「お邪魔しまーす」
中に入ると、びっくりするくらい何もなかった。
靴置き場には、赤石がいま脱いだアディダスのスニーカーしか置いていない。玄関近くにある台所には、だし醤油以外なんにもない。
廊下を進んで部屋に入る。
そこには、大きめのゴミ袋がひとつあるだけだった。中を見る限り、特に分別されているわけでもないようだ。
「ほんとにここで暮らしてるの?」
ミニマリストどころの話ではなかった。最低限生活に必要なものさえ揃っていない。
「せやで」
「冷蔵庫は?」
「冷蔵庫?」
男は何かを考えるような、思い出そうとするような表情になる。
「ああ、俺な、腹空かへんねん」
「はぁ?」
いくら少食だからってそれが言い訳にはならないだろう。
「資格者は腹が減らないっし」
背後にいたゲラルンが言った。
「腹が減らない?」
「そうだっしゃ。蟲人と戦う資格者にとって、人間に備わっている三大欲求は都合が悪いっしゃ。万が一空腹でパワーが出なかったり、寝不足でふらふらだったらまともに戦えないっし。だから、紫炎獅子様はこいつを生み出す際、それらの機能を省かれたっしゃ」
「でも、さっきお菓子食べてたじゃん」
「味覚はあるっしゃよ。だから食べること自体は楽しめるっし。ただ、必須ではないってことっしゃ」
衝撃の事実ばかりが出てくる。『信じられない』『何を言ってるんだ』 そんな反応ばかりしていたら、気が持たないくらいだ。
赤石龍之介は床にあぐらをかく。またあくびをした。
「眠いってことじゃないの? これ」
赤石龍太郎を指さす。
「睡眠欲はないっしゃから、これはこいつの単なる癖だっし」
赤石龍太郎の顔をじっと見てみる。
言われてみれば、ずっとあくびはしてるのに目ははっきりしている。
「あの、私も座っていい?」
「ん? ああ」
私も床に三角座りした。
赤石龍之介は何をするでもなく、ぼーっとしている。
ようやっと落ち着く時間ができた。
まさかあんなことに巡り会うとは。さっきまでの目まぐるしい出来事を思い出す。
当然、未だに現実味はなかった。
「ゲラルンはどうやって、あんな小さな石に入ってたの?」
蟲人に襲われそうになる寸前、ふと握りしめたオレンジ色の石の中から、ゲラルンは出てきた。
「どうやってと聞かれると、回答に困るっしゃね。わいっちから見れば、石の中は結構広かったっし。暗くてなんにもない空間だったけんど」
「なんであの時、出てきてくれたの?」
「ずっとおめぇのことを見てたっしゃ。あの石は持ち主の危機反応に呼応して開く仕組みになってたっしゃ。変なタイミングで開いて、わいっちがこの世界にほっぽり出されないために」
それを聞いてすんなり納得してしまっている自分がいた。
赤石龍之介はひたすらぼーっとしている。なのにもかかわらず、暇そうではない。退屈を感じる機能がないのだろうか。
「おめぇの名前はなんて言うんだっし?」
ゲラルンにそう尋ねられる。そういえば教えていなかった。
「
『こはる』の『こ』になんでこの漢字を当てたのか、今でも分からなかった。もっと早くママに聞いていればよかったのだが。
「こはる」
赤石龍之介がそう呟いて、私の方を見る。
また目が合った。
赤石龍之介の目は、とても純粋で真っ直ぐだった。
「ええ名前やな」
久々にそう言われた気がする。最後に名前を褒められたのは、小学二年生の時、担任の先生からだったはずだ。
「そう?」
そこまで珍しいというわけではないからこそ、少し嬉しかった。単に名前が褒められたからというより、ママが一生懸命つけてくれた名前が褒められたから、かもしれない。
「なんで私の大学にいたの?」
赤石龍太郎は考える素振りをするが、よく分からないようだった。
一週間ほど前からずっと、私の在籍する心理学部に現れていた。その時はてっきりもぐりの学生かと思っていた。
「資格者と導き手は、ある程度お互いが存在を認識し合うように仕向けられてるっしゃあ。こいつがおめぇの大学に現れたのも、恐らくは紫炎獅子様の計らいっし」
ゲラルンが代わりに答えた。
