負けない人間と、負けを持ったまま座れる人間。強いのは、たぶん後の方だ。
負けたことを、負けたまま持っていること。負けを持ったまま歩いて、次の場所で、また座る。座った場所で、また負けるかもしれないと分かっていて、座る。
負けない人間は、強いのではない。
まだ、負けていないだけだ。
六月に入って、京都は雨ばかりになった。
通り魔の事件は、五月の終わりを最後に、ぱたりと止まっていた。犯人は捕まっていない。捕まらないまま、この町からいなくなったのだろう、と学食のテレビが言っていた。
佐倉さんのことは、誰にも言わないまま、六月になった。踏み出していない一歩は、踏み出さないまま、日付だけが進んでいった。
梅の実が熟す頃に降るから梅雨なのだと、何かで読んだ。昔は黴の雨で、ばいう、と読ませたこともあったらしい。同じ音のまま、字だけを梅に替えて、人は黴の季節を少しだけ綺麗にした。
空が、一日中、同じ灰色のまま動かない。朝と夕方の区別が、光の量だけでしか分からない。東京にも梅雨はあった。けれど、高校の三年間、私は雨を窓の内側からしか見ていなかった。寮から校舎までは歩いて数分で、傘を差すほどの距離でもなかった。
京都の雨は、傘を差しても濡れる。
降っているというより、町じゅうに溶けている。石畳も、瓦も、川も、全部が同じ灰色の水を含んで、少しずつ重くなっていく。
その週、大教室の窓際のいちばん後ろで、隣の隣は空いていた。
月曜も、水曜も、金曜も。
四月と同じだった。あの男は、また来なかった。
一度目は、数えていた、と自分に言い訳した。
二度目は、言い訳をする前に、もう数えていた。
数える、と、待つ。数えるのは、過ぎた数だ。待つのは、まだ来ない一つだ。私が数えていたのは、過ぎた数の方ではなかった。
認めると、少しだけ腹が立った。腹が立つ相手が自分しかいないことに、もっと腹が立った。
雨の日の大教室は、いつもより人が少なかった。濡れるのが嫌な学生は、講義を休む。休んでも、誰も困らない。困らないから、休む。そういう理屈で、席が一つずつ空いていく。
空いた席の多い教室で、私の周りだけが、いつも通りに空いていた。
いつも通りに空いている場所は、人が減ると、かえって目立たなくなる。
目立たなくなった自分の周りを見ながら、私は少しだけ、楽になっていた。
楽になっている自分に気づいて、少しだけ、息が詰まった。
金曜日の夕方、大学を出たところで、雨が強くなった。
傘を開いた。開いた傘の内側を、雨の音が埋めていった。
大通りの歩道を、駅の方へ歩いた。車道を、車が水を跳ねながら通り過ぎていく。跳ねた水が、歩道の端まで届く。届かないように、私は少しだけ内側を歩いた。
後ろから、エンジンの音が近づいてきた。
低い音だった。ほかの車とは、腹に響く深さが違った。
その音は、私の横で、速さを落とした。
並んだ。
並んだまま、離れなかった。
私は、歩く速さを変えなかった。変えなかったのは、変えると、何かを認めることになる気がしたからだ。こちらが気づいている、ということを。
車は、歩道の縁にぴたりと寄せて、止まった。
真っ赤な車だった。
雨の灰色の中で、そこだけ色が違っていた。古い形の、屋根の低いスポーツカー。ボンネットの上で、雨粒が弾けて、赤い塗装の上を転がり落ちていった。
運転席の窓が、下がった。
「おい、りんねちゃん」
女の声だった。
低くて、よく通って、からかうような響きがあった。
私は、足を止めた。
止めるべきではなかった、と思った。思ったのに、止まっていた。
「……人違いです」
「人違いなもんか。堀北鈴音ちゃん。鈴音って書いて、りんねとも読めるんだよね。いい名前じゃん」
運転席にいたのは、赤い人だった。
髪が赤かった。着ている服も赤かった。ワインレッドのスーツの襟が、窓の縁から覗いていた。顔立ちは、驚くほど整っていた。整っているのに、目つきが悪かった。吊り上がった目の、白い部分が多い。三白眼、という言葉を、私はその時初めて、実物で理解した。
