた人。……通りすがりの、変な格好の人」
それだけ言って、彼は、河川敷を、北へ歩き出した。
左の腕を押さえたまま。
一度も、振り返らなかった。
私は、砂利の上に、しゃがんだまま、その背中を見ていた。
砂利の上に、黒い染みが、点々と、続いていた。
彼の歩いていった方へ。
私は、追わなかった。
追わずに、立ち上がって、部屋へ帰った。
帰る途中で、一度だけ、振り返った。
橋の下の暗がりは、ただの暗がりに戻っていた。
髪の長い女の人の影。走るたびに、背中で揺れた髪。
誰の髪なのかを、私は、考えないようにした。
考えないようにして、考えていた。
誕生会の夜、ベランダの手すりにもたれて、火のついていない煙草を指に挟んでいた人の、横顔を。
橋の下の夜の、次の夜に、宇佐美くんが死んだ。ニュースで宇佐美秋春という名前を聞いた時、私は最初、別の誰かのことだと思った。
夜の路地で、刃物で刺されていた。背中から、一度だけ。ニュースは、それを京都連続通り魔の新しい一件として報じた。手口が刃物だったから。
私は今、それが通り魔ではないと思っている。
あとになって、あの男の一言から、そう思うようになった。
大教室で、窓際のいちばん後ろの列。一つ空けた席の向こうで、彼は前を向いたまま、独り言みたいに言った。
「
それだけを、言った。
それだけで、一つの形が見えた気がした。葵井さんが死んだあと、葵井さんのしたことを、誰にも知られないようにしたかった人間が、一人いたのかもしれない。
彼の左の腕には、包帯が巻いてあった。水曜の夜、橋の下で、彼が押さえていたところだった。最初に狙われたのは、宇佐美くんより先に、彼だったのかもしれない。
彼は、生きている。生き延びた理由を、私は、見ていた。橋の上から落ちてきた、フードの影を。
「あの夜の人は、誰だったの」
私は訊いた。訊いてから、答えの来ない問いだと思った。
彼は、前を向いたまま、少しだけ首を傾げた。
「訊いても、答えはいらないよ」
「問いだけ要るの?」
「問いの方が、長持ちするから」
答えは、出た瞬間に古くなる。問いは、答えが出るまで新しいままだ。だから彼は、いつまでも新しいままの問いを、ポケットに入れて歩いているのだろう。開けない缶みたいに。
「私が、いらないの? それとも、あなたが渡したくないの?」
「どっちでも、同じことだと思う」
同じことではなかった。少なくとも、私にとっては。
けれど、彼にとっては同じなのだろう。答えを持っていることと、答えを持っていないことが、彼の中では、たぶん同じ重さをしている。持っていても使わないのなら、持っていないのと変わらない。
「助けてくれた人のことは、訊かないで。それ以上は、ぼくも、知らないことにしてる」
彼は、それだけ付け足した。
付け足したことが、彼にしては珍しかった。知らないことにしている、という言い方が、知っている人の言い方だった。
宇佐美くんが、なぜ死ななければならなかったのか。考えないようにしても、形は勝手に組み上がった。
誕生会の帰り道、葵井さんは、貴宮さんと宇佐美くんと途中まで一緒に歩いて、忘れ物をしたと言って一人で引き返した。葵井さん自身が、そう言った。二人は、それを知っていたはずだった。知っていて、刑事には言わなかったのだとしたら。貴宮さんは、葵井さんを守るために。宇佐美くんは、たぶん、貴宮さんに言うなと言われて。
葵井さんが死んで、守るものがなくなった。黙っている理由も、一緒になくなる。宇佐美くんが、次に刑事に会った時に何を言うつもりだったのかは、分からない。分からないことを、貴宮さんは待てなかったのかもしれない。
貴宮さんは、あの夜から一度も大学に来ていなかった。語学の教室の、貴宮さんの席も空いたままだった。
宇佐美くんが死んで二日後、
「貴宮むいみさんの行方が、分からなくなっています」
佐々さんは、いつもより短く言った。
「ご実家にも、戻っていない。携帯電話は、電源が切られたままです。何か、心当たりは」
