不倫夫の処刑日   作:桐山さくらこ

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社長の椅子を降りる日

 会議室へ入る前に、結衣は一度だけ、髪を結び直した。

 鏡はなかった。指で乱れを押さえ、バッグを持ち直す。まだ足は重い。この扉の向こうへ行けば、修司と向かい合わなければならない。

 

 父が、先に中へ入った。

 結衣も続いて、用意された席に座る。テーブルには、三人の株主の資料が並び、手続きを確認している弁護士が控えていた。

 

 修司は、通知を握って来た。

 

「何のつもりだよ、これ」

 

 紙を机に置く手つきは、いつも書類を突き返す時と同じだった。結衣の肩が反射的に硬くなる。

 

「取締役の解任って、ふざけるのもいいかげんにしろ」

 

 弁護士が、今日の議案を告げた。

 家族で仲直りするための集まりではない。会社の株主として、経営体制を決めるための総会だと説明する。

 

「俺の会社だぞ」

 

 修司の声が大きくなった。

 結衣は膝の上で両手を重ねた。言い返せない自分へ戻りそうになる。その時、父が静かに資料を開いた。

 

「君だけが出資した会社ではない。持分は、設立した時から変わっていない」

 

 修司の視線が、父から結衣へ移った。

 

「結衣。お前、こんなことしていいと思ってるのか」

 

 夫として呼ばれた気がした。

 妻なら、ここで自分の味方をしろ。その顔に、そう書いてあるように見えた。

 

「このままにしておけないと思ってる」

 

 結衣は、資料の上から目を上げた。

 必要な支出の説明を求めてきたこと。説明されないまま私的な支払いが続いていたこと。会社のお金の使い方に、経営者として向き合ってもらえなかったことを話した。

 

「言いたいことがあったなら、二人で話せばよかっただろ」

 

 修司は急に、責められた人の声になった。

 

「話したよ。会社でも、家でも」

 

 それ以上、過去の会話を並べなかった。

 聞いてもらおうとして費やした時間を、ここでまた、夫に認めてもらう必要はなかった。

 

 議案が読み上げられ、採決になった。

 父が意思を示し、結衣も賛成した。修司は反対だった。

 議決権の六十パーセントが、賛成に回った。

 

 解任が決まったと告げられても、修司はすぐには反応しなかった。

 自分の声が一番大きければ、話は終わる。そんな場ではなかったことを、ようやく理解しているように見えた。

 

「……俺を、外すんだな」

 

 結衣は答えた。

 

「会社のお金を、あなた一人のものにはできない」

 

 続く議案と必要な手続きを経て、結衣が後任の代表を務める体制が決まった。

 安心より、引き受ける仕事の大きさが先に来た。父は協力してくれる。それでも、自分で説明し、自分で判断しなければならないことが増える。

 

 逃げられないのではなく、選んでここにいる。

 結衣は最後の資料に目を通した。

 

 社員への説明の時間には、営業、経理、総務の人たちが集まった。

 突然の交代に、不安そうな顔が並んでいた。結衣が知っている、毎日仕事をしてきた顔だった。社長の席が変わっても、今日の仕事がなくなるわけではない。そのことを、まず伝えたかった。

 

 父が経営体制の変更を説明し、結衣が前へ出ようとした時、後ろの扉が開いた。

 修司だった。

 

「俺からも話がある」

 

 その声に、社員たちが振り返った。

 結衣は動きを止めた。修司は人を引きつける話し方を知っている。何度もその力に励まされ、ここまで一緒に来たのだ。

 

「この会社の社長は、今日、終わった。でも、俺の仕事が終わったわけじゃない」

 

 修司は営業部の席を見渡した。

 

「新しい会社を作る。大口の客は、俺を信用して契約したんだ。ついてきたい人間は、俺とやろう」

 

 営業の佐藤が、背筋を伸ばした。

 社内で売上の高さを何度も表彰されてきた人だった。修司の営業を近くで学び、自分のやり方にしてきたことも、結衣は知っている。

 

「修司さんには、お世話になりました。俺は――」

 

 佐藤が立ちかけると、修司の顔に笑みが戻った。

 

「な。仕事を取る人間がいれば、会社なんか、また作れる」

 

 結衣の胸が痛んだ。

 始めた頃の自分も、その言葉にうなずいたかもしれない。営業ができることは、確かに強みだ。けれど、それだけで回っていた会社ではない。

 

