ゼンノロブロイが一緒に走りたいって言うから…… 作:Lagavulin
ロブロイと本屋へ行く約束をしたのは、京成杯の前だった。
リーフが読んでいるシリーズの新刊が出る。ロブロイには、装丁を実物で見てから買いたい本がある。それぞれのトレーナーから休みをもらった平日の午後、2人で駅前の大きな書店へ向かった。
「今日は、見るだけのつもりです」
入口でロブロイが言った。
「買わないの?」
「今月は、少し買いすぎてしまったので」
「少し?」
「……何冊か」
じゃあ、何十冊か買っているのかもしれない。冊数は聞かず、リーフは新刊の棚へ向かった。目当ての本は平積みになっている。表紙を確かめて1冊取ると、ロブロイはまだ隣の棚にいた。
革のような手触りの表紙を、両手で支えている。開いた見返しには、架空の町の地図があった。
「それ?」
「はい。以前の版より、挿絵が増えていて」
ロブロイはページをめくり、すぐに戻した。もう一度めくり、今度は細かい模様を指で追わずに眺める。リーフが新刊の裏表紙を読み終えても、まだそこにいた。
「見るだけって、何分くらい?」
「……まだ、大丈夫ですか?」
「うん。私も、あっちを見てくる」
リーフは情報系の本が並ぶ棚へ移った。大学へ進む前に、短いプログラムくらいは自分で動かしてみたい。少し読んだだけで難しいと分かる本もあり、2冊を比べてから、説明の合う方を選んだ。
合流したロブロイは、さっきの本を抱えていた。
「下見は?」
「……終わりました」
言い方があまりに真面目で、リーフは笑ってしまった。ロブロイも少し笑い、財布に入れてきた金額を確かめた。
*
会計の前に雑誌の棚を通ると、ロブロイが立ち止まった。
競走雑誌の表紙に、京成杯でゴールへ向かうロブロイが載っていた。大きな写真ではない。けれど、名前ははっきり読める。
「これ、今日発売だったんですね」
ロブロイは1冊を取り、ページを開いた。リーフも隣から覗く。ゴール直前の写真に写るロブロイの顔は、リーフが図書室で見慣れた顔とは少し違った。
口を引き結び、前だけを見ている。小さく載った表彰の写真では、反対に、笑顔を抑えきれていない。
「いい顔」
「どちらがですか?」
「両方」
ロブロイは雑誌を顔へ近づけた。今度は表紙まで見直している。
「これも、買います」
「うん」
レジへ行こうとすると、近くにいた女性が、雑誌とロブロイを見比べた。
「もしかして、ゼンノロブロイさん?」
ロブロイが頷いた。女性は京成杯を見たと伝え、最後の坂で前へ出たところがよかったと話した。
リーフは半歩下がった。買う本を胸に持ち直していると、ロブロイの返事が聞こえた。
「ありがとうございます。次も、ああいう走りができるように頑張ります」
ロブロイの頬が赤い。それでも、顔は上がっている。
女性が隣にも気づいた。
「あ、フライトリーフさんも。お2人で来てたんですね。写真、お願いしてもいいですか?」
リーフは、持っている本の角を見た。写真はどう使うのだろうか、どう確認すべきか、どう断るか、色々なことが頭に浮かぶ。
「……ごめんなさい。写真は」
「ああ、そうですよね。お買い物中にすみません」
それで写真の話は終わった。女性はロブロイへ「次も頑張ってくださいね」と声をかけた。ロブロイはお礼を言い、女性が棚へ戻るのを待った。それからリーフへ顔を寄せた。
「大丈夫ですか?」
「うん。次も頑張って、の返事が出なかっただけ」
「今のは、私に言ってくださった分なので」
「そっか」
レジへ並びながら、リーフはロブロイを見た。
「嬉しそうだったね」
「はい。びっくりしましたけど。あのレースを、覚えていてくださったので」
ロブロイは買う雑誌をもう一度見た。リーフは頷き、自分の2冊を重ね直した。
*
書店を出てから、通りの小さな喫茶店へ入った。
ロブロイはミルクティーを注文し、買ったばかりの雑誌をテーブルに広げた。リーフはりんごのタルトを半分ほど食べてから、向けられたページを見る。
春のクラシックについての記事だった。京成杯のロブロイと、共同通信杯へ向かうリーフも候補として挙げられている。
「私、皐月賞を目指したいです」
ロブロイは、ページを見たまま言った。
「トレーナーとは、もう相談しています。身体の戻り方を見ながら、そこへ向けて進めようって」
「同じ、中山の2000m」
「はい。でも、今度はもっと強い方が来ます」
声が少し弾んでいた。怖さもあるのだろうが、それより、出走できたときのことを考えているように見える。