その目が、笑っていた。
「乗んなよ。濡れるぜ」
「知らない人の車には乗りません」
「知らない人じゃないよ。あたしは
名乗られても、知らない人には変わりなかった。
知らない人、と、知っている人。その間に、名前を知っている人、という段がある。名前だけ知っている人ほど、厄介なものはない。知らない人として扱うには近すぎて、知っている人として扱うには何も知らない。
「
佐々。
京都府警の、あの刑事。四度、私の部屋に来て、三枚の名刺を置いていった人。見たものを全部一人で持っている必要はない、と言った人。
「……刑事さんの、知り合いですか」
「知り合いっていうか、腐れ縁だね。あいつに頼まれると断れないんだよなー、これが。断ったら断ったで、あとで飯を奢らされるし」
赤い人は、助手席のドアを、内側から押し開けた。
雨が、開いたドアの内側に吹き込んだ。
「乗りなって。乗らないなら、このまま並んで駅まで走るよ? 目立つぜー、これ」
それは、困った。
この人なら本当にやる、と分かってしまった。脅迫というより、親切の押し売りだった。押し売りされた親切を断る方法を、私は知らない。断れば、親切の方が傷ついた顔をする。
私は、傘を畳んだ。
車の中は、外から見るより狭かった。
座席が低くて、膝が少し持ち上がった。ダッシュボードに、漫画雑誌が一冊、放り出してあった。表紙が、少し濡れていた。
赤い人は、車を出した。
速くはなかった。雨の大通りを、ほかの車と同じ速さで走った。同じ速さで走っているのに、ほかの車が、少しずつこちらを避けていく気がした。
「哀川さん」
「上の名で呼ぶな、下で呼べ」
即答だった。
「あたしを苗字で呼ぶのは、敵だけだ」
「……潤さん」
「よろしい」
潤さんは、満足そうに頷いた。頷いたまま、ハンドルを片手で回した。
「で、りんねちゃん。何を見たのさ」
訊き方が、佐々さんとは違った。佐々さんは、見たかどうかを訊いた。この人は、見たことを前提に、何を見たのかを訊いた。
「何も」
「嘘、下手だねー」
櫛田さんにも、同じことを言われた。
「いいよ、言わなくて。言わなくたって、だいたい分かっちゃうからさ」
潤さんは、前を向いたまま言った。
「あんた、見たもんを誰にも渡さないで、ずっと抱えてる顔してるよ。抱えてるもんが重くて、両手がふさがってる顔。ふさがってるから、誰かが手を出しても掴めない。掴めないから、余計に重くなる。悪循環ってやつだね」
私は、何も言わなかった。
言わなかったのに、潤さんは、頷いた。
「見たのは、知り合いだね。知らない奴のことなら、刑事が四回も来る前に話してる。話せないのは、知り合いが、人には言えない種類のことをやってたからだ。……どう、当たり?」
背中が、冷たくなった。
何も言っていない。顔にも出していないつもりだった。高校の三年間で、顔に出さないことだけは上手くなったはずだった。
「……どうして」
「あたしはね、人の顔を読むのが得意なんだよ。得意っていうか、読めちゃうの。読みたくなくても読めちゃうもんだから、たまに困るんだよなー」
潤さんは、信号で止まった。
止まって、初めて、こちらを見た。
三白眼が、私の顔を、正面から捉えた。
「それと、もう一つ」
潤さんの目が、少しだけ細くなった。
「あんた、ずいぶん物騒なのの近くに座ってたでしょ」
息が、止まった。
「誰とは言わないよ。あたしも知らないし。けど、あんたの顔の後ろに、そういうのが一人いる。……顔に書いてあるのは、そこまで。それ以上は、本人に聞かなきゃ分かんないね」
本人に、聞かなきゃ。
あの日曜日の卓で温まった、自分の手の温度を思い出した。
温まった、と私は思っていた。
本人は、もう、聞ける場所にいない。
信号が、青に変わった。
潤さんは、また前を向いて、車を出した。
