互いにバンドをやっていると知り、何気ない会話を交わす二人。過去も立場も知らないまま交わされた言葉が、少しずつそれぞれの「今」をつないでいく。
MyGO!!!!! × ガールズバンドクライ。
違う道を歩いてきた二つのバンドが、偶然の出会いから交差する。
放課後になってから千早愛音がスマートフォンを開いたのは、何かを調べたかったからではなく、何も決まっていない時間を何かで埋めたかったからだった。
帰るには少し早く、かといってどこかへ腰を据えて何かを始めるには短すぎる。そういう半端な空白に人間が何を詰めるかといえば、愛音の場合はだいたい決まっていて、SNSを開いて友達の投稿を流し見し、知っている相手にはリアクションをつけ、知らない誰かの服に「これかわいい」と思い、三秒後には別の誰かのコスメに同じことを思う。数分だけのつもりで開いて数分で閉じられた記憶はほとんどないので、時間を潰しているというより、時間のほうが勝手に細かく刻まれて画面の向こうへ吸い込まれていると言ったほうが正確かもしれなかった。
だから指が一枚の写真の上で止まったことにも、最初は特別な意味などなかった。
透明なグラスの中に、深い緑の抹茶ゼリーと白いクリームが層になって重なり、その上に抹茶アイスと白玉、てっぺんには濃い抹茶クリームが見栄えよく巻かれている。削ったチョコレートが細く散らされ、仕上げに金箔まで乗っているあたり、食べ物というより撮られることを自覚して仕上がってきたように見えた。もちろん白玉に自覚はない。たぶん。愛音は画像を拡大してクリームの質感まで確かめてから元に戻し、投稿の本文を読んだ。川崎、期間限定、濃厚抹茶パフェ。その三つを確認して、もう一度写真を開く。
「……これ、絶対おいしいやつじゃん」
独り言にする必要のない内容だったが、口から出ていた。味は食べていない以上まだ分からない。それでも、こういう食べ物には味覚に届く前に勝負を決めてしまう力があって、見て食べたいと思わせた時点で半分は勝っている。残り半分はこちらが店まで行くかどうかの問題で、つまりパフェ側にできる努力はほぼ終わっているのだった。あとは愛音の番である。
気づけば共有ボタンを押していた。送り先はMyGO!!!!!のグループチャットで、写真に添えたのは『これ食べたい!』の一言だけ。十秒もしないうちに既読の数字が増え、最初に返ってきたのは燈だった。
『きれい……』
愛音は画面を見て少し笑った。自分ならまず「おいしそう」で、実際そう思ったから送ったのだが、燈は食べたいより先にきれいが来たらしい。その後で食べたいと思っている可能性もあるし、単に最初に浮かんだ言葉を打っただけかもしれない。ただ、最初の一語というのは本人が意識している以上にその人らしいもので、愛音は返信を考えながら、燈の「きれい」がパフェのどの部分に向けられたのかを勝手に推理しかけていた。金箔か、緑の層か、グラスの透明感か。推理の途中で次の通知が来た。
『今日は予定があって、行けない。ごめんね』
「いや、謝らなくていいって」
スマートフォンに向かって言ってから、文字に口で返しても届かないことに気づいて少し可笑しくなり、『全然大丈夫!』と打ち直して送った。するとほとんど入れ替わるように立希から『遠い』と届く。
「短っ」
声が出た。理由としては分かる。川崎は隣の駅ではない。分かるのだが、行けないとか今日は無理とか、せめて文章と呼べるところまで育ってから送ってくれてもよさそうなものを、立希は距離という事実だけを置いて会話を終わらせにきている。しかも反論しにくい。『でもパフェだよ?』と返したところで、食欲で鉄道路線図が曲がるわけではないのだった。続けてそよから『今日は無理』と来る。立希よりは柔らかい。いや、一文字多いだけかもしれない。ただ「今日は」と書いてあった。愛音は、別の日なら行けるという意味かな、と無意識に読み足しかけて、そこで指を止めた。書いていないことまで勝手に補うのはよくない。そよは今日は無理だと言った、それだけだ。最近は「言っていないこと」のほうが後から大きくなることがあると、愛音も少しは学んでいる。学んでいるつもり、くらいにしておくのが正確かもしれない。
残る一人は楽奈で、既読はつかなかった。しばらく待ってもつかない。楽奈はスマートフォンを持っていて、連絡手段も知っているのに、こちらが今連絡したいことと楽奈が今それを見ることのあいだには広大な空白がある。連絡できることと連絡がつくことは同じではない。楽奈と知り合ってから、愛音はその違いを実感として理解するようになっていた。
三人に断られたあとで見ると、緑のクリームはさっきと同じ形をしているのにこちらへの圧を強めたように見えるから不思議だった。今日で販売が終わるわけではないし、数量限定でもない。燈とそよの都合のいい日に誘い直せばいい。立希だって何かついでがあれば川崎まで来る可能性は、低そうだがゼロとは言い切れない。だったら今日行く理由はないのだけれど、期間限定という言葉は期限そのものより「あとで行こう」を誘発するところが厄介だった。あとで、という予定ほどカレンダーに入らないものはなく、入らない予定は予定ではなく願望で、願望は新しい服や新しい店や新しい話題が出るたびに簡単に押し流される。今食べたいと思って、今なら行ける。ならば行く。そのくらいの軽さでいい。
「……一人でもいいか」
結論が出るまで長くはかからなかった。経路検索を開いた時点で、目的はひとつだった。抹茶パフェを食べる。バンドの話をする予定などなく、知らない誰かと長話をする予定もなく、その誰かが自分の知っているものと妙なところで繋がっている可能性など、考える理由すらなかった。始まりというものは、始まった瞬間にはたいてい、ただの寄り道の顔をしている。
*
川崎駅に着くころには、画面の中のパフェは「食べたいもの」から「ここまで来た以上食べるもの」に昇格していた。人は時間をかけた対象ほど価値があるように感じるらしく、店で出てきたものが写真より多少小さくても、ここまで来た自分を納得させるために「でも味はおいしいし」と評価を補正する準備が愛音の中ではもうできている。食べてもいないのに評価操作の用意まで整えているあたり、自分で思うよりパフェに真剣だった。
