ゼンノロブロイが一緒に走りたいって言うから…… 作:Lagavulin
ロブロイが持ってきたのは、小説ではなく、薄い手帳だった。
皐月賞から数日が過ぎ、リーフは図書室のいつもの席に座っていた。授業の課題を片づけ、ようやく自分の本を開いたところだ。向かいへ座ったロブロイは、その表紙を見てから手帳を机に置いた。
「今、少しよろしいですか?」
「ダービー?」
ロブロイが目を丸くした。
「はい」
「相談してもいいって、言ったからね」
覚えている。皐月賞のあとに、という話だった。来ると思っていたので、リーフは栞を挟んで本を閉じた。
ロブロイの顔が少し明るくなり、手帳が開かれた。5月の終わりに、日本ダービーと書いてある。その前にも、いくつか小さな文字が並んでいた。
「これ、ロブロイの予定?」
「はい。トレーナーと相談しているものです。まだ、全部は決まっていませんが」
練習の時刻のほかに、本の題名もいくつか書き込まれていた。
「こっちは?」
「新刊の発売日です」
「そっか」
大事な予定が混ざっている。リーフは少し安心して、日付を上から見た。
「ダービーのあと、私は少し長く休む予定です。リーフさんも、夏は帰省するとおっしゃっていましたよね」
「うん。でも、ダービーに出なくても休むよ」
「はい。それは、もちろんです」
ロブロイは慌てずに頷いた。
「その休みを短くしないで出られるか、榎本さんと相談していただけたらと思って。私の方は、このあたりなら一緒に練習できます」
指が止まった場所には、午後の短い時間が書いてある。リーフが普段走る時間に近かった。
合わせてきた。
頼みたいことがあるときのロブロイは用意周到だ。前は喫茶店で、雑誌の日程を指していた。今日は、自分のトレーナーと話した予定を持ってきている。
「一緒に練習するなら、私もその方がいいけど」
「はい」
「まだ、出るとは決めてないよ」
「分かっています」
リーフは椅子の背へ少し寄りかかった。皐月賞の日の音を思い出すと、耳のあたりが疲れる気がした。ダービーも、きっと大勢いる。
「皐月賞より、人が少なくなるってことはないよね」
「……はい。そこは、お約束できません」
ロブロイは少し間を置き、言葉を続けた。
「ただ、リーフさんの場合、出ない方が目立つかもしれません」
「出ない方が?」
「皐月賞をあれだけの差で勝って、元気なのにダービーには出ません、となったら……どうして、と聞きたくなる方は多いと思います。そのまま出る方が、騒がれずに済むのではないでしょうか」
リーフは手帳から顔を上げた。その可能性は、考えていなかった。確かに、部屋にいるだけで済む話ではなくなっている。
「出て、また勝ったら?」
「……そのあとは、別のお話です」
「そこ、別にしちゃだめでしょ」
ロブロイの目が、手帳へ下がった。
「今、都合のいいところだけ言ったよね」
「はい。出てほしいので」
認めるんだ。
「でも、出なければ静かに過ごせるとは、限りませんよ」
「ロブロイ、そういう誘い方もするんだね」
少し困った顔はしたが、ロブロイは取り消さなかった。リーフも、言われたことをすぐには否定できない。どうして出ないのかと周囲に聞かれ続ける自分を想像して、肩を落とした。
ロブロイは手帳から指を離した。
「リーフさんが、終わったあとにどのくらい疲れるのか、全部は分かりません。でも、昨日も廊下で呼び止められていたので」
「あれ、見てた?」
「返却の本を運んでいるときに」
昨日、リーフは同じ授業を取っていない生徒から、勝ったときのことを聞かれた。悪い人ではなかったが、どこまで答えれば話が終わるのか分からず、昼休みが短くなってしまった。
ああいうことは、これからもあるだろう。
「それでも、私と走ってほしいです」
ロブロイの声が、さっきより低くなった。リーフは手帳から顔を上げた。
「皐月賞で勝てなかったから、もう一度頼めばいいと、簡単には思っていません。でも、あのまま終わりたくもないんです」
「また、先に出るの?」
「同じ走り方では、足りないと思っています」
すぐに返事が来た。ロブロイは手帳の端を持ち直し、こちらをまっすぐ見た。
「リーフさんが追ってくる前に、少しでも遠くへ行こうとしていました。でも、私が動いたことで、ほかの方にも前を追いやすい進路ができてしまいました。今度は、私が最後まで勝負できる走りを作りたいです」
リーフは、帰りに自分が答えたことを思い出した。前が開いたから追った。ロブロイはあの返事を、ずっと考えていたのだろう。
「それを、東京で試したい?」
「はい。ダービーで」
言い直すところに、力があった。
「皐月賞の映像、何度も見ました。リーフさんに抜かれるところで、いつも止めてしまうんです」
「そこ?」
「はい。ここで、もう一度上げられていたらって」
ロブロイは手帳の端を指で押さえた。さっきまで日付を示していた指が、同じ場所から動かない。
「あのあと、1度も並び直せませんでした。次は、抜かれても終わらせたくないです。リーフさんが速くなったら、私も上げて、今度こそ先にゴールしたい」
「私が負けるところまで、考えてあるんだ」
「……はい」
少しも遠慮しない返事だった。リーフは笑いかけ、ロブロイが笑っていないことに気づいた。
「勝ったら、最初にリーフさんの顔を見たいです。観客席ではなくて、同じ走路で」
そんなところまで、考えている。
自分はまず、出るかどうかで迷っているのに。ロブロイの方では、もうゴールしたあとまで自分の居場所が決まっている。
「……私が勝ったら?」
「そのときも、ちゃんと見ます」
ロブロイはそこで初めて、少し口元を緩めた。
「でも、今は、私が勝つ方を考えたいです」
リーフは息を吐き、手帳をもう一度見た。6月へめくると、何も書かれていない日が続いている。
皐月賞のあと、休みは実際に取れた。ロブロイとのゲームもできたし、読みかけの本も進んだ。榎本なら、次の予定も一緒に考えてくれる。
それで、またあの人の多いところへ行くのか。
嫌な方の気持ちは、簡単には小さくならない。けれど、ロブロイが何を変えてくるのかも、気になっている。
「このページ、写真撮っていい?」
ロブロイの耳が動いた。
「はい」
「予定を聞くだけ。返事は、相談してから」
「ありがとうございます」
リーフはスマホを出し、5月のページを撮った。画面を確かめると、新刊の題名までしっかり写っていた。
「こっちの本屋は、行く」
「はい。そちらも、楽しみにしています」
手帳が閉じられた。ロブロイはそれを鞄へ戻し、今度こそ小説を取り出した。
リーフも本を開いたが、最初の数行を読んだところで、写真へ戻った。練習の時間は、たしかに普段とあまり変わらない。
榎本へ送る文章を打ち始めると、向かいでロブロイがページをめくった。こちらの画面を覗こうとはしなかった。