女性物のバッグ、二十八万円。
領収書を裏返しても、使い道の説明はなかった。結衣は薄い紙を机に戻し、法人カードの明細をもう一度見た。支払ったのは、夫の修司だった。
結衣の手元にあるバッグは、娘の着替えを詰めるために買った布のものだ。持ち手が少し擦り切れている。それを恥ずかしいと思ったことはない。会社が落ち着いたら、自分のものも買おう。そう考えてきた。
この買い物を知っているのは、誰なのだろう。
社長室の方で、修司の笑う声がした。結衣は領収書の角を伸ばした。昔は、その声が聞こえるだけで、忙しい一日をもう少し頑張れた。
まだ結婚する前、二人は同じ会社に勤めていた。
経理部で八年目を迎えていた結衣の机へ、営業の修司が来る日は、たいてい締め切り間際だった。ポケットから領収書を取り出し、両手を合わせる。
「頼む、これも今月の分に入れて」
「まず、何に使ったか書いてください」
「打ち合わせ。ちゃんと仕事」
結衣が一枚を指さすと、修司の笑顔が固まった。
「日曜日の映画館でも?」
「……それは混ざった」
返した紙を素直に受け取り、修司は頭をかいた。その大雑把さには呆れた。それでも、人の話を聞く顔は好きだった。断られた取引先へも、相手の忙しくない時間を調べて足を運ぶ。売りたい話をする前に、何に困っているのかを聞く人だった。
ある夕方、結衣が残業していると、修司が飲み物を置いていった。
「俺たちの書類、いつも最後まで見てくれてるよな」
「最後まで見ないと、支払いに間に合わないから」
「うん。でも、助かってる」
ありがとうという言葉は、飲み物より温かかった。
交際が始まってからも、二人は得意なことが違った。結衣が予定を確かめ、修司が知らない店の人とすぐ親しくなる。彼といると、自分の慎重さまで、つまらないものではなく思えた。
結婚したばかりの頃、一度、魚を焦がした。
仕事から帰って料理を始め、別の用事をしている間に、皮が真っ黒になってしまったのだ。結衣が皿を引っ込めようとすると、修司は箸を取った。
「中は食べられるだろ。俺、腹減ってる」
「ちゃんとしたの、作り直すよ」
「二人とも働いてきたんだから、今日はこれでいいって」
焦げた皮をよける手元を見て、結衣は肩の力を抜いた。一緒に暮らすとは、失敗を見せても大丈夫になることなのだと思った。
独立したいと切り出されたのは、その少し後だった。
夕食を終えたテーブルで、修司が結衣の前に座り直した。テレビを消したことに、彼の本気が出ていた。
「自分で会社をやりたいんだ。人と企業をつなぐ仕事を、もっと自由に」
今の収入を捨てるのか。失敗したらどうするのか。結衣の頭には、質問がいくつも浮かんだ。
「必要なお金、計算した?」
「そこを一緒に考えてほしい」
「修司の会社なのに?」
「俺だけじゃ、作れないよ」
少し困ったように笑ってから、修司は真っすぐ結衣を見た。
「結衣と二人でやりたい。営業は俺がやる。数字は、結衣に見てほしい」
頼られるうれしさだけで決めてはいけない。経理として、それは分かっていた。それでも、二人で、と言われたことが胸に残った。
結衣はすぐに退職届を書かなかった。収入が減った場合の生活費まで並べ、修司の話す見込み客を一件ずつ確かめた。夢の中に足りない数字を入れていくと、修司も毎晩、テーブルへ戻ってきた。
「名前は考えた。アークリンク」
「名前より先に決めること、いっぱいあるけど」
「分かってる。でも、どう?」
声に出してみると、少しだけ会社が近づいた。
株式会社アークリンク。結衣は計画書の上に、その名前を書いた。
ところが、資金の調達で準備は止まった。
自分たちの貯金だけでは、仕事が軌道に乗るまでの支払いを賄えない。相談した金融機関からは、売上の見込みや保証の条件を問われた。営業に自信があります、という修司の言葉だけでは、審査は進まなかった。
