第1話
真っ暗な空間にいた。何も見えない、何も聞こえない。手を伸ばしても、何にも触れられない。
なのに、自分がここにいるという感覚だけは、確かにあった。
少しだけ、ほんの少しだけだけど、空気を吸っている感覚があった。手を伸ばすと、ちゃんと「いま自分は手を伸ばしてるな」と分かった。
そんな状態がしばらく続いた。
すると、突然目の前が“紫色”に染まる。
自分の目がおかしくなったわけじゃない。目の前の景色が、それまで真っ暗闇だった景色が、急に紫色になったのだ。
首を四方に向ける。360度、どこを見ても紫色だった。
自分の手に視線がいく。そのまま腕をつたって、胸からお腹、お腹から脚まで全身が視界に入る。
そこで初めて座っていることに気づく。私はへたり込むように座っていた。
そして、制服を着ていた。
青いひもリボンをつけた夏用カッターシャツ。しっかり膝丈まである苔色のスカート。しかし靴は履いていなく、裸足だった。
とりあえず立ってみる。
思ったよりも身体が軽かった。まるで自分の身体ではないみたいだった。
一歩踏み出してみる。紫色の地面に、しっかりと足の裏がひっつく感覚があった。
そのまま前方を歩いてみる。
どこまでが地面で、どこからが空なのか、まるで境目が分からない。あまりに紫色一色で、地面とか空とかそんな概念すらないんじゃないかと思えてくる。
そのままずっと、かなりの時間歩いた。何もない紫色の空間を、なんの目的もなくずっと。
やがて、歩いてしばらく経った頃。
急に視界が“青色”に染まる。
すると、間もなく次は“黄色”に変わる。
黄色の次は“赤色”、赤色の次は“緑”、緑の次は“水色”。そしてまた紫色に戻ってくる。
しかしまた青色になった。次は赤、緑、水色、その繰り返しだった。
そんな色の点滅がずっと続き、しばらくした頃だった。
上の方に、黒い点のようなものが現れる。それは最初、ただの黒い点のように見えた。
しかしよく見ると、その黒い点の周りには、マグマのような、どす黒い何かが滲み出ていた。
どす黒い何かは、少しずつその面積を大きくしているようだった。
その瞬間である。
「——っ!」
そのどす黒い何かが、一気にこの空間を覆った。まるで爆発したかのように、一瞬で。
あまりの衝撃に、私は腰を抜かしてしまう。
何色かの色が点滅していたあの空間は、瞬く間に地獄のようになった。
上の方を見ると、黒い点はまだあった。
しかし黒い点は、渦のようなものを作り出していた。
いつの間にか、黒い点は膨張し始めたようだった。
禍々しい景色の前に、私は呆然と腰を抜かし続けていた。
すると、黒い点が一気に収縮する。膨張しつつあった黒い点は、自分の目では見えないほど、小さくなってしまった。
ひょっとして消えてしまったのか。
そう思ったのも束の間だった。
その黒い点は、一瞬にして元の大きさに戻った。そしてその瞬間、大爆発した。
鼓膜を突き破らんとするほどの音と共に、熱風が私を襲った。思わず両腕で顔を防ぐ。
そっと両腕の隙間から、向こうを覗いてみる。
黒い点は大きな穴となっていた。中は暗闇で、何も見えない。
目を細めて、私はさらにその中を覗いてみる。
すると、何かがこっちに向かってきているのが分かった。
それはみるみると近づいてくる。
地震のような轟音が、響いてくる。私は一歩、また一歩と後退りした。
やがて、その近づいてくるもののシルエットが浮かび上がってくる。
ライオンだった。
それが分かってすぐ、ライオンは黒い点から飛び出してきた。いつの間にか、すぐそばまで近づいていた。
「ひっ——」
私とライオンの顔が、数センチ差にまでなる。荒い鼻息が、私の顔に噴射された。
立て髪が紫色の炎に包まれている。口からはみ出すほどの、大きな牙を持っていた。四本の脚には、それぞれ炎の輪っかがついている。
食われる。
私はすかさず目を瞑り、顔を背けた。
「運命は、お前に委ねられている」
ライオンはそう言った。私は目を開ける。
「お前が決めろ」
ライオンの大きな口が動いた。
「お前が、決めるんだ!」
ライオンの牙にマークが彫られているのに、私は初めて気づいた。
