ゼンノロブロイが一緒に走りたいって言うから…… 作:Lagavulin
月曜の放課後、リーフは知らない生徒に3回呼び止められた。
最初の2人は、レースを見たと伝えてくれた。お礼を言うと、それぞれの教室へ戻っていった。3人目は、今週の併走へ誘ってきた。
「ありがとう。でも、今週は増やせない。練習の相談なら、トレーナーにお願い」
「あ、そうなんだ。分かった。おめでとう」
「ありがとう」
相手が去ってから、リーフは廊下の端で息をついた。
予想はしていた。予想していたから楽になるわけでもない。
教室へ忘れ物を取りに戻ると、別の席にいる2人がリーフのレースの話をしていた。こちらに気づいて、手を振る。
「次、重賞とか出るの?」
「まだ決まってないっぽいよ」
「あの勝ち方なら、期待するよね」
「いや、まだ1戦でしょ」
リーフは机から小説を取り、鞄へしまった。話題をやめてもらう理由はないし、感想まで管理することもできない。挨拶をして教室を出ると、今度こそ図書室へ向かった。
窓際にロブロイがいた。リーフが向かいの席に座ると、ロブロイは読んでいる本を見せてくれた。
「その巻、最後まで読んだ?」
「あと少しです」
「じゃあ、終わってから」
リーフも本を開いた。しばらく、ページをめくる音だけが続いた。
*
ロブロイの次のレースが決まったのは、その週の終わりだった。
デビュー戦から約1か月後。11月の東京、芝2000mの未勝利戦。勝ち上がったリーフは出走せず、自分の次の目標を榎本と相談している。
ロブロイは、トレーナーと前走の映像を見直した。
「先頭に立つまでは、よかったと思います。でも、そのあと、追いかけるための脚が足りませんでした」
「リーフに合わせて、今の自分よりずっと速くしようとはしないこと。まず、最後まで出せる力を増やそう」
「はい」
練習では、最後にもう一度力を使う区間を設けた。入りを急ぐと、そこまで残らない。うまく残せても、競り合いになると肩へ力が入る。
トレーナーに指摘され、リーフとの併走でも試した。リーフが横に来たとき、顔を向けずに自分の走りを保つ。並ばれたらすぐ全力にするのではなく、どこまで待てるかを覚える。
できた日は、確かに嬉しかった。けれど、ビワハヤヒデとの練習で見た速さを思い出すと、もっと増やしたくなる日もあった。
そんな日にトレーナーへ相談すると、翌日の予定を示された。
「今、増やすと、明日の大事な練習を疲れたまま迎える。今日は終えよう」
「……分かりました」
ロブロイは自分で靴を脱いだ。その夜は、読みかけの本を最後まで読んで寝た。
次の練習では、最後の区間まで予定した動きを保てた。
*
未勝利戦の当日、ロブロイはパドックで赤い髪飾りの出走者を見た。
赤い髪飾りの子は、前走で速い流れを前で受けて3着に残っている。今日も前へ行くかもしれない。ロブロイがトレーナーと見た映像では、競られても簡単に譲らない相手だった。
リーフは観客席にいる。昨日、応援へ行くと連絡をくれた。騒がしい場所は疲れるから、レースとその前後を見たら帰るつもりだという。
それでも、予定を空けて来てくれた。
ロブロイがゲートへ入ると、前走ほど長くは感じなかった。係の人の声を聞き、正面を見る。
スタートした。赤い髪飾りの相手が前へ行き、もう1人が並ぼうとする。2人の速さが上がった。ロブロイは追わず、少し離れた集団で位置を取る。
今は、ついていかなくていい。
前走よりも前の動きが大きい。自分まで追えば、最後に脚が残らなくなる。内へ入りすぎず、必要なときには外へ出られる位置を保った。
向正面の後半で、前の2人の間隔が変わった。競りかけていた相手が少し下がり、赤い髪飾りの子が先頭に残る。学内選抜では、前が緩んだところで早めに動いた。今日はまだ待つ。