「判断する前に、見てもらいたいものがあります」

 

 結衣は用意した収支の資料を示した。

 修司だけへ向けた時には、目を通してもらえなかった数字だった。

 

「売上の大きさと、会社に残るお金を、分けて見てください」

 

 主要な取引先ごとの金額が、画面に映った。

 値引き。外注費。短い納期に合わせるための残業。追加の無償対応。必要になった支出を引くと、目立っていた大口の契約の中には、ほとんど利益が残っていないものがあった。

 

「営業には、そういう付き合いも必要なんだよ」

 

 修司が言った。

 

「はい。先につながる費用もあります。でも、その見通しを確認せず、同じ条件を増やすことはできません」

 

 結衣は次の表を示した。

 無理な値引きをせず、守れる納期で契約を続けていた社員たちの仕事だった。売上の額だけでは、上位に並ばない。けれど毎月、確実に会社へ利益を残している。

 

 後方にいた営業社員の一人が、顔を上げた。

 いつも、もう少し大きな客を取れ、と言われていた人だった。

 

「この仕事が、支払いを支えてくれていました」

 

 結衣は、その人たちを見た。

 

「目立たなくても、会社に必要な仕事です。これからは、この数字も一緒に見て、評価したいと思っています」

 

 誰かが、ゆっくりうなずいた。

 修司は画面を見たまま、口元を曲げた。

 

「経理の理屈だろ。お前が客を連れてきたことなんかないくせに」

 

 昔なら、その通りだと引いていた。

 結衣は、今は引かなかった。

 

「営業が契約を取って、現場が仕事を仕上げて、必要な支払いをして、お客様から代金をいただく。全部そろって、次の仕事を続けられます」

 

 会場が静かになった。

 そこにいた誰かの働きを、誰でもできる、と片づけてはいけない。結衣は自分のためだけではなく、その言葉を言えた気がした。

 

 修司は佐藤に向き直った。

 

「来るだろ。俺となら、また稼げる」

 

 佐藤は、手にした資料から顔を上げた。

 その前に、弁護士がもう一つの問題について説明した。

 会社資金の私的な流用が確認されたこと。返還を求める額が約三千二百万円となること。会社として、請求の手続きを進めること。

 

「違う。全部、営業の経費だ」

 

 修司の声が、上ずった。

 

「ブランドバッグも、沙織さんの生活に使ったお金も?」

 

 結衣が尋ねると、修司は一瞬、彼女の方を見た。

 沙織は会場の端にいた。いつも夫を持ち上げていた顔は、今は紙に向いていた。修司を助ける言葉は、出てこなかった。

 

 社員には、会社の問題として必要な範囲の説明をした。寝室で撮ったものを見せたり、関係のない私生活を並べたりはしなかった。

 それでも、正当な経費だという説明が成り立たないことは、伝わった。

 

「佐藤、行くぞ」

 

 修司が、もう一度呼んだ。

 佐藤は立ちかけていた体を、ゆっくり戻した。

 

「俺は、残ります」

「何だよ、それ」

 

 佐藤は唇を結び直した。

 

「営業を教えてもらったことは、感謝してます。でも、会社のお金を、そういう使い方をしていたなら……一緒にはできません」

 

 その声は、修司を嘲る声ではなかった。

 信じていた人から、自分で離れる声だった。結衣はそれが、簡単な言葉ではないと分かった。

 

 他の社員も動かなかった。

 修司は一人ずつ顔を見た。いつも笑えば応じていた人たちが、視線を返しても、席を立たない。

 

「好きにしろよ」

 

 吐き捨てた言葉は、広い部屋で小さく聞こえた。

 修司が出ていった後も、誰もすぐには話さなかった。結衣は用意した原稿を置いた。

 

「急な変更で、不安にさせてすみません」

 

 うまくできると、大きな約束はしなかった。

 給与の支払いと進行中の仕事を守ること。経費の確認を一人に抱えさせないこと。分からないことは尋ね、説明を返す会社にすること。そのために、協力してほしいと伝えた。

 

 説明が終わると、佐藤が残っていた。

 

「俺の契約も、見直してもらえますか。何が負担になってたのか、ちゃんと知りたいです」

 

 結衣は、うなずいた。

 

「一緒に見ましょう」

 

 初めて肩書きではなく、その返事で、新しい仕事が始まった気がした。




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著者:さくらこ
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