繭編です。
新学期が始まってから数日が経過した。
中等部職員室では、相変わらずハゲ頭のザビエル校長が「鬼塚先生ぇ! 二学期こそは問題を起こさないでくださいよ!?」と神経質にキイキイと叫んでいた。
そして、その横では、あの四月の失禁の件で鬼塚への恐怖を骨の髄まで叩き込まれ、一度は胃薬を手放せなくなっていた同じくハゲの教頭・内山田も、ザビエル校長に同調するように立ち上がった。
ザビエル校長と、鬼塚への恐怖から奇跡の復活を遂げた内山田の二人が、ハゲ頭に血管をピキピキと浮かび上がらせながら、職員室に響き渡る声で同時に絶叫する。
「いいですか鬼塚先生!! 二学期ですよ! 二学期!! 今度こそ、私の大事なクレスタに傷をつけるような真似は絶対に許しませんからね!!」
「そうですとも鬼塚先生ぇ!! 一学期の不祥事の数々、私の毛根はもう限界なんです!! 頼むから大人しくしてくださいよぉぉ!!」
そんな二人の、ハゲ頭が並んだツイン絶叫を、鬼塚英吉は目の下の隈をさすりながら「へーへー、分かってますって」と適当に聞き流し、出席簿を片手に職員室を後にする。
廊下に出た鬼塚が頭をガシガシと掻きむしりながら歩いていると、カツカツ、と聞き覚えのある小気味良い足音が近づいてきた。
制服姿の麗美だ。
周囲に他の教師や生徒の目が一切ないことを瞬時に確認すると、彼女はオッドアイの瞳を悪戯っぽく細め、すっと鬼塚の隣に並んで歩幅を合わせた。
「おはよ、鬼塚先生。……朝からどうしたの? 随分とだらしない顔をしてるわね」
「て、てめ、神崎……! 学校の廊下で急に距離詰めてくんなっての。さっきザビエルと内山田のハゲダブルに怒鳴られて頭が痛ぇんだよ」
「それはご愁傷様。 ふふ、誰も見ていないわよ。あたしの計算に狂いはないわ。……それに、沖縄のあの夜、あんなに激しく愛し合った仲なのに、今更そんなに距離を置かなくてもいいじゃない、英吉。 ついこの間もあんなことやこn」
「ス、ストーーーップ!! 蒸し返すなバカ野郎! ここは学校内だっつーの!」
顔を真っ赤にして慌てて周囲をキョロキョロと見回す鬼塚。
そんな純情すぎるダーリンの手を、麗美は片手で軽く払うと、その手のひらを自分の胸元、かつて一線を越えた夜に彼が触れた場所にそっと重ねた。
薄い制服の生地越しに、彼女の規則正しくも少し速い心音がダイレクトに伝わってくる。
「からかっているわけじゃないわ。……あんたのぬくもりを確かめないと、あたしの心臓の計算式が落ち着かなくてね。……じゃあ、教室でね。 え、い、き、ち❤️」
最後の方は耳元で囁き、満足そうに微笑むと、麗美はすっと身体を離して一足先に教室へと向かっていった。
その背中を見送りながら、鬼塚は男としてのニヤケ顔を引き締めつつも、胸に宿る愛おしさと責任感を強く噛みしめた。
今の二人の絆は、言葉通りの「運命共同体」なのだ。
だが、平穏な三年四組の日常を切り裂くように、その男は不意に教室へ現れた。
精神安定剤(トリプトファン)の錠剤をパキリと指先で弾き、冷笑的な笑みを浮かべる美少年――和久井繭。
彼の家庭環境の全貌は謎に包まれているが、父親が何らかの深刻な不正や汚職を働いており、冷え切った仮面夫婦の歪みの中で、彼は大量のトリプトファンを常用しなければならないほど情緒不安定に追い込まれていた。
それが原因で長らく不登校となり、自宅にも帰らず、夜の街で多くの不良たちを飼い慣らして好き放題に荒れる日々を送っていた、もう一人の孤独な天才児。
そんな彼が、三年四組の中で唯一、その卓越した知性を認めて部分的に心を許し、自らの歪んだ心情を語っていた相手が、菊地善人だった。
不登校だった彼が急に三年四組の教室のドアを開け、傲慢な態度でクラスメイトを見下したその瞬間、教室の空気が一気に張り詰める。