地図アプリは徒歩数分と表示していた。便利な言葉だと思う。その数分の中には信号待ちも、人の流れに引っかかる時間も、入口を見落として通り過ぎる失敗も含まれていない。実際、愛音は一度店の前を通り過ぎた。地図の上では到着しているのに店がない、という現実か地図のどちらかが嘘をついている状態が数秒続き、数歩戻ってようやく看板を見つける。
「あった」
安心したのは一秒だけだった。入口の外にまで人がいる。考えてみれば当然で、SNSで見つけたということは、SNSに載っているということで、愛音以外の人間も同じ写真を見られるということだった。秘密の店を発見したつもりでいたが、秘密どころか順番待ちが発生している。待っているのは二人連れと三人連れが中心で、最後尾を探していると、入口近くの店員が声をかけてきた。
「お一人様ですか?」
「あ、はい」
店員は愛音の後ろの待ち客と店内を見比べてから言った。
「二名様以上のお客様には順番にお待ちいただいているのですが、一席だけ空いておりまして。ほかのお客様とご一緒のお席でもよろしければ、すぐご案内できます」
「相席、ですか」
「はい。お相手のお客様には、すでに確認しております」
示された先をガラス越しに見ると、小さな二人用のテーブルに女性が一人座っていて、向かいの椅子だけが空いていた。灰みを帯びた淡い髪が肩のあたりまで無造作に落ち、長めの前髪が目元に斜めにかかっている。俯いてノートを見ているせいか、見えている目元には初対面の人間が少し身構えるくらいの鋭さがあった。手元にはブラックコーヒーと開いたノート、黒いペンを握ったままで、椅子の脇には黒いギターケースが立てかけてある。ノートに向かう顔にはほとんど愛想がなく、眉間にわずかに力が入っていた。誰かに怒っているわけではない、少なくとも愛音にはそう見えたのだが。
(……ちょっと怖そうなお姉さん)
第一印象は相手の事情を待ってくれない。睨まれてもいなければ話してもいないし、性格も当然知らないのに、顔つきと姿勢と雰囲気を三秒でまとめて、頭が勝手にラベルを貼る。雑で、けれど速い。速いから役に立つこともあるので、完全にやめるのはたぶん無理だった。
愛音は入口に並ぶ二人連れと三人連れをもう一度見た。あの一席では、あの人たちは座れない。自分だけなら座れる。断れば自分もこの列に並ぶことになる。怖そうなお姉さんと、その向こうのパフェを頭の中で並べてみて、比較にはならなかった。
「じゃあ、相席でお願いします」
店に入ると、冷房の効いた空気が歩いて熱を持った頬に触れた。ほっとしたのは一瞬で、テーブルが近づくにつれ、今度は女性の存在感のほうが大きくなる。二人用のテーブルは知り合い同士なら普通の距離なのだろうが、知らない者同士だと急に近い。それは関係性の問題で、テーブルにはどうしようもなかった。
「こちらのお席になります」
「失礼します」
女性がノートから顔を上げ、目が合った。
「ああ」
返ってきたのはそれだけだった。歓迎はなく、拒絶もない。相席を了承していた人間が、実際に来た相手を見て短く了承した、それ以上の意味を載せようとすれば、また愛音が勝手に人物設定を作ることになる。女性は一度愛音を見てすぐノートへ視線を戻し、愛音は椅子を引きながら、やっぱりちょっと怖いかも、と心の中で繰り返した。訂正できるだけの情報はまだ増えていない。「ああ」の一言で「実はすごく優しい人かも」まで飛ぶほうが無理がある。
メニューを開くまでもなく、目当てのものは写真付きで大きく載っていた。注文を済ませてメニューを閉じると、あとは待つだけになったが、二人用のテーブルでは待っているあいだも真正面に人がいる。会話の義務はない。相席は会食ではないのだから黙っていていいし、知らない人にいきなり話しかけるほうが変だろう。愛音はスマートフォンを出してSNSを開いたものの、画面の向こうでは、ペン先が紙を擦る小さな音が続いていた。
最初は気にならなかった。いや、聞こえてはいたのだろうが、注文や着席に注意を使っていて、意味のある音として拾っていなかった。一度意識すると、その動きが妙に目につく。ずっと書いているわけではなく、二、三行進めては止まり、少し考えてまた書き、気に入らない箇所に線を引く。勉強にしては書き方が不規則で、日記にしては記号が多く、仕事のメモにしては、と考えたところで、愛音は自分が向かいの人をすっかり観察していることに気づいた。
(いやいや、見るなって)
他人のノートを覗くのはよくない。ただ、真正面という配置には倫理を地味に試してくるところがあって、見ようとしなくても視界に入る分までは止められない。顔を上げたとき、『Aメロ』という文字が目に入り、近くに『サビ』と、アルファベットのコードらしい並びが見えた。愛音は一度ノートから目を外して脇の黒いケースを見て、またノートに戻す。曲を書いているのかもしれない。そこまで分かると、さっきまで「怖そうなお姉さん」だけだった人物に、別の情報が一枚重なった。ギターをやる人で、曲を作る人。たぶん。そこから「上手い人」や「バンドをやっている人」まで進むのは推測が一段多いので、愛音は自分でブレーキをかけた。知らない人を勝手に完成させない。今日はそれを覚える日なのかもしれないが、そんな予定は入れていない。
女性のペンが止まった。あるコード進行らしい箇所をしばらく見つめ、眉を寄せて一本線を引くと、すぐ次を書くでもなく、ペン先を紙の上に浮かせたまま動かなくなる。何を書けばいいか分からない止まり方には見えなかった。愛音に作曲のことは分からないが、選べるものがいくつかあって、決めきれずにいる人の止まり方には、なんとなく見えた。なんとなく、は便利な言葉で、外れても責任を取らなくて済む。だからそれ以上は考えないことにした。
そのとき、店員の声がした。
「お待たせいたしました。期間限定の濃厚抹茶パフェです」
愛音の注意は驚くほど簡単に、全部そちらへ移った。写真の中にあったものが目の前に置かれている。画面で見たときより大きく感じるのは、実物だからか、わざわざ来たからか、たぶん両方だった。クリームの巻き方も白玉の位置もきれいで、散らされた金箔は味にどこまで貢献するか分からないが、写真には確実に貢献している。つまり撮る。
一枚目は正面から。照明が少し映り込むので角度を変えて二枚目、グラス全体が入るよう引いて三枚目、上からも欲しくなって四枚目を構えたところで、真正面から声が飛んできた。
「……何枚撮るんだよ」
愛音の指が止まった。顔を上げると、女性がノートの上にペンを置き、愛音と、スマートフォンと、パフェを順番に見ていた。怒っている感じではなく、どちらかといえば呆れている。
