ゼンノロブロイが一緒に走りたいって言うから…… 作:Lagavulin
京都の客席に、開いた本の形をしたボードが見えた。
ゼンノロブロイ、と書かれている。その隣に、今日は勝って、と大きな文字があった。ロブロイが顔を向けると、ボードを持っていた人がさらに高く掲げ、こちらの名前を呼んだ。
頷いてから、前を向いた。少し先を歩くリーフにも声が飛んでいる。三冠の文字は、秋から半年が過ぎても、客席のあちこちにあった。
今日も、リーフはここへ来てくれた。
リーフがロブロイに気づき、目を合わせた。短く頷き合ったあと、2人はそれぞれの準備へ戻った。
天皇賞春。3200m。
ロブロイはトレーナーの前で、靴の感触をもう一度確かめた。いつもの位置で結べている。脚にも、身体にも、予定どおり休ませてきた軽さがあった。
「リーフが来ても、最後に上げる分は残しておこう」
「はい」
ロブロイは頷いた。
近づかれると、すぐに前へ出たくなる。追い越されたくなくて、まだ先が残っているのに、一度で全部を使ってしまう。冬には何度もそれをやり、終点の前で脚が鈍った。
最後まで続ける。
ロブロイが顔を上げると、トレーナーは短く、行っておいで、と言った。
出走者の列へ向かう途中で、ビワハヤヒデと並んだ。
「調子はよさそうだな」
「はい。ハヤヒデさんも」
「こちらも、年末の続きに来たからね」
ハヤヒデは笑ったが、目はすぐに走路へ戻った。クレストレイルもいる。長い三つ編みを背へ流し、今日の進む方向を見ていた。
リーフだけを見ていれば勝てるレースではない。
ロブロイは自分の位置へ入り、息を吐いた。客席のざわめきが、スタートを待つ間に少しずつ遠く感じられた。
*
合図とともに、前が開いた。
ロブロイは最初の数歩で進む場所を取り、前へ出た相手の後ろへ収まった。内側を行くハヤヒデが、半歩ほど先にいる。リーフの姿は振り向かなければ見えないので、今は前の速さを確かめた。
1度目の坂では、急に詰めない。
前にいる子の腕の振りが大きくなっても、その勢いをそのまま追わず、自分の息を保った。下りに入ると脚が進みやすくなる。速くできそうな感覚に任せず、肩の力を抜き直した。
最初に客席の前を通ったとき、大きな声が一斉に届いた。
名前も聞こえた。ロブロイは前を向いたまま、その声の下を抜けた。まだゴールではない。今、目の前の相手を全部追い越す必要もない。
向こう側へ回っていく間に、クレストレイルが少しずつ位置を上げた。ハヤヒデも前との距離を詰める。ロブロイはその後ろへつき、進む場所を塞がれないうちに、外へ動ける余地を残した。
2度目の向正面へ入る。
先頭の腕の振りが小さくなったところで、クレストレイルが前へ出た。並んでから一息入れることはなく、そのまま速さを上げていく。
ロブロイも上げた。
ハヤヒデの外側を進み、先頭との間を縮める。早く追いつきたくなるが、そこで急に踏み込まず、決めてきた振り幅を保った。クレストレイルの背中が近づき、その肩が視界へ入る。
『クレストレイルが先頭! ゼンノロブロイも上がっていきます!』
並ぶと、相手ももう一度上げた。ロブロイはすぐには前へ出られなかった。けれど、肩が並ぶ場所を保ち、次の曲がりへ向かって進み続けた。
隣の呼吸が聞こえる。
ロブロイは顎を引き、前の坂を見た。ここで競り勝つためだけに、残りを使ってはいけない。登ったあとにも、まだ走る。
数歩ずつ、前へ出た。
クレストレイルの肩が後ろへずれ、代わりに、その外側からハヤヒデが近づいてきた。足音が増える。さらにもう1人、外から上がってくる音があった。
『フライトリーフも動いた! 前の3人を追っていく!』
来た。
ロブロイは振り向かなかった。リーフに並ばれてからも、最後まで速さを保って走る。そのために、冬から何度も練習してきた。
坂の上が近づく。腕を振り、脚を運ぶ。後ろの音が近づいても、ロブロイは自分の速さを緩めなかった。
*
リーフは、ロブロイの背中を追っていた。
ロブロイが動き始めた位置は見えていた。クレストレイルが前へ出たのを見て、リーフも間を置かずに加速した。それでも、追いつくまでに思っていた以上の距離を使った。
待たなくてよかった。
坂の上でハヤヒデの肩へ並び、下りで少し前へ出る。ハヤヒデもついてくるので、急に内側へは寄れない。リーフはそのまま外を進み、ロブロイのすぐ後ろまで近づいた。