「……ふん。相変わらずくだらない馴れ合いをしてるんだね、君たちは」
冷たく吐き捨てる繭。
だが、その言葉が終わるより早く、窓際の席に座っていた麗美がフッと冷徹な笑みを浮かべて立ち上がった。
鬼塚の恋人としての絶対的な余裕を身につけた今の彼女にとって、和久井繭の繰り出す「大人の闇を使った嫌がらせ」など、児戯に等しかった。
麗美はカツカツと歩み寄り、繭の目の前でピタリと足を止める。
「あら、久しぶりね、和久井くん。何をしに現れたのかは知らないけど、相変わらず、その安っぽい精神安定剤に脳みそを溶かされているのかしら?」
「……何だと? 神崎麗美……。不登校で俺と殆ど顔も合わせて居なかった君に俺の何が分かるっていうんだ?」
繭が不快そうに目を細めた瞬間、麗美は彼の耳元へと顔を近づけ、周囲には絶対に聞こえない冷たい小声で囁いた。
「不登校だったのはお互い様でしょ? データはすべて揃っているわ。あんたの父親が関わっている薬剤不正の証拠も、あんたが裏で不良どもを動かして何を企んでいるかも……あたしと菊地の手にかかれば、数秒でネットの海の藻屑にできる。……あたしの邪魔をするなら、あんたのその歪んだ復讐計画ごと、物理的に叩き潰してあげるわ」
「っ……!? 君、何を言って——」
初めて見る、冷酷で、だけど絶対的な「強者」の瞳をした麗美に、あの傲慢な繭が、本能的な恐怖で息を呑む。
そんな一触即発の空気を破ったのは、みやびだった。
「ちょっと繭。あんた相変わらずトゲトゲしちゃって見苦しいわよ。せっかくの新学期なんだから、そのひねくれた態度、少しは引っ込めたら?」
その言葉を聞いた瞬間、繭の脳裏に激しい違和感と苛立ちが突き刺さった。
(……何だ? この違和感は。……みやび、君は僕と同じ側の人間のはずだろ?)
大人の汚濁を憎み、とりわけ教師という人種を最も激しく嫌悪していた急先鋒のはずの彼女が今、まるで鬼塚を守るかのように、自分を牽制する言葉を口にしている。
「……意外だね、みやび。君がそんな風に、大人の、それもただの暴力教師の肩を持つなんて。……去年あんなことがあったのにさ……それがいつからそんなに飼い慣らされたんだい?」
繭の言葉には、明らかな苛立ちと軽蔑が混じっていた。
昔から自分と同じように大人の汚さに絶望し、心を閉ざしていたはずの「みやび」が、あからさまに鬼塚を庇うような態度を取っていることが許せなかった。
しかし、みやびは動じるどころか、むしろフッと、鬼塚に対する絶対的な信頼が滲む、どこか誇らしげな苦笑いを浮かべた。
「飼い慣らされた? バカ言わないで。……あのセンコーがただのクソ大人じゃないってことくらい、あたしたちはもう、この数ヶ月で嫌ってほど思い知らされたのよ。あんたそれだけ斜に構えてようが勝手だけどさ、あのグレートなバカをナメてると、大怪我するわよ、繭」
「っ……!」
みやびの口から出た、鬼塚への親愛と信頼に満ちた言葉。
それが、繭のプライドを内側から激しく逆撫した。
あの金髪の元不良男に完全に菊地を始めとしたクラスの連中、更に不登校だった天才児の麗美、そしてみやびすらもが心を救われ、信じ切っている。
その圧倒的な現実を突きつけられ、繭は拳をきつく握り締め、激しい苛立ちの表情を隠せない。
そこへ、ガラララッ! と勢いよくドアが開き、出席簿を持った鬼塚が入ってくる。
「よぉーっす野郎ども! 今日も授業を始めるぜぇ! ……って、お? 見慣れねぇツラじゃねえか。成る程〜……お前が職員室で噂になってた和久井繭か!」
鬼塚は、繭が裏で何を抱えているかを微かに察していた。
沖縄で麗美と一線を越えて「男としての覚悟」を完了させている今の鬼塚は、目の前で強がっている繭の脆い心を、本能的に鋭く見抜いている。