「ありません」
本当だった。貴宮さんがどこへ行ったのか、私は知らない。知っているのは、貴宮さんが葵井さんの頭を抱えていた手の、一定の間隔だけだった。
橋の下のことは、言わなかった。言えば、刃物の影の髪の話になる。髪の話をすれば、私が考えないようにしているものを、私の口から刑事に渡すことになる。呼ばないで、と言ったのは、切られた本人だった。
佐々さんは、しばらく私を見ていた。
「堀北さん。あなたは、この一か月で、ずいぶん多くのものを見ましたね」
責める声ではなかった。
「見たものを、全部一人で持っている必要はないんですよ」
私は、頷かなかった。首を横にも振らなかった。
葵井さんの部屋に行った夜のことも、訊かれた。あの夜、私があの部屋にいたことを、佐々さんはもう知っていた。私は、見たとおりに話した。ストラップのことと、葵井さんが話したことのほかは。
名刺は、もう渡されなかった。私が三枚とも持っていることを、佐々さんは知っているようだった。
その夜、四度目の電話をかけた。
貴宮さんのこと。宇佐美くんのこと。橋の下のこと。刑事には、それを言わなかったこと。私は、知っていることを全部話した。綾小路くんは、黙って聞いた。
『関わるな』
綾小路くんは、言った。
『貴宮の件は、警察に任せろ。橋の下のことは、切られた本人が決めることだ。お前が動いても、得るものはない。失うものの方が多い』
正しかった。
一つ残らず、正しかった。
『それは正しい。でも――』
言いかけて、止まった。
でも、の先が、なかった。
あったのに、まだ言葉の形になっていなかった。
綾小路くんは、待った。今夜は、待った。初めてだった。四度かけた電話のうちで、彼が私の言葉の続きを待ったのは。
続きは、出てこなかった。
『……何でもないわ』
『そうか』
電話は、それで切れた。
誕生会に集まった六人のうち、三人が死んだ。
誕生会。誕生を祝う会。祝われた一人と、祝った二人が、ひと月のうちにいなくなった。祝の字には、示す、が入っている。何を示されたのかを、私は、まだ読めずにいた。
一人は、どこかへ消えた。
残ったのは、彼と、私だけだった。
宇佐美くんのことを、思い出した。
学食で、向かいの席に座って、カレーをかき混ぜていた。巫女子ちゃん、結構本気なんだよ、と言って、誰かの内側を、こともなげに外へ出してみせた。楽しみだなあ、十四日、と言った。
あの笑顔が、当たる場所を自分で選んでいたのだとしたら。
宇佐美くんは、何かを知っていたのかもしれない。それが理由だったのかどうか、貴宮さんに訊く手段は、もうない。
理由のある殺しなのだろう。
佐倉さんの殺しには、理由がない。貴宮さんの殺しには、たぶん、理由があった。
理由がある方が、人間らしいのだろうか。
理由がない方が、まだ救いがあるのだろうか。
どちらなのか、私には分からなかった。分からないまま、二つの殺しを、同じ町の、同じ一か月の中に並べて、見ていた。
並べて見ることしか、私にはできなかった。どちらの殺しにも、私は間に合わなかった。
日曜日の夕方、鴨川の河川敷に行った。
三条の橋の下。
一週間前、佐倉さんが座っていた場所だ。来るかどうかは、分からなかった。連絡の手段はなかった。写真の裏の字のほかに、私は佐倉さんにつながるものを何も持っていなかった。
それでも、来た。
来る途中、あの路地の前を通った。黄色いテープは、もう外されていた。花束も、片づけられていた。半月ほど前に人が死んだ場所は、ただの古い路地に戻っていた。雀荘の二階から、牌の音が降ってきていた。
戻るのが、早すぎると思った。
人が死んだ場所が、ただの場所に戻るまで、二週間しかかからない。江本さんの部屋も、葵井さんの部屋も、たぶん同じように戻っていく。誰かが住み、誰かが光物を並べ、誰かが笑う。
戻らないのは、見た人間の方だけだ。
謝りたかった。
