首というのは、頭と体をつなぐ場所だ。
つなぐ場所は、たいてい、いちばん弱い。橋の真ん中が落ちやすいように。人と人のあいだが、いちばん先に切れるように。
四月、ぼくは首を切られた死体を見た。五月、ぼくの周りで、首を絞められた人間が死んだ。
六月の今、ぼくは、首を吊る学校の門の前に立っている。
セーラー服を着て。
一週間前のことから話そう。話したくはないけれど、話さないと、ぼくがスカートを穿いている理由に、誰も納得してくれないだろうから。
その日、ぼくは大学の講義を午前で切り上げて、骨董アパートへ帰る途中だった。いつもの道の、いつもの角を曲がったところに、赤い車が停まっていた。
赤い車の横に、赤い人が立っていた。
赤い人は、ぼくを見て、にこりと笑った。笑ったまま、ぼくの方へ歩いてきた。歩いてきて、何か言った。何を言ったのかは、覚えていない。覚えているのは、首筋に当たった、硬くて冷たいものの感触だけだ。
目が覚めたら、知らない部屋にいた。
体の上に、きちんと畳まれた黒いセーラー服が置いてあった。
「あ、起きた? おはよう、いーたん」
「仕事、手伝ってもらうよ。報酬は、あたしの笑顔。破格だよ?」
破格というのは、格を破ると書く。値段の格を破るほど高いのか、安いのか。この人の笑顔に値段をつけたことはないけれど、少なくとも、ぼくの首筋の痛みと釣り合う額ではなかった。
見せられた転入の書類は、なぜか二人分あった。もう一人分の名前の欄は、空いていた。訊いても、潤さんは、そのうち埋まるよ、としか言わなかった。
仕事の中身は、こうだった。京都の外れに、塀の高い女子校がある。その中に、連れ出してほしい女の子が一人いる。男のぼくが女子校に入るには、女の子の格好をするしかない。
「どうして潤さんが入らないんですか」
「あたしが入ったら、話が早すぎるんだよ」
それ以上の説明は、なかった。なかったまま、一週間が過ぎた。
一週間のあいだに、ぼくは、スカートの裾の捌き方と、膝を揃えて座る座り方と、声を一段だけ高くする話し方を教え込まれた。教え込まれたものは、たいてい、教えた人間の形をしている。ぼくの座り方は、たぶん、哀川潤の考える女の子の座り方の形をしている。それが、本物の女の子の座り方とどれくらい違うのかは、ぼくには分からない。
分からないまま、今夜、門の前に立たされた。
ここで待ってな、と言い残して、赤い車はどこかへ消えた。
何時間か後、戻ってきた赤い車の助手席に、彼女が座っていた。
窓際のいちばん後ろの、堀北さんだった。
雨に濡れた前髪の下で、いつもの、人を見る時の目をしていた。怒っているのかと誰もが思う、あの目だ。
どうして彼女がここにいるのか、ぼくには分からなかった。分からなかったけれど、運転席で腹を抱えて笑っている人の顔を見れば、だいたいの見当はついた。
あの人に会った人間は、だいたい、どこかへ連れていかれる。
ぼくがそうだった。そして今夜、彼女もそうなった。
違うのは、ぼくは気を失って運ばれてきたのに、彼女は、目を開けたまま自分で乗ってきたらしいことだ。途中で降りられた、と彼女は言った。降りられたのに、降りなかったのだ。
降りられたのに、降りない。
それが勇気なのか、ただの意地なのか、ぼくには判断がつかない。判断がつかないものを、ぼくは判断しないことにしている。判断した途端に、それは、ぼくの言葉の形に縮んでしまうから。
五月、ぼくの近くにいた人のうち、何人かは、もうどこにも座っていない。巫女子ちゃんも、智恵ちゃんも、同じ語学の教室で、ぼくの声が届くところに座っていた。
彼女は、大教室の、窓際のいちばん後ろに座っていた。一つ空けた、隣の隣に。
そして、まだ座っている。
ぼくの近くにいて、普通のまま、普通に座っている人間。それは、ぼくにとって、首のない死体より、ずっと珍しいものだった。
珍しいものの数え方を、ぼくは知らない。知らないから、これも、判断しないでおく。
赤い車から降りた潤さんは、門の脇の通用口の鍵を、どこからか取り出した鍵で開けた。どこから取り出したのかは、訊かなかった。訊いて答えが返ってきたら、ぼくは共犯になる。訊かなければ、ただの被害者でいられる。被害者というのは、加害者よりずっと気が楽な立場だ。