「和久井、お前がどれだけ大人を憎んでようが、そんなモン俺にゃ関係ねえ。お前がこのクラスで悪さしようとするなら、俺がそのひん曲がった根性ごと、叩き直してやるからよ!」
「……っ、ふん、熱血教師のフリかい? 反吐が出るよ」
繭は吐き捨てるようにして教室を去っていった。
その放課後、みやびと菊地が鬼塚と麗美の居るプレハブ小屋にやってくる。
「ちょっと良いか?」
「おう、珍しい組み合わせだな」
「どうしたの?」
「和久井の件だ」
「ほー、あのマユゲ君がどうしたって?」
「ちょっと鬼塚、それに麗美。あいつのこと、ただの不登校児だと思わない方がいいわよ」
「あ? なんだよみやび、あいつ何かあんのか?」
鬼塚の問いに、みやびは真剣な表情で声を潜めた。
「あいつ、この学苑の桜井理事長の孫なのよ。家庭環境はボロボロだけど、理事長の孫っていう立場を利用して、裏で何しでかすか分からないわ。昔のあたしみたいに、大人の裏の汚さに本気で狂ってるんだから」
「へぇ……理事長の孫ねぇ」
鬼塚は驚くが、麗美はフッと冷たい笑みを浮かべた。
「関係ないわ。理事長の孫だろうが何だろうが、英吉にちょっかいを出すなら、あたしがその羽を毟り取ってあげるだけだから」
こうして、繭の「教師への復讐劇」は、不穏な影を落としながら本格的に狂い咲くことになる。
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「おい、鬼塚! 大変だぜ!」
数日後の放課後、村井達が慌てて鬼塚の元へ駆け込んできた。
聞くと、繭が裏で繋がっている無数の不良たちを引き連れ、内山田教頭をはじめとする学苑の小心者な教師たちを拉致同然に自分たちのたまり場(地下の巨大なナイトクラブ)へと引き連れていき、監禁して「教師イジメ」のエンターテインメントを始めているというのだ。
大人の権威を徹底的に蹂躙し、体裁を破壊するための悪質なゲーム。
そこには鬼塚一人が招待されていた。
「ちっ……あのガキ、本当に良い根性してやがるな」
鬼塚は腕を組みながら舌打ちする。
「……英吉……一人で大丈夫なの? わざわざ行かなくてもあたしが裏でデータを流せば……」
前の世界でのその時の鬼塚の姿を思い出し、心配する麗美の頭を鬼塚は優しく撫で、「大丈夫だ、俺を信じろ。 ああいうヤツは直接言ってやんねえと分からねえからな」と、声を掛け、単身その不良たちのたまり場へと乗り込んだ。
薄暗い地下のナイトクラブの中には、ステージ場で縛られ、恐怖でガタガタと震える内山田教頭たちの姿と、彼らを取り囲んで冷笑を浮かべる無数の不良ども。
そして、その中心でトリプトファンの錠剤を弾きながらソファに踏んぞり返っている和久井繭がいた。
「へえ、本当に一人で来たんだね、鬼塚先生。ただ残念、あんたが来たところで、ここにいる全員を力ずくで倒すなんて、ただの傲慢さ」
「ハッ、余裕だよ。 しかしだな、俺は教師って立場上ガチのタイマンや殴り合いはクビになっちまうから出来ねえ。 だからよ……腕相撲百人抜きっつーのはどうだ?」
純粋なタイマンでの殴り合いは教師という立場上出来ない……そこで鬼塚が不敵な笑みを浮かべて提案したのは、前代未聞のデスマッチ――「腕相撲百人抜き」だった。
もし鬼塚が負ければ内山田たち諸共辞表を出して学苑から消える。
だが鬼塚が勝てば、内山田たちを解放し、鬼塚の言うことを聞く。
「面白いね。その無駄な筋肉がどれだけ持つか、見せてもらうよ」
繭の合図とともに、夜の街で好き放題やっていた屈強な不良たちが、次々と鬼塚の前に座り、その太い腕を握りしめた。
「レディー……ゴー!」
ドガァン!!!
