新章開幕です。
第二十九話〜二組目〜
長かった夏休みが完全に明け、吉祥学苑には本格的な秋の気配と、二学期の始まりを告げる活気が戻ってきた。
始業式の日の放課後、クラスメイトたちが部活動や買い出しへと散っていく中、三年四組の教室にはどこか心地よい、だけど少しだけ変化した日常の空気が流れている。
吉川と杏子が廊下で笑い合いながら歩いていく様子を、教室の特等席から見つめる麗美。
そして教壇を片付け、出席簿を小脇に抱えた鬼塚が、誰もいなくなったタイミングを見計らって麗美の席へと近づく。
「おい神崎。二学期も始まったし、お前、あんまり学校で変なアピールすんなよな?」
「ふふ、だから誰も見ていないって言ったでしょう、鬼塚先生。それとも……また『女の子特有の理由』で、みやびに支えてもらわなきゃいけないような熱い夜を、プレハブで過ごしたいのかしら?」
「て、てめぇ……っ!」
赤面して絶句する鬼塚を、麗美は最高に幸せそうに見つめ返す。
前の世界のすべての絶望を過去へと置き去りにし、完璧に書き換えた二人の絆。
この二学期、どんな運命の歯車が回ろうとも、二人の愛の計算式が破綻することはない。
「さっ、今日もあたし達の愛の巣に早く行きましょ?」
「ちょっ!? お、お前よぉ……誰もいないからってでかい声で愛の巣とか言うなつーの……」
先導していく麗美を鬼塚は血相を変えて追いかけていく。
その後、二人がいつもの展開になったのは言うまでもない……
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次の日
吉川は、両手を使い、慎重に段ボール箱を運んでいた。
中には大量のゲームソフトのケースが入っている。
鬼塚に「今日どうしてもやりたいやつがあるから、家にあるやつ全部持ってこい」と言われ、断りきれずに学校へ持ち込んだ結果だった。
前が見えない。
足下だけを確認しながら、ゆっくりと角を曲がろうとした、その瞬間だった。
「……っ!」
柔らかい感触が、胸のあたりにぶつかった。
同時に、積み上げていたケースが崩れ落ちる。
カシャ、カシャ、と乾いた音が廊下に響き、ゲームソフトが床一面に散らばった。
「ご、ごめん……!」
慌てて顔を上げると、そこにいたのは杏子だった。
制服のスカートの裾が、わずかに揺れている。
杏子は、散らばったソフトを見下ろして、ジト目で小さく舌打ちした。
「……まったく。前も見えないで歩くからよ」
「ご、ごめん……上原さん」
吉川は、すぐに膝をつき、一つずつケースを拾い始めた。
杏子も、しばらく呆れたように見ていたが、やがて小さく息を吐いて、隣にしゃがみ込んだ。
「……ほら、そこ。裏に落ちてる」
「あ、ありがとう」
二人は、無言でソフトを集め続けた。
廊下を通りかかる生徒たちが、ちらちらとこちらを見る。
吉川は、顔が熱くなるのを感じながら、必死に手を動かした。
全部拾い終える頃には、両手いっぱいにケースが戻っていた。
「……ありがとう、上原さん。助かったよ」
吉川は、素直に頭を下げた。
杏子は、少し視線を逸らした。
「……別に。ただ、邪魔だったから拾っただけよ」
「それでも、ありがとう」
「そう……気をつけなさいよね」
「うん。 それじゃあね」
吉川は、そう言って一度だけ微笑むと、ソフトを抱え直して再び歩き出した。
杏子は、その背中を見送った。
その時、床に一つだけケースが残っていることに気がつく。
彼女は、それを拾い上げた。
表紙には、戦国時代を舞台にしたダークなアクションゲームのタイトルが書かれていた。
化け物が人を襲うような、血の匂いのするようなイラストが描かれている。
(……吉川って…こんなのやってるの?)
