不倫夫の処刑日   作:桐山さくらこ

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同じ家で、居場所がなくなる

 経理なんて誰でもできる。

 翌朝になっても、その言葉は結衣の中に残っていた。

 

 娘に靴を履かせながら、今日は忘れようと思った。いつもの時間に保育園へ送り、いつもの席で仕事をする。それができれば、昨日のことも大したことではなくなる気がした。

 

「今日、パパ帰る?」

 

 小さな手が、靴の面ファスナーを何度も押さえていた。

 

「お仕事の予定、聞いてみるね」

「お花、見せたいんだ」

 

 保育園で作った紙の花は、食卓の端に飾ってある。修司が帰ってくる頃には、娘は眠っていた。結衣はそれを片づけず、今日こそ見てもらえる場所に置き続けていた。

 

 出社すると、沙織が来客用の机を拭いていた。

 

「おはようございます、結衣さん。今日も教えていただきたいことがあるんです」

 

 沙織を採用したのは修司だった。若くて愛想がよく、初めの頃は、結衣にも丁寧に話しかけてきた。忙しい時に手を貸してもらえることはありがたかったし、仕事を覚えたいという言葉もうれしかった。

 

 だから、結衣は笑って席を勧めた。

 今日尋ねられたのは、経費を申請する時に、取引先の名前をどこへ書くかだった。結衣が説明すると、沙織はきれいな字でメモをした。

 

「領収書があれば、何でもいいわけじゃないんですね」

「そうなの。何の仕事に必要だったのか、それも残してほしいの」

 

 分かりました、と返した顔に、不自然なところはなかった。

 結衣は少し安心した。自分が夫の一言を気にしすぎて、何もかも悪く見ているのかもしれない。

 

 けれど、沙織が修司と行動する時間は、入社した頃よりずっと増えていた。

 昼食、外回り、夜の接待。修司が「助かるよ」と声をかけるたび、沙織はそばへ寄った。来客対応のためだと言われれば、結衣に止める理由はなかった。

 

 少し前にも、社長室へ確認書類を持っていった時、扉の向こうから二人の声が聞こえた。

 

「最近、家でも仕事の話ばっかりなんだよ」

「奥様、真面目なんですね」

 

 沙織の声だった。少しの間を置いて、続いた。

 

「でも、帰ってきた時くらい、お疲れ様って言ってもらいたいですよね」

 

 結衣はノックする手を止めた。

 毎晩、言っている。帰ってきた夫に食事を温め、今日も遅かったね、と言う。その後で支払いの確認を頼めば、最初の言葉までなかったことになるのだろうか。

 

 中では、修司が気の緩んだ声で笑った。

 

「そうなんだよ。沙織ちゃんは分かってくれるな」

 

 書類の端が、指に食い込んだ。

 廊下で待つ自分の姿が、ひどくみじめに思えた。夫の仕事を邪魔しに来たわけでも、責めに来たわけでもない。ただ、毎日続く会社の仕事を持ってきただけなのに。

 

 結衣は一度、机へ戻った。

 確認欄が空白のままでは、作業は終わらない。日中に返事が来なければ、家で尋ねることになる。そうやって、仕事の話ばかりする妻が出来上がっていた。

 

 月末、増えていた接待費を一覧にした。

 必要な会食を削りたいのではない。同じ店への支払いが一か月に四度あり、予算との差が大きくなっている。結衣は修司の机に資料を置いた。

 

「どなたとの会食だったか、残しておいてもらえる?」

「大事な取引先だよ」

「うん。だから、後から説明できるようにしたいの」

 

 修司は面倒そうにページをめくった。

 

「俺が何も考えずに遊んでると思ってる?」

「そういう話じゃない。会社のお金だから、記録が必要なの」

「分かった、分かった」

 

 資料は引き出しに押し込まれた。

 返してもらう時期を確かめようとすると、修司はすでに電話を耳に当てていた。結衣は言いかけた言葉を飲み込んだ。受話器の向こうには、自分に向けられなくなった、明るく親切な声が流れていた。

 

 数日後、社長室へ入ると、沙織が修司のすぐそばに立っていた。

 修司の手が、沙織の肩に回っている。

 

 結衣が足を止めた瞬間、二人の間に空間ができた。

 

「何だよ。ノックくらいしろよ」

 

 さっきは笑っていた修司の眉が、険しくなる。

 