「うおおオ次ぃぃぃ!!」
1人、5人、10人……。鬼塚の圧倒的な馬力と、生徒を守るという「鬼爆」の魂、そして、最愛の麗美の笑顔の為。
その全てが乗った拳は、どれだけ腕の太い不良が来ようとも、一撃でその腕をテーブルに叩きつけ続けた。
遅れて麗美達が来た時には腕相撲は折り返しを迎えていた。
50人を越え、70人を越える頃には、鬼塚の右腕の筋肉ははち切れんばかりに膨れ上がり、腕自体も青黒色に変色し、凄まじい熱気を放っている。
影でニヤニヤしていた不良たちも、鬼塚の放つ常軌を逸した「漢の気迫」の前に、一人、また一人と恐怖で後退りし始めた。
「な……なぜだ……。有り得ない……なぜこれだけの肉体的負荷がかかって、まだその腕が動くんだ……!」
繭の計算(シミュレーション)が、鬼塚の放つ底知れない熱量の前に、次々とエラーを弾き出し始める。
トリプトファンを握る繭の手が、初めて細かく震え出した。
そして――99人目の最強の刺客であるジェイソンが敗れ、ついに、100人目。
誰が行くかと不良たちが話すが、彼らは皆、満身創痍にも関わらずジェイソンをも倒した鬼塚の圧にやられており、ガタガタと震え、完全に戦意を喪失していた。
そんな中、残されたのは、影で全てを扇動していた和久井繭、ただ一人だった。
不良達も「お前が始めたことなんだから責任とりやがれ!」と、繭を非難し、捲し立てる。
「さあ、100人目だ。 当然、最後は和久井……いや、マユ、テメェの番だろ? そいつらの言う通り、男ならテメェのケツはテメェで拭きやがれ! ほら、さっさと上がってきやがれ!」
鬼塚は、はち切れんばかりに膨れ上がった右腕をテーブルに据え、凄まじい眼光で繭を睨みつけた。
「っ……、」
繭は立ち上がろうとしたが、その足が、本能的な恐怖で動かなかった。
目の前にいる男は、自分たちのように口先や裏工作で大人の汚さを呪うだけのガキとは違う。
自らの身体を張り、血を流し、100人分の暴力をその身で受け止めながら、生徒のために泥をすする「本物の戦闘者」だった。
それに比べて、自分はどうだ?
安全な影の特等席に隠れ、不良たちを煽って誘導し、大人が汚いだの何だのと被害者のフリをして、自分では1ミリも身体を張ろうとしなかった。
(……動けない。……これが、身体を張る者と、影で扇動する者の圧倒的な差……!)