「段取りは、いーたんに話したとおり。りんねちゃんは、いーたんの付き添いの転入生ってことにしといたから。明日の朝から、二人で授業に出な」
「潤さんは」
「あたしは別口で入る。何かあったら、呼べば来るよ。呼ばなくても来るけど」
それだけ言って、赤い人は、雨の向こうへ消えた。
門の内側には、ぼくと、堀北さんと、雨だけが残った。
「……一つ、訊いてもいいかしら」
彼女が、前を向いたまま言った。
「どうぞ」
「その格好、似合っていると言ってほしいの? それとも、言わないでほしいの?」
ぼくは、少しだけ考えた。
「どちらでも、同じことだと思う」
「同じではないわ」
彼女は、きっぱりと言った。
「言わない方にしておくわ」
ありがたかった。ありがたいと思ったことを、ぼくは顔に出さなかった。出さなかったけれど、彼女はたぶん、分かっていた。
戯言だけどね。
◇
通用口から入った先は、来客用の宿舎だった。
潤さんがどこで手配したのか、二本の鍵に、それぞれ、部屋番号の札がついていた。廊下の突き当たりに、扉が二つ、並んでいた。
「どっちがいい?」
彼が、鍵を二本、手のひらに載せて差し出した。
「どちらでも同じでしょう」
「同じじゃないよ。奥の部屋は、廊下を通る足音が全部聞こえる。手前の部屋は、奥の部屋に行く人間の足音が全部聞こえる」
「同じことじゃない」
「聞こえる足音の数が違う」
私は、手前の鍵を取った。
取ってから、取った理由を考えた。奥の部屋へ行く足音を、私の部屋の前で止められるからだ。誰かが彼の部屋へ行くなら、先に私の扉の前を通る。
考えてから、自分が何を考えたのかに気づいて、少しだけ、腹が立った。
部屋は、狭かった。寝台が一つ、机が一つ、窓が一つ。窓には、外から格子がはまっていた。
高校の寮の部屋も、これくらいの広さだった。格子は、なかった。なかったけれど、窓から見える景色の端には、いつも、塀があった。
濡れた服を脱いで、用意されていた寝間着に着替えた。寸法は、やはり、ぴったりだった。
寝台に腰を下ろすと、壁の向こうで、物音がした。
壁が、薄かった。
彼が、何かを床に置く音。椅子を引く音。それから、溜め息。
隣の部屋。
隣の隣ではなく、隣だった。大学の教室では、私と彼のあいだには、いつも椅子が一つあった。ここでは、壁が一枚しかない。
壁は、椅子より厚い。厚いのに、椅子よりずっと、近かった。
「……起きてる?」
壁の向こうから、声がした。
普通の大きさの声だった。普通の大きさで、壁を抜けてきた。
「起きているわ」
「そう」
それきり、声は止んだ。
訊いたのは向こうなのに、向こうは何も続けなかった。起きているかどうかを確かめて、それで用は済んだらしかった。
「何か用があったのではないの」
「ないよ。起きてるかどうか、知りたかっただけだ」
「知って、どうするの」
「どうもしない。知ってるだけだ」
知っているだけ。
綾小路くんなら、知ったことを、何かに使う。使わないことも、使い道の一つとして数える。この男は、知ったことを、知ったまま置いておく。置いておかれた方は、置かれたことにも気づかない。
「……あなたは、一週間、ここにいたの」
「ここじゃない。潤さんの用意した部屋で、スカートの捌き方を教わってた」
「どうして逃げなかったの」
壁の向こうで、少しだけ間があった。
「逃げる理由を探すのが、面倒だったんだ」
「理由がなくても、逃げられるでしょう」
「理由がないと、どこへ逃げればいいのか分からない。分からないまま走るのは、ここにいるのと、あんまり変わらない」
それは、私が四月に京都へ来た理由と、少しだけ似ていた。
似ているとは、言わなかった。
言わずに、寝台に横になった。天井の染みが、雨の音に合わせて、少しずつ形を変えていくように見えた。
「堀北さん」
「何」
「ここ、静かすぎると思わない?」
耳を澄ませた。
雨の音がした。それ以外には、何もしなかった。何百人もの女の子が寝起きしている学校の夜に、声も、足音も、扉の音もしなかった。
