ゼンノロブロイが一緒に走りたいって言うから…… 作:Lagavulin
ロブロイが坂を上がってきたとき、リーフは自分の鞄を膝の上で握っていた。
あと少し。ハヤヒデの肩まで、もう少し。
声を出したつもりだったが、何と言ったか覚えていない。横で榎本も立ち上がり、周囲から一斉に大きな声が上がった。その中でロブロイが前へ出て、ゴールした。
掲示板を見て、リーフも立った。
「勝った」
「うん。勝ったね」
榎本の声を聞いてから、手を叩いた。走路に戻ってきたロブロイは泣いていた。笑おうとして、また泣いている。その顔を見ているうちに、リーフまで何度も頷いてしまった。
ライブが終わるまで、客席に残った。
中央に立ったロブロイが、前へ手を伸ばした。いつも図書室で向かいに座る子が、あんなにたくさんの光へ向けて歌っている。
リーフは最後の曲まで見て、終わってからもしばらく席を立たなかった。榎本が声をかけてくれたとき、ようやく膝の上の鞄を持ち直した。
*
学園へ戻ったあと、リーフはトレーナー棟の休憩室で待っていた。
ロブロイは必要な確認をトレーナーと済ませてから来る。榎本は隣の部屋にいて、寮へ帰る前に声をかけることになっていた。ほかに休憩室を使っている人はなく、暖房の風の音だけが聞こえる。
スマホには、母から、最後すごかったね、と届いていた。リーフは頷きながら返事をした。ロブロイには、何から話そう。
坂を上がりながら追いついたところ。ハヤヒデに並び返されても、もう一度前へ出たところ。ライブの最初、少し泣きそうに見えたけれど、ちゃんと笑ったところ。
考えていると、扉が開いた。
「お待たせしました」
ロブロイが入ってきた。制服に着替え、鞄を持っている。レースのときの姿とは違うのに、顔を見るだけで、リーフはまた笑ってしまった。
「おめでとう」
立ち上がって言うと、ロブロイも笑った。
「ありがとうございます」
「すごかった。最後まで見てた」
「はい。私、勝てました」
ロブロイは扉を閉めたあと、すぐには席へ来なかった。入口のところで頷き、少し顔を伏せた。
「……また、泣きそうです」
「今日は、いいんじゃない」
「さっきも、トレーナーに同じことを言われました」
リーフは椅子を引いた。ロブロイが向かいへ座り、鞄からタオルを出す。目元へ当ててから、ようやく顔を上げた。
「約束、覚えていてくださったんですね」
「うん。でも、頼まれなくても言ってたと思う」
ロブロイが頷いた。そのあと、声を少し弾ませて尋ねた。
「最後の坂、見えましたか」
「見えた。あそこ、まだ上げられたんだね」
「はい。直線に入る前に、全部使わなかったので。でも、並んでからが長くて」
「ハヤヒデさんも、もう1回来た」
「あのときは、間に合わないかと思いました」
リーフも頷いた。見ている側には何もできず、ロブロイの名前を呼ぶばかりだった。
「私、自分が走るより疲れたかもしれない」
「そんなに?」
「力、ずっと入ってた。ライブが終わってから、やっと気づいた」
ロブロイが笑った。リーフは続けて、中央に立つ姿もよかったと伝えた。最初の歌詞で声が震えたことを、ロブロイは自分から話してくれた。
トレーナーと何を話したか、取材でうまく答えられなかった質問は何か。会場では聞けなかった話が次々に出てくる。
リーフは時計を見て、まだ少し話せると確かめた。今日はレースのための支度も、これから覚える振付もない。ロブロイの話を聞いて、そのあと寮へ帰ればいい。
こういう日も、いい一日だと思えた。
ロブロイとクラシックを走れた。自分があの3つに勝つとは、入学した頃には思っていなかった。お互い怪我もなく1年を終えられた。今日は、勝ったら祝ってほしいという約束も果たせた。向かいで笑っている顔を見ると、来てよかったと思う。