「同じのずっと撮ってるから」
「同じじゃないですよ。角度違うんで」
考える前に返していた。女性はパフェを見て、スマートフォンを見て、またパフェを見る。
「そんな変わる?」
「変わりますって。正面と斜めじゃ全然違うし、上から撮るとクリームの感じも分かるんで」
「食ったら同じだろ」
「写真は食べないですから」
「そういう話してる?」
「そういう話じゃなかったです?」
女性の口元がわずかに動いた。笑ったというほど大きくはないが、ノートに向けていた硬い表情とは少し違う。愛音はそこで、自分が普通に話していることに気づいた。つい数分前まで怖そうだと思っていた人と。
「ていうか、数えてたんですか?」
「目の前でやってりゃ嫌でも分かるよ」
「四枚ですよ。まだ」
「もう四枚、な」
「言い方でだいぶ印象変わりますね」
距離が近いことは、さっきまで気まずさの理由だったのに、今はむしろ会話が成立してしまった理由になっていた。遠い席なら、知らない人が何枚パフェを撮ろうと誰も口を出さない。近かったから見えて、見えたから言われて、言われたから返した。流れとしてはそれだけだった。
「食う頃には溶けるぞ」
「そこまで撮りませんよ」
「じゃあもう食えよ」
「最後にもう一枚だけ」
「まだ撮るのかよ」
「これで最後ですって」
五枚目を撮って確認し、今度は満足した。「はい、終わりです」と告げると「別に報告いらないけど」と返され、「言ったじゃないですか、最後って」と言い返す。「律儀だな」「そこ褒めるところです?」「褒めてない」「ですよね」。敬語のまま軽口を返している自分に気づいたが、女性もそれを止めなかった。怖そうという評価を全部撤回するにはまだ早い。名前も知らないし、性格も知らない。ただ、少なくとも話しかけたら怒られそうな人ではなさそうだった。
スプーンを取り、クリームと抹茶アイスを一緒にすくって口へ運ぶ。最初に甘さが来て、そのあとに抹茶の苦みが残った。写真を見て期待した味から大きく外れていない。それが嬉しくて声が漏れる。
「……おいし」
聞こえたらしく、女性が一度だけこちらを見た。
「よかったな」
「はい」
女性はまたノートへ視線を戻したが、その横顔はもう「怖そう」の一言では収まらなくなっていた。ブラックコーヒーを飲む人で、ギターケースを持っていて、曲らしいものを書いていて、パフェを五枚撮ったら突っ込んでくる人。情報が増えても人は分かりやすくならず、むしろ輪郭だけが増えて、それぞれがまだひとつの人物像にまとまらない。初対面なのだから当たり前だった。
愛音は抹茶ゼリーをすくいながら、もう一度脇の黒いケースを見た。今度は勝手に考えるだけでなく、聞けばいい、と思う。嫌そうなら、それ以上は聞かなければいい。その程度の距離なら、もう許される気がした。
「あの」
女性がノートから顔を上げる。
「ん?」
「そのギター、やるんですか?」
女性も一度ケースに目をやった。
「ああ」
やっぱり、と思う。予想が当たると、それだけで会話の入口がひとつ増えたように感じるのが不思議で、愛音はスプーンを持ったまま少し身を乗り出した。
「私もギター弾いてるんです」
「へえ」
「バンドで」
そこで女性の目が、さっきまでより少し長く愛音に留まった。それが興味なのか、ただ続きを待っているだけなのかは分からない。分からないので、愛音は今度こそ、勝手に決めつけなかった。
「同じですね」
そう言ってから、愛音は自分の声が思ったより弾んでいたことに気づいた。相席の相手に向ける温度としては少し高い。ただ、出してしまった言葉は戻せないので、そのままスプーンを置いて返事を待った。
女性はコーヒーカップに指をかけたまま、愛音の顔を一度見て、それからゆっくり視線を外した。
「ギターってだけならな」
「え」
「ギター弾く奴なんて、そこら中にいるだろ。同じって言うには、まだ何も知らない」
正論だった。それが正論であること自体は愛音も認めざるを得ない。ただ、初対面のあいだに、せめて「へえ」と「そうなんだ」のあいだくらいの温度は挟めたはずで、そこをいきなり論理で踏み抜いてくるのはどうなのか、という不満も同時に湧いた。愛音は口を開けたまま、反論の材料を探して、見つからなかったので、そのまま不満を言うことにした。
「そこはもうちょっと仲間感出してくれてもよくないですか?」
「仲間なのか?」
「今この瞬間は、ギター弾きとして仲間かなって」
「ずいぶん安い仲間だな」
「安いほうが成立しやすいんですよ、仲間って」
言ってから、自分でも何を言っているのか分からなくなった。ただ、女性の口元がさっきより明らかに動いて、息が鼻から抜けるような短い笑いが漏れた。声になるほどではないが、愛音の目の前では確かに起きた出来事で、それが起きた瞬間に、肩のあたりに残っていた余計な力が抜けるのが分かった。怖そうなお姉さん、というラベルは、まだ剥がれたわけではない。ただ、貼り付けた糊が弱くなった。
「どんなバンド?」
「私のですか?」
「他に誰がいるんだよ」
さっきから何度か愛音は「怖そう」と思っていたはずなのに、この人は質問を投げるとき、意外なほど相手の答えを待っている。ノートを脇へ寄せたわけではないが、ペンは置かれたままで、手はもう書く位置にない。愛音はパフェをひとすくい口へ運んでから、少し考えた。聞かれて困る質問ではないのに、いざ説明しようとすると、頭の中で順番が決まらない。
「えーっと、五人なんですけど、結構みんなバラバラで」
「まとまってないのか」
「いや、まとまって……まとまってるのかな?」
「知らないよ」
「ですよね」
自分で自分に聞いてしまった形になって、愛音は笑った。まとまっているかどうかは、たぶんまとまっていない時期を知っている人間だけが聞かれて困る質問で、今の愛音はその両方の時期を知っている。ただ、それを初対面の相手に話す必要はなかった。必要なのは、目の前の人が聞いてきたことに、今答えられる範囲で答えることだ。愛音は頭の中に、一人ずつ顔を並べた。
「まず、ともりんがボーカルです」
「ともりん?」
「燈っていう子で、私がそう呼んでるだけなんですけど」
「変な呼び方」
「かわいいじゃないですか」
反論は来なかった。女性はカップを持ち上げて一口飲み、続きを促すように視線だけをこちらへ向ける。愛音はグラスの中ほどまで減ったパフェを軽く混ぜながら、燈をどう言えば嘘にならないかを探した。