あなたじゃなかった、と言いたかった。信じない、と言ったことを、取り消したかった。取り消して、それで何が変わるのかは分からなかった。佐倉さんが人を殺したことは、何も変わらない。
変わらないのに、謝りたかった。
橋の下に、人影が二つあった。
一つは、膝の上にカメラを載せて座っていた。一週間前と同じ場所に、同じ姿勢で。
もう一つは、その前に立っていた。
背の高い男だった。高い、というより、長かった。手も足も、人の体にしては不自然なくらい長くて、針金を折り曲げて作った人形が、三つ揃いの背広を着ているように見えた。髪を後ろへ撫でつけて、銀縁の眼鏡をかけていた。河川敷にも、夕方の鴨川にも、まるで似合わない格好だった。
私は、橋脚の陰で足を止めた。近づくことも、引き返すこともできなかった。二人の会話が、川の音に混じって聞こえてきた。
「京都の通り魔の中に、一件だけ、匂いの違うのが混じっていてね。報道を読めば、分かる人には分かる。あとは、私が探した。まだ誰も迎えに来ていない子を」
男の声は、柔らかかった。柔らかくて、礼儀正しくて、どこにも角がなかった。
「弟も、この町にいるらしいんだけどね。あの子は、私から逃げ回っている。会えずじまいさ。迎えに行くのは、いつも私の役目なのに」
佐倉さんは、膝の上のカメラを見下ろしたまま、黙っていた。
「女子大生の件。あれは、きみじゃないね」
「……違います。撮ってないので」
「うふふ。そうだろうと思った。あれは、理由のある人のやり方だ。私たちのやり方とは違う」
「私たち」
「理由のない側のことさ」
佐倉さんは、少しだけ顔を上げた。
「……撮りたかった、っていうのは、理由じゃないんですか」
「それは理由じゃない。それは、きみだ」
男は、子どもに字を教えるような声で言った。
「理由というのは、する前にあるものだよ。きみのは、した後にしかない。撮った後で、ああ撮りたかったんだと分かる。それは理由じゃなくて、きみがそういう子だというだけのことだ」
佐倉さんは、しばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。うまく撮れた写真を見る時の、あの頷き方だった。
「名前を、訊いてもいいかな」
「……佐倉、愛里です」
「愛里ちゃん」
男は、その名前を口の中で一度転がした。
それから、膝を折って、佐倉さんと目の高さを合わせた。長い脚が、窮屈そうに畳まれた。
「私の妹にならないかい?」
佐倉さんは、首を傾げた。
「いもうと」
「家族になろう、ということさ。きみみたいな子は、一人でいると、いつか壊れてしまう。壊れる前に、迎えに来た。私は
答えは、すぐには来なかった。
それから、少しだけ笑った。
「家族、ですか」
「嫌かい」
「……いいえ」
佐倉さんの声は、平らだった。
「私、家族の写真って、撮ったことないんです」
男は、何も言わなかった。
佐倉さんの膝の上のカメラを、男はしばらく見ていた。それから、佐倉さんが首から下げていたもう一つのものを見た。古いパスケースだった。中に、写真が一枚入っていた。
遠くからでは、何が写っているのか見えなかった。
見えなかったけれど、私には分かった。
佐倉さんが、自分の写っていない写真の中で、たった一枚だけ、身につけて持ち歩くとしたら。
男は、その写真に目を落として、それから眼鏡の位置を指で直した。
「ずいぶん、熱心に見上げているね」
「見上げてる、んでしょうか」
「見上げているよ。崇めている、と言ってもいい。きみの目は、そういう目だ」
男は、少しだけ考える顔をした。
「
男は、ゆっくりと言った。
「零崎を名乗るなら、名前も新しくしよう。うちの名前はね、たいてい終わりが識なんだ。でも、きみには糸の方が似合う。里を織に替えて、愛織。
里は、帰る場所の字だ。織は、糸を重ねて布にする字だ。帰る場所を一字手放して、何かを織る側に回る。名前を一字替えるだけで、人は、こんなに遠くへ行ける。
佐倉さんは、目を見開いた。
