ゼンノロブロイが一緒に走りたいって言うから…… 作:Lagavulin
中山の観客席に、ロブロイの名前があった。
ボードを持った人が、隣の人と何か話している。こちらが顔を向けると、気づいて両手で持ち上げてくれた。文字の下に、小さな開いた本が描かれていた。
ロブロイが会釈すると、今度は声が届いた。
「ロブロイ、頑張れ!」
ほかの場所からも名前を呼ばれた。頷いて前を向くと、少し先を歩くハヤヒデにも、大きな声援が飛んでいる。
有馬記念。芝2500m。出走者が揃い、トレーナーと最後に話す時間になった。
「前に行く子たちを、追いすぎないこと」
「はい。でも、離される前には動きます」
「そこは君が決めていい。最後まで使える脚を残して」
ロブロイは頷いた。クレストレイルが通りかかり、目が合うと笑った。
「今日は、前で待たないから」
「私も、後ろで待つつもりはありません」
クレストレイルは長い三つ編みを背中へ払い、走路の方へ向かった。ロブロイもトレーナーへ挨拶し、そのあとを歩く。
ゲートに入る前に、もう一度だけ観客席を見た。先ほどのボードは、ここからでは見つからない。けれど、名前を呼ぶ声はまだ聞こえた。
*
スタートすると、前の出走者たちがすぐに位置を取り始めた。
青いリボンの相手が先頭へ出る。クレストレイルはその後ろ。ロブロイは内へ入りすぎず、ハヤヒデの背中が見える位置へ収まった。早くも曲線へ入り、外を回る相手の足音が近づく。
無理に並び返さず、前との間隔を保った。
最初に観客席の前へ出たとき、歓声が大きくなった。芝の上を踏む音まで遠くなる。ゴールはまだ先だ。ロブロイは前の背中へ目を戻し、坂で歩幅を乱さないようにした。
クレストレイルが先頭との差を詰めている。
ハヤヒデは、それを見てもすぐには動かなかった。ロブロイも、自分の呼吸を確かめながら最初の坂を越える。ここで使いすぎれば、最後に同じ坂へ戻ってきたとき、もう踏ん張れない。
次の曲線を回り、向正面へ出た。先頭が替わった。クレストレイルが、青いリボンの外から前へ出ている。後ろの集団が縦に伸び、ハヤヒデも間にいた相手を抜いた。
ハヤヒデは、すぐにクレストレイルを追った。ロブロイの前には、まだ1人いる。その子もハヤヒデが離れるのを見てから追い始めたが、その差は少しずつ広がっていた。
ここに残れば、まとめて離される。
ロブロイは外へ出た。前の相手を抜き、ハヤヒデの後ろを追う。急に全部を使わず、走る速さを段階を踏んで上げた。息は苦しくなったが、まだ腕も脚も揃って動く。
後ろから、別の足音がついてきた。
自分が作った進路を、後ろから使う相手もいる。ロブロイは振り返らず、クレストレイルとハヤヒデの間隔を見た。
ハヤヒデが外へ出た。
クレストレイルは先頭を譲らず、曲線へ入る。2人が競ることで、さらに速くなった。ロブロイも続いたが、前との差がなかなか詰まらない。
ここで追いついておきたい。
肩へ力が入り、ロブロイは息を吐いた。まだ直線へ出ていない。並ぶために最後の脚まで使えば、坂で動けなくなる。
前の2人が見える距離で、腕を振り続けた。
最後の曲線の出口で、クレストレイルがもう一度速さを上げた。ハヤヒデは離れず、その外に並んでいる。後ろから来た相手がロブロイの横へ迫ったので、ロブロイも外側を確かめ、先に進路を取った。
直線へ向いた。
『先頭はクレストレイル! 外からビワハヤヒデ、並んでいる!』
ハヤヒデが前へ出た。
ハヤヒデがクレストレイルに肩を並べたときの加速は、映像で見ていたものと同じだった。クレストレイルも腕を振って追う。2人の後ろへ置かれたままでは、もう届かない。
ロブロイは脚を伸ばした。
クレストレイルの背中が近づく。横に並びかけると、相手の呼吸が聞こえた。ここからも走れるのか、と顔を向けたくなったが、前を見たまま腕を振る。
並んだ。その先へ出た。
『ゼンノロブロイが来た! 先頭のビワハヤヒデを追う!』
最後の坂へ入った。