「ともりんは、歌うっていうより、言葉を出す感じなんですよね。普段はそんなに喋るほうじゃないんですけど、歌になると急に全部出てくるっていうか。たまに怖いくらいで」
女性の眉がわずかに動いた。何に反応したのかは分からない。
「りっきーはドラムです。言い方はけっこうきついんですけど、演奏はちゃんと見てくれてて、私が変なことするとすぐ分かるんですよ。たぶん、私より私の音を聴いてます」
「それ、ただ怒られてるだけじゃないのか」
「……まあ、そうとも言います」
「言うんだ」
「言いますけど、でも、怒るのって見てないとできないじゃないですか。見てない人は怒らないんで」
口に出してから、それが意外と本心だったことに気づいた。立希に怒られるのは今でもあまり気持ちのいいことではないのに、怒られた内容が外れていたことは一度もない。愛音はその事実を、わざわざ立希本人には言わないことにしているが、知らない相手には案外すんなり言えるのだった。
「そよりんはベースで、たぶん一番ちゃんとして見えます」
「見える?」
「気遣いもできるし、周りも見てるし。でも、意外と頑固です」
そこで愛音は、少しだけ言葉を選んだ。「でも」の後ろに続けた一言は、軽い悪口として言うこともできるし、もっと別の意味を持たせることもできる。どちらで受け取られるかは、聞く側の問題だ。ただ愛音自身は、そよのことを全部分かったつもりになるのは、もう違う気がしていた。分かったつもりになって、それが外れたときの顔を、愛音はもう一度見ている。
「で、楽奈ちゃんがギターです」
「ギター二人なのか。どんなやつ?」
「楽奈ちゃんは……」
愛音は真面目に考えた。音楽が好きで、ギターが上手くて、自由で、気まぐれで。並べた言葉はどれも間違っていないのに、並べるほど本人から遠ざかっていく。気まぐれと言えば気まぐれだが、気まぐれという言葉には「本人にも理由がない」という含みがあって、楽奈の場合は理由がないのではなく、理由の置き場所がこちらの世界とずれているだけなのだ。それを説明するには、愛音の語彙も時間も足りなかった。
「……猫ですね」
「猫?」
「はい」
「人間だろ」
「会えば分かりますって。ほんとに猫なんで」
自信を持って言い切ると、女性はとうとう声に出して笑った。大きくはないが、さっきの息だけの笑いとは違って、はっきり笑い声だった。ノートの上の線とコードがその振動でわずかに揺れたように見えて、愛音は少しだけ得をした気分になる。
「変なバンド」
「否定しづらいですけど」
「今の説明だけで、よく続いてるな」
「それは……まあ、いろいろあったんで」
「ざっくりだな」
「初対面の人に全部説明するには、重いですよ」
「それはそうだ」
あっさり引かれたことが、愛音には少し意外だった。普通なら「何があったんだ」と聞いてもおかしくない流れで、実際、聞かれたら愛音は何をどこまで答えるか決めかねていたと思う。ところが目の前の女性は、そこへ踏み込んでこなかった。踏み込まないことを、気遣いと呼んでいいのかどうかは分からない。ただ、聞かれなかったことで、愛音の側から続きを話す余地が、逆に空いた気がした。
「でも」
「はい?」
「ちゃんと見てんだな。メンバーのこと」
愛音は目を丸くした。ミーハーだとか、流行りもの好きだとか、そういう評価には慣れているが、見ていると言われた経験はあまりない。しかも相手は、ほんの数分前まで怖そうだと思っていた、名前も知らない人だった。
「あー……一緒にやってますから、そりゃ」
「ふうん」
「なんですか、その反応」
「別に」
女性はコーヒーを飲んだ。カップの縁の向こうで、視線が最初よりほんの少しだけ長く愛音に留まっていて、それからノートへ戻る。戻ったあともペンはすぐには動かなかった。愛音はそれを見なかったことにして、パフェをすくった。ここまで話しても、グラスにはまだ半分近くが残っている。溶けるぞ、と言われたことを思い出して、愛音は少しだけスプーンの動きを速めた。
メンバーの話をしているうちに、愛音は自分たちが今の五人になるまでのことを、断片的に思い出していた。思い出すと言っても、順番に並んだ記憶が再生されるわけではなく、燈の声の出し方だとか、立希が黙って腕を組んだときの空気だとか、そよが笑ったまま何も言わなかった間だとか、そういう細かい切れ端が、パフェのスプーンを動かすたびに浮かんでは沈む。最初から何もかも噛み合っていたわけではなく、今だって、全員が同じことを考えているわけではない。それを「いろいろあった」の一言に畳んで差し出したのは、嘘ではなかったが、全部でもなかった。
だから、深く考えずに口から出たのだと思う。
「バンドって、ずっと同じ人たちでやるほうが珍しいんですかね」
向かいで、コーヒーカップの取っ手に触れかけていた女性の指が止まった。ほんの一瞬で、愛音が「何か変なことを言ったかな」と思うより先に、視線はカップの中へ落ちている。
「どうだろうな」
返事までに、少し間があった。店の奥で食器の重なる音がして、隣のテーブルから笑い声が上がる。そういう雑音の中で、女性の声はさっきまでより半音ほど低く聞こえた。
「私も、前にいたバンドは辞めたし」
「え」
「今は別のところでやってる」
あ、そうなんですか、と愛音は返した。それ以上の言葉は出てこなかったし、出すべきでもない気がした。なんで辞めたんですか、は、初対面の相手に投げる質問としては踏み込みすぎている。さっき自分が「重いですよ」と言って守った線を、相手にだけ越えさせるのはフェアじゃない、というのが愛音の中で一番近い理屈だった。
女性もそれ以上は話さなかった。カップを持ち上げて一口飲み、戻す。ノートへ視線を落としはしたものの、ペンは取らず、開いたページの上で指先だけが、紙の端をなぞるように動いていた。
愛音はその手を見てから、パフェへ目を戻した。前にいたバンドは辞めた。今は別のところでやっている。それだけを並べれば、数え方はひどく単純で、指を折るまでもなかった。単純だから、つい、口が先に動いた。
「じゃあ、今のバンドが二回目?」
女性の目が、愛音に戻ってくる。
返事はすぐには来なかった。愛音はスプーンを持ったまま待ち、聞き方を間違えたかな、と思い始めたころに、女性がわずかに息を吐いた。
「……まあ、そうなるな」