見開いて、それから、声を出さずに笑った。高校の頃、カメラを構えた時にだけ見せた、別人みたいに明るい笑い方だった。
その笑い方の意味を、男は、たぶん知らない。
知らないまま、名付けてしまったのだろう。
男が、ふとこちらを見た。
橋脚の陰にいる私を、まっすぐに。最初から、そこにいるのを知っていた目だった。
男は、私の顔をしげしげと見た。見て、何かを確かめるように、眼鏡の奥で少しだけ目を細めた。
「……ふうん」
それだけだった。
何に対しての、ふうん、なのか、私には分からなかった。分からなかったけれど、その目つきは、私の顔ではなく、私の顔の後ろにある何かを見ているようだった。私が今まで隣に座ってきた誰かの、残り香のようなものを。
男は、すぐに興味をなくしたように、佐倉さんの方へ向き直った。
「さて、と。家族が増えたお祝いをしたいところだけど、あまりゆっくりもしていられないんだ。もう一つ、匂いがしていてね。今度は、ごく普通の女子高生の匂いだ。迎えに行くのが遅れると、その子は一人で壊れてしまうかもしれない」
もう一人。私は、その言葉だけを聞き取った。この男は、こうやって、壊れかけた誰かを拾い集めて歩いているのだろうか。拾って、名前を替えて、家族と呼んで。
佐倉さんが、こちらを見た。
目が合った。
私は、一歩だけ前に出た。
出て、口を開いた。
ごめんなさい、と言うつもりだった。あなたじゃなかった、と。信じなくて、ごめんなさい、と。
声が、出なかった。
佐倉さんの隣に、男が立っていた。家族、と男は言った。私の妹にならないかい、と。
私が謝れば、佐倉さんはそれを受け取らなければならない。受け取って、私を許すか、許さないかを選ばなければならない。人を殺して、家族という名前をもらったばかりの佐倉さんに、私の間違いを預けるのか。
預ける資格が、私にあるのか。
佐倉さんは、私を見て、小さく頭を下げた。責めるような目ではなかった。待っているような目でもなかった。私が何も言えないことを、最初から知っていたように見えた。
一週間前と、同じ頭の下げ方だった。
それから、男と並んで、橋の下の暗がりの方へ歩いていった。
一人分空けずに、並んで。
並んで歩く二人の背中は、少しも似ていなかった。背の高さも、歩き方も。それなのに、同じ方向へ、同じ速さで遠ざかっていった。家族というのは、たぶん、そういうものなのだろう。似ていなくても、同じ速さで歩ける相手のことを、人はそう呼ぶ。
私は、河川敷に一人で残った。
謝れなかった。
謝れなかった、ではない。
謝らなかった。
れ、と、ら。一字を入れ替えるだけで、できなかったことが、しなかったことに変わる。
謝ることから、降りた。
降り方を、私は初めて、はっきりと見た。卓の前に立ったまま、座らずに、引き返す。京都に来てから、私は何度これをやったのだろう。
一年生の秋、私の運んだ一枚が外された時、あの人は、そっちじゃねえよ、と笑った。私が卓に座っていることだけは、勘定から外さなかった。
あの人なら、今の私を見て、何と言うだろう。
何も言わないだろう。口の端だけで笑って、パンの袋を持ち替えて、どこかへ行ってしまう。あの人は、降りた人間に、何も言わない。言う必要がないからだ。
日が沈んだ。
河川敷の恋人たちが、等間隔に座っていた。三メートルおきに、二人ずつ。
私は、一人分の間隔を空けて、誰の隣でもない場所に立っていた。
立っているのが、初めて、少しだけ苦しかった。
五月最後の月曜日、大教室の窓際のいちばん後ろで、私は本を開いていた。
一つ空けた向こうに、彼が座っていた。左の腕の包帯は、まだ取れていなかった。
講義が始まる前の、ざわついた数分間だった。前の方で、誰かが通り魔の話をしていた。十四人、と数える声が聞こえた。その中に、宇佐美くんも数えられていた。宇佐美くんの名前を知らない誰かが、宇佐美くんを数字で呼んでいた。
