不倫夫の処刑日   作:桐山さくらこ

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窓を開けられる暮らし

 会社から実家へ戻ると、娘は母のそばで眠っていた。

 結衣は靴を脱いだまま、しばらく玄関に立っていた。朝、会議室へ向かう時には、終われば楽になると思っていた。けれど、体に残っているのは疲れだった。

 

 会社で結んでいた髪をほどき、娘の顔を見に行った。

 眉間にしわはなかった。小さな手のそばに、作りかけの折り紙がある。

 

 結衣は布団の端へ座った。

 この子を、あの家へ帰さずに済んだ。ようやく、そのことが胸の中に入ってきた。

 

 母が、台所から湯飲みを持ってきた。

 

「温かいうちに飲みなさい」

 

 結衣が受け取ると、母は何も尋ねず、隣に座った。

 父も戻ってきていた。会社の話を始める代わりに、お疲れさま、と言った。その一言で、結衣は初めて、今日を終えられる気がした。

 

 数日後、インターホンが続けて鳴った。

 画面には義母の智子が映っていた。その後ろに修司もいる。結衣は娘を母に預け、父と一緒に玄関へ向かった。

 

 扉を開けると、智子は挨拶より先に言った。

 

「修司から聞いたわ。会社を取ったんですって?」

 

 結衣は息を吸った。

 修司は智子の少し後ろに立ち、目を合わせようとしなかった。

 

「夫婦で始めた会社でしょう。お父さんまで出てきて、こんなことをするなんて」

 

 その言い方には、修司の話を信じきっている強さがあった。

 結衣は、まず一つだけ尋ねた。

 

「会社のお金のことは、聞いていますか」

「お金って、仕事に使ったお金でしょう? 営業には必要な付き合いもあるって、私だって分かるわ」

 

 修司は、その横でうなずいた。

 会社で返せなかった説明を、母親の声に代わってもらっている。結衣は疲れを覚えた。まだ、人が悪いことにして逃げるつもりなのだ。

 

 父が、中で話しましょう、と言った。

 娘のいる部屋とは離れた場所へ、二人を通した。結衣は話す範囲を考え、必要な資料を持ってきた。

 

 智子は座ると、すぐに言葉を続けた。

 

「社長をやめさせれば、家庭まで壊れるでしょう。結衣さんも、少し冷静にならないと」

 

 結衣は答える前に、机へファイルを置いた。

 

「冷静に確認するために、これを見てください」

 

 会社から支払われたものと、その目的を確かめた記録だった。智子は初めの数枚を、まだ強い顔でめくった。

 

「接待くらい、どこでも――」

 

 途中で声が止まった。

 女性物のブランド品。沙織の住まいに関わる支払い。仕事には説明のつかない生活費。

 

「この人、誰なの」

 

 智子が、ようやく修司を見た。

 修司は膝の上で手を組み、何も答えなかった。

 

「会社で働いている、沙織さんです」

 

 結衣は、公開されていた投稿の記録を示した。バッグの写真に、修司へのお礼が添えてある。

 

「この支払いも、仕事に必要だったと聞いていますか」

 

 智子は返事をしなかった。

 修司の肩へ、ためらうように手を伸ばす。

 

「ねえ。何か説明があるんでしょう」

 

 修司は、結衣の方をにらんだ。

 

「そんなもの、母さんにまで見せなくていいだろ」

「会社を奪ったと責められています。どうして交代が必要になったのか、説明しているだけです」

 

 結衣は自分の声を確かめながら答えた。

 怒鳴らなくても、話をやめなくていい。ここには、自分の言葉を遮らせない人がいる。

 

 智子は、ゆっくりページを閉じた。

 

「それで、離婚するってこと?」

 

 結衣はうなずいた。

 結婚を続けないと決めた理由は、会社のお金だけではない。そのことも、今日の二人には伝えなければならなかった。

 

「私が娘と家を出た後、修司さんは、沙織さんを自宅へ連れてきました」

 

 修司が顔を上げた。

 

「もういいだろ」

 

 智子は、息子のその反応を見た。

 結衣はスマートフォンで、残していた短い記録を再生した。寝室が映り、自分を追い出して彼女を迎えるという修司の声が流れた。必要な部分が終わると、画面を止めた。

 

 部屋が静かになった。

 智子は、ファイルとスマートフォンを交互に見ていた。分からなかったことが分かる時の顔だった。何もかもが、急に別の意味になる。

 

「会社を、騙して取られたって言ったわよね」

 

 修司は、唇を結んでいた。

 

「私が来ると言った時、どうして言わなかったの。結衣さんがこんな目に遭っていたって」

 