「あの……」
私は、言葉を探した。
探して、見つからなかった。何を訊けばいいのか、分からなかった。この人が誰なのかも、なぜ私に会いに来たのかも、まだ何も分かっていなかった。分かっていないのに、私の中で一番重いものを、この人は一目で見抜いた。
「あなたは、何をしている人なんですか」
「請負人」
「請負人」
「お金さえもらえれば、何でもやるよ。犬の散歩から世界の救済まで。今日のは佐々からの依頼。ただし報酬は、晩飯一回。安いでしょ?」
請けて、負う。人の頼みを請けて、背中に負う。負ったものの重さを、この人は晩飯一回に換算するらしい。安いのか高いのか、私には判断がつかなかった。
「依頼の中身は」
「あんたの様子を見てこい、だってさ。あいつ、心配性なんだよ。自分で行けばいいのに、刑事が四回も来たらあんたが余計に口を閉じるって分かってるから、あたしを寄越したわけ」
佐々さんの顔を思い出した。責める顔をしなかった刑事。分かっていて、私が自分から言うのを待っているように見えた顔。
待つのをやめたのだろうか。待つために寄越したのだと、思うことにした。
「……それで、私をどうするつもりですか」
「どうもしないよ」
潤さんは、あっさり言った。
「警察に言えとも言わないし、言うなとも言わない。そういうのはあたしの仕事じゃないし、あんたが決めることでしょ」
「では、何のために」
「様子を見に来ただけだってば」
潤さんは、片方の口の端を上げた。
「いーたんの隣の隣に座って、ふた月ちょい生き延びてる女の子が、どんな顔してるのか見たかったんだよ。いーたんから、話だけは聞いてたからさ。興味本位ってやつ」
いーたん。
その呼び方が誰のことなのか、私にはすぐに分かった。分かってしまったことに、少し驚いた。
「彼を、知っているんですか」
「知ってるも何も。今週一週間、あたしが借りてたからね」
「借りて……」
「仕事を手伝わせてるんだよ。あいつ、役には立たないくせに、いると便利なんだよなー」
あの男が今週一週間いなかった理由が、この人だった。
「あいつの周りではね、人が死ぬんだよ」
潤さんの声が、少しだけ低くなった。
からかう調子が、一瞬だけ消えた。
「あいつは何もしない。何もしないのに、あいつの近くにいる奴は、勝手に狂って、勝手に死んでいく。この前も、同じクラスの子が三人、死んだんでしょ?」
三人。
「そういう奴の隣の隣に、あんたは座ってる。座ってて、まだ生きてるし、狂ってもいない。……なんでだと思う?」
「分かりません」
「だろうね。あたしにも、まだ分かんない」
潤さんは、笑った。
「分かんないから、面白いんじゃん」
面白い。字の上では、面が白くなる。顔の前がぱっと明るくなること、と昔の人は言ったらしい。人が三人死んだ話を、この人は顔の前を明るくして聞いている。
不謹慎だ、と思った。
思ったのに、腹は立たなかった。三人が死んでから、私の周りの人は、みんな顔の前を暗くして私を見た。佐々さんも、櫛田さんの声も。暗い顔を向けられるたびに、私は自分の顔をもっと動かさないようにした。
明るい顔を向けられると、動かさないようにする理由が、一つ減った。
「一つ、こっちからも訊いていい?」
「……どうぞ」
「なんで、隣の隣なのさ」
前を向いたままの問いだった。
「いーたんから聞いたよ。あんた、窓際のいちばん後ろに座って、隣を一つ空けとくんだって。いーたんも、そのまた隣に座る。一個空けて、並んでる。変な並び方だなーって、あたしは思ったわけ」
「空けているのではありません。埋めていないだけです」
「同じじゃん」
「違います」
違う、と言い切ってから、どこが違うのかを考えた。
空ける、は、何かのために場所を作ることだ。埋めない、は、何もしないことだ。私は、誰のためにも場所を作っていない。作っていない、と言いたかった。
「高校の時は、隣に人がいました」