「リーフさんも、一緒に出ませんか」
「私は、まだそこまでは。次を走ったら、しばらく休んでもいいかなって」
ロブロイの手が、カップの手前で止まった。
「また一緒に走りたいとは思ってる。でも、いきなりG1って、ちょっと。今でも知らない人に話しかけられるし」
リーフはフォークでタルトの端を切った。断ると決めたわけでもないので、最後まで言い切れない。ロブロイは少しの間、開いた雑誌を見ていた。
普段なら気にしない沈黙が続いた。
「私、春のレースを考えるとき、いつもリーフさんがいるんです」
声が聞こえ、リーフは顔を上げた。
「私が先に動いたら、どこから追ってくるだろうとか。今度こそ並んだまま、最後まで走れるだろうかとか。皐月賞も、ダービーも、そうやって考えていました」
「ダービーも?」
「はい。クラシックの舞台で隣にリーフさんがいないなんて……考えられないんです」
フォークが止まった。一緒に出られたら嬉しい、くらいの話だと思っていた。いつの間に、そんな先の、そんな大事なところまで自分がいるのか。
「ロブロイは、英雄になりたいんだよね」
「はい。だから、リーフさんから逃げたくありません」
ロブロイは雑誌から手を離した。膝の上へ下ろす前に、指をきゅっと握ったのが見えた。
「京成杯を勝てたことは、本当に嬉しかったです。でも、次にもっと大きなレースで勝てたとして、リーフさんが出ていなかったら……私、考えてしまいます。あの子がいたら、どうだっただろうって」
「強い子なら、ほかにもいるよ」
「います。その方たちにも勝ちたいです。でも、私がいちばん追いかけたいのは、リーフさんです」
視線が逸れない。リーフはフォークを皿へ置いた。
「私の憧れた英雄は、勝てそうにない相手からも逃げませんでした。私も、あなたに勝ちたい。あなたに勝って初めて、自分を英雄だと思える気がするんです」
「……私、勝ってもらうためには出ないよ」
「はい。私が勝ち取ります」
即答だった。遠かった速さを見せたあと、次の併走を頼めずにいたロブロイが、今はまっすぐこちらを見ている。
「どうか、私と一緒にクラシックを目指してください。リーフさんと、あそこで走りたいんです」
ロブロイは頭を下げかけて、やめた。返事を待つ顔は赤く、唇にも力が入っている。
困った。
そんなふうに頼まれるほどのことを、自分がしただろうか。一緒に本を読んで、走って、ゲームをしていただけなのに。けれど、ここまで言われて嬉しくないかといえば、それも違う。
「今、全部は決められないよ」
「はい。まずは皐月賞を目標に、トレーナーさんと相談していただけませんか」
リーフが黙っていると、ロブロイは雑誌の日程の欄を指した。
「次のレースから間隔を取れますし、遠くへの移動もありません。いつか一緒に、だと、リーフさんと走れる日が決まらないので。まず、ここでお願いしたいです」
急に話が具体的になった。さっきまで英雄になれるかどうかの話だったのに、今は休みを取るための日程を示されている。
たしかに、2月から4月なら時間はある。中山も走ったことがあるし、榎本なら、出走までの負担も一緒に考えてくれる。G1が怖いのは変わらないが、ロブロイがどこまで追ってくるのかは見てみたい。
「……そこまで言うなら。皐月賞に向けて、相談はする」
ロブロイの顔が明るくなったので、リーフは先に続けた。
「共同通信杯のあとに、ちゃんと休める予定にできて、出走できるなら。ダービーまで決めたわけじゃないからね」
「はい。ありがとうございます」
ロブロイは何度も頷いてから、少しだけ言いにくそうにした。
「ダービーのお話は、皐月賞のあとにしてもいいですか?」
「……もう次の相談?」
「今は決めないと、おっしゃったので」
たしかに言った。あとでまた誘われるところまでは、断っていない。
「そのときは、そのとき考える」
「はい。それで大丈夫です」
とても嬉しそうに答えられた。リーフは残りのタルトを食べながら、次に頼まれるときには何を用意して来るのだろう、と少し気になった。
店を出るとき、ロブロイが本の袋を両手で抱え直した。見るだけだったはずの荷物は、リーフの分よりずっと厚い。
「持とうか?」
「大丈夫です。これくらいなら」
「じゃあ、早く戻ろう。私も、あの挿絵の多い本を読みたい」
リーフが挿絵の多い本を指すと、ロブロイは笑った。
「一緒に見ましょう。私も、まだ最後までは見ていませんから」