前は、落ちない。秋にもここから追った。そのときより、自分も長く速さを保てている。けれど、ロブロイとの間は、同じようには縮まらない。
最後の曲がりで、肩へ届いた。ロブロイが気づいた。こちらを見るのは一瞬で、すぐに前を向き直す。腕の振りも、足音の間隔も、ほとんど変わらなかった。
直線へ向いた。
『ゼンノロブロイ先頭! 外からフライトリーフ! 後ろにはビワハヤヒデ!』
リーフは前へ目を向けた。ゴールまでの道が見える。ここへ来るまで使った力は戻らないが、最後に上げる分は、まだある。
強く地面を押した。ロブロイの肩より前へ出る。横にあった姿が少しずつずれ、視界の端へ下がった。客席から、こちらの名前が一段大きく聞こえた。
このまま行く。
もう一度、脚を伸ばした。短い距離を走ったときほどは、勢いが増さない。息が深くなり、腕にも重さがある。リーフは上体を起こしすぎないようにして、今の速さを保った。
半馬身ほど、前に出た。
けれど、ロブロイの足音が遠くならない。
『残り200m! フライトリーフが前! ロブロイも離れない!』
リーフは腕を振った。さらに開こうとしても、先ほどのようには脚が出なかった。痛いところはない。ただ、ここまで走り、追って、前へ出るために使った分だけ、次に出せる力が少ない。
横の気配が近くなる。ロブロイが上げた。追い越される前に全部を使わず、ここへ残していた速さだった。
渡したくない。
リーフは歯を噛み合わせ、次の1歩へ力をつないだ。肩の位置を保とうとするが、ロブロイの姿が少しずつ戻ってくる。
『飛翔を続けるか、フライトリーフ! 英雄が届くか、ゼンノロブロイ!』
ゴールが近づく。それなのに、さっきまでの差では足りない。リーフが最後まで前へ進もうとする横で、ロブロイも同じように腕を振っていた。
絶対に勝つ!
リーフは脚を踏み出した。ロブロイの肩がほとんど同じ場所にある。前にある白い線だけを見て、上体を運んだ。
『リーフか! ロブロイか!』
線を越えた。
その先も、すぐには速さを落とせなかった。横のロブロイも同じように走っている。十分に進んでから、2人は少しずつ緩め、離れた場所で歩き始めた。
どっちだ。
リーフは顔を上げた。大きな画面には、最後の数歩が映っている。自分が先にいるように見えた直後、ロブロイの方が出ているようにも見えた。
『接戦です! 先頭の2人、判定を待ちます!』
客席の声が途切れなかった。こちらの名前も、ロブロイの名前も聞こえる。リーフは呼吸を整えながら、まだ順位の出ていない掲示板を見た。
いつもなら、線を越えたときには勝ったと分かる。
今日は、分からない。
リーフは口元へ上げかけた手を下ろした。ロブロイも少し離れたところで立ち止まり、同じ掲示板へ顔を向けている。話しかける言葉は、まだ出てこなかった。
リーフは歩きながら、何度も掲示板へ目を戻した。息が整ってきても、胸の鼓動は速いままだった。画面に映った最後の数歩を見直し、また順位の出る場所を見た。
掲示板が変わった。
1着、フライトリーフ。
その下に、ゼンノロブロイ。着差は、ハナ。
『フライトリーフです! ハナ差で勝利! 無敗の三冠ウマ娘が、春の盾も手にしました!』
リーフは膝へ手を置きかけ、途中で止めた。まだ歩いていた方がいい。榎本と何度もしてきたとおりに動こうとしたが、最初の1歩が少し遅れた。
勝てた。
息を吐くと、肩から力が抜けた。口元が緩んだあと、もう一度掲示板を見た。3着にはハヤヒデ、その後ろにクレストレイルの名前が続いていた。
ロブロイは、2着の文字を見つめていた。
リーフが顔を向けると、ロブロイもこちらを見た。何か言いかけたように唇が動いたが、声にはならない。やがて小さく頷き、自分のトレーナーが待つ方へ歩いていった。
戻る通路の手前で、榎本がタオルを持って待っていた。
「おめでとう」
「……勝てました」
「うん。最後まで、よく走った」
リーフはタオルを受け取った。顔を拭こうとしても、まだ少し息が苦しい。下を向いて呼吸を整え、それから、榎本の方へ顔を上げた。
「ゴールしても、分からなかったです」
「私も、すぐには分からなかった」
「本当に、最後まで来て」
リーフはそこで一度、口を閉じた。横に戻ってきたロブロイの肩が、まだ見えるようだった。
タオルを顔へ当て、目元まで押さえた。下ろすと、榎本が飲み物を差し出してくれたので、リーフは両手で受け取った。