それは、鋭利な刃物で時間をかけて刻まれたかのような、ギザギザの”バッテン”だった。
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「なこっちゃん、なこっちゃん起きてー。なこっちゃ——」
「わぁ!」
勢いよく上半身を起こす。めくりあげられた布団が前方に吹っ飛んだ。
「びっくりした……! 何よもう、そんな飛び起きて!」
あずみがものすごい顔で私を見る。ヘアバンドをつけ、ジャージ姿だった。彼女もいま起きたばっかりなのだろう。
二段ベッドの梯子に掴まっているのを見るに、どうやら私を起こそうとしてくれていたようだ。
スマホから、目覚ましのアラームが鳴っていた。画面をタップし止める。すると、人差し指から汗が滴り落ちた。
初めて全身が汗だくになっていること、それから、すごい暑さに包まれていることに気づく。
首筋から胸、腰や背中、足首に至るまでほぼ全てがびしょ濡れだった。息遣いもかなり荒い。
窓の外から、セミのやかましい鳴き声が聴こえていた。令和の七月中旬は、35℃を超える日が当然のようにあるから、冷房はガンガンにしていた。なのにもかかわらず、こんな有り様だ。
そうだ。あの夢のせいだ。
記憶が蘇った途端、ため息を吐いてしまう。頭を抱えた。
「まただよ。またあの夢」
げんなりしながらも、あずさにそう伝える。
「あー、あれ? ライオンのやつ」
「そうそう、それ」
布団から身体を全て出す。私もあずさと同じような、半袖半ズボンのジャージを着ていた。半袖の裾をめくり、タンクトップみたいにする。それでもなかなか治まらないくらい暑かった。
「大丈夫? いつにも増してしんどそうだけど」
「うん……。まあ、なんとか」
「ほんと困ったもんだねえ。確実に悪夢化してきてるよね。その夢」
私はうなずくことしかできなかった。
「まあとりあえず、支度しよ」
時刻を確認すると、8時40分を少し過ぎたところだった。大学の講義開始時間が9時10分なため、30分もない。ちょっと急がなければ。
「ん?」
上段ベッドから降りようとしたとき、枕元になにかあるのに気がつく。
「なにこれ」
そこにあったのは、“オレンジ色の石”だった。
一瞬宝石かと思ったが、持ってみると軽かったからすぐ石だと分かった。
「ねえ、これあずさのー?」
ベットからあずさに向けて、その石を見せる。
「えー、なにそれ」
あずさは私と同じ反応をした。
「違うの?」
「存じ上げませんなぁ」
あずさは歯ブラシとコップを持って、共用洗面所へと向かっていった。
じゃあ一体、誰のなんだ。
私だって、これっぽっちも見覚えがない。こんな石。
何かの間違いで持って帰ってきたもの? 有り得ない。お酒は一滴も飲まないタイプだし、物忘れもあんまりしないタイプだ。
私はその石をしばらく眺めたあと、なんとなく握ってみる。
不思議な感覚がした。妙に心地いいような、眠くなるような。
「へんなの」
しかし、石は石だ。
二段ベッドから降りた私は、その石をリュックサックに入れた。講義が終わったあと、どこか捨てられそうな場所があれば捨てよう。
歯磨きをさっと済まし、ヨーグルトを一つ食べ、髪を整えるのには一番時間を使った。女子にしてはあまり見た目に頓着ない方だけど、それでも最低限の時間はかけないとまとまらないくらいの髪の量だった。
この女子寮から自分たちの校舎まで、走れば3分もかからない。ギリギリの時間に出て、なんとか開始1分前には間に合った。
心理学の講義はいつも通りに始まった。目覚めてから校舎に来るまでの忙しさから、私の息はまだゼエハア言っていた。おかげで全く講義に集中できやしない。
あの夢を見るようになったのは、いつからだったか。
大学三年生の今から遡れば、かれこれ一年以上前になるかもしれない。
二年生か、ひょっとすれば一年生の終わり頃からずっと、あの夢を見続けている。
初めてその夢を見た時は、自分があの暗闇の空間にいるだけだった。それ以降、週に一度見るか見ないかというペースでその夢を見続けた。
