ゼンノロブロイが一緒に走りたいって言うから…… 作:Lagavulin
東京の走路を見たとき、ロブロイはデビューした日のことを思い出した。
あの日も、リーフと同じレースを走った。自分が先に前へ出て、それより速い相手に抜かれた。ゴールしたあと、いちばん上の表示から目を離せなかった。
今日は日本ダービー。
勝ちたいと言って誘った相手が、またここにいる。
リーフは少し離れたところで榎本と話していた。周りから名前を呼ばれるたびに顔を上げ、短く頷いている。さっき会ったときには、人が多い、とだけ言った。
ロブロイは、その横顔を見たあと、正面の客席へ目を向けた。
手紙をくれた子も、どこかで見ているだろうか。自分の名前を書いたボードが、いくつか見えた。リーフを応援する声の間から、ロブロイ、と呼ぶ声も聞こえる。
頭を下げると、拍手が返った。
今日、勝つところを見てほしい。
トレーナーが隣へ来た。ロブロイは最後に足元を確かめ、顔を上げた。
「前を離しすぎないこと。でも、隣が動くたびに、自分も上げなくていい」
「はい。自分で見ます」
返事をして歩き出す。ゲートへ向かう途中、オータムグロウと目が合った。
「今日は、先に疲れたりしないでよ」
軽い声だったが、笑っているだけではなかった。ロブロイも頷く。
「最後まで、競りたいと思っています」
「私も」
オータムグロウは前へ向き直った。ロブロイも自分の場所へ入り、呼吸を整えた。
*
ゲートが開くと、前へ出る相手が何人かいた。
ロブロイはそのすぐ後ろへ入った。前が見える。外にも出られる。けれど、今すぐ先頭を争う位置ではない。
最初の曲線へ向かうまでに、オータムグロウが前の方へ収まった。ロブロイはその後ろにいる相手との距離を保ち、走りながら肩の力を抜く。
まだ、先は長い。
向正面へ出ると、後ろから1人が上がってきた。外側を通り、ロブロイの前へ進んでいく。足音につられて脚を速めかけ、そこで止めた。
先頭まで、一気に行く速さではない。その子は前の集団へつくと、そこで動きを落ち着かせた。ロブロイは自分の呼吸を確かめた。追わなくても、まだ前は見えている。
皐月賞のときより、周りを見る時間がある。前の子が動く。さらに前の子も、位置を譲らずに進む。ロブロイはその間へ無理に入らず、空いたところを選びながらついていった。
リーフの姿は見えない。探したくなったが、前へ目を戻した。あの子が後ろにいるという理由だけで、今から全部の脚を使うわけにはいかない。
最後のコーナーが近づき、先頭が上げた。
オータムグロウも動く。ロブロイはその外へ続く相手を見て、自分が出る場所を決めた。前との間を詰め、肩が重ならなくなってから外へ進む。
今なら、出られる。直線へ向き直ったところで、腕を振る幅を広げた。脚が前へ出た。先に動いた子の肩へ並び、その先を見る。
まだ、伸ばせる。オータムグロウが前にいた。こちらに気づいたのか、橙色の髪が大きく揺れる。相手も、最後のために残している。
ロブロイはさらに踏み込んだ。すぐには並べない。けれど、少しずつ背中が近づく。坂へ向かう間に、肩が隣まで来た。
オータムグロウがもう一度上げた。ロブロイも上げた。脚は動いた。皐月賞の最後のように、出そうとしても重い感覚ではない。ここからもう一度、相手より前へ行くために力を使える。
橙色が、少し下がった。前が開く。客席から声が届いた。自分の名前も聞こえた。けれど、そのすぐあとに、別の名前が大きく重なる。
外から、リーフが来た。ロブロイは前を向いたまま、腕を強く振った。並ばれるところまで来ても、まだ脚は残っている。
今度は、ここからも。
*
リーフが肩を並べたとき、ロブロイはもう一度速くなった。
さっきオータムグロウを抜くときにも上げていた。それで終わりではなかった。隣の腕が大きく動き、ロブロイの肩が少し前へ戻る。
リーフも地面を押した。身体が前へ進む。ロブロイが視界の端へ戻ってくる。まだ近い。前だけ見て、最後まで脚を動かしている。
あの子は、ここまで待っていた。リーフは腕を振り、もう一段、力を使った。呼吸が大きくなる。走ってきた距離は共同通信杯より長い。けれど、脚はまだ前へ出る。今の速さを保ったまま、ゴールまで進める。
ロブロイの肩が下がった。足音は、まだ聞こえた。追っている。追いつくために、あの子も最後まで走っている。
リーフは前へ目を向けた。渡さない。
坂を上がったあとも、脚を緩めなかった。ゴールの線を見て、そこより先へ走るつもりで地面を押す。身体の動きに合わせ、風が頬を流れた。
『フライトリーフ、抜け出した! ゼンノロブロイも追っていますが、さらに差が開く!』
実況の声が届く。客席の音が大きくなった。すぐ隣にあったロブロイの足音が、後ろへ遠ざかっていた。
リーフは線を越えた。それから少しずつ速さを落とし、息を吐く。勝った。
その言葉が頭へ浮かぶのと、名前を呼ぶ声が重なった。
『皐月賞に続いて、日本ダービーもフライトリーフ! 無敗のまま、クラシック二冠を達成です!』
リーフはゆっくり走りながら、客席を見た。立っている人が多い。手を振っている人も、隣の人へ何か言っている人もいる。
画面に目を向けると、ロブロイが2番目に線を越えたところが映っていた。オータムグロウがそのあとに続く。2人とも、最後まで脚を止めなかった。
歩きに変えてもう一度息を吐くと、リーフは片手を握った。胸の前まで上げ、すぐには下ろさなかった。
嬉しい。
昨日まで気にしていた取材も、帰る時刻も、今は少し遠い。走り切って、自分が先に着いた。そのことを、もう少し確かめていたい。画面に自分の顔が映った。
あ、と思って手を下ろした。今のところまで、見えていたらしい。拍手が続く。リーフは目を逸らしかけ、短く頭を下げた。
掲示板に、番号が並んだ。1着、フライトリーフ。2着、ゼンノロブロイ。着差は7馬身。
リーフはその下まで見てから、振り返った。ロブロイはまだ少し離れたところを歩いている。リーフに気づいて顔を上げたが、すぐには近づいてこなかった。
リーフも声をかけず、帰る通路へゆっくり歩いた。
入口で待つ榎本の顔を見ると、急に嬉しさがこみ上げてきた。
「勝ちました」
「うん。見てた」
渡されたタオルを受け取り、顔へ当てた。まだ熱い。下ろすと、榎本も笑っていた。
「今日は、最後までよく見えてたね」
「はい。ロブロイが、もう1回上げたところも」
榎本は頷き、戻る方へ身体を向けた。
リーフは隣へ並んだ。歩く途中でも、さっきロブロイが並び直しかけた場所を思い出した。帰ったら映像で確かめたいことが、ひとつできていた。