ゼンノロブロイが一緒に走りたいって言うから…… 作:Lagavulin
ロブロイは、渡された飲み物を持ったまま座っていた。
ハナ差。
数字になっていない着差が、頭の中に何度も浮かんだ。隣にいた。最後まで、隣にいたのに。
「届くと思いました」
トレーナーは向かいに座り、頷いた。
「私も、そう思って見ていた」
「でも、届きませんでした」
ロブロイは蓋を開け、一口飲んだ。口の中が乾いていたことを、そのときになって思い出した。飲み下してから、両手で容器を持ち直す。
「菊花賞から、ずっと、ゴール前まで脚を残すことを考えていたんです。リーフさんに並ばれても、全部使わないで。最後に、もう一度前へ出るって」
「できていたよ」
「はい。でも」
そこから先は、うまく続かなかった。
トレーナーは、惜しかったとも、次があるとも言わなかった。ロブロイが言葉を探す間、同じところに座っていた。
「……悔しいです」
「うん」
「今までで、いちばん」
容器を握りすぎないよう、指を緩めた。あの直線を、もう一度だけ走れたら。ほんの少し、どこかで前へ進めていたら。
ロブロイは顔を上げた。
「映像、あとで一緒に見ていただけますか」
「もちろん。今日はまず、身体を休めてからにしよう」
ロブロイは頷き、もう一口飲んだ。
*
ライブの支度まで少し時間があったので、ロブロイはリーフと休憩室へ入った。
トレーナーたちは廊下で話している。リーフが長椅子へ座り、ロブロイも隣へ腰を下ろした。
「おめでとうございます」
「ありがとう」
リーフの髪は、まだ少し湿っていた。いつものように大きく表情を変えないけれど、返事をしたあと、ほっとしたように息を吐いた。
「最後、勝ったか分からなかった」
「私もです」
「前に出たのに、全然離れなくて」
ロブロイは頷いた。あの場所で隣を走った人から聞くと、自分がどこまで行けたのかが、今さらはっきりした。
「今度は、最後まで見えました」
リーフが、こちらを見た。
「背中だけじゃなくて。隣にいるリーフさんが、最後まで」
「うん。私も、ずっと分かった」
ロブロイは唇を結んだ。嬉しいと言い切るには、まだ悔しすぎる。勝った相手が目の前にいて、あの最後の1歩を、こちらも見ていた。
「でも、次は前に出ます」
リーフは少しだけ目を細めた。
「私も、出させたくない」
「はい」
「今日は、本当に危なかったから」
その言い方に、ロブロイの口元がわずかに動いた。
「次は、もう少し短い距離でも勝負したいです」
「私の方が、得意かもしれないよ」
「知っています」
「……また、誘ってくれるんだ」
「はい。何度でも」
リーフは頷いたが、次の言葉が出てこなかった。膝の上で握った手を見つめている。
顔を上げたリーフの目元には、涙がたまっていた。
「リーフさん?」
「本当は、怖かった」
「今日のレースが、ですか?」
「ううん。ロブロイに、嫌われるのが」
涙が頬へ落ちた。リーフは目元を拭ったが、声までは整わなかった。
「菊花賞のあとも、言えなかった。何度も私が勝って、ロブロイが悔しそうにしてるのを見ると、いつか、私の顔も見たくなくなるんじゃないかって」
ロブロイは唇を開きかけたが、リーフが息を吸ったので、その続きを待った。
「今日も、勝ちたかった。最後は、絶対に抜かれたくなかった。でも、結果が出たら、ロブロイとちゃんと話せるかなって」
言葉の途中で息が詰まった。リーフは顔を伏せ、少し待ってから、もう一度ロブロイを見た。
「嫌われたら、どうしようって。ロブロイと本を読んだり、遊んだりするのが、こんなに楽しいのに」
ロブロイはリーフの手に触れた。握り返す指が震えていた。
「私も、ロブロイがいない毎日なんて、もう考えられない」
言い終えると、リーフの顔が歪み、肩が震え、大粒の涙が落ちた。ロブロイはリーフの背へ腕を回し、そっと抱き寄せた。
「嫌いになんて、なれません」
リーフの肩が、小さく揺れた。ロブロイは背中へ回した手で、ゆっくりとさすった。
「今日は、まだ悔しくて。すぐには笑えないかもしれません」
「……うん」
「それでも、リーフさんと帰りたいです。本のお話もしたいです。次のお休みも、一緒に過ごしたい」
リーフの腕も、ロブロイの背へ回ってきた。肩へ顔を寄せたリーフを、ロブロイは抱きしめ直した。
「勝っても、負けても、リーフさんが大好きです。そこは、変わりません」
リーフはロブロイの肩へ顔を寄せたまま、何度も頷いた。
「……ありがとう」
ロブロイは頷き、リーフの呼吸が落ち着くまで抱きしめていた。
扉の外から、榎本が支度の時間を知らせた。リーフは顔を上げたが、まだ目元が濡れていた。
「……顔、洗ってくる」
「はい。待っています」
リーフを見送り、ロブロイは鞄を持って入口のそばで待った。
戻ってきたリーフの目元は、まだ少し赤かった。ロブロイが隣へ並ぶと、リーフは小さな声で、あとで感想を聞きたい本があると言った。
「この前の、探偵のお話ですか」
「うん。私、あの助手の言い訳で笑っちゃった」
「迷子になったことを、最後まで認めませんでしたね」