それだけだった。肯定ではあるのに、「そうだ」ではなく「そうなる」で、その言い方には、数え方としては合っているけれど、自分ならそうは数えない、という含みが薄く混じっているように聞こえた。ただ愛音は、そこを突っ込めるほど相手のことを知らない。「二回目」は自分が勝手に付けた数字で、実際には途中に別の名前の時期があったのかもしれないし、バンドとは呼べない何かがあったのかもしれない。そこまで考えて、愛音は自分の数え方が雑だったことを、心の中でだけ認めておいた。
さっきなら、答えたあとすぐにノートへ戻っていたはずの手が、まだペンへ伸びなかった。
「そっちは?」
「え?」
「今のが初めてなのか。バンド」
話が自分に返ってきて、愛音は一拍遅れて頷いた。
「はい。初めてです」
答えながら、これで終わらせるのが一番簡単だと分かっていた。初めてです、で会話は閉じられる。ただ、閉じようとした口が、そのまま止まらなかった。
「まあ、一回もう無理かなってなりましたけど」
言ってから、パフェの白玉をスプーンの先でつつく。女性は何も言わず、続きを待つでも急かすでもなく、ただそこにいた。それが、話しやすいと言えば話しやすく、逃げ場がないと言えば逃げ場がない。
「もう終わるんだなって思ったんですよね、あのとき。次にみんなで集まることって、たぶんないんだろうなって。そう思ってたんですけど」
「けど?」
「今は、五人でやってます」
説明はそれで足りていたし、それ以上を話す気もなかった。詳しいことは、初対面の人に話す分量を超えている。ただ、女性の側が少しのあいだ黙って、それから短く言った。
「戻ったんだな」
愛音はスプーンを止めた。
戻った。たしかに、外から見ればそう言うのが一番近い。一度ばらばらになって、また同じ五人で音を出している。戻った、という言葉は間違っていない。間違っていないのに、愛音はその言葉を、そのまま受け取れなかった。
「戻った……っていうのとは、ちょっと違うかもです」
「違う?」
「また一緒にはなりましたけど、前と同じじゃないんですよね」
自分で言いながら、それが今日一番、まっすぐな言葉だった気がした。パフェの話でも、ギターの話でもなく、聞かれたから答えたのでもない。ただ、いつからか自分の中にあった感触に、ようやく言葉が追いついた感じだった。同じ人たちが同じ場所にいるのに、同じ形には戻っていない。戻れなかったのか、戻らなかったのかは、愛音にも分からない。
女性は答えなかった。カップの縁に指をかけたまま、愛音ではなく、テーブルの上のどこでもない場所を見ている。その沈黙が重かったのか軽かったのか、愛音には判断がつかず、判断がつかないまま、スプーンを口へ運んだ。抹茶ゼリーが、さっきより少し苦く感じた。
そのとき、女性がポケットからスマートフォンを取り出した。画面を点けて時刻を確かめ、画面を伏せてテーブルに置く。一連の動きに焦りはなく、まだ余裕がある人の確認の仕方だった。
「まだ大丈夫なんですか?」
「練習まではな」
練習。やはり、バンドをやっている人なのだ、と愛音は今度こそ確信した。確信しても、もう「上手い人」へは飛ばない。ただ、練習に行く前に、一人でカフェでノートを広げている人だということだけは、はっきりしていた。
愛音のグラスには、半分弱のパフェが残っている。
「練習って、バンドのですか?」
「他に何があるんだよ」
「いや、ギターだけの個人練かもしれないし」
「個人練ならスタジオ取らない」
即答だった。スタジオという単語が出たことで、愛音の中で相手の輪郭がまた一段はっきりする。ただ、はっきりした分だけ、聞きたいことも増える。何のバンドですか、どこでやってるんですか。どちらも口の手前まで来て、愛音はそれを飲み込んだ。さっき「前にいたバンドは辞めた」と言った人に、「今は」と続けて聞くのは、ちょっとだけ順番が違う気がした。聞くなら、向こうが話す気になってからでいい。
愛音はパフェに戻った。抹茶アイスが、グラスの縁に沿ってゆっくり崩れ始めている。ここまで話しているあいだ、スプーンの動きが止まっていた時間が意外と長かったらしい。あわててすくって口へ入れると、冷たさが先に来て、苦みが追いかけてくる。溶けるぞ、と言われた手前、溶かすわけにはいかなかった。
その視界の端で、店の天井近くに取り付けられたモニターが切り替わった。
それまでは店のメニューや季節限定の案内が静かに回っていたのに、急に画面が暗転し、低く歪んだギターのリフが店内の話し声の上に乗ってくる。BGMにしては音圧がある。愛音は何気なく顔を上げて、画面の中の四人組を見た。揃いの衣装は濃紺を基調にしながら、胸元のネクタイやリボンはそれぞれ色が違い、赤、青緑、緑、紫と、統一された衣装の中に個人の色を残している。ステージの照明を浴びた全員が、こちらへ向かって笑っている。かわいい、と思った直後に、リフの重さが耳へ届き、ドラムが入ってきたところで、かわいいという感想の置き場所が少しだけ迷子になった。
「あ、この人たち、最近よく見ます」
声に出してから、相手に向けて言ったことを思い出した。女性は画面を見上げてはいなかった。視線はテーブルの上のカップに落ちたまま、動かない。
「ダイダス?」
「あ、それです。ダイダス」
名前を先に出されたことに、愛音は少し驚いた。自分は名前を言えなかったのに、この人は画面を見もせず、音だけで分かったらしい。バンドをやっている人は、そういうものなのかもしれない。愛音は勝手にそう納得して、画面へ視線を戻した。新曲の告知らしい文字が流れ、CDのジャケットが映る。メンバーの一人がカメラに向かって手を振り、別の一人が決めポーズをとって、最後にバンド名のロゴが出た。
「好きなのか」
「あー……最近、ちょっと好きです」
「最近」
「前は、広告で見ても、なんかアイドルっぽいバンドなのかなって思ってたんですよ。衣装もかわいいし、ポーズも決まってるし。で、そのときは曲まで聴いてなくて」
女性は何も言わず、続きを待っている。愛音は白玉をすくいながら、自分の記憶を探した。きっかけがあったわけではなく、たまたま流れてきた動画の音を、いつもなら飛ばすところを飛ばさずに最後まで聴いてしまっただけだった。
「最近ちゃんと聴いたら、思ったよりかなりロックじゃん、って。いや、勝手にイメージ作ってた私が悪いんですけど」
「悪いってことはないだろ」
「悪くはないですけど、ちょっと恥ずかしいですね。広告の印象だけで、曲を聴いた気になってたんで」