繭は、鬼塚の前に座ることすらできず、ただその場に立ち尽くしたまま、戦わずして自らの完全なる「敗北」を思い知らされたのだった。
ポロポロと、トリプトファンのボトルが手からこぼれ落ち、床に転がる。
その圧倒的な熱量に包まれた空間の中へ、今度は麗美達と一部始終を見ていたみやびが、震える拳を固く握りしめて一歩前に進み出た。
その表情には、自らの最大の過ちと決着をつける覚悟が宿っていた。
「……みやびか……俺の負けだよ……やらなくても分かる……俺は被害者面して、結局は大人に責任を押し付けようとしただけのクソガキだったんだな……お前と違ってさ……」
「……いいえ、違うのよ、繭。傷ついたフリをしていたのは、あたしの方だったの」
みやびの突然の言葉に、繭だけでなく、村井や吉川たちも一瞬静まり返る。
「みんな、今までずっと騙していて本当にごめんなさい……っ! あたし、まだみんなに謝ってないことがある……四月にみんなを煽って鬼塚を追い出そうとした。 その前に何度も裏で暗躍して担任潰しをしたわ……でもね、そもそもあたしが本格的に教師を憎むきっかけになったあの『扇先生の性的暴行事件』……あれ、全部あたしの嘘だったのよ」
「みやび……それって……」
村井が目を見開く中、みやびの目から大粒の涙が溢れ出す。
「扇先生のことをあたしは異性として好きだったの……でもその気持ちを受け入れてもらえなくて、頭が真っ白になって……! あたしが嘘の告発文を黒板に貼り出して、悲劇のヒロインのフリをして学校中を巻き込んだの! あたしの最低な虚言のせいで、扇先生は懲戒解雇に追い込まれて破滅した……。大人が汚いんじゃない、誰よりも汚くて、醜いクズだったのは、あたし自身だったのよ!!」
声を震わせ、自らの醜い罪を涙ながらに晒し、深く頭を下げたみやび。
彼女は涙を拭うと、制服のポケットから一通の、少しシワの寄った封筒を取り出した。
「あのゴールデンウィークの謝罪の時、あたしは鬼塚と麗美に同行してもらったの。二人に見守られながら、あたしは扇先生に本当のことを話して謝罪することができた。……これはね、夏休み中に扇先生からあたしに届いた手紙なの」
みやびは震える手で、封筒の中から一枚の便箋を広げ、繭の目を真っ直ぐに見つめて、そこに書かれていた言葉を読み上げた。
『ゴールデンウィークで君の謝罪を受けて、改めて鬼塚先生や神崎さんに言われたことをずっと考えていた……あの時のことは、冷静になって考えてみると、私にも非があった……君の家庭事情や精神的な危うさを知っていながら私は君に手を差し伸べなかった……それに君の私への好意も察していながら気付かないフリをして、更には君の目の前で婚約者を自慢げに紹介したりもした……恨まれる理由には充分だろう……君を許せないという気持ちは今もまだ変わらないが、少なくとも、君だけが悪いわけではなく、私にもこうなってしまった原因はある……お互いに関係を修復するのに時間は掛かるだろうが……最善を尽くそう……私の方こそすまなかった』
「っ……!」
手紙の内容を聞いた繭は、脳を殴られたような激しい衝撃に目を見開いた。
「大人だって間違える。汚いところもある。……でもね、繭。あたしが本気で頭を下げたら、先生は……大人は、ちゃんとあたしの醜い罪に向き合って、こうして言葉を返してくれたのよ。あたしが全て悪いのにも関わらずさ……大人は全員クズなんかじゃない。クズだと決めつけて、心を閉ざして、嘘までついて、復讐に逃げていたあたしが間違っていたの! あんたまであたしみたいになる必要はないのよ!!」
みやびの命懸けの告白と、扇先生の言葉。
そしてそれを敢えて無言で、静かに受け入れる村井達の温かい沈黙。
そこへ、鬼塚がドカドカと繭の前に歩み寄り、その胸ぐらを思い切り掴み上げた。