詳しい話を始める前に、支度をする場所へ着いた。ロブロイは、帰りに続きを話してもいいかと尋ねた。リーフは頷き、先に扉を押さえてくれた。
*
ライブと取材を終え、宿へ戻った頃には、リーフは声を出すのも少し面倒になっていた。
部屋で靴を脱ぎ、椅子へ腰を下ろす。スマホには、両親や友人から連絡が届いていた。父からの短い祝いのあとに、母から、見ている方も力が入った、とある。
トランセンドからは、最後は画面へ顔を近づけすぎたという感想が来ていた。次は自分の出るダートのレースも見てほしいと続いていたので、リーフは日程を送ってほしいと返した。
返信を終えたリーフは、今日の天皇賞を伝える記事を開いた。見出しには、フライトリーフの名前と戦績が並んでいた。
8戦8勝。
今まででいちばん小さな差で勝った日なのに、1着の記録は、また1つ増えている。
リーフは記事を閉じ、ロブロイとの連絡を開いた。
『明日、帰りに読む本、もう決めた?』
送ってから、鞄の中の本を取り出した。今夜のうちに少し読もうと思っていたが、数ページで目が同じところを滑り始めたので、栞を挟んだ。
今日は、もう無理だ。
返事は、寝る支度をする前に届いた。
『決めました。でも、リーフさんとお話しする方が長くなるかもしれません』
『私も。そのつもりで聞いた』
送信してから、リーフは翌日の移動の時刻を確かめた。朝は慌てなくて済みそうだった。スマホを伏せ、灯りを消すと、今度はすぐに眠れた。
*
学園へ戻ってから、最初の休み。
リーフは談話室の机へ本を置き、椅子を2脚並べた。今日は練習を入れていない。午前中に提出する課題を済ませ、午後はロブロイと遊ぶと決めていた。
用意していると、ロブロイが来た。腕には返す本があり、その上に、見覚えのない1冊が載っている。
「それ、買ったの?」
「はい。前に、気になるとおっしゃっていたので」
「ロブロイも読んだ?」
「読みました。リーフさんがどこをお好きになるか、聞いてみたくて」
リーフは受け取って表紙を見た。少し厚い。今日のうちに読み切るには、ゲームを諦めることになる。
「次の休みまで、借りてていい?」
「もちろんです」
「じゃあ、感想はそのとき」
ロブロイが頷き、隣の椅子へ座った。リーフは本を机の端へ置き、ゲームを起動した。前に壊した花瓶は、その後のやり直しで無事だったことになっている。
「今日は何を運ぶの?」
「小さな棚のようです」
「小さいなら、楽かな」
始めてみると、棚の引き出しが全部開いてしまった。リーフが向きを変えるたびに中身が床へ落ち、ロブロイがそれを拾っては、また入れ直す。
「閉めてから、運びませんか」
「閉め方が分からない」
「何か、押さえるものがあれば」
「それ、ゲームだと無理だと思う」
ロブロイは笑い、落ちた小さな箱を棚へ戻した。結局、引き出しが開かない向きへ2人でゆっくり動き、途中で何度も置き直して扉まで運んだ。
終わると、思っていたより時間が経っていた。
リーフはゲームを止め、2人分の飲み物を取りに立った。戻ると、ロブロイが机の本を開いていた。読まずにめくっているだけらしく、リーフが座ると、すぐに閉じた。
「感想、先に聞きたくなった?」
「……少し」
「まだ表紙しか読んでない」
ロブロイが笑いながら謝った。リーフは飲み物を渡し、次の休みを思い浮かべた。練習の予定はまだ全部決まっていないが、午後を空けられそうな日はある。
「土曜日、会える?」
「午前中に図書の用事があります。午後でしたら」
「じゃあ、また午後。今日はできなかった続きもやりたい」
ロブロイはスマホを取り出し、予定を確かめた。
「大丈夫です。空けておきます」
「うん。次の休みは、私が先に誘ったからね」
言ってから、リーフは少し照れた。別に先着順ではない。それでも、レースの相談をされる前に、自分が一緒に過ごしたい日を伝えておきたかった。
「覚えています」
ロブロイは予定を書き込み、スマホを置いた。
「……レースの方も、また誘うつもり?」
「はい。どこに出るかは、まだトレーナーと相談中ですけど」
「私を誘うのは、もう決まってるんだ」
ロブロイは少し照れたように笑った。それから、リーフをまっすぐに見た。
「はい。次のレースでも、その次も。私は、あなたの隣を走りたいです」
予定を確かめていたときより、少しゆっくりした声だった。
「……うん。走り終わったあとも、一緒にいてね」
ロブロイが頷いた。リーフは借りた本に手を置き、言葉を続けた。
「レースから帰ってきて、また本を読んだり、ゲームしたり。次も、その次も。私も、ロブロイといる時間が欲しい」
言い終えると、少し顔が熱くなった。けれど、本へ目を落とさず、ロブロイの返事を待った。
「はい。私も、そのつもりです。ずっと」
リーフは手元の本へ目を落とした。ゲームの続きと、この本の感想。来週やりたいことは、もう決まっている。
「その次の休みは、ロブロイのしたいことでもいいよ」
「リーフさんと過ごせるなら、それで」
「それ、私もそうだから、何も決まらないよ」
ロブロイは一瞬きょとんとして、それから嬉しそうに笑った。リーフも目を逸らさず、その笑顔に笑い返した。