ゼンノロブロイが一緒に走りたいって言うから…… 作:Lagavulin
年が明けて最初の図書当番で、ロブロイは本を何度も別の棚へ戻しかけた。
背表紙の番号は見ている。けれど、考えているのは今週末の出走者だった。2勝している子も、すでに重賞を走った子もいる。レースの名前だけで、まだ少し胸が詰まる。
「その本、さっきからあちこちに持っていってるね」
リーフに指摘され、ロブロイは本を抱え直した。
「……京成杯のことを考えていました」
「私も、先輩との練習の前、靴下を2回取りに戻った」
「2回目は、どうして?」
「持ってるか分からなくなって」
鞄の中を確かめるのも忘れていたようだ。ロブロイは笑って、今度は本を正しい場所へ戻した。
初勝利から、およそ2か月が過ぎている。
同じ速さを保てる区間は長くなった。終盤に余計な力が入る癖も、トレーナーに言われる前に気づける日が増えた。年末には、リーフに少しずつ前へ出てもらい、追いかけるための加速を何度か試している。
届かなかった日もある。届こうとして最初に飛ばしすぎ、最後の区間で崩れた日は、映像を見るのが嫌だった。それでも翌週、同じ条件でもう一度走ると、前より長くリーフの隣にいられた。
それを、今度はレースで使いたい。
「リーフさん。日曜は、ゴールの近くにいますか?」
「席、取れたところだけど。見えると思う」
「私が先頭にいたら、大きな声で呼んでください」
リーフが、返す本を載せた台車を止めた。
「……そんな予約できるんだ」
「できたらで、いいです。でも、聞こえたら嬉しいので」
「前のとき、聞こえてた?」
「いいえ。でも、そうしたくなるくらいの走りを、また見せたいです」
リーフは口を開き、それから本を台車へ置いた。
「じゃあ、先頭まで来て」
「はい」
*
ロブロイが京成杯のゲートに立つと、観客席は細かい色の集まりに見えた。
中山の芝2000m。最後の坂を越えた先に、今日のゴールがある。歩いて確かめた場所も、周囲に出走者が揃うと遠く感じる。
外側にはオータムグロウがいた。葉牡丹賞でリーフの2着だったあと、年内に1勝クラスを勝ち上がっている。長く脚を使う相手で、簡単には止まらない。
同じ位置から、同じ頃に動けばいいわけではない。前が速くなれば待つし、緩めば自分から近づく。トレーナーと最後に話したことを思い出したところで、ゲートが開いた。
先に出たのは、内側の2人だった。ロブロイはその後ろへ続き、オータムグロウはすぐ外についた。
最初の坂で、隣の肩が半歩前へ出る。ついていきたくなるが、今の速さでも予定より遅くはない。ロブロイは呼吸を整え、前の相手との距離を保った。
曲線を2つ抜けると、前の2人が落ち着いた。
思っていたほど速くならない。後ろの足音が近づき、集団の幅が広がる。ロブロイは外へ顔を向けた。オータムグロウも前を見ている。その後ろから、別の子が上がってきた。
ここで待っていたら、外へ出る場所がなくなる。
ロブロイはオータムグロウの後ろへ移り、少しだけ速さを上げた。前の相手も動く。並ぶための距離は使わず、その背中を追って曲線へ入った。
以前なら、このあたりで息が乱れ始めた。今日はまだ、地面を押す動きが続いている。先頭だった2人が視界の端へ下がり、オータムグロウの背中だけが前に残った。
最後の曲線を抜ける直前、その背中が遠ざかり始めた。
今、離されたくない。
ロブロイは外へ出た。オータムグロウも速い。近づこうとするたびに、相手の足音が前へ逃げる。
『オータムグロウが先頭! 外からゼンノロブロイ!』
名前が聞こえた。脚を伸ばし、腕を振る。客席へ顔を向ける余裕はない。相手の肘がすぐ前に見える。
坂の途中で、ようやく並んだ。
苦しい。オータムグロウは下がらず、すぐ横で走り続けている。後ろからも足音が来た。ここで2人だけの勝負だと思ったら、まとめて抜かれる。
ロブロイは正面へ目を戻し、残していた力を使った。
つま先が地面を離れるたびに、身体が前へ出る。隣の息遣いが、少しずつ後ろへずれた。あと何歩かを数えようとして、やめた。ゴールの先まで走る。
線を越えたとき、視界の端に橙色の髪はなかった。
速度を落としながら振り返ると、オータムグロウが悔しそうに空を見上げていた。ロブロイは掲示板を探した。自分の番号が点き、その隣に、遅れて2着の番号が出る。
勝った。
京成杯を、勝った。
声が漏れた。両手を握っても足りず、ロブロイはもう一度、掲示板を見た。着差は4分の3馬身。隣へ来たオータムグロウへ頭を下げると、相手はまだ息を切らしたまま、片手を上げた。
「次は、先に行かせない」
「私も、また勝ちたいです」
自分で思ったより、大きな声が出た。
*
リーフは、拍手をしている手が痛くなってから、ようやく力を緩めた。
ロブロイの名前を呼んだ。たぶん、3回くらい。同じ席からほかの人も叫んでいたので、途中から声の大きさを考えなくなった。
「あの子、フライトリーフのデビュー戦で2着だった子だよな」
「そう。こっちが先に重賞取った」
すぐ後ろで、そんな声がした。
そうだ。先に取られた。
リーフは口元を緩めたまま、スマホの結果画面を開いた。ロブロイの名前のそばに、京成杯の文字がある。リーフの戦績には、まだ重賞の名前がない。
並んで走ったときの速さなら、分かる。それでも、あの坂で前へ出て勝つところまでは、練習では見られなかった。
隣の人が帰る支度を始めたので、リーフも鞄を持ち直した。立ち上がろうとして、足元の飲み物が手つかずだったことに気づいた。
*
表彰を終えたロブロイは、リーフの姿を見ると、小走りで近寄ってきた。
「勝ちました!」
「見てた。すごかった」
「最後、坂のところで、まだ動けたんです。並んでも、すぐには抜けなくて。でも、脚が残っていて」
言いながら、ロブロイは自分のトレーナーへ振り返った。トレーナーも頷いている。リーフは少し横へ寄り、2人が今の走りを話すのを聞いた。
ロブロイの言葉が途切れたところで、リーフは手を差し出した。
「おめでとう。先、行かれた」
ロブロイがその手を見て、顔を上げた。
「重賞のこと、ですか?」
「うん。私も勝ちたい。2月」
「応援します」
「ありがとう」
「そのあと、同じレースで負かしたいです」
リーフは笑った。握り返してきたロブロイの手は、まだ少し熱い。
「私の声、聞こえた?」
「……ごめんなさい。分かりませんでした」
「じゃあ、次はもう少し大きくしないと」
「また、お願いしていいんですか?」
「一緒に出てない日なら」
ロブロイも笑い、ようやく手を離した。ライブの準備に呼ばれてからも、途中で一度振り返り、リーフへ大きく手を振った。