帰宅すると、修司はソファに沈み込んだ。
「契約が取れれば返せるのに、始められなきゃ実績も作れないだろ」
結衣も、何も言わずに隣へ座った。担当者が確認したかったのは、才能の有無ではない。返済の見通しだ。それを説明しようとして、修司の握った拳を見た。
今は、正しい話をするだけでは届かない。
「計画、もう一度見直そう。それから、お父さんにも相談してみたい」
父の栄作は、長く会社を経営していた。娘だから簡単に頼めるわけではなかった。自分の選んだ相手を、父に値踏みされるようで怖くもあった。
それでも翌日、二人で実家へ行った。
栄作は計画書を最後まで読み、いくつかの数字を確かめた。修司の説明を遮らずに聞き、それから紙を畳の上へ置いた。
「貸す、という形では出さない」
修司が顔を上げた。結衣も、断られたのだと思った。
「出資なら考えよう。私も株主になる。君が四十、結衣が三十、私が三十。その割合で株を持つ」
「三十パーセント……」
「お金だけ受け取って終わりではないぞ。会社のことを、私にも報告するんだ」
修司は何度もうなずいた。結衣は、自分の貯金を出すということの重さを、改めて感じた。父のお金にも、父の働いてきた時間が入っている。
帰り道、修司は急に足取りを軽くした。
「借金じゃないなら、毎月返さなくていいんだよな」
「出資だからね。でも、私たちだけの財布にはならないよ」
「分かってる。ちゃんと大きくする」
結衣はその約束を、疑わなかった。
設立後の日々は、思い描いていたほど華やかではなかった。
電話が鳴れば出て、書類が届けば処理し、入金が遅れれば先方へ確認する。修司が取ってきた契約の代金が入る前にも、家賃や外注費の支払い日は来る。残高が足りなくならないよう、結衣は何度も予定表を作り直した。
娘が生まれてからは、寝息を聞きながら請求書を作った。抱き上げればパソコンが使えず、寝かせれば泣く夜もあった。途中で止めた数字を、翌朝もう一度最初から確かめた。
疲れていないわけではない。それでも、修司が契約書を持って帰るたび、二人で始めてよかったと思えた。
「取れた。結衣、取れたぞ」
娘が寝ていると分かると、修司は声を落とした。二人で小さく手を合わせて喜んだ。翌朝、結衣は支払い予定を更新した。売上の数字が、実際の暮らしを支えるお金になるまでが、自分の仕事だった。
社員が増え、事務所も広くなった。
取引先の名前が並んだ表を見ながら、修司はうれしそうに言った。
「ここまで来たな」
結衣もうなずいた。まだ余裕はないけれど、確かに進んでいた。
いつから、「二人」の中から自分だけが消えたのだろう。
今、結衣の前には、使い道の分からないバッグの領収書がある。
これだけで何かを決めつけてはいけない。仕事に必要だったなら、誰に、何のために贈ったのか、説明をもらえばいい。そう自分に言い聞かせて、結衣は社長室へ向かった。
「この支払い、確認してもいい?」
修司はスマートフォンから目を上げなかった。
「会議費って書いただろ」
「バッグを買った目的が知りたいの。会社の記録に残すから」
「お前さ、いつもそれだよな」
ようやく顔を上げた修司の腕で、高価な時計が光った。
「俺が稼いだ金だぞ。細かいことばっかり言うな」
結衣は紙を持ったまま、しばらく動けなかった。
俺だけじゃ作れない、と言った声を、まだ覚えている。
その声と同じ声で、今はこう言われていた。
「経理なんて、誰でもできるんだから」
部屋を出てから、結衣は領収書に日付を添えた。
説明未了。
自分の仕事まで消してしまわないために、まず、その四文字を残した。
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著者:さくらこ