紫炎獅子とは一体何者なのだろう。どれだけこの世界の歯車に手を加えられるのだろう。
「でもちょっとわかんないんだけど」
「どうしたっし」
「紫炎獅子ってのがそこまで人智を超えた存在ならさ、自分の力で蟲人やっつけられそうだなって思うんだけど」
わざわざ蟲人を滅ぼす用の人間を作り、導き手となる人間を見つけなければならないことなのだろうか。
「紫炎獅子様は、この世には姿を現せないっし」
ゲラルンは少し眉を下げる。
「紫炎獅子様は、この世界でいう神に等しい存在っしゃあ。世界の仕組みにも干渉できるくらいの力を持たれている。ただ、他の神様とおんなじで、この世にそのまんまのお姿で降臨することは不可能なんっしゃ。だから、こいつとおめぇが必要んなるっし」
人智を超える力を持つ代償として、この世に降り立つことができない。そう考えれば納得できるような気もしないではない。
あの夢で、紫炎獅子から投げかけられた言葉が、また脳裏をよぎる。
『運命は、お前に委ねられている』
『お前が決めろ』
『お前が、決めるんだ』
「夢の中に出てきた紫炎獅子、すごい迫真だった。死ぬ気っていうか、とてつもない大きなものを託す勢いで、私に語りかけてきたの」
運命を私が決める。導き手として私を選んだ紫炎獅子側からすれば、そんなにおかしくはない語りかけなのかもしれない。
ただ、あれだけ鬼気迫るような勢いでそう伝えてきたのには、なにか訳があるのではないかと思う部分もあった。
「紫炎獅子様も、おめぇを導き手として自覚させるのに必死だったのかもしれないっし。おめぇがその夢をただの悪夢だと勘違いしてたら、紫炎獅子様の計画はそこで潰えるっしゃあ」
だからおかしくはない。ゲラルンはそう言いたいのだろうが、なんだか腑に落ちない。
「夢の内容だって、よく分かんなかった。私、暗い空間で最初、目が覚めるの。そしたら急に景色が紫色になって、よくわかんない制服着てて、歩いて、目の前の空間が色んな色に変わっていって。あーもう説明するだけでこんがらがりそう。でも、私を導き手として自覚させるのが目的なら、そんなになっがい前振りって必要なかったんじゃないの?」
結局紫炎獅子が登場したのは、夢の最後の最後のシーンだけだ。
「そうっしゃねえ……。もしかしたら、普通の夢の中に出てくるっていう作戦を実行されてたんかもしれんっしゃね。いくら世界の仕組みに干渉できる力をお持ちといっても、なんでもかんでも自由自在にいじれるってわけではないっちゃ。それだとこの世界がただの紫炎獅子様の匙加減で回っていってしまうっし」
「え、じゃあそれまでのなっがい訳変わんない前振りは、ただの私の夢ってこと?」
ちょっと信じがたい。それまでずっと同じ夢を見たことのなかった私が、二年前から同じ夢を、しかも数ヶ月に一度進展する夢を見続けていたのだ。
「まあ、そんなに深く考えなくてもいいっしゃ。おめぇにはもう、導き手としての自覚があるっしから」
ゲラルンの言うことが本当なら、紫炎獅子の計画は成功したということだ。どちらにせよ、私にはその真相を知る術もない。
「……これってさ、私が導き手になるのを拒否したら、どうなるの」
それまで表情豊かだったゲラルンの顔つきが、物々しくなる。
「みんな死ぬっちゃ」
静かな空間に、しっとりとした声が響いた。
「蟲人の力は驚異的っちゃ。とうてい普通の人間では太刀打ちできない。蟲人はこの先もどんどん現れてくるっしゃ。どのくらい現れ続けるのかは、わかんねえ。紫炎獅子様がわかんねえっておっしゃってんだかんら、わいっちにもわかんねえ。だかんら、万が一国が総力をあげて一体や二体倒せたところで、蟲人はまた現れてくる。そうやって現れ続ければ、相対的に何百倍も力の劣ってる人間はみるみるとやられていくっし。それが続くと、いずれ人類は滅びるっしゃ」
さっきのあの蟲人のような、平気で人を何人でも何十人でも何百人でも殺せるくらいの力を持った蟲人が、この先も現れ続ける。それがどんな意味を表しているのは、私はまだ理解しきれなかった。