十四のうち、二つは通り魔ではない。一つは、あの路地の夜で、一つは、宇佐美くんだ。そのことを知っているのは、この教室で、たぶん私と、一つ空けた向こうの彼だけだった。
「三人ね」
私は、本から目を上げずに言った。
彼は、前を向いたまま、少しだけ首を傾げた。
「誕生会にいた六人のうち、三人。二週間で」
「そうだね」
「あなたは、分かっていたの」
訊くつもりはなかった。訊いてから、訊いたことの意味に気づいた。分かっていたなら、止められたはずだ。止められたはずなのに止めなかったのか、と私は訊いている。
彼は、しばらく答えなかった。
「分かっていたかどうかを、ぼくはいつも、あとから知る」
「答えになっていないわ」
「答えじゃないからね」
前の方で、教授がマイクの電源を入れた。ざわめきが、少しずつ引いていった。
彼は、引いていくざわめきの中で、独り言みたいに続けた。
「分かっていたとしても、たぶん何もしなかったと思う。何かをすると、何かが壊れる。何もしなくても、何かは壊れる。どっちにしても壊れるなら、ぼくは何もしない方を選ぶ。そうすれば、少なくとも、壊したのは自分じゃないって言える」
「言えるだけでしょう」
言い訳というのは、言えるだけの言葉のことだ。
「言えるだけだよ」
彼は、あっさり認めた。
認められると、それ以上は責められなかった。責める言葉は、相手が否定する前提で作られている。否定しない相手には、届く場所がない。
講義が終わって、人の波が引いていった。
彼は、いつものように座ったまま、波が引くのを待っていた。私も、今日は立たなかった。
教室に、二人と、空いた席が一つだけ残った。
「君は、何か見た?」
彼が言った。
半月あまり前、あの路地の黄色いテープの前で、同じことを訊かれた。私は、いいえ、と答えた。嘘の形を整えるのに、少しだけ時間がかかった。
今日は、その時間がかからなかった。
「見たわ」
それだけ言った。
何を見たのかは、言わなかった。彼も、訊かなかった。
訊かれなかったことが、少しだけ、ありがたかった。
「そう」
彼は、それだけ言った。
四月に、私が彼に向かって言った、同じ一言だった。何か用、と訊いて、別に、と返されて、私は、そう、とだけ言って通路に出た。
今日は、彼がそれを言って、私が座ったままでいた。
「あなたは、何を見たの」
「たくさん」
「たくさん、は数ではないわ」
「数えたら、数になっちゃうからね」
「答えになっていないわ」
「答えじゃないからね」
さっきと同じやりとりだった。同じやりとりなのに、さっきほど腹が立たなかった。
彼が立ち上がった。鞄を肩にかけて、通路に出た。振り返らなかった。
私は、本のページに目を戻した。
読んでいなかった。
何もしない方を選ぶ、と彼は言った。
それは、私がこの二か月やってきたことと、どこが違うのだろう。
語学の教室では、席替えがあった。
席替え。替えたのは席で、人ではない。名簿の上では、それで足りる。
席を替えたのは、二十人の教室で、空いた席が多すぎたからだ。教師は、名簿の順に席を詰め直した。葵井さんの名前も、江本さんの名前も、宇佐美くんの名前も、もう呼ばれなかった。貴宮さんの名前は、呼ばれて、返事がなくて、教師がそこで一度だけ黙った。
私は、真ん中より少し後ろの席になった。
隣には、知らない女子が座った。挨拶をされて、挨拶を返した。それだけだった。
四月に、葵井さんはこの教室で、私の隣の席を取っておいてくれた。
あの日から、私は葵井さんの隣に座り続けた。座り続けたのに、一度も、葵井さんのことを友達だとは言わなかった。
言う前に、いなくなった。
授業のあいだ、隣の女子は、熱心にノートを取っていた。私も、ノートを取った。取ったものは、何一つ頭に入らなかった。
窓の外を見た。
あの男は、この教室にはいなかった。語学のクラスは同じはずなのに、その日、彼は来なかった。詰め直したばかりの名簿の上で、彼の席だけが空いていた。
その日の夜に、兄からメッセージが届いた。
入学式の朝以来だった。