高校の寮の夜は、もう少しうるさかった。廊下の向こうで誰かが笑い、誰かが電話をして、誰かが規則を破って、遅くまで起きていた。破られた規則は、翌月の点数で返ってきた。返ってくると分かっていても、誰かが、いつも破っていた。
ここでは、誰も、破らないらしかった。
「……静かね」
「静かな場所は、たいてい、静かにさせられてるんだ」
彼は、それだけ言った。
言ったきり、壁の向こうから、何の音もしなくなった。
眠ったのか、眠ったふりをしているのか、分からなかった。分からなかったけれど、私は、手前の部屋を選んだことを、少しだけ、正しかったと思った。
廊下を通る足音は、その夜、一つもしなかった。
一つもしないことを、私は、朝まで数えていた。
数えるものが何もない夜を、数えて過ごしたのは、初めてだった。
翌朝、私は、黒いセーラー服を着て、知らない学校の廊下を歩いていた。
服は、潤さんが用意していた。私の体の寸法を、いつ測ったのかは分からない。分からないのに、袖の長さも、スカートの丈も、ぴったりだった。あの人の勘は、たぶん、巻き尺より正確だ。
隣を、同じ服を着た彼が歩いていた。
隣、と言っていいのかどうか、迷った。廊下は、二人並んで歩くには少しだけ狭くて、私たちのあいだには、一人分の隙間がなかった。
一つ空けずに並ぶのは、初めてだった。
初めてであることに、どちらも触れなかった。
澄百合学園の廊下は、静かだった。
朝の始業前の廊下というのは、どこの学校でも、もう少しうるさいものだと思っていた。高校の三年間、私がいた廊下は、いつも誰かの笑い声と、誰かの足音と、誰かの噂話で埋まっていた。
ここには、それがなかった。
すれ違う生徒たちは、みな、同じ黒い服を着て、同じ速さで歩いていた。誰も走らなかった。誰も大声を出さなかった。誰も、私たちの方を見なかった。
見ない、というのは、見ていないということではない。高校の隣の席の男子が、それを教えてくれた。何も見ていない顔をして、全部を見ていた人。
ここの生徒たちは、全員が、その顔をしていた。
背中が、少しだけ冷たくなった。
「……転入生を、見ないのね」
小声で言うと、彼も小声で返した。
「見てるよ。見てないふりが、上手いだけだ」
「あなたも、上手いわね」
「ぼくのは、ふりじゃない。本当に見てないんだ」
それは、自慢になるのだろうか。
ならない、と私は思った。思ったけれど、この学校の中では、本当に見ていない人間の方が、見ないふりをしている人間より、少しだけ安全な気がした。
最初の授業が始まる前に、その子は現れた。
教室に入ろうとした私たちの前に、廊下の角から、小さな体が飛び出してきた。
「あーっ! 師匠!」
小柄な女の子だった。私の肩くらいまでしか背がなかった。大きな目が、まっすぐ、隣の彼を見上げていた。
「師匠、師匠、本当に来てくれたんですね! 潤さんが、写真見せてくれてたんです! 姫ちゃん、待ちくたびれて、首が長くなっちゃいましたよ! キリンさんみたいに!」
首を長くして待つ、と言いたかったのだろう。
彼は、少しだけ固まっていた。固まったまま、その子を見下ろしていた。
「……師匠?」
「師匠です! 姫ちゃんの、師匠!」
その子は、迷いなく言い切った。
「あ、こっちの人は誰ですか? 師匠のお友達ですか? はじめまして、
私に向かって、両手を胸の前で合わせて、ぺこりと頭を下げた。
人見知りをしない子だった。
人見知り。人を見て、知ることが、怖い。そういう病気の反対側に、この子は立っていた。会った瞬間に、相手の名前を訊き、自分の名前を差し出す。差し出す速さに、ためらいがなかった。
「……堀北よ」
「ほりきたさん! 下のお名前は?」
前にも、同じことを訊かれた。京都に来て二週間目の、大学の廊下で。
「必要ないでしょう」
「必要ないんですか! じゃあ、ほりきたさんで!」
その子は、少しもがっかりした顔をしなかった。断られたことを、断られたまま受け取って、すぐに次へ進んだ。
葵井さんも、そうだった。
断られても、笑って引き下がる。引き下がって、また来る。平気なふりが上手いだけだ、と貴宮さんは言っていた。
この子は、どうなのだろう。
紫木さんは、私たちを空き教室の一つに引っ張り込んだ。
