娘の腕は、結衣の首にしがみついたまま離れなかった。
抱き上げた体が小さく震えている。大きな声に驚いただけだ、朝になれば忘れるだろう。そう思いたかった。けれど、自分もまだ床の音を耳の奥に残しているのに、子どもだけ平気なはずはなかった。
「ママのご飯、だめだった?」
結衣は息をのんだ。
「だめじゃないよ」
「おいしかったよ」
「うん。ありがとう」
小さな手が背中をなでた。慰められているのは自分だと気づくと、目の奥が熱くなった。
この子に、大人の顔色をうかがわせたくない。
結衣は娘を抱いたまま、床から離れた。別の部屋へ入り、扉を閉めた。夫のいる寝室からは、物音がしなくなっていた。
「これから、おじいちゃんの家に行こうか」
「いま?」
「うん。今日は、あっちで寝よう」
娘は少し考えてから、うなずいた。
結衣は父へ連絡した。すぐに返ってきた声を聞いた途端、言おうとしたことが崩れた。
「お父さん、今から行ってもいい?」
「どうした」
「娘と、二人で」
父は短く待っていた。結衣が説明できないままでいると、「分かった。待っている」と言った。理由を話すことを、来るための条件にしなかった。
必要なものだけをバッグに入れた。娘の服、薬、財布。何を忘れているか、考えても頭に浮かばない。背後から娘が、抱えていたぬいぐるみを差し出した。
「これも」
「もちろん」
玄関で靴を履かせていると、奥から修司のいびきが聞こえた。
その音に腹が立つより先に、今なら出られる、と思った。テーブルに、しばらく実家に帰ります、と紙を残した。説明を長く書けば、また何をしても謝る文章になりそうだった。
外の空気に触れると、娘が手を握り直した。
夜の道は暗かった。それでも、部屋にいた時より息ができた。迎えを待つ間、結衣は娘の上着の前を合わせた。
「ママ、寒い?」
「少しだけ。もうすぐ車が来るからね」
自分が震えていることを、ここで初めて知った。
実家の玄関には、明かりがついていた。
母が娘の名前を呼ぶ声を聞いて、結衣の肩から力が抜けた。父は荷物を受け取り、「まず、寝なさい」と言った。娘の前で夫のことを尋ねなかった。
用意された布団に入っても、結衣は眠れなかった。
隣で眠る娘の呼吸を、何度も確かめた。家を出た。それだけのことなのに、取り返しのつかないことをした気がする。
修司が、なぜ勝手に帰ったと怒る声を想像した。
それから、娘が料理を褒めた声を思い出した。
戻ることだけを、正しい選択にしてはいけない。
娘の手を、自分で握ってここへ来たのだから。
翌朝、保育園への連絡を済ませ、仕事の予定を確かめた。
自分が家にいなくても、会社の支払いは止まらない。結衣は普段の業務で使っている資料を開き、急ぎの処理を終えた。その後、説明を求めたままになっている支出を見直した。
一枚だけなら、疑いを持ちすぎているのだと思えた。
だが、同じような支払いが続いている。ホテル、飲食店、ブランド品。領収書に記された日と、修司が接待だと言って遅くなった日が重なった。
手が止まるたび、結衣はファイルを閉じかけた。
見たくないものを、自分から探している気がした。
沙織の公開されている投稿を見つけた時も、すぐには画面を開けなかった。仕事で教えた時の笑顔が浮かんだ。分からないことがあったら聞いてね、と自分は言ったのだ。
投稿には、バッグの写真があった。
修司の名前と、お礼の言葉が添えてある。結衣は会社で見た領収書を開いた。店も、買った時期も合っていた。
次の写真には、ホテルの窓から見える夜景。その次は、昼間の高級店の料理だった。
同じ頃の法人カードの支払いが、記録に残っている。
写真だけで、何もかも決められるわけではない。
結衣は分かっていることと、まだ説明が必要なことを分けた。書き足すのは、見えている日付や場所だけにした。怒りで空白を埋めれば、資料まで信じてもらえなくなる。