次も、こんなふうに応援できるだけでもいいな。
明日は家へ帰る。読みたい本も、勉強したいこともある。その先に、自分が走るレースを入れなければいけない理由は、何も浮かばなかった。
潮時かもしれない。
「リーフさんは、来年、どこから走るんですか?」
ロブロイに聞かれ、リーフは顔を上げた。
「……まだ、決めてない」
「休み明けは、少し短い距離からでしょうか」
「ううん。次を決めるの、いったんやめてもいいかなって」
ロブロイの手が、畳みかけたタオルの上で止まった。
「いつ頃まで、お休みするんですか」
「それも、まだ。もう、レースは走らなくてもいいのかもしれないって思った」
口にしてから、リーフは自分でも少し驚いた。今日、来るまでは、そこまで考えていなかった。休んでから次を考えるつもりで、その次がなくてもいいとは、今まであまり思っていなかった。
「3つとも走れて、嬉しかったし。今日、応援するのも楽しかったから。こういうのでも、いいのかなって」
ロブロイはタオルを机へ置いた。
「……もう、一緒には走らないんですか」
「そこまで決めたわけじゃないけど。来年も出るって、まだ誰にも言ってないし」
榎本にも、両親にも相談していない。けれど、今は来年のレースを決めておく気にはなれなかった。
ロブロイは何か言いかけ、口を閉じた。しばらくしてから、ようやく声が出た。
「今日、勝てて、本当に嬉しかったです」
「うん」
「ハヤヒデさんにも、クレストレイルさんにも、勝ちたかったので。やっと、取れました」
リーフは頷いた。ロブロイの顔は上がったままだったが、さっきまでの笑顔とは違っていた。
「だから、来年の話もしたくて。今日できたことを、次はリーフさんにも試してみたいって。帰ってくる間、ずっと考えていたんです」
リーフは返事を探した。帰ってくる間も、ロブロイはリーフと走る日のことを考えていたらしい。こちらは、次も応援だけでいいかもしれないと思っていたのに。
「練習なら、一緒にできるよ。走るのを、全部やめるわけじゃないから」
「はい。でも……」
ロブロイは膝の上で手を握った。
「レースでも、一緒に走りたいです」
いつもの頼み方より、声が小さかった。
「お休みしたいのは、分かっています。勉強したいことがあるのも。年末は、それでいいと思ったんです。寂しかったですけど、次に一緒に走るときには、もっと強くなっていようって」
そこで言葉が止まった。
リーフは待った。ロブロイは一度下を向き、顔を上げ直した。
「その次がなくなるのは、嫌です」
はっきり聞こえた。ロブロイ自身も、その言い方に少し驚いたようだった。けれど、言い直さなかった。
「前に、追いつくまで待っていてくださいって、お願いしましたよね」
「うん。ロブロイが初めて勝った日」
「はい。あのときは、リーフさんに勝ちたいって、そればかり考えていました。今も、勝ちたいです。誰よりも」
ロブロイの声が震えた。
「でも、勝てたら、それで終わりにしていいなんて思えません。勝ったあとも、きっと、また誘います。一緒に走ってくださいって。負けたときと、同じくらい」
リーフは、向かいの顔を見たまま動けなかった。
「来年のレースを考えると、リーフさんがいるんです。どこから追ってくるだろうとか、今度は私が前に残れるだろうかとか。それだけじゃなくて……終わったら、何を話そうかって」
ロブロイは息を吸った。目元がまた赤くなっている。
「新しい本を見つけても、休みの日に何をしようか考えても、最初にリーフさんのことを考えます。練習の予定が合わないと、今日はどこで会えるだろうって、探してしまいます」
リーフも、図書室や食堂でロブロイの姿を探していた。走路へ続く道でも、見つければ自分から声をかけていた。