「こいつだけじゃ、フレアだけじゃ、無理なんだっしゃあ。力だけで見れば、蟲人に十分対抗できるっし。ただ、こいつはほんとに欠けてるところが多い。人間らしい生活ができねえのは、この部屋を見れば一目瞭然だっし。注意力だとか集中力だとか、そんなんもねえ。わいっちもこいつと会って、思ったより重症っぽいってことが分かったんだ。フレアであるっていう自覚すらなかったんだかんら。他にもいーーっぱい欠けてるとこはあるはずっし。それはこいつと関わっていけば、嫌ってほど思い知らされるだろうっし。こいつ一人で蟲人の出現場所まで行って、自分から進んで変身して戦うなんて、無理っしゃ」
ゲラルンは私の目を見る。
「おめぇが必要なんだっしゃあ」
それが心からのお願いだと、すぐに分かった。
「もちろん。私が導き手として、仮面ライダーフレアをサポートするよ」
ただの一大学生の私に、軽々とそんなことは言えなかった。
このまま放っておけば世界が滅びるような怪物を、フレアが倒していく。そこには導き手としての、私のサポートが不可欠。
これまで国家の存亡さえ超えた世界の命運に、これっぽっちも関わったことのない一大学生だ。
普通は、悩む時間が一ヶ月あっても一年あっても足りないくらいだろう。
ただ、私にはそんな猶予はいらなかった。
どこかで死ぬかもしれないのだ。もちろん恐怖は感じる。
サポートってなに。どんな風にサポートすればいいの。上手くサポートできなかったら。私の行動一つ一つが、公園のお砂場で遊ぶ女の子の命から、腰を曲げて散歩するおじいちゃんの命までを、明日へ運ぶかどうか決めるってこと?
分からないことばかりだ。不安も感じる。
しかし、嫌だとは思わなかった。
私はある日を境に、これといってなにも成し遂げようとしてこなかった。
なにかで表彰されたり、トロフィーを獲得したり、そういう分かりやすい勲章が欲しかったわけではない。
ただ、なにかを頑張るということを、あまりしてこなかった。
勉強をいっぱいやって良い成績をとろうだとか、なにかのコンクールに応募して賞を狙おうだとか、ボランティアに参加して地域のためになろうとか。
結果がどうかは関係ない。
たくさん勉強しても良い成績がとれなかった。コンクールに応募して落ちた。あまりボランティアで周囲に馴染めなかった。
"でも、やれるだけやった"
私は長いこと、その感覚を味わっていない。
やれるだけやる。それがずっと、できていない。
このままでいいのかな。いや、よくはないはずだ。ならばどこかでギアを入れないと。重い腰を上げないと。
そう思っていくら経ったことか。
しかしたった今、目の前にそれが叶うチャンスが訪れている。
このチャンスを逃せば、いつその“やれるだけやる”を実行できるのか。
私なりの覚悟は、もう決まった。
「やるよ。私」
いつのまにか少し俯き気味だったゲラルンの顔が、こっちを向く。
「信じられないことばっかだけど、文句言っても仕方ないし。それに、私がフレアをサポートしなかったら世界終わるんでしょ? なにもせず世界が終わるのを待つよりは、やれるだけやって世界を救おうとする方が、理にかなってるし」
そう笑いかけると、ゲラルンは明るい顔になった。
「そう言ってくれて、ほんとに良かったっしゃあ。嫌じゃあ! って言われたらどうしようかと思ってたっし」
やはり断られることを心配していたようだ。
スマホで時刻を見る。
「寮の門限超えちゃうから、そろそろ帰るね」
立ち上がると同時に言いたいことを思い出した。
「あ、あとさ、私のこと名前で呼んでくれない? おめぇって言われると、なんかね」
さっきからずっと気になっていた。ゲラルンは部分的に口が悪い。
「分かったっしゃあ。おい。瑚春がやるっつってくれたっし。おめぇも感謝し——」
ゲラルンが赤石龍太郎の方を見たため、私も見る。
赤石龍太郎は、薄く鼻息を立てながら、気持ちよさそうに眠っていた。
ゲラルンと目が合う。お互い頷き、私は手刀をかまえ、ゲラルンは拳をかまえる。
赤石龍太郎の頭めがけて、私たちは一斉に振り下ろした。