ゼンノロブロイが一緒に走りたいって言うから…… 作:Lagavulin
共同通信杯の出走者が紹介されると、ロブロイの隣で、誰かがリーフの名前を呼んだ。
2月の東京。デビュー戦の日より厚い上着を着て、ロブロイは観客席に座っている。リーフへ会うのはレースが終わってからだ。朝に送った応援には、短く「ありがとう」と返ってきた。
「フライトリーフって、あのゲームの話してた子?」
「そう。でも今日は相手が違うよ。重賞勝ってる子が2人いる」
「1800mも初めてなんだっけ」
すぐ近くの会話が聞こえた。ロブロイは出走表を見た。重賞で先頭を守った子、後方から全員を抜いた子。その間に、リーフの2戦2勝が並んでいる。
リーフがどこまで速く走るのか、今日は見られるかもしれない。
ロブロイは手袋を外し、膝の上に置いた。今日は、リーフの声の大きさを笑えそうにない。
*
リーフはゲートの中で、軽く息を吐いた。
1800mのスタート位置は、2000mのときと違う。早い段階で本線へ合流するので、隣の相手を見る準備もしていた。
開いた。
脚を出し、右を確かめる。外の2人が速い。ここで先を争わなくても、前が見える位置は取れる。リーフは少し抑え、5番手で流れに乗った。
向正面に入ると、前の相手が肩を下げた。最初の争いが終わり、速さが落ち着いたらしい。リーフも間隔を保ったまま、外側の足音を聞いた。
すぐ隣に1人いる。抜いて前へ入りたいようだが、前の相手も位置を譲らない。
今、間へ出る必要はない。
リーフは前の背中を見ながら、少し先で広くなる走路へ目を向けた。榎本と確かめてきたのは、自分がどれだけ速く動けるかだけではない。相手が動き始めてからでも、進む場所を選ぶ時間はある。
前方の1人が、残りの曲線へ入る前に速さを上げた。
集団が伸びる。隣にいた相手も前へ出た。その後ろが空いたので、リーフは外へ移った。前を走る子の踵まで見える。ここで追いつきすぎると、また進路を探すことになる。
ひと呼吸だけ待って、さらに外へ。
直線へ出たとき、先頭までは3人いた。
東京の長い芝が、正面に広がった。リーフは腕を振る幅を広げ、地面を押した。
まず、いちばん近い肩が下がる。その前の相手も脚を伸ばしているが、間隔は縮まっていく。リーフは進路をまっすぐ保ったまま、もう一度強く踏み込んだ。
坂へ入る頃には、先頭の背中が目の前にあった。
その子も、こちらに気づいていた。顔を向けずに腕を振り、さらに速くなる。前の2戦で抜いてきた相手より、長く隣に残った。
リーフも、脚の動きを速めた。隣の肩が後ろへ動いた。まだ脚には余裕がある。坂を上り切った先まで力を保つと、視界の端から相手が消えた。
『フライトリーフ、抜けた! ここからさらに差が開きます!』
大きな声が、走路を横切って届いた。
リーフはゴールを見た。追ってくる相手へ場所を譲るつもりも、後ろの人数を数えるつもりもない。今の速さを最後まで保って、いちばん先に着く。
風が頬を冷やした。前には誰もいない。1人で走るときにも好きな景色だが、今日はその先に、越えたい線がある。
線を踏み越えてから、少しずつ脚を緩めた。
息を整えて後ろを見る。続いてゴールした子たちは、まだ懸命に腕を振っていた。1人が線の先で大きく肩を落とし、別の子が隣へ声をかけている。
リーフは掲示板を見つけた。自分の番号が、いちばん上にある。
着差は6馬身。
自分でも小さく声が出た。そのあとで、客席の声がいつまでも収まらないことに気づいた。
*
ロブロイは、ゴールしたリーフを見失わないように立っていた。
追っていた2人も、最後まで速かった。先に動いた子が急に止まったわけでもない。リーフが前へ出てから、なお差を広げてしまった。
「6馬身?」
「今日も、あれで余裕あるのかよ」
「次、皐月だろ。見に行きたいな」
拍手の間から、そんな声が聞こえた。
ロブロイも拍手をした。呼ぶつもりだった名前は、リーフが先頭へ並んだあたりで一度だけ、大きく出た。その先は、しばらく言葉にならなかった。
速い。やっぱり、速い。
京成杯を勝った日から、自分もまた練習を続けている。あの勝利がなかったことにはならない。それでも、今のリーフを前にして、追いついたとはとても言えない。
ロブロイは、手袋を握り直した。
どうやって、あの子より先にゴールする。
画面では、坂へ向かうところからの映像が流れていた。前にいる子たちが動く中、リーフは一度だけ、加速を待っている。そこから外へ出て、あの差をつけた。
ロブロイはその場面を、最後まで見た。
*
戻ったリーフの前へ、いつもより多くの人が集まっていた。
榎本がそばに来て、身体の状態を確かめた。痛みはない。息も戻ってきている。それを答えてから、リーフは予定されていたインタビューの場所へ向かった。
カメラの横に榎本がいる。そこばかり見ないようにして、マイクを持った人へ顔を向けた。
「重賞初挑戦で、見事な勝利でした。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「最後は大きな差になりました。どのあたりで、勝てると感じましたか?」
「坂を上がったあとです。まだ走れると思ったので、そのまま行きました」
もう少し大きい声で、と自分に言い聞かせる。客席の拍手に、返事が埋もれそうだった。
「次の目標は、春のクラシックでしょうか」
ここまでは、聞かれるかもしれないと考えていた。
「はい。トレーナーと相談して、皐月賞へ行きたいです」
「どんなレースをしたいですか?」
そこは、長い答えを作ってこなかった。けれど、出てきた言葉は途中で止まらなかった。
「勝ちたいです」
拍手が少し大きくなった。リーフはそこで口を閉じ、次の質問を待った。
終わって榎本のところへ戻ると、ようやく肩から力が抜けた。
「言えました」
「うん。よく聞こえた」
「私、すごいこと言いました?」
「皐月賞で勝ちたいって言ったからね」
「……言いましたね」
榎本は笑って、移動する方を示した。リーフはカメラの方を振り返らずについていった。
ライブを終え、着替えまで済んだ頃には、スマホにお祝いがいくつも届いていた。家族、トランセンド、練習で一緒になった先輩たち。ロブロイからのものを先に開くと、祝福のあとに、短い感想が続いていた。
『最後まで見ました。作戦、もう一度考えます』
リーフは椅子へ座り、返事を打った。
『私にも教えてくれない方の作戦?』
返事は、すぐだった。
『はい。今度こそ、です』
リーフは笑ってから、榎本に帰りの時刻を尋ねた。ロブロイと会って話す時間が、どれくらい残っているか確かめたかった。