言いながら、愛音は自分の言い方が少し引っかかった。まるで、バンドが変わったみたいに聞こえる。実際には何も変わっていなくて、変わったのは愛音の側の情報量だけだ。
「あ、バンドが変わったとかじゃなくて、私がちゃんと聴いてなかっただけなんですけど」
「分かってるよ」
「ならいいです」
「ちゃんと聴いたら、どうだった」
意外な質問だった。感想を聞かれることを予想していなかった愛音は、スプーンを持ったまま少し考える。かっこよかった、は簡単だが、それだとさっきの自分の話と何も違わない。もう少し、あのとき実際に感じたものに近い言葉を探した。
「なんていうか、こっちが勝手に思ってたよりも、『これが私たちです』って感じが残るんですよね。かわいいのも、ロックなのも、どっちも、ちゃんと本人たちのものっていうか」
「本人たちの」
「いや、中のことは何も知らないですけど。そう聞こえたっていうだけで」
女性はカップを持ち上げかけて、途中でやめた。カップが空だったのか、飲む気が失せたのかは分からない。そのまま置いて、少しだけ間を空けてから言った。
「最初に思ってたのと違ってても、今のほうが好きってことか」
「そうですね」
愛音は頷いてから、付け足した。
「私は、ですけど」
「そういうほうが好きなのか。思ってたのと違うの」
「え、そういうほう?」
聞き返してから、愛音は自分の中を探った。思ってたのと違うものが好きかと言われると、そう単純でもない気がする。ただ、思い当たることはあった。
「うーん……私のバンドも、一回ぐちゃぐちゃになってから、前よりみんな好き勝手言うようになったんですよ。りっきーも遠慮しなくなったし、私も、やりたいこと普通に言うようになったし。前のほうがきれいだったかって言われたら、たぶんきれいでしたけど、今のほうが、聴いてて面白いんで」
自分で話していて、愛音は少し不思議な気分になった。ダイヤモンドダストの話をしていたはずが、いつの間にか自分たちの話になっている。ただ、二つを並べて分析しているわけではなかった。先入観が外れたときの好感と、自分のバンドで起きたことが、たまたま同じ引き出しに入っていた、というだけのことだ。
向かいの女性は、何も返さなかった。画面の中のダイヤモンドダストは、いつの間にかメニューの案内に切り替わっていて、店内にはまた食器の音と話し声が戻っている。
「じゃあ」
低い声が、その中に落ちた。
「メンバーまで変わってたら?」
愛音は、スプーンを口に運びかけて止めた。話の流れとしては唐突ではない。ただ、さっきまでの軽い調子の質問とは、声の重さが違った。仮定の形で聞かれているのに、仮定として軽く受け取るには、間が長すぎた。
「メンバー、ですか」
「バンドの。人も変わってたら、って話」
「ああ、ダイダスの話ですか」
「例えば、だよ」
例えば。愛音はその一言を信じることにした。そうしないと、答えようがなかった。何かを聞き出そうとしているわけでも、探りを入れているわけでもなく、ただ、頭に浮かんだ仮定を口に出しただけの質問。そういうものとして、受け取ることにする。
「そりゃ、けっこう変わるんじゃないですか?」
軽く答えた。本当に、そのくらいの重さで言ったつもりだった。人が変われば音が変わる。当たり前のことで、自分たちの経験からも、それは動かしようがない。
「変わっても、いいと思うか?」
「変わっても、って」
愛音は首を傾げた。組織や集団というものは時と共に変化していく。例外は限りなく少なくて、それに関する疑問を感じたことは愛音にはなかった。自身が留学した時、環境が一変しても自分でいようと当時なりに頑張った苦い記憶がふと蘇る。
これまでの自分達ではなく、新しい形のバンドとして続けていいのか、ということだろうか。
愛音には、深く構えて答えるつもりがなかった。構えるには、相手の事情を何も知らなすぎる。だから、頭に浮かんだことを、そのまま言った。
「その時いる人たちで、その時やりたい音やればいいんじゃないですか?」
言い終えて、そのままパフェをすくって口に入れた。
向かいの女性は、答えなかった。
愛音は咀嚼しながら、ちらりと相手を見た。女性の視線はノートに落ちていたが、そこに書かれた何かを読んでいるようには見えなかった。ペンは置かれたまま、指先だけが、さっきと同じように紙の端に触れている。ただ、触れ方が少し変わっていた。なぞっているのではなく、押さえている。紙が風に飛ばされないように押さえるときの力だった。
店内に風などないのに。
愛音は飲み込んでから、何か言うべきかと考えた。ただ、何を言えばいいのかが分からず、結局、グラスの底に近いゼリーをすくうことにした。自分の言葉が、相手のどこに触れたのかを知らないまま、これ以上何か足すのは、余計な気がした。
「……それでも」
女性の声が、ようやく落ちてきた。さっきより小さく、ほとんど独り言に近い。
「やり直したことになるのかな」
愛音は顔を上げた。女性はまだ愛音を見ていない。ノートを見たまま、誰に向けたとも分からない声で、そう言った。
やり直した、という言葉の重さを、愛音は正確には測れなかった。何をやり直したのか、何をやり直せていないのか、聞かされていないのだから当然だった。ただ、それが質問の形をしていながら、答えを求める声ではないことだけは、分かる気がした。確認に近い。自分の中でもう答えが出ているものを、誰かの口から聞いて、確かめようとしている。そういう種類の声だった。
愛音は少し考えた。考えたが、難しい答えは出てこなかった。難しく考える材料を持っていないのだから、出てこなくて当然だ。持っているのは、さっき自分で言った「前と同じじゃないんですよね」という言葉と、目の前の人が「二回目」を否定しなかったこと、それだけだった。
「なるんじゃないですか?」
女性の視線が、ようやく上がった。
愛音はその目を見て、さっきの会話を頭の中で巻き戻した。前のバンドは辞めた。今は別のところでやっている。今のバンドが二回目、と聞いたときの、まあそうなるな、という返事。
「今のバンド、二回目って言ってましたよね」
「……ああ」
「じゃあ、二回目でも、やり直せますよ」
言い切ってから、愛音は自分でも少し驚いた。励まそうとしたつもりはなく、慰めたつもりもない。ただ、手元にある材料を並べたら、その答えになった。それだけのことだった。だから言った直後に、特別なことを言ったという感覚もなく、そのままスプーンを口へ運んだ。