〈京都の事件を報道で見た。無事か〉
それだけだった。兄は昔から、言葉を足さない人だった。
画面を見たまま、しばらく動けなかった。
無事か、と訊かれて、何と答えればいいのか分からなかった。体は無事だった。怪我ひとつしていない。刑事が四度来て、名刺が三枚あって、知り合いが三人死んで、もう一人の知り合いが人を殺している。それでも、私の体は、どこも傷ついていなかった。
無事です、と打った。
無事。事が無い、と書く。事は、あった。三人分、あった。それでも私の体には、事が無かった。嘘ではない字を選んで、嘘をついた。
打ってから、消した。
もう一度、無事です、と打った。
送信した。
それだけだった。それ以上を打つ指が、動かなかった。
既読の印が、すぐについた。読んだことだけは、相手に伝わる。読んで何を思ったかは、伝わらない。返事は、来なかった。来ないことは、分かっていた。兄は、答えを受け取ったら、それ以上は求めない人だ。
かけられる番号が、二つあった。
一つには、もうかけた。何度もかけた。正しい答えを、何度ももらった。
もう一つは、まだ、かけていない。
かけないまま、無事です、の四文字だけを、兄に預けた。
その夜、スマートフォンが鳴った。
画面に、櫛田さんの名前が出ていた。
卒業してから、櫛田さんからは、ときどき電話がかかってくる。こちらからかけたことは、一度もない。用事があるわけではない。用事がないのに電話をかけてくるのは、いつも櫛田さんの方だった。かけてくる理由を、私は一度も訊いたことがない。訊いたら、たぶん、もうかかってこなくなる気がした。
『もしもし、堀北さん? 起きてた?』
教室で使う方の声だった。高校の三年間、何百回も聞いた声。その声が、京都の部屋の中で鳴るのは、まだ少しだけ不思議だった。
『起きているわ』
『ニュース見たよ。京都、大変なことになってるね。通り魔、何人目だっけ』
『……ええ』
『堀北さんの大学の近く?』
『近くよ』
少しだけ、間があった。
『堀北さん、声、変だよ』
櫛田さんは、いつもの調子で言った。いつもの調子なのに、言っている中身は、いつもの調子ではなかった。
『変じゃないわ』
『変だよ。高校の時の、三年の冬の声みたいになってる』
三年の冬。
私が、自分のやり方が元に戻ったことに気づいた季節だった。櫛田さんは、それを見ていたらしい。見ていて、何も言わなかった。言わないまま、今になって、それを口にしている。
『……知り合いが、亡くなったの。大学の』
『そっか』
櫛田さんは、それ以上は訊かなかった。訊かない代わりに、少しだけ声を落とした。内緒話を始める時の距離だった。
『ねえ、関係ない話していい?』
『ええ』
『私の方はね、まあ、相変わらず。教室の顔で、友達いっぱい作ってるよ。作るの得意だから』
櫛田さんは、何でもないことのように言った。
『高校の時と違うのはね、作った顔のまま帰っても、誰も見てないってこと。寮じゃないから。部屋に帰ったら、一人。鏡もあるけど、見ないようにしてる』
鏡、と櫛田さんは言った。
何のことか、私には分からなかった。分からなかったけれど、櫛田さんがその言葉を口にする時だけ、声が少しだけ平らになった。
『……そう』
『堀北さん、今、何か思ったでしょ』
『何も』
『嘘が下手だね、相変わらず』
櫛田さんは、笑った。教室で使う方の笑い方だった。電話越しでも、それは分かった。
それから、少しだけ黙った。
『あのさ。私、高校の時、堀北さんのこと、嫌いだったんだよね』
知っていた。
『今は、よく分かんない。嫌いなのかどうか。でも、こうやって電話してるってことは、たぶん、嫌いじゃないんだと思う』
『……そう』
『堀北さんは、ずっとそれだね。そう、ばっかり』
『相槌よ』
『相槌の相ってさ、お互いにって意味なんだよ。鍛冶屋さんが、向かい合って交互に叩くやつ。打ち返さないなら、それ、相槌じゃないよ』
教室で使う方の声のまま、櫛田さんは、言葉の中身だけを入れ替えてきた。高校の頃から、それが誰よりも上手かった。