言ってから、言いすぎたと思った。
「三年間?」
「……半年です。秋に、いなくなりました」
席は、そのまま空いた。教室の机は、退学した生徒の分だけ減らされる。減らされた机の跡に、私は、二年半、何も置かなかった。誰も置かなかったし、私も置かなかった。
「ふーん」
潤さんは、それだけ言った。
それだけ言って、ハンドルを指で一度叩いた。
「空いた席ってのはさ、空いてる限り、誰かの席なんだよな。埋めた瞬間に、そいつの席じゃなくなる」
私は、窓の外を見た。
「……私は、そういうつもりで空けているわけでは」
「空けてないんでしょ? 埋めてないだけ」
言葉尻を、そのまま返された。
返されて、返す言葉がなかった。高校の三年間、私は人の言葉尻を論理で返す側だった。返される側に回ったのは、ずいぶん久しぶりだった。
「いいよ、それで。あたしは埋めろなんて言わないから」
潤さんは、信号待ちのたびに、ダッシュボードの漫画雑誌に目をやった。
「それ、読むんですか」
「読むよー。毎週三十冊は読んでる」
「三十冊」
「足りないくらいだよ。漫画はいいぜ。悪い奴がちゃんと負けて、いい奴がちゃんと勝つ。勝ったいい奴は、ちゃんと仲間に囲まれて終わる。王道ってやつ。あたしは王道が大好きなんだよ」
意外だった。
この人は、そういうものを鼻で笑う側の人間に見えた。
冊、という字は、竹の札を紐で綴じた形だという。三十冊なら、三十本の紐だ。この人は、毎週、三十本の紐で綴じた、悪い奴がちゃんと負ける話を読んでいるのだ。
「現実は、そうはならないでしょう」
「ならないねー。だから漫画を読むんだよ」
潤さんは、あっさり言った。
「ついでに言うとね、推理小説は嫌い。死んだ奴の謎を生きてる奴がああだこうだ言って、最後に一人だけ賢い奴が全部持っていくでしょ。あれのどこが面白いんだか、あたしにはさっぱり分かんないね」
私は、何も言わなかった。
この一か月、私の周りで起きたことは、推理小説によく似ていた。死んだ人の謎を、生きている人間がああだこうだと考えて、最後に一人が、全部を見抜いた。見抜いた人は、何も持っていかなかった。持っていかないまま、また窓際の席に座っていた。
信号が変わった。
潤さんは、片手でハンドルを回しながら、ちらりと私の手を見た。
膝の上で、鞄の持ち手を握っていた手。
「あんた、牌を触ってたでしょ」
指先が、少しだけ冷たくなった。
「さっきから、膝の上で指が動いてるよ。何かを積んで、切る動き。……麻雀だね?」
「……少しだけ」
「少しじゃないでしょ。少し打ったくらいじゃ、指はそんなふうに勝手に動かないって」
潤さんは、前を向いたまま、にやりと笑った。
「誰に教わったの?」
答えられなかった。
答えたら、名前を言うことになる。名前を言ったら、この人は、きっとその名前から、もっとたくさんのものを読んでしまう。
「言いたくないなら、いいよ」
潤さんは、それ以上は訊かなかった。
「ただね、教えた奴は、たぶん、とんでもない奴だったんだろうね。あんたの指は、勝ち方を教わった指じゃない。負けても座ってる座り方を、教わった指だ。あたしは、そっちの方が好きだけど」
窓の外の雨が、急に強くなった気がした。
車は、鴨川沿いの道に出ていた。
雨の川は、いつもより水位が高かった。茶色く濁った水が、勢いよく流れていた。河川敷には、誰も座っていなかった。等間隔の恋人たちは、雨の日にはいない。
「りんねちゃん」
「その呼び方は、やめてもらえませんか」
「やーだね」
即答だった。
嫌、を、やだ、と崩すと、拒絶が、駄々に聞こえる。崩し方一つで、断りは甘えになる。この人は、たぶん、それを分かって崩している。
「すずね、なんて可愛すぎて呼べないよ。りんねの方が、あんたの顔に合ってる」
「どういう意味ですか」
「輪廻。死んでも、また生まれ直す。何回負けても、また卓に座り直す。あんた、そういう顔してるよ」