「聞いたかよ、マユ!! みやびはなぁ、大人の汚さに絶望して引きこもったお前とは違う! 自分が犯した醜い罪と、過去の呪縛に正面から向き合って、ダチの前で頭を下げられる強さを持ってんだよ! みやびの言うようにな、大人がクズだからってよぉ、お前までクズになっていい理由にゃならねえんだよ!!」
鬼塚の拳が、繭のすぐ横の壁を激しく殴りつける。
痛む右腕で放たれたにも関わらず、凄まじい衝撃音とともに、クラブの壁が派手に陥没した。
「大人を憎むなら勝手にしやがれ! だけどな、自分の寂しさを隠すために周りを巻き込んで自暴自棄になってんじゃねえ! お前がその凍りついた殻から出てくるまで、俺が何度でもそのハゲた根性を殴り飛ばしてやる!!」
「っ……」
繭の目から、張り詰めていた糸が切れたように、ポロポロと涙が溢れ出した。
大人の汚さに絶望し、誰も信じられなかった彼が、初めて「本気で自分に向き合ってくれる大人」の存在に触れた瞬間だった。
そこに、手紙を大切に胸に抱きしめたみやびが、静かに歩み寄った。
彼女の瞳にはもう迷いはなく、自らの罪を受け入れてくれたクラスメイトたちへの深い愛と信頼が宿っていた。
みやびは繭の肩に、優しく、だけど確かな温もりを伝えるように手を置いた。
「繭。あたしもこのバカに、そして麗美に救われたの。それにみんなにもね……だから……あんたももう、一人で強がるのやめなさい」
「みやび……、みんな……っ……」
周りを見渡せば、村井達も菊地も吉川も、杏子も、誰も自分を拒絶していない。
自分が信じていた「裏切りと絶望の連鎖」が、みやびの謝罪とクラスの鉄壁の信頼、そして鬼塚の魂の咆哮によって、あまりにも綺麗に昇華されていく。
「……あ……ああ……う、ああっ……!」
繭はその場に崩れ落ち、子供のように声を上げて激しく泣きじゃくった。
前の世界ではこの時に自身の間違いを認めたものの、泣くことはなく、その後、散々鬼塚をおちょくった末、「あんたとはもう少し早く会いたかったよせんせぇー」と言い残し、自身の復讐の為にそのまましばらく学苑に姿を現さなかった繭だったが、この世界では麗美の完璧な先回りと三年四組の鉄の連帯、みやびの過去の呪縛からの本当の解放、そして鬼塚の魂の咆哮によって、繭は復讐に走ることなく、和久井繭という孤独な少年を完全に救済することに成功したのだった。
……ちなみに内山田たちも忘れずに解放されている。
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翌日、吉祥学苑の屋上プレハブ小屋。
放課後、夕暮れに染まるプレハブ小屋で、二人きりになった鬼塚と麗美。
「……終わったわね、英吉。みやびがあそこであんなことを言うなんて思ってなかったけど」
「ああ。 今日も他の連中に謝ってたぜ。 ったく律儀なヤツ」
「みやびもそれだけ過去の自分の罪を重く受け止めて、少しでも償おうとしてるのよ。 あの子、元々は正義感の塊だったから……言い出せず、嘘を重ねて暗躍してた自分が許せないんだと思う」
麗美は後ろから鬼塚の腰に腕を回し、その広い背中にぴったりと自分の身体を預けた。
少し硬くなった手のひらが、鬼塚のシャツをぎゅっと掴む。
「そうか……兎に角、お前が裏で色々動いてくれたから助かった。俺の右腕も何とか無事だったしな。サンキュな、麗美」
鬼塚は振り返ると、麗美の華奢な身体を愛おしそうに強く抱きしめた。
「全く、無茶するんだから……何が【大丈夫だ、俺を信じろ】よ。 こんなボロボロになって……心配したんだからね!」
「わ、悪かったって……」
「もう……とりあえず、手当してあげるから一旦離して」
「後でで良い。 今はこうしてお前のぬくもりを感じてぇからよ」
「しょうがないわね、なら、たっぷり感じて」