扉を閉めて、窓の外を確かめて、それから、くるりと振り返った。
「師匠、ここのこと、どれくらい知ってますか?」
「女子校だってことくらいかな」
「女子校です! でも、ただの女子校じゃないんですよ。ここ、外の人には、首吊高校って呼ばれてるんです」
首吊高校。
紫木さんは、明るい声のまま、言った。
「入った子は、みんな、首に縄をつけられるみたいに、ここから出られなくなるんです。授業で習うのは、数学とか英語とかもあるけど、ほんとに大事なのは、別の授業で。人を、こう、上手に動かなくする方法とか」
紫木さんは、両手で、何かを締めるような仕草をした。
してから、にっこり笑った。
「姫ちゃん、普通の授業はぜんぜんだめなんですけど、そっちの授業だけは、得意なんです! それだけは、自慢です!」
私は、何も言えなかった。
人を動かなくする方法を、明るい声で話す女の子。その笑い方を、私は、どこかで見たことがあった。
高校の頃。教室では、誰かの陰に隠れるように座っていた女の子が、カメラを構えた時にだけ、別人みたいに明るく笑った。
佐倉さんの、あの笑い方に、似ていた。
似ている、と思った瞬間に、私は、紫木さんの顔から目を離せなくなった。
明るい顔の後ろに、何があるのか。
佐倉さんの時、私はそれを見なかった。見ないまま、無人島の砂浜で一歩手前で止まり、教室では、佐倉さんが学校を辞めるまで、佐倉さんの奥にあるものを見ないまま過ごした。見なかったものは、何年も経って、京都の路地で、フラッシュの光の中に立っていた。
今度は、見る。
見て、何が見えても、目を逸らさない。
それくらいしか、私にはできない。できることがそれくらいしかないのなら、それだけは、最後までやる。
「ほりきたさん?」
紫木さんが、首を傾げた。
「怖い顔してますよ。姫ちゃん、何か変なこと言いました?」
「……いいえ」
私は、少しだけ顔の力を抜いた。抜き方は、まだよく分からなかった。
「これが、私の普通の顔なの」
「そうなんですか! じゃあ、怖い顔が普通なんですね! 油断大敵、敵は本能寺の変です!」
敵は本能寺にあり、と言いたかったのだろう。
隣で、彼が、小さく溜め息をついた。
「姫ちゃん。それは、たぶん、違う」
「えっ、違いますか!」
違うと言われても、紫木さんは、楽しそうだった。
始業のチャイムが鳴った。
紫木さんは、私たちを教室へ送り出してから、自分の教室へ走っていった。走る時も、足音がほとんどしなかった。
廊下に、私と彼が残った。
「師匠、と呼ばれていたわね」
「呼ばれてたね」
「心当たりは」
「ない」
彼は、即答した。
「会ったのも、今日が初めてだ。潤さんが、ぼくのことを、どう話したのかは知らないけど。ぼくは、誰かの師匠になれるような人間じゃない。誰にでも似てる顔をしてるから、たぶん、誰かと重ねてるんだと思う」
誰にでも似ている顔。
四月、大教室で初めてこの男を見た時、私もそう思った。思い出そうとすると、思い当たる顔が一つではなく、いくつも浮かぶ顔。
紫木さんには、誰の顔が浮かんだのだろう。
その誰かを、紫木さんは、師匠と呼んでいるのかもしれなかった。
「間違えられたままで、いいの」
「間違いを正すと、あの子は、師匠のいない場所に一人で立つことになる」
彼は、教室の扉に手をかけた。
「それよりは、間違えられたままの方が、ましな気がする」
それだけ言って、扉を開けた。
教室の中の、黒い服の生徒たちが、一斉に、こちらを見なかった。
見ないふりの、上手な子たちだった。見ないふりが上手な子ほど、見ていることを隠すのも上手い。
私は、彼の一つ後ろから、教室に入った。
一つ空けずに。
一時間目は、数学だった。
普通の数学だった。黒板に、二次関数のグラフが描かれた。教師は、淡々と問題を解いて、淡々と次へ進んだ。生徒たちは、淡々とノートを取った。
誰も、私語をしなかった。
誰も、窓の外を見なかった。
誰も、隣の席の人間に、話しかけなかった。
私は、教室の後ろの空いた席に座った。彼は、私の隣の席に座った。教室でも、一つ空けられる席はなかった。
教室を見回した。
