「63円のお渡しです。ありがとうございました」
お辞儀をし、客を見送る。自動扉が開くと、テレレン♪ テレレン♪ という音が鳴った。
時計を見ると、すでに8時前だった。基本私は夕方5時から3時間シフトを入れている。ゆえに、そろそろ交代の時間である。
すると、一人入店してくる。
「あ、
手を挙げ挨拶してくるのは、野口明だった。定職を辞めてからはかれこれ5年ほどフリーターで食い繋いでいる、30歳手前の金髪男である。
「ああ、こんばんは」
少々苦笑いで挨拶を返す。
めちゃくちゃ苦手というほどではないけど、語尾が粘っこいのが鼻につくから、あんまり好きではなかった。
このコンビニのスタッフは、店の裏側の従業員用ドアから入ってもいいことになっている。そっちからの方がロッカーが近いしみんなそこから入っているのに、野口は私とこの1分にも及ばない会話をするためだけに、わざわざ自動扉の方から入ってくるのだ。
「ねーねえ聞いてよ鳴来川ちゃーん。さっきさー、あそこの道端でえっぐい酔っ払いいてよー」
野口はレジカウンターに肘をつけ、チャラい男しかやらないような姿勢になる。
「たまたまそこの街灯が故障してたからよく分かんなかったんだけど、なんか変なコスプレみたいなんしててさぁ、まじキモかったわぁ。なんかぶよぶよってしてたし。ローションでも塗ってんのかよって!」
だいたい野口は、何かしらの話題をこうして話してくる。どうでもいい話を吹っ掛けてくるくらいなら、さっさと準備すればいいのに。
「へえ、それはヤバいですね」
「でしょー? この時間帯に酔っ払いってのも珍しいけどよー、それがこんな住宅地のど真ん中で、しかも結構ヤバめなやつっていうのがなぁ! なんかテンション上がったわ」
私は、あはははは、と笑いながらやり過ごす。
「野口くーん。早く着替えないと。あと2分だよ〜」
バックヤードの通用口から店長が出てくる。野口は「あ、すんませんっ。そんじゃ俺着替えてくるわ」と言って、バックヤードに去っていった。
店長は厳しめな人だった。私がここでバイトを初めて間もない頃、8時59分にバックヤードに戻って帰り支度をしようとした時があった。しかし店長から「まだ1分あるよ」と言われたのだ。
この人は規則に従順である。だから、8時になるまではここに立っていないといけない。
すると、客が一人入ってくる。
私は思わず「あっ」と言ってしまった。
黒い分厚めのパーカー、ジーパン、アディダスのスニーカー、そしてボサボサの髪。あのもぐりの男だった。
男は講義室にいた時と、何も変わらない様子だ。ポケットに手を突っ込み、ボサボサの頭を搔いている。あくびを一発かますところも同じだ。
男はそのまま雑誌コーナーへ向かう。週刊少年チャンプが置いてあるところで一瞬立ち止まるが、すぐに飲み物コーナーへ行った。
レジカウンターから見て死角の方に入ってしまったため、私はカウンターからぐいぃっと身を出し、その男を見逃すまいとする。
男は少しして、奥の方からお菓子コーナーまで歩いてくる。お菓子コーナーで立ち止まり、じっと陳列されているお菓子たちを眺めた。
やがて男は袋菓子を一つとり、ゆったりとした足取りで私の方まで来る。
「いらっしゃいませ」
カウンターに置かれたのは【ビスケット×ビスケット】だった。普通のビスケットより厚さが二倍ほどある、ビスケット界の王様お菓子だ。それのコンビニ限定デカうまバージョン。
バーコードリーダーでピッとし、「269円になります」と言う。
「あ、えっと」
男は何かを思い出すようにフリーズすると、右ポケットの中に片手を突っ込み、じゃらじゃらと小銭の音をならす。すくい上げ、開かれた手のひらには1円玉、5円玉、10円玉、100円玉といった各種小銭が積み上げられていた。
右手から左手へ、100円、100円、10円、10円、10円といったように支払う分の小銭を移していく。これがもし行列中のレジであれば迷惑極まりないほどのノロさだった。
10円、10円、10円、5円、1円、1円、1円、1円。支払い分の小銭を移し終え、右手にはわずか3円しか残っていなかった。
「……っ!」
その瞬間、声にならないほどの驚きを発してしまう。しばらくフリーズしてしまった。
男がどうしたんだと言わんばかりに、こっちを見てくる。すでに現金トレーに小銭は移されていた。
「……あ。すみませんっ」
慌てて小銭を受け取り、精算する。吐き出されたレシートを渡す時、この人を"引き留めようか"とても迷った。間違いなくここ数年で、一番の迷いだった。
「あ、えっと……。ありがとう、ございました」
しかし勇気が出なかった。普通の客に接するように、男を送り出してしまう。
男はゆっくりビスケット×ビスケットを持つと、ゆっくり自動ドアへ向かい、出ていった。
時刻を見る。すでに8時1分だった。
その瞬間、諦めきれなさが込み上げてくる。
私はそそくさとバックヤードへ戻り、仰々しくロッカーを開けた。制服を脱ぎ、素早く私服に着替える。軽装だったから着替える時間は最小限で済んだ。
リュックサックを背負い、店長に「お疲れ様です!」と言うと、従業員入口から素早く出た。まさに熱帯夜という風な、蒸し暑い空気が押し寄せて来る。
私は急いで店の表側へと向かう。
男の姿は見当たらなかった。
どこへ行ったのか。