興味が、ふと湧いた。
吉川は、もう角を曲がって見えなくなっている。
杏子は、ケースを鞄に仕舞い、そのまま家路についた。
自宅の自室。
杏子は、制服を着替えてから、さっきのゲームを起動した。
画面が暗くなり、重いBGMが流れ始める。
最初はただの時代劇風の雰囲気だったが、すぐに異形の敵が現れ、容赦ない攻撃を仕掛けてくる。
血飛沫の演出が画面いっぱいに広がり、杏子は思わずコントローラーを握りしめた。
「……っ!?」
心臓が、跳ねる。
操作に慣れる間もなく、敵の攻撃をまともに受けてしまった。
それを繰り返す内、画面が赤く染まり、ゲームオーバーの文字が表示される。
「……は?」
杏子は、呆然と画面を見つめた。
もう一度挑戦する。
しかし、またすぐにやられる。
三度目も、四度目も、同じだった。
涙目になりながら、コントローラーをソファに投げつけそうになった。
「……な、何が楽しいのよ、こんなの……! 速攻で死ぬし……怖いし……全然面白くないじゃない……!」
声が、震えている。
息が、荒い。
指先が、まだ少し震えている。
中学生の女子がやるには、あまりにも容赦がなく、ただ怖いだけのゲームだった。
その時、携帯が鳴った。
画面には、吉川の名前が表示されている。
「……もしもし」
「あ、上原さん? あの、さっき学校で……ゲーム、一つ持って帰った?」
吉川の声が、少し焦っている。
「……持って帰ったわよ。なんで?」
「それ、先生が今日どうしてもやりたいって言ってたやつで……できれば、今からでも返してほしいんだけど」
杏子は、時計を見た。
まだ夕方だ。
「……直ぐ……30分……いや、1時間待って」
「え、えー!? そんなに!?」
「うるさいわね。女の子は、色々時間がかかるのよ」
杏子は、そう言って電話を切った。
心臓が、まだ少し早鐘を打っている。
彼女は、鏡の前に立った。
シャワーを浴び、髪を乾かし、丁寧に化粧をし、母親の香水までつけた。
クローゼットから、一番気に入っているワンピースを取り出す。
鏡に映る自分を見て、小さく息を吐いた。
(……何してるのよ、あたし……いくら吉川のことが好きだからって、ただ会うだけでこんな時間かけなくても……)
それでも、手は止まらなかった。
一時間後。
約束の公園に着くと、吉川がベンチに座っていた。
杏子が近づくと、彼は顔を上げた。
「……お待たせ」
「……ううん。僕もさっき来たとこだから」
吉川の視線が、杏子の姿に留まる。
少し、間があった。
「……そ、その……上原さん……服……すごく似合ってる」
「……っ。 別に、ただ着ただけよ////」
杏子は、顔を逸らした。
でも、口元が少し緩んでいる。
吉川は、ゲームのケースを受け取りながら、小さく笑った。
「……ありがとう。これで先生も喜ぶよ」
「……で、これからどうするの」
「……先生のところにこのまま持っていくつもりだったけど……上原さん、もしよかったら、夏祭り、一緒に行かない?」
杏子は、少し驚いた顔をした。
「……夏祭り?」
「うん。この近くでやってるって聞いたから。上原さんが、嫌じゃなければ」
杏子は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……いいわよ。せっかく来たんだから」
二人は、公園を出て、祭り会場の方へ歩き出した。
夕暮れの空が、少しずつ橙色に染まっていく。
夏祭りの会場は、すでに人で溢れていた。
屋台の匂いが、風に乗って漂ってくる。
杏子は、吉川の少し後ろを歩きながら、周囲を見回した。
金魚すくい、射的、綿あめ。
どこも、楽しそうな声が聞こえる。
「……何が食べたい?」
吉川が、振り返って聞いた。
「……別に。何でもいいわよ」
「じゃあ、とりあえず焼きそばで」
二人は、屋台の前に並んだ。
焼きそばを受け取り、少し離れたベンチに座る。
杏子は、ソースの匂いを嗅ぎながら、小さく一口食べた。