正式に付き合っている恋人同士として、お互いの唇を深く重ね合わせる。
沖縄の夜を経て、完全に一線を越えた二人のキスは、どこまでも甘く、そして濃密だった。
プレハブの中に、衣服が擦れる音と、甘いリップ音だけが静かに響く。
だが――まさに二人が深く溶け合うような熱い口づけを交わしていた、その瞬間だった。
「――鬼塚先生。繭のことで、少しお話が……」
不意に、開け放たれていたプレハブのドアの前に、影が差した。
そこに立っていたのは、吉祥学苑のトップであり、今回の騒動の全貌を見守っていた桜井良子理事長だった。
孫の繭を暗闇から救い出し、本物の笑顔を取り戻して更生させてくれたことへの礼を、直々に鬼塚に言いに現れたのだ。
しかし、理事長が目撃したのは、夕暮れの光の中で、これ以上ないほど濃厚に、ベタベタにくっつき合ってキスを交わしている、自分の学苑の破天荒教師と、最高IQを誇る女子生徒の姿だった。
「……っ!?」
静まり返るプレハブ小屋。
鬼塚と麗美は弾かれたように唇を離した。
鬼塚は顔面が破裂しそうなほど真っ赤になり、詰めていたティッシュを鼻から吹き飛ばしそうな勢いでガタガタと震え出す。
「り、りり、理事長ぉぉぉぉぉおお!!? な、なんでここに! つーか、これはその、マウス・トゥ・マウスの人工呼吸的なアレで——」
「ふふ、見苦しいわよ、英吉。往生際が悪いわ……この状況じゃ隠しようがないでしょ? それならもう潔く白状しちゃった方が良いわ」
対照的に、麗美は驚く風でもなく、フッといつもの勝利の計算式を弾いたような笑みを浮かべた。
そして、真っ赤になりながらも鬼塚の腕をこれみよがしにぎゅっと抱きしめ、理事長の前で、小悪魔のようにペロッと小さく舌を出してみせた。
「えへへ……。見つかっちゃった❤️ 理事長、あたしたち、とっくにガチで付き合っているのよ」
「神崎さん……。それに、鬼塚先生……」
想定外すぎる二人の交際、そして「ガチ恋人」の空気を目の当たりにし、あの厳格で物おじしない桜井理事長が、眼鏡の奥の瞳を丸くして完全に絶句していた。
しかし、麗美の迷いのない言葉と、そのオッドアイの瞳の奥にある、狂おしいほど純粋な恋慕の情。
そして、顔を真っ赤にしながらも、どこか大人の男としての責任感と愛おしさをその目に宿して麗美の隣に立つ鬼塚の覚悟。
その二人を見て、しばしの沈黙の後、理事長は二人が表面的な戯れではなく、心から深く愛し合っていることを、すべて理解した。
著しく驚きつつも、フッと慈愛に満ちた、柔らかな微笑みを浮かべる。
「そうですか。……私には何も見えていません」
「え……? り、理事長?」
「此処へは鬼塚先生に、孫の繭を救っていただいたお礼を言いにきただけ。……そうですよね、鬼塚先生?」
にこやかに、かつすべてを包み込むような包容力でそう告げた桜井理事長。
それは、教師と生徒という禁断の関係を知ってなお、鬼塚という男のグレートな魂を、そして麗美という傷ついてきた少女の幸福を心から認め、全面的な『黙認』と支持を与えるという、この上ない意思表示だった。
「っ……、あ、ありがとうございます、理事長……っ!! 男・鬼塚英吉22歳! これまで以上にこの学苑の為に尽くさせていただきますっ!!」
鬼塚は深々と、これまでの人生で一番の感謝を込めて頭を下げた。
繭の件での礼も終わり、理事長が去った後、麗美もまた、「ふふ、さすが理事長ね」と、嬉そうに目を細めて鬼塚の腕をさらに強く抱きしめ直すのだった。
繭という更なる生徒を更生させ、さらには学苑の最高権力者である理事長の「黙認」という絶対的な防衛線まで手に入れた鬼塚と麗美。
名実ともに、あるいは周囲の理解の元でも完璧恋人となった二人の前に、未来の歯車は次なる激動の展開――いずれ来る女性校長・大門美鈴との大戦へと向かって、力強く動き出すのだった。