「したよ。返事がなかったから」

 

 結衣の声は、自分でも驚くほど小さかった。

 沙織はお茶を入れてきますと言って、横を通り過ぎた。目は合わなかった。机の上には二人分の飲み物があり、その脇に置かれたキーホルダーは、沙織のバッグについていたものと同じだった。

 

 見間違いならよかった。

 仲がいいだけなら、そう説明してほしかった。

 けれど修司は、結衣が手にしている書類を見て、また舌打ちした。

 

「今忙しいんだよ」

 

 結衣が仕事を持って入る前には、忙しそうには見えなかった。

 

 ホテルの明細も届くようになった。

 遠方への出張ではない。普段の事務所から行ける場所だった。二人分の食事、女性物の買い物。申請欄には会議費や旅費と書いてあるが、求めた説明は返ってこない。

 

 結衣は疑わしいものを、正当な経費として通さなかった。明細と申請を保存し、説明のない日付を残した。問い詰めると怒鳴られるからといって、分からないお金を分かったことにはできない。

 

 その作業をしている間にも、娘のお迎えの時間が来る。

 会社で終えられなかった確認を抱えて帰り、買い物をして、夕食を作った。寝かしつけの途中で娘と一緒に眠りかけ、慌てて起きる夜が続いた。

 

 鏡に映った結衣は、確かに疲れていた。

 髪を整え直しても、すぐに台所へ戻らなければならない。修司のスーツを洗濯に出し、自分の服は後回しにした。それを少しでも分かってもらいたくて、「今週、どこかで早く帰れない?」と聞いた。

 

「俺、暇じゃないんだけど」

 

 娘の話を続ける前に、電話は切れた。

 

 その夜、修司は酒の匂いを連れて帰ってきた。

 結衣は小さく、おかえり、と言った。冷蔵庫から皿を出して温める間、夫は食卓に座り、ネクタイを緩めた。

 

「焼き魚かよ」

 

 新婚の頃と同じ料理だった。今度は焦がしていない。

 

「汁物もあるよ。少し食べる?」

「今日、どんな店で接待してきたと思う?」

 

 修司は皿を見下ろしたまま笑った。結衣は鍋の火を弱めた。

 

「会社のことなら、家でもう少し話したい。支払いの確認がまだ――」

「またそれ。飯食う時まで金の話か」

 

 娘が眠っている。結衣は声を落とした。

 

「だから、会社にいる時に返事をしてほしいの」

 

 修司の手が皿を持ち上げた。食べるのかと思った。

 立ち上がって、ごみ箱の方へ向かうまで、結衣は動けなかった。

 

「待って」

 

 魚が落ちた。皿の縁がごみ箱に当たり、鈍い音がした。汁が床へ飛んだ。

 

 結衣の目は、落ちた料理から離れなかった。

 買い物かごへ入れた時、娘が好きな魚だから明日の分も焼こうと思っていた。修司の帰りが遅くても、食べられるように取り分けておいた。

 

「……作ったのに」

「だから何だよ」

 

 修司は濡れた床を踏まないように戻った。

 

「沙織ちゃんは、そんな恩着せがましいこと言わないぞ」

 

 その名前が、結衣の中に沈んだ。

 

「彼女と、何をしてるの」

「お前と違って、俺をちゃんと立ててくれるんだよ。鏡見ろよ。毎日すっぴんで、同じような服着てさ」

 

 結衣は、部屋着の袖を握った。

 いま話しているのは、服のことではない。そう言いたいのに、夫が一歩近づいた途端、喉が詰まった。

 

「俺が稼がなきゃ、何もできないくせに」

 

 修司は結衣を見下ろした。

 

「寄生虫って、お前みたいなやつのことだろ」

 

 寝室の扉が閉まった。

 結衣は布巾を取り、床へしゃがんだ。拭く場所が分かることに、変な安心を覚えた。手を動かしていれば、今の言葉を考えずに済む。

 

 でも、背後で、小さな足音がした。

 

「ママ」

 

 振り返ると、娘が寝室とは別の部屋の入口に立っていた。

 いつから聞いていたのだろう。目が赤く、胸の前でパジャマを握っている。

 

「パパ、怒ってる?」

 

 結衣は布巾を置いた。

 大丈夫、と言えば、また同じ夜へ戻ってしまう。

 床をきれいにするより先に、しなければならないことがあった。




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著者:さくらこ
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