「……美味しい」
「よかった」
吉川も、隣で食べている。
二人の間に、少しだけ距離がある。
でも、嫌な距離ではなかった。
その後、二人は射的に挑戦した。
吉川が先に打ち、景品の小さなぬいぐるみを当てる。
杏子は、それを見て少し驚いた顔をした。
「……上手いのね」
「……ゲームやってると、こういうのも少しは」
吉川は、照れくさそうに笑った。
杏子は、自分も挑戦した。
何発か外した後、ようやく小さなキーホルダーを当てる。
「……やった!」
小さく、喜ぶ。
吉川が、それを見て微笑んだ。
「上原さん、嬉しそう」
「……べ、別に……」
杏子は、視線を逸らした。
でも、手に持ったキーホルダーを、何度も見ていた。
夜が更ける頃、二人は堤防沿いに出ていた。
祭り会場の音が、遠くなっている。
杏子は、自分のワンピースの裾を、指で軽く摘んだ。
「……吉川」
「……うん」
「……あの電話の後、シャワーも浴びて、化粧もして、お母さんの香水もかけて、服も一番気に入ってるの着てきたんだけど……改めて……どう……かな?」
杏子の声が小さかった。
顔がすでに赤い。
吉川は杏子を見た。
少し間を置いてから、視線を泳がせながら答えた。
「……う、うん……良い匂いもするし、服も似合ってるよ。……そ、その……う、上原さん……いつも以上に可愛いなって……」
杏子の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まった。
「……っ……バカ……そこまで聞いてないっての……」
小さく、そう呟いた。
二人は、しばらく無言で歩いた。
杏子が、小さく息を吸った。
「……吉川」
「……うん」
杏子は、視線を少し落とした。
「……今日色々してきたけどさ……それは、ただの気分じゃなくて……あんたに、ちゃんと見てほしかったから。……今日、夏祭りに誘ってくれたのも嬉しかったし……このまま何も言わないで終わらせたくないって、思ったの」
声が、少し震えていた。
「……だからあたし今日……自分に素直になってみる……あたしはあんたのこと――」
「……待って」
吉川が、静かに遮った。
杏子は、驚いて彼を見た。
吉川は、少し視線を落としたあと、杏子の目を真っ直ぐに見た。
「……上原さん、こんな僕だけど……こういう時くらい、男らしくさせて」
杏子の目が、見開かれた。
吉川は、小さく息を吸ってから続けた。
声が、少し震えていた。
「……上原さんが変わってから、ずっと君のことが気になってた。僕のために怒ってくれたり、怪我した僕を病院まで連れてきてくれたときも沖縄で一緒に遊べたことも……全部嬉しかった。 だから、ちゃんと僕から伝えたい……上原さんのこと、好きだよ。友達としてじゃなくて、一人の女の子として」
「!?……」
杏子は、何も言えなかった。
目の奥が、熱くなる。
「……バカ」
小さく、そう言った。
声が、震えていた。
「……ごめん」
「……謝らないでよ……」
杏子は、視線を逸らした。
目元を、袖で軽く拭う。
「……吉川、私も……あんたのこと……好き、だよ」
小さく、そう言った。
吉川の目が、少し見開かれた。
「……上原さん」
「……言ったから。もう、取り消せないから」
杏子は、顔を赤くしたまま、吉川を見た。
目が、少し潤んでいる。
吉川は、ゆっくりと杏子の肩に手を置いた。
「……い、いいの?」
「……当たり前でしょ」
杏子は、小さく頷いた。
吉川が、少しだけ距離を詰める。
杏子は、目を閉じた。
唇が、触れた。
短くて、少しぎこちないキスだった。
でも、離れたあと、杏子の目から一筋、涙がこぼれた。
「……バカ」
また、そう言った。
でも、笑顔だった。
吉川は、小さく笑った。
「……ごめん」
「……謝らないで」
二人は、また歩き出した。
杏子の手は、吉川の腕を掴んだままだった。
夏祭りの音が、遠くで聞こえている。