女性は、しばらく愛音を見ていた。表情が大きく動いたわけではない。眉が少し下がり、目元の鋭さが、いつもより少しだけ緩んでいた。
「本当、簡単に言うな」
「え、褒めてます?」
「褒めてない」
「ですよね」
「……半分くらいは」
「半分なんだ」
愛音が笑うと、女性も、さっきよりはっきり口の端を上げた。からかうような、呆れたような、それでいて、どこか肩の荷が下りたような笑い方だった。愛音には、それがどういう意味の笑いなのか、結局分からなかった。ただ、悪い笑いではないことだけは、確かだった。
女性は、そこでスマートフォンを取り出した。さっきと同じ動作で、画面を点けて時刻を見る。ただ、今度は動きが止まった。
「……やば」
「え?」
「練習」
声のトーンが変わっていた。さっきの余裕のある確認とは違う。女性は素早くノートを閉じ、ペンをポケットにしまい、椅子の脇のギターケースへ手を伸ばした。
「間に合うんですか?」
「急げばな。数分は遅れるかもしれない」
「え、それ、私のせいですか?」
「誰と喋ってたと思ってんだ」
「私のせいですか?」
「半分くらいはな」
「やっぱり半分なんだ」
さっきと同じ数字が返ってきて、愛音は思わず吹き出した。女性はケースを背負いながら、それには反応せず、立ち上がって一歩、テーブルから離れた。
そのまま歩き出すのかと思ったが、二歩目で足が止まった。ポケットに手を入れ、何かを探る。取り出しかけて、また戻す。迷っているのが、背中越しにも分かった。愛音はスプーンを持ったまま、その動きを見ていた。時間がないはずなのに、この人は今、何かを渡すかどうかで迷っている。
三度目に、ポケットから手が出てきた。握られていたのは、小さな紙だった。
女性は振り返り、それを愛音の前へ差し出した。
「暇だったら、来てよ」
愛音は反射的に受け取った。厚手の紙で、片面に黒地のデザインが見える。
「今の私らも、見てみれば」
それだけ言って、女性は背を向けた。愛音が何か言う前に、ギターケースの角が椅子の背に当たる小さな音がして、そのまま通路へ出ていく。レジの前で、自分のコーヒー代だけを払う姿が見えた。店員とのやり取りは短く、すぐに扉が開いて、冷房の外の空気が一瞬だけ店内へ流れ込み、閉じた。
愛音は、手の中の紙を見た。
トゲナシトゲアリ。
バンド名らしい文字が、中央に大きく載っている。その下にライブの日付と会場名、出演者の名前が並んでいて、その中の一つに、さっきまで向かいに座っていた人の名前があった。
河原木桃香。
愛音は、そこで初めて、あの人の名前を知った。
パフェのグラスには、あと数口分が残っていた。
愛音は紙を持ったまま、しばらく動かなかった。名前を知ったからといって、それで何かが分かったわけではない。ただ、さっきまで「相席のお姉さん」という、輪郭だけの存在だった人に、急に一本、筋が通った感じがした。かわもく、ではなく、かわらぎ。ももか。読み方に自信がなくて、頭の中で二回なぞってみる。河原木桃香。ギターの人で、曲を書いていて、パフェを五枚撮ると突っ込んでくる人だった。
カードをテーブルの端に立てかけ、残りのパフェに向き直る。アイスはもうほとんど溶けて、ゼリーの緑の上に白い筋を引いていた。溶けるぞ、と言われたとおりになったわけだが、言った本人はもういないので、悔しがる相手もいない。愛音は残りを数口で片づけ、グラスの底に当たるスプーンの音を聞いて、それが思ったより店内に響いたことに少しだけ恥ずかしくなった。ほぼ食べ終えたのに、満足感の中に、ひとつだけ置き場所の決まらないものが混ざっている。
『暇だったら、来てよ』
あの言い方は、誘いというには投げやりで、社交辞令というには、ポケットの中で二度も迷っていた。愛音は迷いの一部始終を見ている。見ているから、カードを受け取った重さが、紙一枚の重さではなくなっていた。
「……行くかどうかは、別として」
誰に断るでもなく呟いて、スマートフォンを取り出した。カードの名前をもう一度見る。どんなバンドなのか、純粋に気になった。ギターを持って、あの顔でノートに向かっていた人が、練習に遅れそうになってまで渡してきたバンドだ。検索窓に「トゲナシトゲアリ」と打つと、候補がすぐに並んだ。その下に、「河原木桃香」と続けて打つ。
最初に出てきたのは、バンドの公式ページと、メンバー紹介だった。写真の中の人は、さっきと同じ灰みのある淡い髪で、さっきよりずっと決まった顔をしている。ああ、本当にこの人だ、と思ってから、愛音はプロフィールの文字を目で追った。ギター。二十歳。そこまでは想像の範囲内だった。
スクロールした先の紹介記事に、見慣れた単語が混ざっていた。
『元ダイヤモンドダスト』
愛音の指が止まった。
ダイヤモンド、ダスト。さっきモニターに映っていた、あのダイダスだ。画面の中でかわいい衣装を着て、重いリフの上で手を振っていた人たちの名前が、なぜか今、この人のプロフィールの中にある。さらに下へ進むと、『旧ボーカル』の文字があった。
「……元、ダイダス?」
口の中で言ってみて、意味が追いついてこない。元。旧。ボーカル。ダイダスにはボーカルの交代があった、という事実は、愛音の知識のどこにもなかった。広告で見ただけの、ライト層のファンだったのだから当然だ。当然なのだが、当然であることは、今の状況の慰めにならなかった。
愛音は、さっきの会話を頭の中で巻き戻した。
あの人は、画面を見ずに「ダイダス?」と言った。メンバーまで変わってたら、と聞いた。それでも、と聞いた。やり直したことになるのかな、と。
「……私、本人に言ってたの?」
声がひっくり返った。
最近ちょっと好きです、と言った。広告だけ見て勝手にイメージを作っていた、とも言った。かわいいのもロックなのもちゃんと本人たちのもの、と得意げに語った。その相手が、元ボーカルだった。しかも、メンバーが変わっても、その時いる人たちで、その時やりたい音をやればいい、と、ほぼ本人に向かって。
「うわああ……!」
思わず上げた声が、思った以上に店内へ通った。隣のテーブルの二人連れがこちらを見て、愛音は反射的に両手で口を押さえ、それからスマートフォンを胸に抱え込むようにして頭を下げた。
「す、すみません、なんでもないです、すみません」