見回すと、見回していることを、教室じゅうに見られている気がした。誰もこちらを見ていないのに。
あの学校は、最初から、こうだったわけではない。
入学した最初の月、私たちの教室は、誰も何も知らないまま、毎日を過ごしていた。私語をして、遅刻をして、居眠りをして、それが点数になって返ってくることを、誰も知らなかった。知った時には、もう、点は消えていた。
あの学校では、全部が数えられていた。授業中の態度も、遅刻も、私語も。数えられたものは点になり、点は、そのまま生活になった。
この教室の生徒たちは、たぶん、数えられていることを、最初から知っている。
知っているから、何もしない。何もしないことが、いちばん点を失わない方法だと、知っている。
それが、私には、少しだけ懐かしかった。
懐かしいと思ったことが、少しだけ、怖かった。
窓際の前から三番目の席に、一人だけ、様子の違う生徒がいた。
着ている黒いセーラー服は、ほかの生徒と同じもののはずなのに、裾や袖のあちこちが、ずたずたに裂けていた。
その生徒は、ノートを取っていなかった。
机の上に頬をつけて、窓の外の、曇った空を見ていた。見ていたのか、見えていなかったのかは、分からなかった。
時々、唇が小さく動いた。
「……ゆらぁり」
聞き取れたのは、それだけだった。
意味のある言葉なのかどうかも、分からなかった。分からなかったけれど、教師は、その生徒を一度も注意しなかった。注意しないことに、慣れている顔だった。
隣で、彼が、ほんの少しだけ姿勢を変えた。
変えたのは、たぶん、その生徒が、ちょうど、こちらを振り返ったからだった。
目が合ったわけではなかった。その生徒の目は、私たちを通り越して、その後ろの壁を見ていた。見ていたのに、壁ではなく、私たちの首のあたりを測っているような気がした。
測られた首に、冷たいものが当たったような気がした。
当たっていない。何も当たっていない。
それでも、私は、首に手をやりそうになった。
やらなかった。手をやれば、測られていたことを認めることになる。認めたら、相手は、測った寸法を確かめに来る。そういう相手だと、なぜか分かった。
その生徒は、すぐに窓の外へ顔を戻した。
「……ゆらぁりぃ」
さっきより、少しだけ長かった。
昼休み、紫木さんは、また私たちを空き教室へ引っ張っていった。
購買で買ってきたという菓子パンを三つ、机の上に並べた。一つを彼に、一つを私に、一つを自分に。
「師匠と、ほりきたさんと、姫ちゃんの分です! 三人で、三つ! 女三人寄れば文殊の知恵です!」
「それは、たぶん、二つ混ざってる」
「どっちでも、三人いれば何とかなるってことです!」
女が三人寄れば姦しい。三人寄れば文殊の知恵。二つのことわざが、紫木さんの口の中で一つに混ざっていた。姦しい、という字には、女が三つ入っている。ここにいる三人のうち、本物の女は二人しかいない。混ざった方が、今の私たちには合っている気がした。
紫木さんは、菓子パンの袋を破った。破る手つきが、ひどく器用だった。袋の口を、指先だけで、まっすぐに裂いた。
私は、菓子パンを手に取ったまま、紫木さんを見ていた。
「紫木さん」
「姫ちゃんでいいですよ?」
「紫木さん。あなたは、ここを出たいの」
紫木さんの手が、一瞬だけ止まった。
止まって、すぐにまた動いた。菓子パンを一口かじって、もぐもぐと噛んで、飲み込んでから、答えた。
「出たいです!」
迷いのない声だった。
迷いのない声のまま、紫木さんは、少しだけ首を傾げた。
「でも、出たら、姫ちゃん、何をすればいいのか分からないです。ここでは、姫ちゃん、得意なことがあるけど、外に出たら、それ、使っちゃいけないんですよね? 使っちゃいけないものしか持ってない子が、外で、何をすればいいんでしょう」
私は、答えられなかった。
持ってきたものが、外では使えない。
あの学校で、私は、点数というものの数え方と、教室で黙っている方法を覚えた。覚えたものを持って、京都へ来た。京都では、点数で暮らしは決まらないし、黙っていても、誰も数えてはくれなかった。
持ってきたものの使い道がないまま、二か月あまりが過ぎた。