それでも、バッグの写真を見直した時、涙が落ちた。
二十八万円という数字に、泣いたのではなかった。
会社にお金を残そうと、娘の服まで買う時期を考えていた。その間に夫は、別の人からありがとうと言われるために、会社のお金を使っていた。
画面を閉じ、洗面所へ行った。
母が、お茶を入れたよ、と扉の外から声をかけた。結衣は顔を洗い、うん、と返した。問い詰められないことが、今はありがたかった。
数日後、結衣は一人でマンションへ戻った。
保育園に置く娘の着替えと、取り忘れた書類が必要だった。娘は母と留守番している。修司は会社にいる時間のはずだった。
玄関を開けると、見慣れない靴があった。
自分の傘の隣に、小さな日傘が立てかけられている。
結衣の指が、鍵を握り込んだ。
奥から笑い声がした。娘の声ではない。部屋の入口まで進むと、寝室の扉が少し開いていた。
「奥さんの化粧品、まだ置いてあるんだね」
沙織だった。
結衣が朝、髪を結んでいた鏡。その前に並べたものを、知らない手が触っている。
「そのうち片づけるよ」
「早く一緒に住みたいな」
「結衣を追い出したら、お前を呼べるだろ」
耳にした言葉の意味が、すぐには頭へ入らなかった。
追い出す。
この家へ、自分を帰らせるつもりはないのだ。
扉の隙間から、ベッドに並んだ二人が見えた。沙織が修司に体を寄せ、修司がその肩を抱いている。娘を寝かせてから、何度も一人で待った場所だった。
結衣はバッグからスマートフォンを取り出した。
右手が震える。左手で支え、短い動画を残した。長く見てはいられなかった。二人が笑ったところで画面を閉じ、玄関へ戻った。
娘の荷物は、持ち出せなかった。
外へ出ると、膝が折れそうになった。壁に手をついて息を吸う。通り過ぎる人に見られないよう、顔を下げた。
強い自分になれたわけではない。
怖かったし、気持ちが悪かった。いま乗って帰る車を呼ぶだけでも、文字を何度も打ち直した。
それでも、証拠が何もなく、勘違いだと言われて終わる場所へは戻りたくなかった。
鞄の中で、娘の着替えを入れるための袋が空のまま揺れた。
取りに来たのは、これだった。母親として必要な用事さえできなかったことが、急に情けなくなる。
でも、今日は帰っていい。荷物のために、もう一度あの扉を開けなくてもいい。
結衣は迎えの車に乗り、行き先を告げた。娘は、あの部屋ではなく、帰る先で待っている。
実家に着くと、娘が玄関へ駆けてきた。
「ママ、おかえり」
結衣はしゃがみ、両手を広げた。
抱きついてきた温かさを、しばらく離せなかった。娘を連れていかなかったことだけは、よかったと思えた。
夜、修司から電話が来た。
結衣は娘のいる部屋から離れ、廊下で応答した。
「いつまで実家にいるんだよ。いいかげん飯作りに帰ってこい」
いつもと同じ声だった。
あの部屋で笑っていたことなど、なかったように。
「今日、家に行った」
「何だよ」
「沙織さんといたね。寝室で」
向こうの呼吸だけが聞こえた。
修司はしばらく黙った後、急に声を大きくした。
「お前が、俺に可愛げのないことばっかり言うからだろ」
間違いだったという言葉は、なかった。
結衣は廊下の壁に背を預けた。聞きたくなかった返事を、最後まで聞いた。
「不満なら離婚してもいいぞ。でも、経理しかできないお前が、子ども抱えて食っていけるのかよ。養育費なんか、ろくに払わないからな」
電話が切れた。
結衣はスマートフォンを下ろした。薄い扉の向こうで、娘が祖母に絵本を読んでもらっている。一つの言葉を読み間違えて、二人で笑った。
結衣はその笑い声を聞きながら、父のいる部屋へ向かった。
「お父さん、話を聞いてほしい」
夫の機嫌を直す方法ではない。
ここから先、娘と自分を守るための話を、今度はするつもりだった。
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著者:さくらこ