私は、窓の外を見た。
座り直す、と潤さんは言った。
私は、降りたのだと思っている。降りて、京都へ逃げてきた。
「私は、降りました」
言ってから、言ったことに驚いた。
初対面の人に、こんなことを言うつもりはなかった。
潤さんは、ハンドルを指で叩いた。
「降りた奴がさ、知り合いが何かやらかしたのを見て、警察にも言わないで、一人で抱えて、それでもまだ大学に通って、窓際の一番後ろに座って、いーたんの隣の隣で生きてるわけ?」
「……」
「あたしにはね、それは降りた奴には見えないよ」
潤さんの声は、からかってはいなかった。
かといって、慰めてもいなかった。ただ、見たままを言っている声だった。
「降りた奴ってのはね、もっと楽な顔をしてるもんだよ。あんたは、全然楽そうじゃない」
楽。らく、とも、たのしい、とも読む。降りた人間は、楽になる。楽しくは、ならない。同じ字が、どちらにも転ぶ。
私は、何も言い返せなかった。
言い返す言葉を、持っていなかった。
持っていない、というのは正確ではない。
持っていたけれど、それを言ったら、この人の言っていることを認めることになる気がした。
車は、私の部屋のある方へは曲がらなかった。
鴨川を渡って、そのまま北へ向かった。
「……私の部屋は、反対です」
「知ってる」
潤さんは、前を向いたまま言った。
「佐々からは、様子を見てこいとしか言われてないんだよね。見たよ。生きてたし、狂ってもいなかった。依頼はこれでおしまい。晩飯一回分の仕事は、ここまで」
「では、どこへ」
「ここからは、あたしの仕事」
ワイパーが、フロントガラスの上で、雨を左右に分けていた。分けても分けても、雨はすぐに戻ってきた。
「女子校に行くんだよ。京都の外れの、塀の高い学校。そこにね、連れ出してほしいって頼まれてる子が一人いる」
「連れ出す」
「そう。学校から、女の子を一人」
学校から、一人を連れ出す。
私が知っている学校は、外と連絡が取れなかった。入った人間は、三年間、外に出られなかった。出ていく方法は、卒業するか、退学するかのどちらかだった。
あの学校から、何人かが、卒業する前に出ていった。誰も、連れ出しには来なかった。
「いーたんを借りてたのは、その準備。あいつ、今、向こうで待ってる。セーラー服着て」
「……セーラー服」
「似合うんだよ、これが。誰にでも似てる顔ってのは、こういう時に便利でさ」
潤さんは、心の底から楽しそうに笑った。
「でもね、一個だけ足りない。いーたんは、どこまでいっても偽物の女の子でしょ。中に入ったら、本物の女の子が一人いた方が、ずっと話が早い」
「それで、私を」
「勘だよ、勘」
勘。それで全部を済ませる人らしかった。勘で人の顔を読み、勘で人を車に乗せ、勘で人を女子校に連れていく。この人にとって、勘というのは、理由を説明するのが面倒な時の、理由の呼び名なのかもしれなかった。
「断ります」
「うん。いいよ」
潤さんは、あっさり言った。
「次の信号で止まるから、降りたかったら降りな。ドア、鍵かかってないから。傘もあるし、駅までなら歩ける距離だよ」
それきり、潤さんは何も言わなかった。
車は、北へ走り続けた。
雨の向こうに、信号が見えた。赤だった。
車が、ゆっくりと止まった。
止まった車の中で、雨の音だけが大きくなった。
私は、ドアの取っ手に手をかけた。
冷たかった。
引けば、開く。開けば、降りられる。降りて、傘を差して、駅まで歩いて、部屋に帰る。濡れた髪を拭いて、明日は土曜日で、月曜にはまた大教室の窓際のいちばん後ろに座る。隣の隣が空いているかどうかを、数えずにいられるかどうかを、また試す。
それが、正しいことだった。
知らない人の車に乗ってはいけない。知らない人の仕事に、首を突っ込んではいけない。綾小路くんなら、迷わずそう言う。電話をかければ、いつもの声で、降りろ、と言う。
降りろ。
