ゼンノロブロイが一緒に走りたいって言うから…… 作:Lagavulin
フライトリーフは、建物の角を曲がるまでに3回、名前を呼ばれた。
最初の声には会釈をした。次の声にもした。3回目には歩きながら頭を下げたので、隣の榎本の靴ばかり見ることになった。
「前、段差」
「はい」
足を上げてから顔も上げると、通路の先にいた係の人までこちらを見ていた。もう一度、挨拶をする。今日まだ、走っていない。
建物へ入る直前、後ろから大きな声が届いた。
「皐月賞、頼んだぞ!」
何を、どのくらい。
返事を作る前に扉が閉まった。リーフは廊下の端へ寄り、肩にかけたバッグを持ち直した。外より静かだ。空調の音を聞いていると、ようやく、今は返事をしなくていいと分かってくる。
「荷物を置いたら、少し座ろう。予定より早く着いてる」
「人も、早いですね」
「今日はね」
榎本は先に立って歩いた。角を曲がり、案内された部屋へ入る。リーフは用意された椅子に座り、バッグから飲み物を出した。
共同通信杯のあとに見た映像では、客席の多さも、紹介の声の大きさも分かっていた。けれど、画面の向こうから自分を呼ばれることはない。実際に来ると、そこの違いが大きい。
「……走る前から、ちょっと疲れました」
「身体は?」
「そっちは大丈夫です」
榎本が頷いたので、リーフはキャップを開けた。部屋へ入ってきた別のスタッフには、榎本が用事を聞いてくれた。リーフの返事が必要な話ではなかった。
スマホに母からの写真が届いていた。父と並んで座っている。後ろに写る席は、ほとんど埋まっていた。
『着いたよ。ちゃんと食べた?』
食べた、と返す。続けて、父からも来た。
『こっちを探さなくていいから、前を見て走りなさい』
探す方が難しそうだ。
リーフは写真を閉じた。ロブロイからは、少し前に『着きました』と届いている。こちらにも返事をして、スマホをバッグへしまった。
*
出走者紹介の前、ロブロイを見つけたのはリーフの方だった。
トレーナーと話している。足元の位置を確かめるように片脚を引き、頷いていた。リーフは声をかけず、少し離れたところで靴紐を結び直した。
「リーフさん」
顔を上げると、ロブロイがこちらへ来ていた。
「もう、外を見ましたか?」
「見た。できれば、しばらく見たくない」
「……すごい人数ですね」
そう言いながら、ロブロイは走路へ通じる方へ目を向けた。頬が赤い。緊張しているらしく、手を開いてから、また軽く握った。
「嬉しそう」
「はい。怖いですけど」
返事が速い。リーフは結び終えた紐を靴の内側へ収め、立った。
「あんなにたくさんの方が、今日のレースを見に来てくださっているんだと思うと」
「うん」
「ここで勝てたら、きっと、ずっと覚えていていただけます」
そこが、だいぶ違う。
勝ったら覚えられる。リーフにとっては、帰ってからの生活を考えるときに困る方の話だ。ロブロイは同じことを考え、口元を緩めている。
「まだ、勝ってないよ」
「はい。これからです」
ロブロイの視線が戻ってきた。リーフはその顔を見て、少し笑った。
「今日は、どこから来るの」
「教えません」
「だよね」
後ろから、靴底が床を擦る音がした。オータムグロウが髪を結び直しながら近づいてくる。橙色の髪が高いところで揺れ、リーフとロブロイの間を見比べた。
「そこ、2人だけで相談しないでよ」
「相談してくれなかった」
「ならよし」
オータムグロウは笑い、ロブロイの前で足を止めた。
「京成杯の分、今日は返すから」
「私も、また勝つつもりです」
「知ってる。今回は最後まで見てなよ」
今度はリーフへ顔を向ける。
「あなたもね。追いつけば終わり、だと思わないで」
「うん」
オータムグロウは返事を聞くと、自分の待機場所へ戻っていった。リーフはその背中を見送った。12月に並んで走ったときより、肩の動きが大きく見える。
ロブロイが小さく息を吐いた。
「皆さん、勝ちたいんですね」
「ロブロイもでしょ」
「はい」
呼び出しが聞こえた。2人は、それぞれのトレーナーの方へ歩き出した。
*
フライトリーフの名前が紹介されると、客席の声がひとつ大きくなった。
共同通信杯を6馬身差で勝利。3戦3勝。初めてのG1。
リーフの耳へ、自分の戦績が続けて入ってくる。今度は会釈をする場所が分かっている。正面を見て、短く頭を下げた。
視界の端で、小さな緑のボードが揺れた。12月に見たものと同じかどうかは、遠くて分からない。確かめるために足を止めることはせず、そのまま進んだ。
ロブロイの名前が呼ばれたときにも、大きな拍手が起きた。京成杯を勝った姿が画面へ映り、今、目の前にいるロブロイが頭を下げる。
リーフはその拍手を聞きながら、手を軽く開いた。
ここまで来た。あとは、自分で決めてきた走りをする。
走路へ向かう前に、榎本が隣へ来た。
「最初の位置は?」
「前が見えるところ。取れなかったら、無理に入らない」
「うん」
「でも、空くまでずっと待つのも、やめます」
榎本は笑って頷いた。
「行っておいで」
リーフは走路へ足を踏み出した。芝を踏む感触を確かめ、短く脚を動かす。周りの声はまだ聞こえるが、さっきより返事を考えずにいられる。今は走っていい時間だ。
ゲートへ入り、正面を見る。隣に誰がいるか。前半に速く行きそうなのは誰か。確かめてきたことを思い出すと、一緒に、ロブロイの返事も浮かんだ。
教えません。
なら、見てから決める。音がして、前が開いた。
リーフは地面を押した。内側から出た2人が速い。すぐ前へ入ろうとせず、その後ろの間隔を見る。外から来た相手を先に行かせ、肩が重ならなくなったところで進む位置を寄せた。
ロブロイは前にいた。先頭の2人を追う子の、そのすぐ後ろ。さらに1人を挟んで、オータムグロウの髪が見える。
最初の上りで、前との間が少し開いた。リーフは歩幅を変え、離れすぎないように合わせる。すぐ隣にも足音がある。ここで前だけ見続けるわけにはいかない。
曲線へ入る前、オータムグロウがひとつ前の位置へ出た。ロブロイのすぐ後ろに収まり、そこで速さを落ち着かせる。
リーフも2人を見失わない場所を保ち、最初のコーナーを回った。