 智子の声が、震えた。

 

「私は、あなたの言葉を信じて、この人を責めたのよ」

 

 修司は小さく、来なくていいと言っただろ、とつぶやいた。

 智子の手が膝から離れ、修司の頬を叩いた。乾いた音が一度して、修司が顔をそむけた。

 

 その後、智子は口元を押さえた。

 息子を叩いたことにも、自分がしてしまったことにも、言葉が見つからない様子だった。

 

「結衣さん……私は、知らなかったからって、あんな言い方をして」

 

 謝ろうとする声を、結衣は最後まで聞いた。

 すぐに大丈夫ですとは言えなかった。知らずに言われても、言葉は届いてしまう。その痛みを、今また、自分だけで片づける必要はなかった。

 

「会社のことも、離婚のことも、必要な手続きで進めています。修司さんの話だけで、私に戻れと言うのはやめてください」

 

 智子は、何度もうなずいた。

 立ち上がり、修司へ、あなたも謝りなさい、と言った。修司は動かなかった。智子はもう一度結衣に頭を下げ、一人で玄関へ向かった。

 

 扉が閉まると、修司だけが残った。

 

「本当に、ここまでやる必要あったか」

 

 結衣を見た目には、まだ不満があった。

 失ったものの大きさに驚いてはいても、その前に自分が壊したものは、見ていないようだった。

 

「会社では、あなたが必要だって言ってたじゃないか」

 

 結衣は、その言葉で胸が揺れた。

 そう言った。信じていた時がある。その時間まで、嘘にしたいわけではなかった。

 

「一緒にやりたかったよ」

 

 修司が、少し顔を上げた。

 

「だから、何度も話した。でも、私が必要なのと、何をしても私が残るのとは違う」

 

 結衣は机の資料を閉じた。

 

「もう、あなたのために、戻らない」

 

 修司の肩が落ちた。

 しばらく、そのままでいた。父が帰るように促すと、ようやく立ち上がった。玄関へ行く足音を、結衣は座ったまま聞いた。

 

 戸が閉まっても、すぐには体の力が抜けなかった。

 隣の部屋から、娘が母と話す声が聞こえた。結衣は両手を開いた。爪の跡が、手のひらに残っていた。

 

 離婚の話は、代理人を通して進めた。

 子どもの暮らしに必要な費用や連絡の方法は、夫の電話一本で決めさせなかった。会社が求める返還も、夫婦の話とは分けて進んだ。何もかも、その場で回収できたわけではない。けれど、結衣が一人で言いくるめられる状態は終わった。

 

 離婚が成立して、一か月が過ぎた。

 会社では、支払いの予定を他の担当者とも共有するようになっていた。結衣が娘のお迎えに出る時、仕事の返事を待つ人が玄関を塞ぐことはなくなった。

 

「この確認、明日の朝で大丈夫です」

 

 そう言われると、初めは申し訳なくなった。

 今は、ありがとう、お願いします、と返せる日が増えている。自分の暮らしを削ることだけが、会社を支える方法ではなかった。

 

 ある休日、スマートフォンに修司からメッセージが届いた。

 自己破産しそうだ。仕事が見つからない。一度だけ話したい。

 続いて、娘にも会いたい、と書いてあった。

 

 結衣は画面を見つめた。

 怖さも、怒りも、少しは残っている。けれど、助けなければと席を立つことはなかった。

 必要な連絡には、決めた窓口がある。子どものことも、娘が安心できることを第一に、そこで話せばいい。自分の携帯へ、夫の不安や都合を流し込ませなくてもいい。

 

 結衣は直接の連絡をブロックし、スマートフォンを伏せた。

 

「ママ、見て」

 

 娘が、折り紙の花を持ってきた。

 端は少し曲がっていた。結衣は受け取り、顔を近づけた。

 

「きれい。ここ、どうやって折ったの?」

 

 娘は得意そうに、新しい紙を選び始めた。

 その声はもう、誰かが怒っているかを尋ねる声ではなかった。

 

 結衣は窓を開けた。

 風で机の紙が動き、娘が慌てて押さえた。二人で笑い、花が飛ばないよう、窓から少し離れた場所へ置く。

 

 今日の昼は、何を食べよう。

 仕事の予定も、誰かの機嫌も、その質問へ割り込んでこない。娘が返事を考えている間、結衣はもう一度、外の空気を吸った。

 

 せいせいした。

 

 その言葉は、誰かへ投げつけるためではなかった。

 今、隣で笑う娘と、自分のためのものだった。




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著者:さくらこ
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