自分の前にいる相手が速さを上げ、その後ろでロブロイも流れに乗った。無理に横へ並ばず、曲線の出口へ向かう。
直線に入った。前が開いた。ロブロイは身体を起こしすぎないようにし、脚を伸ばす。1人を抜き、先頭の赤い髪飾りへ近づいた。
相手も止まらない。近づくほど、腕が強く振られるのが見える。並んだ。相手の息遣いがすぐ横にある。外から別の足音も迫ってきた。前を抜くだけでは終わらない。自分も追われている。
ロブロイは顔を上げた。ここまで残してきた脚を使う。横の相手より半歩前へ出たが、すぐに並び返された。地面を押すたびに、太ももが重くなる。
まだ走れる。
最後の標識を越えたところで、外の足音が少し遠のいた。赤い髪飾りだけが視界の端に残る。ロブロイはもう1度腕を振り、その肩を後ろへ送った。
ゴールが近づく。
『ゼンノロブロイ、抜け出した!』
聞こえても、力を抜かなかった。線を越え、先まで走った。減速して振り返ると、赤い髪飾りの子が大きく息をつきながら頷いてくれた。
掲示板の1着に、自分の番号が出た。
ロブロイは、口元を両手で覆った。汗を拭おうとしたわけではないのに、指に濡れたものが触れた。
*
「ロブロイ、行け!」
叫んだあとも、リーフは柵から身体を離せなかった。
ゼンノロブロイ、1着。
今度はロブロイが1番上だ。隣へ来られても譲らず、最後にもう一度前へ出た。リーフは掲示板と走路を交互に見てから、ようやく自分の声の大きさに気づいた。
隣の観客がこちらを見ていた。まずい。かなり聞こえた。
その人は笑って、ロブロイの方へ拍手を送った。リーフも同じように手を叩いた。帰るときは、別の通路を使おうと思った。
許可された場所で待っていると、トレーナーと話し終えたロブロイがやって来た。目の周りが少し赤い。
「おめでとう」
「ありがとうございます……!」
「最後、もう1回前へ出た」
「はい。今度は、加速する力が残っていました」
「見てた。すごかった」
ロブロイは頷きながら笑い、それからまた目を拭った。
「私も、勝てました」
「うん」
「次は、もっと大きなレースで。一緒に走りたいです」
リーフが笑うと、ロブロイはまっすぐにこちらを見た。
「まだ、リーフさんほど速くは走れません。あの日の差も、まだ埋められていません。でも、いつか絶対に追いつきます」
ロブロイは胸の前で手を握った。声はもう震えていない。
「今度は最後まで競り合って、私が先にゴールしたいんです。だから、待っていてください。必ず、そこまで行きます」
リーフは返事を探した。おめでとうの次に言う言葉までは、用意していなかった。けれど、追いつかれる日を想像すると、少し笑ってしまう。
「私も、今より速くなるけど」
「はい。それでも、追いつきます」
「……じゃあ、私も練習しないと」
「次は、負けませんから」
「私も」
リーフはもう一度、おめでとうと伝えた。ロブロイが戻っていく背中を見送り、空いている通路を探して歩いた。予定より少し帰るのが遅くなったが、電車の中で本を読む時間はある。
*
翌週の図書室で、ロブロイは新しく借りる本を選んでいた。
「これ、まだ続いてる?」
「はい。次が最終巻になるそうです」
「前の巻でも、そう言ってなかった?」
「……作者さんが、書きたいことを増やされたようで」
リーフは厚い背表紙を見てから、机へ運ぶのを手伝った。ロブロイが隣の席に座り、借りる前に冒頭を開く。
「明日の練習は、いつもの時間で大丈夫ですか?」
「うん。終わったら、これの続き読もう」
「では、私も持ってきます」
リーフは鞄から、読み返している巻を出した。騎士はようやく故郷へ帰ったところだったが、章の終わりに見知らぬ使者が訪ねてきている。
「……帰らせてあげてほしい」
「もう、お家には帰っています」
「そういう意味じゃなくて」
ロブロイが声を抑えて笑い、リーフは次のページをめくった。