同じ夢を何度も見る経験がなかった私にとっては、当然不気味に思えた。しかし特に悪影響があるわけではなく、「変な夢だな」くらいにしか思っていなかった。
それから数ヶ月が経ったある日、毎度のごとく、その夢を見た。しかしいつも通りではなかった。夢が進んだのだ。
暗闇の空間が一転、紫一色になり、自分があの制服を着ていることが判明した。
その夢に続きがあったことに、まずびっくりした。単によく分からなかった不気味な夢が、何かの意味を含んでいるものになった気がしたのだ。
そしてあの制服を、どこかで見たことがあるような気がしていた。ただ、はっきりとどこで見たのかは分からない。しかし断言できるのは、自分が中学高校の頃に着ていたものではない。
それからまた数ヶ月が経ち、さらに夢が進展する。私がその空間を歩き、紫色から青や緑といった色へ変わる光景を見るようになる。
それからまた数ヶ月、あの黒い点を発見する。
また数ヶ月、黒い点が爆発し、空間全体がマグマのような、地獄絵図へと変貌する。
そのまた数ヶ月、黒い点が膨張したあと、収縮し、最終的にはまた爆発する。
そして今から二ヶ月と少し前、“ライオン”があの穴の向こうからやってきては、その穴を飛び越え、私の目の前までやってくるようになった。
この数ヶ月ごとに進展を見せる夢は、ルームメイトの樋口あずさにその都度伝えていた。最初はなんとなくで聞いていたあずさだったが、内容が禍々しくなるにつれ心配してくれるようになった。
そして今朝、その夢がまた進展した。
私の目の前まで迫ってきたライオンが、しゃべった。語りかけてきたのだ。
『運命は、お前に委ねられている』
『お前が決めろ』
『お前が、決めるんだ』
ライオンのあの時の“強い意志”を感じる気迫が、頭に焼き付いて離れなかった。
ライオンが何を伝えたいのかなど、私にはとうてい分からなかった。
ただ、私にはこの夢が、ただの夢には思えなかった。
「それじゃあ今日はここまで。お疲れ様でした」
教授が挨拶し、やっと講義が終わる。結局夢のことで頭がいっぱいで、ろくにノートも取れていなかった。
「ああ、それと、最近またこの辺りでエイリアンを見たっていう情報が出回ってるから、くれぐれも気をつけるようにね。特に夜なんかは。まあエイリアンではないと思うけど、そういう格好をした輩とかかもしれないし、関わるとろくなことがないから」
教授が言ったそれは、近頃この辺りをざわつかせているニュースだった。
つい一ヶ月ほど前から、ここ近辺に住む住民から『奇妙な化け物を見た』とか『エイリアンがうろついていた』とかいう情報が寄せられていた。SNSにも一定数そんな書き込みがある。目撃時刻は圧倒的に夜が多く、写真や動画も撮りづらく、撮ろうとしても逃げられたというケースが大半だった。
ただ、私はそんなに気にしていなかった。そういう話題は、友達と話すネタ程度にしか思っていない。
「なこっちゃん、行こ」
「ああ、うん」
私は立ち上がり、あずさと後ろの扉の方まで向かう。
その時、ある人物を目にする。
「ん? どうしたん、なこっちゃん」
思わず立ち止まってしまい、あずさに首を傾げられる。「あ、いや」と言うが、視線は迷わずその人物を追ってしまう。
黒い分厚めのパーカーに、ジーパン、アディダスのスニーカーを履いた男子学生は、ボサボサの頭を掻きながらあくびを一発かました。そして講義室から去っていく。
「あの人がどうかしたん?」
あずさはポカンとした顔をする。
「いや、あんな人いたかなぁって」
心理学部の学生は50人強いて、たまに時間を持て余した他学科の生徒が、気まぐれに講義に参加したりもする。ようは、もぐり学生だ。
ボサボサ髪のあの人は、つい一週間ほど前から心理学部に姿を現し始めた。
教授も適当な人なため、もぐり学生を注意したりはしない。
「なに? もしかして気になるの??」
ピカッと笑顔を浮かべるあずさに「違うって」と答える。
「じゃあなんなんよ?」
そう聞かれても、自分でもあまりよく分からない。
ただ、普段見ない人だからという理由だけで、目がいってしまうわけではない気がした。
「分かんない。もう行こ」
そうして私は、あずさと講義室から出た。