あれくらいゆっくりな足取りだと、まだそう遠くへはいっていないはずだ。
早歩きと走るのを繰り返し、男を探す。夏とはいえまだ7月中旬なため、辺りはかなり暗くなっていた。
差し当たる通路をしらみ潰しに覗いていく。いない。いない。いない。いない。
なんでいないの。あれだけゆっくり歩いていたのに。あのあと走っていったのだろうか。
そうして、目を凝らしながら探している時だった。
「あっ」
いた。
向かって右側の、コンビニから四つ目の通りを曲がった時、男を発見した。ビスケット×ビスケットを右手にぶら下げ、悠々と歩いている。
男は街灯の下で立ち止まると、またあくびをした。一体どれだけ眠いのだろうか。
「あ、あのー!」
そう叫びながら走る。しかし男は気づかなかった。
再び「あのぉー!!」と叫んだ。
ようやっと男は、こっちを向く。
「はぁ……はぁ……」
ずっと全力疾走してたわけでもないのに、息は結構あがっていた。一応元陸上部でもあるのに、なんだか惨めな気持ちになる。
「あ、さっきの受付の人」
私の顔をじっと見て、男は点と線が繋がったみたいな表情をする。
それだと病院の受付係みたいになっちゃうって。普通はレジの人とかでしょ。湧き出るツッコミをなんとか抑える。
「あの。えっと、その。手のひら、右手の」
男はビスケット×ビスケットを持ち替え、自分の手のひらを見た。
「え」
私が何を言いたいのかちっとも分からないようだった。
「その傷」
街灯に照らされた男の右手のひらには、"バッテン"の傷跡があった。
男の右手のひらから小銭が減っていく過程で、現れたのだ。
それを見た瞬間、あの夢の光景がフラッシュバックした。
今朝、初めて明らかになった、夢の続き。
ライオンの牙にあった、バッテンの傷跡。
「これが、なんか?」
男はぽかんとする。
とにかく引き留めることしか考えていなかったから、どう説明しようか迷ってしまう。
夢のことを一から言う? それで本当に納得してくれる? そういうところを考え出すと止まらなかった。
ビチャ、ベチャ。
なにか、音が聞こえる。
ベチャ、クチャ。
それは足音のようだった。
ねばねばしたものが付着した靴で、地面を踏み締めるような。
クチャ、ベチ。
それはこっちに近づいてきている。
「え……?」
自分の目に映ったものがなんなのか、理解できなかった。
男の後ろ、前方わずか5メートルのところ。
なにかがいた。それを見た瞬間、ものすごい悪寒がひた走る。
具合の悪そうな、茶色と灰色っぽい色をしている。図体は人間の二倍以上はある。楕円状の胴体に、訳のわからない触手がいっぱいついた腕と脚が生えていた。
顔は、なにがしかを凝縮して固めたような、異形としか言いようのない形だった。てっぺんからは、大きめな触手が2本生えている。
どこからどこまで生々しい。まるでエイリアンのようだ。
しかしそれ以上に、"虫"のようだった。
普通に見れば、コスプレをしているように思える。ただ、私にはそうは思えなかった。
その瞬間、野口が言っていたこと、例のニュースのことを思い出す。
『なんか変なコスプレみたいなんしててさぁ、まじキモかったわぁ。なんかぶよぶよってしてたし。ローションでも塗ってんのかよって!』
さっき野口はそう言っていた。
『最近またこの辺りでエイリアンを見たっていう情報が出回ってるから、くれぐれも気をつけるようにね』
教授は講義のあとそう言っていた。色んな人が化け物だのエイリアンだのを見たと言っていた。
たぶん、これのことだ。
ビチャ、ベチョ。
そいつは粘液を踏みつけるような音を鳴らしながら、こっちへ近づいてくる。
私の悪寒が2倍にも3倍にもなる。
まるで、この世に存在してはいけないものを見てしまったかのような、恐怖と絶望感。
間違いなく、人生で初めての危機反応。
あれはコスプレなんかじゃない。紛れもない“怪物”だ。
「なんやあれ」
男は上半身を折り曲げ、目をすぼめる。男もあれの正体をよく分かっていないようだった。
すると、その怪物はぶるぶると身体を震わせる。なにごとかと思いきや、その身体に付着した粘液を飛ばしてきた。
一粒の大きさが饅頭くらいある粘液を、そいつは四方八方に飛び散らせた。
「うわっ、うわうわ。きったな!」
男は後方へ2、3歩下がる。
怪物はポタポタ、ポタポタ、と身体から粘液を滴らせた。
ぷしゅう。
飛び散った粘液の方から音がし、そっちに目がいく。
粘液が、触れているコンクリートや電柱や住宅の壁などを溶かしていた。
「おい、お前」
男がそいつへ近づこうと、足を一歩前に出す。
「めちゃめちゃ危なかったやんけ。お前のよう分からん粘っこいので、俺の服あかんくなるとこやったやろ。俺この服しか持ってへんねんぞ」
男はそいつに近づいていく。いや、気にするとこ間違ってるでしょ!
このままではダメだ。
私も、この人も、殺される。
「ちょいお前、話聞いてんのか——」
男の手首を握り、私は走り出す。ぽつぽつと街頭のある、暗い住宅街を走り抜ける。
「おいおいっ、ちょっ。なんやねんて」
「いいから走って!」
まさか人生でこんな漫画のようなことを言うなんて、思ってもみなかった。
それくらい、危機迫っていた。
危機迫っている感じがした。
こんなにも鳥肌が立ったのは、生まれて初めてなのだ。
身体が全身全霊で、拒否反応を示している。
逃げろ!
逃げろ!
逃げろ!