ハヤヒデまで、まだ半馬身ほどある。少しの差なのに、踏み込むたびに戻される。太ももが重い。息を吸っても、すぐに吐き出したくなる。
ハヤヒデは止まらない。ロブロイも地面を押し、身体を前へ運んだ。あと少し近づけば、隣に立てる。胸が苦しい。腕まで重い。それでも、次の一歩を出すと、ハヤヒデの肩が近づいた。ここへ残すために、前半を走った。ロブロイはもう一度、強く地面を踏み、ハヤヒデの隣へ迫った。
ハヤヒデの顔は前を向いたままだった。ロブロイが並んでも、身体の運びは変わらない。僅かに先へ出かけたロブロイの肩が、また戻される。坂を越えた。
『ビワハヤヒデ、ゼンノロブロイ! 2人の争い!』
ゴールが近い。
ロブロイは、正面の線だけを見た。隣がどれだけ残しているかを考える余裕は、もうない。顔を前へ出すだけでは届かない。最後まで脚で走る。
足音が重なった。
ロブロイが半歩出ると、ハヤヒデも追ってきた。並び返される前に、次の脚を出す。
線を越えた。
『ゼンノロブロイ! 最後に差し切った! 有馬記念で、G1初制覇だ!』
ロブロイは走り続け、少しずつ速度を落とした。今、名前を呼ばれた。息が整わず、返事も声も出ない。横のハヤヒデも減速している。こちらを見ると、小さく頷いた。ロブロイは振り返り、掲示板を探した。
1着に、自分の番号があった。2着はビワハヤヒデ。着差はクビ。その下に、クレストレイルの番号が続いている。
『強者に挑み続けたゼンノロブロイ! 幾度の敗北を越え、ついに有馬記念を制しました! 今日、この大舞台に新たな英雄の誕生です!』
何度見ても、1着は自分だった。
「……勝てた」
口に出すと、ようやく息が大きく漏れた。目の奥が熱くなり、掲示板の文字がぼやける。拭おうとして手を上げたが、頬へ触れる前に涙が落ちた。
ハヤヒデが横へ来た。
「最後まで落ちなかったな」
「はい……」
「次は、あそこまで近づけさせないようにする」
ロブロイが顔を向けると、ハヤヒデもまだ息を弾ませていた。悔しそうに少し笑い、改めてこちらへ頷いた。
「おめでとう。今日は、君の勝ちだ」
「ありがとうございます」
後ろからクレストレイルも戻ってきた。
「最後の坂、2人とも全然落ちないんだもんなあ」
その声を聞いて、ロブロイは泣いたまま笑ってしまった。クレストレイルが笑い返し、先にトレーナーのいる方へ歩いていく。
ロブロイも戻ろうとして、観客席からの声に顔を上げた。
「ロブロイ、おめでとう!」
「よく差した!」
最初に見た、本の絵があるボードが高く上がっていた。持っている人まで泣いている。ロブロイは頭を下げ、上げてから手を振った。
拍手がさらに大きくなったので、下ろしかけた手をもう一度上げた。
*
トレーナーは、タオルを持って待っていた。
身体の状態を聞かれ、脚も呼吸も苦しいが、痛めたところはないと答える。そのあとで、受け取ったタオルを握ったまま立ち止まった。
「勝てました」
「うん」
「最後、並んでからも、もう一度前へ出られました」
「見てたよ。よく残して、よく使った」
頷こうとすると、また涙が出た。トレーナーも笑っていたが、目元は赤かった。
「おめでとう、ロブロイ」
「……ありがとうございます」
今度こそタオルを顔へ当てた。早く落ち着かなければ、と思うのに、勝てた、と口の中でもう一度言うと、また涙が出てくる。
取材へ向かう前に、鏡を見せてもらった。目の周りが赤い。トレーナーが少し待とうかと聞いてくれたが、ロブロイは首を振った。
「行きます。たぶん、待ってもまた泣くので」
トレーナーが笑った。ロブロイも笑い、最後に目元だけ拭った。
*
ライブで立った中央からは、客席がよく見えた。左右に並んだ出走者たちの衣装が、照明を受けて光っている。ロブロイが顔を上げると、ステージの前からまた名前が聞こえた。
曲が始まった。最初の振りで腕を上げる。ここから踊るために覚えた動きだった。声を出すところで息が震えたが、次の歌詞はちゃんと続けられた。
客席で、こちらに合わせて光が揺れる。ロブロイは前へ1歩出て、練習してきたとおりに、その向こうへ手を伸ばした。