話す前に、結衣は机の上へ手を置いた。
スマートフォンを出し、資料を並べる。何から言えばいいか考えたつもりなのに、父の顔を見ると、言葉が止まった。
「会社のお金のことで、説明をもらえないものが増えていて」
最初に出てきたのは、仕事の報告だった。
家で言われたことも、娘が怖がっていたことも、昨日見たことも、喉の奥に残っている。数字なら間違えずに話せる。そういう話し方に逃げていると、自分でも分かった。
栄作は資料へ手を伸ばさず、結衣を見た。
「今、修司君のところへ戻りたいか」
結衣は首を振った。
「娘を連れて、戻りたくない」
「そうか」
それだけ言って、父は待った。
結衣は少しずつ、話し始めた。会社での言葉。捨てられた料理。自宅の寝室で見た二人。娘が自分のご飯を褒めてくれたことを話す時だけ、声が続かなかった。
「気づいてたのに、私が我慢すればいいと思ってた」
栄作は目を伏せた。
「よく、ここへ来たな」
耐えたことより、来たことを言われた。
結衣は手の甲で目元を押さえた。仕事の報告をしている顔は、もう保てなかった。
「でも、会社はどうしよう。私が抜けたら、支払いも、みんなの給料も」
「会社を捨てたいのか」
「違う」
そこは、すぐに答えられた。
修司と始めた会社だった。けれど今は、他の人の暮らしも入っている。自分たちのために、取引先や社員を巻き添えにはしたくなかった。
父はようやく資料を開いた。
結衣が説明できた支出と、できなかった支出を、一つずつ尋ねる。夫を憎む気持ちと、会社に起きていることを混ぜずに確かめる、その聞き方がありがたかった。
「お父さんが出資してくれた時、会社に何かあったら助けてもらえると思ってた。でも、こんなことまで頼むつもりじゃなかった」
父の指が、一枚の紙の上で止まった。
「あの日、貸付にしなかった理由を、きちんと話していなかったな」
結衣は顔を上げた。
月々の返済で会社を苦しくしないため。そう理解していたし、それも間違ってはいなかったはずだ。
「私も昔、信じていた相手に会社を追われたことがある」
父の声は、静かだった。
その話を、結衣は詳しく聞いたことがなかった。商売で苦労したことがある、という曖昧な言葉だけを知っていた。
「仕事は自分がしている。だから、会社も自分のものだと思い込んでいた。株をどう持つか、誰が決められるか。それを軽く考えていた」
父は、当時の相手を罵らなかった。
でも、紙を見る目に残る硬さが、過ぎた時間の長さを伝えていた。
「お前が貯金も仕事も、この会社へ出すと言った時、口約束だけでは心配だった。だから、私も株主になった」
「修司を、信用してなかったの?」
「誰かを信用することと、備えを持つことは、別だよ」
結衣は自分の手を見た。
修司が四十パーセント。自分が三十。父が三十。
書類を作った時から知っていた数字なのに、自分の考えを会社の意思決定へ反映させるためのものとして、今ようやく手に取れた気がした。
「私だけでは三十だ。何でも決められるわけじゃない。お前がどうしたいかを聞き、一緒に決めるための持分だ」
結衣はしばらく黙っていた。
父に助けてもらえば、今度は父の言う通りにするしかないのだと思いかけていた。けれど、選んでいいと言われている。
「修司を、会社のお金を好きに使える立場には置いておけない」
声に出すと、戻れないところへ来たと感じた。
「ただ、怒って追い出す形にはしたくない。仕事をしている人に、ちゃんと説明したい」
「分かった。手続きを確認しよう」
紹介された弁護士と、会社の税務を見ていた専門家にも、資料を渡した。
すべてが結衣の考えた通りに進んだわけではなかった。写真だけで判断できない支出も、確認が必要な名目もある。結衣は不足していた記録を探し、業務上の支払いと、修司個人のために使われたお金を分けた。
責めたいから大きな金額にするのではない。
返してもらうべきお金を、根拠と一緒に示すためだった。
確認が進むと、私的に使われた会社資金は約三千二百万円になった。
バッグやホテルだけではなかった。沙織の住まいに関わる支払い、生活費や美容のためのものまで、会社から出ている。結衣が家の買い物を切り詰めていた間の数字が、表の上に積み重なった。
読み終えると、しばらく椅子から立てなかった。
夫が自分を裏切ったことと、そのために皆のお金を使っていたこと。別々に考えていたはずなのに、胸の中では一緒に痛んだ。
「会社として返還を求めるには、このほかにどんな記録が必要ですか」
結衣の質問に、弁護士は資料の確認欄を示した。
「帳簿の名前だけで、返還義務が生まれるわけではありません。実際に何のために使われたか、会社が返還を求める根拠が何か。それを確認します」
結衣はうなずき、開いていた表へ目を戻した。
自分一人で決めた数字を、武器にしたかったわけではない。説明を拒んだ夫にも、正当な支出があれば、そこは認める。そうして残った資料なら、自分は人の前に出せると思った。
取締役の解任と、新しい経営体制についても、定款や必要な決議を確認した。
父と自分の持分を合わせれば六十パーセントになる。だが、それは怒った日に何でもできる魔法ではなかった。必要な通知を出し、議案を示し、決める場を設ける。結衣は一つずつ、その手順を進めた。
仕事の合間に、社員から連絡が来た。
外注先の支払いは、予定通りか。来週の見積もりをどうするか。いつもなら、はい、確認します、と答えて終わる用事だった。
今は、その一つ一つが、会社を続ける理由になった。
結衣は取引先ごとの収支も見直した。
修司の取った大口契約には、大きな売上が並んでいる。だが、約束した短い納期に合わせるため、外注費と残業が増えていた。値引きの後で、無料の追加対応まで引き受けた案件もある。
そのしわ寄せを、修司が成績の悪さを笑っていた社員たちの、小さく堅実な契約が埋めていた。
数字を眺めていると、会議で黙っていた営業社員の顔が浮かんだ。
自分の仕事を見てもらえない人は、結衣だけではなかった。
娘が寝た後、資料を閉じた。
画面に映った自分の顔は疲れていたが、確認すべきことは、以前よりはっきりしていた。
布団の脇へ戻ると、娘の手が寝ぼけたまま袖をつかんだ。結衣はそのそばに座った。会社を守るために、また、この子を一人で待たせ続ける働き方へ戻ってはいけない。
やり直すなら、そのことも変えようと思った。
手続きが整い、総会の日が近づいた頃、修司から電話があった。
「家がぐちゃぐちゃなんだよ。いつまで放っておく気だ」
結衣は机の上の通知の控えを見た。
修司には会社と個人の宛先へ、必要な書類を送ってある。配達の記録も確認していた。
「届いた封筒、読んだ?」
「知らねえよ。そういうの、お前の仕事だろ」
その返事が、最後まで変わらなかったことを、結衣は寂しく思った。
知ろうとしてくれれば、ここまで来ずに済んだのかもしれない。何度も持っていった書類を、何度も返された手を思い出した。
「今度は、あなたが読んで」
「何の話だよ」
「会社のこと。それから、離婚の話は代理人を通して進める」
修司は一度笑った。
「本当に、一人で生きていけると思ってるんだな」
結衣は娘の描いた花を見た。母が机の端に飾ってくれたものだった。
「一人で全部抱えなければ生きていけない、とは思ってない」
電話の向こうが黙った。
結衣は、総会の日時だけをもう一度伝えた。
その日、自分も株主として席に着く。夫の返事を待って立ち尽くすためではなく、自分の意思を示すために。
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著者:さくらこ