『ほかに言うことがないもの』
『あるよ。言わないだけでしょ』
櫛田さんの声が、一瞬だけ、教室の声ではなくなった。
それが何の声なのか、私には名前が分からなかった。分からなかったけれど、一年生の秋、植え込みの脇で、手に持っていたものを、渡す前に取り上げられた人の顔をした時の、あの一秒と、同じ温度をしていた。
『また電話するね。……堀北さんも、何かあったら、言っていいんだよ。私、聞くの得意だから』
聞くのが得意なのは、知っていた。聞いたことを、どう使うのが得意なのかも。
それでも、今夜の櫛田さんの声は、使うために聞いている声には聞こえなかった。聞こえなかったのは、私の耳が弱っていたからかもしれない。
『……ありがとう』
言ってから、自分が礼を言ったことに驚いた。
電話の向こうで、櫛田さんが一瞬、息を止めた気がした。
高校の三年間で、私が櫛田さんに、頼むわね、と言ったのは一度だけ。ありがとう、とは一度も言わなかった。言わないまま卒業して、京都の部屋で、ようやく渡してしまった。
『おやすみ、堀北さん。ちゃんと寝てね』
電話は、それで切れた。
電話を切ったあと、しばらく、暗くなった画面を見ていた。
鏡を見ないようにしている、と櫛田さんは言った。
高校の三年間、櫛田さんには顔が二つあった。教室で使う顔と、誰も見ていない時の顔。二つ目の顔があることを、私は最初から知っていた。知っていて、誰にも言わなかった。言わなかったことを、櫛田さんはたぶん知っている。知っていて、こうして電話をかけてくる。
鏡を見ないようにしているのは、どちらの顔が映るのか、分からなくなったからなのだろうか。
それとも、映ってほしい方の顔が、もう作れないからなのだろうか。
分からなかった。
分からないまま、私は、自分の部屋の鏡の方を見なかった。見なかったことに、気づいてしまった。
眠れなかった。
天井を見ていると、白い光が浮かんだ。光の中の佐倉さんの横顔。それから、もっと前の光景が、その横顔の後ろから浮かんできた。
夏の、白い砂浜だった。
一年生の夏。無人島の試験の、最初の日の夕方。テントを張る作業が始まって、砂浜がようやく人の動く場所らしくなってきた頃。
輪から外れた場所に、佐倉さんが立っていた。
荷物を持ったまま、どこに置けばいいのか分からないという顔をしていた。誰も、声をかけていなかった。顔色が悪かった。
私は、一歩だけそちらへ踏み出して、止まった。
今は、それどころではない。
そう思って、止まった。
あの夏、佐倉さんを助けたのは、私ではなかった。夏休みのあいだに、佐倉さんの身に何かがあって、赤木くんが怪我をした。何があったのかを、私は今も知らない。あの人は、何も言わなかった。
赤木くんの怪我が、佐倉さんと関係していると知ったのは、夏の終わりだった。赤木くんは、階段から落ちただけだと言った。関係しているのかと綾小路くんに訊いたら、している、と即答された。即答なのね、と言ったら、ああ、とだけ返ってきた。少しして、オレも、現場にいたからな、と。それだけだった。
佐倉さんは、あの人に写真を渡した。あの人は、中を見なかった。
もし、あの砂浜で、私が止まらなかったら。
佐倉さんに最初に声をかけたのが、私だったら。
佐倉さんの見上げる先にいたのは、あの人ではなかったかもしれない。あの人が消えた時に、佐倉さんが失くすものは、もう少し小さかったかもしれない。
かもしれない、ばかりだった。
かも、しれない。しれない、は、知れない、だ。知ることのできないことを、私はいくつも並べて、知った気になろうとしていた。
かもしれないを、いくつ並べても、あの一歩は戻ってこない。
私は、あの日から、ずっと止まっていたのだ。
謝らなかったのは、間違えたからではなかった。
一歩目から、まだ、踏み出していなかったからだ。
窓の外が、少しずつ白んでいった。
五月が、終わろうとしていた。