私は、取っ手を握ったまま、動かなかった。
おりる、と鴨川で佐倉さんに言われてから、私は何度か、下りると降りるの二つの字を並べて考えた。乗り物から外に出るのは、どちらの字だったか。考えるまでもない。降りる、の方だ。
一年生の秋、非常階段で、あの人は、階段を降りながら言った。
《一つだけ約束しろ。降りるな》
あの時、私は、その言葉の意味が分からなかった。今も、全部が分かっているわけではない。ただ、今、この取っ手を引くことが、あの人の言った《降りる》と同じ字で書かれることだけは、分かった。
信号が、青に変わった。
私は、取っ手から手を離した。
車が、また走り出した。
潤さんは、何も言わなかった。何も言わなかったけれど、ハンドルを握る指が、一度だけ、楽しそうに叩いた。
「……一つだけ、訊いてもいいですか」
「いいよ」
「その子は、どうして連れ出されなければならないんですか」
「さあ」
潤さんは、肩をすくめた。
「教えてもいいけど、教えたら、あんたは中に入る前に、その子のことを決めちゃうでしょ。かわいそうな子なのか、悪い子なのか。決めてから会うと、顔が見えなくなる。あたしは、あんたにその子の顔を見てほしいんだよ」
顔を見てほしい、と言われた。
人の顔を見ること。私が高校の三年間で、いちばん下手だったこと。いちばん下手なまま、卒業してしまったこと。
「……分かりました」
「分かってないでしょ」
「分かっていません」
「いいね。正直だ」
潤さんは、また笑った。
「どうして、潤さんが自分で入らないんですか」
「あたしが入ったら、話が早すぎるんだよ」
潤さんは、あっさり言った。
「早すぎて、学校が一個なくなっちゃう。それはさすがに、頼んだ人も困るでしょ」
冗談なのかどうか、分からなかった。分からなかったけれど、この人が言うと、冗談の方が少しだけ嘘くさく聞こえた。
「学校の名前は」
「
澄んだ百合。名前だけを聞けば、白くて、静かで、汚れのない場所だった。名前というのは、たいてい、中身より少しだけ図々しい。大学の図書館で、人のいない路地の写真集を開いた日に、そう思ったことがある。
車は、町の明かりを抜けた。
道の両側から、建物が減っていった。代わりに、黒い山の影が、雨の向こうに浮かんできた。街灯の間隔が、少しずつ広くなっていった。
私は、膝の上の鞄を見下ろした。
鞄の底に、ノートが入っている。いちばん後ろのページに、十一桁の数字が書いてある。もう、紙を見なくても、指が覚えている数字だ。
かけてもいい、と思った。
かけて、今どこにいるのかを話せば、綾小路くんは、たぶん、すぐに答えをくれる。正しい答えを。降りろ、と。
かけなかった。
かけないことを、決めたわけではなかった。ただ、今かけたら、降りろと言われてから降りないことになる。それは、言われる前に降りないことより、少しだけ、ずるい気がした。
ずるい。狡い、という字には、獣の偏がついている。獣は、ずるくない。言い訳を用意してから動くのは、人間だけだ。降りろと言われるのを待ってから降りないのは、言い訳を先に用意しておくことだった。
窓に、雨が当たって流れていた。流れた雨の向こうに、自分の顔が映っていた。
楽そうな顔ではなかった。
どれくらい走ったのかは、時計を見なかった。
道が、一本の長い塀に沿って、曲がった。
塀は、高かった。雨に濡れて黒く光る石の塀が、道の左側に、どこまでも続いていた。上に、鉄の忍び返しが並んでいた。外から入るのを拒むための形なのか、中から出るのを拒むための形なのか、暗くて、どちらを向いているのか分からなかった。
あの学校の塀も、こういう高さだった。
内側にいた時は、気にならなかった。外から見ると、ずいぶん高いのだと、初めて知った。
車が、速さを落とした。
塀が途切れて、門があった。鉄の門は、固く閉じていた。門の脇の小さな屋根の下に、明かりが一つ点いていた。