「リーフさんがいないレースも、リーフさんがいない毎日も、もう、考えられないんです」
最後の言葉が詰まり、ロブロイは口元を押さえた。
「走らなくなっても、会うよ」
リーフはすぐに答えた。そこまでなくすつもりで話していたわけではない。
「本も読むし、ゲームもする。一緒に」
「はい。分かっています。分かっているんですけど」
ロブロイが手を下ろした。
「あなたに勝つために走る時間を、なくしたくないんです」
涙が頬へ落ちた。今度はタオルを取らず、リーフを見たまま続けた。
「今日だって、勝ったあと、リーフさんに会いたくて。来てくれているって分かっていたのに、早く話したくて、仕方ありませんでした」
リーフの喉も、少し詰まった。さっきまで、何から話そうと考えていたのは自分も同じだった。
「次の1回だけじゃありません。その次も、その先も。勝った日も、負けた日も、何もない日にも、一緒にいたいです。勝っても、勝てなくても、一緒に走りたいです」
ロブロイは息を整えようとして、うまくいかなかった。それでも、ぐしゃぐしゃになった声で最後まで言った。
「どうか、これからも、私と一緒に走ってください……」
リーフは、机の上へ目を落とした。
さっきまで、もう走らなくてもいいと思っていた。出走を決めず、好きな日に走り、勉強と趣味をして過ごせる。あの生活へ戻りたい気持ちは、今もある。
年末に出ないと言ったあとも、ロブロイは本の話を送ってくれた。次のレースへ行くと答えなくても、一緒に過ごせた。これからも会ってくれることは、分かっている。
リーフは顔を上げかけて、また机へ目を落とした。ロブロイは、今日の勝利について話しながら、リーフと走ることも考えていたのか。次のレースだけでなく、その先も、何もない日も。
そんなに一緒にいたいと思われていることに対する喜び。そんな彼女をここまで悲しませてしまったことに対しての罪悪感。
「私も、来年のことを考えたとき、ロブロイとは会うつもりだったよ」
顔を上げて言うと、ロブロイが頷いた。
「もっと先も。大学へ行っても、会いたいと思ってた」
「……はい」
「走らなくても会えるから、それでいいと思ったんだけど」
リーフは、今度は目を逸らさなかった。
「そんなふうに頼まれたら、断れないの、分かってるよね。……私、ロブロイのこと、大好きなんだから」
ロブロイが唇を結んだ。返事を急かさず、こちらを見ている。
「人が多いのは、まだ苦手だし。取材もライブも、たぶん、ずっと疲れると思う」
リーフは言ってから、少し息を吐いた。そこは変わらない。けれど、榎本と相談しながら出走し、帰ってから本を読めたことも、ゲームで遊べたことも覚えている。
「それでも、続けるよ。ロブロイが、そこまで一緒に走りたいって言うなら。私には、ロブロイの方がずっと大事だから」
ロブロイの顔が泣き顔に歪んだ。声を出そうとして、頷く方が先になった。
リーフは席を立ち、ロブロイの方へ向かう。
机の横を回ると、ロブロイも立ち上がった。間近で見る目元は赤く、頬に涙が残っている。どう触れればいいのか少し迷ったが、リーフはその背中へ腕を回した。
ロブロイの身体が、小さく揺れた。
「もう1回だけじゃなくて。これからも」
近くで言うと、ロブロイの腕も背中へ回ってきた。制服をつかむ手に力が入り、リーフも少し強く抱きしめた。
「……一緒に、いてくれますか」
「うん。私も、一緒にいたい」
ロブロイが肩へ顔を寄せた。小さく息を吸う音が聞こえ、抱き返す腕にもう一度力が入る。リーフも抱きしめ直し、頬を相手の髪へ寄せた。
近くで聞こえる呼吸が、少しずつ落ち着いていく。リーフは背へ回した手を離さず、ロブロイが何度も頷くのを受け止めていた。