使い道がないから、使わずに、窓際のいちばん後ろに座っていた。
「……分からないわ」
それが、私に言える、いちばん本当のことだった。
「私も、分からないまま、外に出たの。出てから、ずっと分からないままでいる」
紫木さんは、私の顔を、まっすぐに見た。
明るい目だった。明るいのに、その奥で、何かが静かに数を数えているような目だった。
「ほりきたさんも、出てきた人なんですね」
「ええ」
「出てきて、よかったですか?」
訊かれて、すぐには答えられなかった。
よかった、と言えるほど、京都で何かを得たわけではない。悪かった、と言えるほど、あの学校に戻りたいわけでもない。
「よかったかどうかは、まだ決めていないわ」
「まだ、なんですね」
紫木さんは、なぜか、嬉しそうに笑った。
「まだ、なら、姫ちゃんも、まだでいいです」
まだ、と、もう。どちらも、時間の途中に立っている言葉だ。鴨川で佐倉さんと会った日に、私は一度、その二つの言葉を並べたことがある。
紫木さんの、まだ、は、楽そうには聞こえなかった。
聞こえなかったけれど、紫木さんは、楽しそうだった。
隣で、彼が、菓子パンを半分だけ食べて、袋に戻していた。
「師匠、全部食べないんですか?」
「あとで食べるよ」
「あとって、いつですか?」
「ここを出てから」
紫木さんは、目を丸くして、それから、声を上げて笑った。
放課後、雨は上がっていた。
校舎の外に出ると、濡れた中庭の石畳が、夕方の光を、薄く照り返していた。
潤さんからの連絡はなかった。呼べば来る、呼ばなくても来る、と言っていた人は、今日一日、一度も姿を見せなかった。
紫木さんは、寮の門限があるからと言って、先に戻っていった。戻り際に、明日も師匠のところに来ます、と三回言った。
中庭に、私と彼が残った。
「あの子を、どうやって連れ出すの」
「さあ。いつ、どうやって連れ出すかは、潤さんが決める。ぼくは、それを聞かされていない」
「それまで、あなたは何をするの」
「何もしない。あの子の隣にいるだけだ。師匠だと思われているうちは、隣にいられる。それ以上のことは、ぼくにはできない」
できない、と言う時の彼の声は、いつも、少しも悔しそうではなかった。
できないことを、できないと言える人間は、強いのだろうか。それとも、できないことを、最初から諦めているだけなのだろうか。
「隣にいるだけ、というのは、何もしないのと同じではないの」
「違うよ」
彼は、濡れた石畳の上の、水たまりを避けもせずに立っていた。
「何もしない人間は、どこにいても同じだ。隣にいるだけの人間は、隣にいないと、いないことになる。あの子は、明日の朝、師匠がまだいるかどうかを確かめに来る。来て、いたら、それで一日分は足りる」
「一日分」
「一日分ずつしか、足りないんだ。ぼくがあげられるのは」
一日分ずつ。
私は、窓際のいちばん後ろの、隣の隣の席を思い出した。月曜も、水曜も、金曜も、来たかどうかを数えていた席。来た日は、それで一日分が足りていたのだろうか。
認めたくなかった。認めたくないことの方が、たいてい、先に分かる。
答えを出す前に、足音がした。
石畳の上を、まっすぐにこちらへ向かってくる足音だった。急いでいない。かといって、迷ってもいない。行き先を、最初から決めている人間の足音だった。
振り返ると、一人の生徒が立っていた。
同じ黒いセーラー服を、ほかの誰よりも整然と着ていた。顔立ちは、穏やかだった。穏やかなのに、目だけが、こちらの全部を、すでに数え終えたような静けさをしていた。
その生徒は、私たちの三歩手前で、ぴたりと止まった。
三歩。手を伸ばしても届かず、踏み出せば一息で詰められる距離。
「転入生のお二人ですね」
声も、穏やかだった。
「
まとめ役、と彼女は言った。
その言葉の選び方に、私は、なぜか、高校の頃の誰かを思い出した。杖をついて、盤面の全部を、笑いながら見下ろしていた人。
「お話というのは」
私が訊くと、萩原さんは、にっこりと笑った。
「あなた方が、何のためにここへ来たのか。それを、確かめさせていただきたいのです」
隣で、彼が、小さく息を吐いた。
何かを言い出す前の、息の吐き方に聞こえた。