明かりの下に、人が一人、立っていた。
黒いセーラー服を着ていた。
雨に濡れたスカートの裾を、両手で少しだけ持ち上げて、水たまりを避けるように立っていた。細くて、目立たなくて、誰にでも似ている顔だった。
車が止まった。
明かりの下の人と、目が合った。
その人は、少しのあいだ、私の顔を見ていた。見て、それから、何かを諦めたような顔で、小さく溜め息をついた。
「……どうして、きみがいるの」
聞き慣れた、普通すぎる声だった。
隣の隣に座る男の声だった。
潤さんが、運転席で、腹を抱えて笑っていた。
私は、窓を少しだけ下ろした。
「勘だそうよ」
「……だろうね」
彼は、セーラー服の襟を指で直した。直してから、直したことを後悔するような顔をした。
「潤さんに会ったら、最後まで付き合うしかないんだよ。ぼくは、気がついたら、もう乗せられてた」
「私は、途中で降りられたわ」
「降りなかったんだ」
「ええ」
彼は、少しだけ首を傾げた。傾げたまま、何も言わなかった。言わないことを選んだように見えた。
私は、ドアを開けた。
開けて、雨の中に出た。
これは、降りる、とは書かない。
着く、と書く。
少しだけ下ろしていた窓は、出る前に、上げておいた。ドアを閉めると、雨の音が、急に大きくなった。運転席の潤さんの顔は、濡れた硝子の向こうで、輪郭しか見えなかった。
私は、門の脇の小さな屋根の下まで歩いた。彼が、半歩、横にずれて、屋根の端を空けた。
車までは、十歩ほどあった。雨が、屋根を叩いていた。その下で、エンジンの低い音が、続いていた。ここで話す声は、閉じた窓の向こうまでは、届かない。
届かないところまで来てから、私は、彼の方を向いた。
一週間ぶりだった。
五月の終わりの大教室では、訊かなかった。包帯の腕を前にして、別のことばかり訊いた。訊かなかったことは、この一週間、隣の隣が空くたびに、少しずつ重くなった。空いた席に向かって訊くわけにもいかなかった。
「一つ、訊いてもいい」
「どうぞ」
「零崎、という名前を、知っている?」
彼の指が、セーラー服の襟の上で、止まった。
止まっていたのは、一拍だけだった。
「……どこで聞いたの」
「鴨川で。そう名乗った人がいたわ。背の高い、眼鏡の男の人。零崎双識、と」
誰と一緒にいたのかは、言わなかった。言えば、佐倉さんの名前を、ここで渡すことになる。
彼は、門の明かりの下で、しばらく黙っていた。雨が、黒い襟の上で、玉になって転がった。
「その人は、ほかに何か言ってた?」
「弟が、この町にいるらしい、と。会えずじまいだ、とも」
「そう」
彼は、それだけ言った。
言ってから、ほんの少しだけ、口の端が動いた。笑ったのか、別の何かなのか、私には分からなかった。
「知っているのね」
「一人だけ。名字が同じ人を」
「その人は、誰」
「知らないことにしてる」
五月の大教室で、包帯を巻いた腕のまま言われたのと、同じ言い方だった。
知らないことにしている。それは、知っている人の言い方だと、あの日、私は思った。今日も、そう思った。思ったけれど、それ以上は訊かなかった。私も、鴨川で一緒にいた人の名前を言っていない。言わない者どうしで、片方だけを問い詰めるのは、公平ではなかった。
「一つだけ、言っておくよ」
彼が、門の明かりの外へ、目をやった。
「ぼくの知ってる方は、その眼鏡の人から、逃げてる。だから、もし君がまたその人に会っても、ぼくの知ってる方のことは、きっと何も分からない。……それでいいと思う」
「あなたは、それでいいの」
「ぼくが決めることじゃないからね」
答えになっていなかった。
答えになっていないことにも、もう、少しだけ慣れていた。
車の方を見た。濡れた硝子の向こうで、潤さんは、こちらを見ずに、前を向いていた。
屋根の端から、雨が、一本の線になって落ちていた。私と彼は、その線の内側に、一人分を空けて立っていた。