顔は、まだ熱いままだった。
でも、もう怖くはなかった。
しばらく歩いたあと、吉川が小さく口を開いた。
「……そろそろ、先生に渡しに行かなきゃ」
ゲームのケースを、軽く持ち上げる。
杏子は、それを見て少しだけ目を見開いた。
「……あっ! 私も一緒に行く」
「……?」
吉川が、不思議そうに彼女を見た。
杏子は、視線を少し逸らした。
「……実は、前から鬼塚先生と麗美に、相談してたんだ。……あんたのことについて」
「……相談?」
「うん。四月の時からね、どうしたらいいか、わからなくて。素直になれないし、怖くて……それで、何度か屋上のプレハブ小屋に行って、話を聞いてもらってた」
杏子は、小さく息を吐いた。
「……そのうち、麗美とは名前で呼び合うようになって。色々、話してくれたから」
吉川は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……そうだったんだ」
「……だから、付き合ったこと、ちゃんと伝えに行きたい。あいつら恋人の先輩、ってことになるでしょ」
杏子は、顔を赤くしたまま言った。
吉川は、少し笑った。
「……うん。じゃあ、一緒に行こう」
二人は、方向を変えて学校の方へ歩き出した。
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屋上のプレハブ小屋は、まだ明かりがついていた。
ドアをノックすると、中から鬼塚の声がした。
「……おう、開けてるぞ」
杏子が先に入ると、ソファに鬼塚と麗美が並んで座っていた。
麗美は、鬼塚の肩にいつものようにもたれかかっている。
「……杏子? 吉川くんも。どうしたの、こんな時間に」
麗美が、静かに言った。
杏子は、持っていたゲームのケースを差し出した。
「……はいこれ。鬼塚がやりたいっていってたやつ」
「おう、サンキュー。助かったぜ」
鬼塚が受け取る。
杏子は、少し息を吸った。
「……それと……報告があるの」
「……何だ?」
「……あたしと吉川、付き合うことになった」
プレハブの中が、少し静まった。
鬼塚は、ゲームのケースを持ったまま、二人を交互に見た。
「……ほーう」
短く、そう言っただけだった。
麗美は、わずかに目を細めた。
「……そう。よかったわね」
声は静かだったが、どこか納得したような響きがあった。
杏子は、顔を赤くしたまま続けた。
「……夏祭りで、色々あって。吉川が……告白してくれて」
吉川は、小さく頷いた。
「……はい。僕から言いました」
鬼塚が、ゲームのケースをテーブルに置くと、頭を軽く掻いた。
「……まあ、お前が何度も相談に来てたからな。そのうちそうなるとは思ってたけどよ。 だいぶ時間が掛かったな」
「……っ。う、うるさい」
杏子が、即座に言い返す。
麗美が、小さく笑った。
「……杏子が、ちゃんと自分の気持ちと素直に向き合えたみたいで良かった」
「……うん。ありがとう、麗美」
杏子は、視線を落とした。
鬼塚は、吉川の方を見た。
「……吉川。お前も、よく言ったな」
「……はい」
「まあ、これからはちゃんとやれよ。中途半端なことすんじゃねえぞ」
鬼塚の言い方は相変わらず荒っぽかったが、どこか認めたような空気があった。
麗美が、杏子を見た。
「……あんた達は無理しなくていいから。 ゆっくりと幸せになりなさい」
「……うん」
杏子は、小さく頷いた。
吉川も、静かに頭を下げた。
「……ありがとうございます」
プレハブの中に、少しだけ温かい空気が流れた。
杏子は、吉川の隣に立ったまま、小さく息を吐いた。
胸の奥が、まだ熱いままだった。
でも、嫌じゃなかった。
窓の外では、夏祭りの音が、まだ遠くで聞こえていた。
この日、両思いだった二人が漸く結ばれた。
こうして始まった運命の二学期、吉祥学苑に【和久井繭】が現れるその直前へと、物語の舞台は完全に整っていくのだった。