隣席の視線が、ゆっくり元の方向へ戻っていく。愛音は椅子の上で小さくなりながら、顔の熱が引くのを待った。穴があったら入りたい、という慣用句を、これほど実感として理解したのは初めてかもしれない。穴は店内に見当たらないので、代わりにグラスの底を見つめた。
ただ、羞恥の中に混ざって、もうひとつ別の感触があった。あの人は、愛音が何を言っているのか分かったうえで、黙って聞いていたことになる。変わったことを悪く言わなかったことも、メンバーが変わる話を仮定の形でしか聞かなかったことも、全部、そういう意味だったのかもしれない。それを確かめる方法はなく、確かめるつもりもなかったが、さっきの沈黙が、少し違う重さで愛音の中に戻ってきた。
だからといって、自分の言葉を取り消したいとは、不思議と思わなかった。事情を知らずに言ったことは確かでも、言ったこと自体は、嘘ではなかったからだ。
愛音は検索画面を閉じ、カードを手に取って、もう一度ライブの日付を見た。その指先で、通知のバナーが上から落ちてきた。
『行く』
楽奈だった。
グループチャットの、パフェの写真の下に、短い二文字がぽつんと並んでいる。送信時刻は、数十分前になっていた。
「……え」
愛音は固まった。数十分前。つまり、桃香と話していたあいだのどこかで、楽奈はこれを見て、返事をしている。そして「行く」と言った以上、楽奈はもう、こちらへ向かっている。
「いや、遅いよ、気づくのが!」
誰に突っ込んでいるのか分からないまま、愛音は店の入口へ目をやった。扉が開いたのは、ちょうどその瞬間だった。
入ってきたのは、見知らぬ二人連れだった。愛音は肩から力が抜けるのと、拍子抜けするのを同時に味わって、スマートフォンを持ったまま背もたれに沈んだ。
「……まだぁ?」
楽奈が「行く」を送ったのは数十分前で、それが今こちらへ向かっていることの証拠になるかというと、実はならない。楽奈の「行く」は、今から行くという意味かもしれないし、いつか行くという意味かもしれないし、行くつもりになった時点で満足してしまった、という意味かもしれなかった。楽奈の言葉は、辞書の側がときどき楽奈に合わせて意味を変えてくるので、愛音にはもう、確定した解釈を持つことをあきらめている部分がある。
とりあえず、返信しておくことにした。
『いまどこ?』
送って、既読がつかないのを確認してから、画面を伏せる。待っているあいだに、店員が空いたグラスを下げにきた。ほぼ空になったパフェのグラスが、トレイの上で小さく鳴って、テーブルの上にはカードと水のグラスだけが残る。向かいの椅子は空いたままだった。入口で待っている人たちの視線が、一席だけ空いたその椅子に、ちらちらと注がれているのが分かる。一人用ではないテーブルに一人でいる状況は、思っていたより居心地が悪い。会計を済ませて出るほうが、礼儀としては正しいのかもしれなかった。
席を立つ準備を始めようとしたところで、扉の鈴が鳴った。
今度の足音は、なんとなく、違った。
愛音が顔を上げるより先に、店員の「いらっしゃいませ」が、一拍遅れて聞こえた。迎える声が遅れたのは、入ってきた人間が、迎える側の予測より静かだったからだろう。灰白色の短い髪が、入口の光の中で揺れて、左右で色の違う瞳が、店内を一度ぐるりと見渡した。
「楽奈ちゃん」
声をかけると、楽奈は迷いなくこちらへ歩いてきた。待っている客の列も、店員の案内を待つ作法も、彼女の進路には存在しないかのようだったが、実際には、入口の店員が愛音のほうを見て、「お連れ様でしょうか」と小さく確認した。愛音が頷くと、店員はそれ以上何も言わず、楽奈を通した。待機客を追い越して新しいテーブルを占めるのではなく、すでにいる客の連れとして、空いていた向かいの席に収まる形だった。ほんの少しだけ、愛音は安堵した。
「来たんだ」
「抹茶」
「うん、そうだと思った」
楽奈は椅子に腰を下ろすと、テーブルの上を見回した。パフェのグラスはもうなく、水のグラスと、愛音のスマートフォンと、一枚のカードがあるだけだった。それを確認してから、楽奈は、愛音のほうを見て言った。
「食べた?」
「食べたよ。もう食べ終わっちゃった」
「ずるい」
「いや、連絡したじゃん。『これ食べたい』って」
「見たの、さっき」
「それはそうなんだろうけど」
反論のしようがなかった。見るのが遅かったのは楽奈の事情であって、愛音が食べ終わったのは愛音の事情で、その二つのあいだに、論理的な接続は存在しない。接続がないまま「ずるい」が成立しているのが、楽奈という人間の不思議なところだった。
店員が水を運んできたタイミングで、楽奈はメニューを開かないまま、愛音が食べたものと同じ名前を口にした。注文は一言で終わった。
「同じの」
「かしこまりました。期間限定の濃厚抹茶パフェですね」
店員が去ってから、愛音は少しだけ身を乗り出した。
「売り切れてなくてよかったね」
「数量限定じゃないって書いてあった」
「ちゃんと見てるじゃん」
「抹茶のところだけ」
それなら納得できた。楽奈の「見ている」は、興味のある部分に限って異様な精度を発揮して、それ以外は視界を素通りさせる。愛音は笑って、自分の水を一口飲んだ。落ち着いてみると、パフェを食べ終えたあとのテーブルに楽奈が座っている、という構図は、少しおかしかった。食べた人間が先に座っていて、食べに来た人間があとから来る。さっきまで桃香が座っていた椅子に、今は楽奈がいる。その事実が、なんとなく、愛音の中で居心地の悪さと、懐かしさの中間くらいの手触りをしていた。
楽奈の視線が、テーブルの端に動いた。カードの上で止まる。
「それ」
「あ、これ? さっき、ここに座ってた人にもらって」
愛音が手に取って見せるより早く、楽奈が指を伸ばした。カードを持ち上げて、表の黒地のデザインを見て、ほんの数秒、目が動かなくなる。
「トゲナシトゲアリ」
「え、知ってるの?」
「うん」
愛音の声は、自分で思ったより大きく出た。楽奈はカードから目を離さないまま、淡々と続けた。
「前に見た」
「見たって、どこで」
「ライブハウス」
「いつ?」
「覚えてない。たまたま」
たまたま。それが、楽奈の「たまたま」であることは、愛音にも分かる。RiNGに限らず、楽奈はいつの間にかどこかのライブハウスにいて、いつの間にか別の音を聴いている。偶然というより、そういう場所に引き寄せられる性質なのだろう。愛音は、その性質に何度も振り回されてきたので、驚きより先に納得が来た。
ただ、納得したあとで、別の疑問が浮かんだ。
「それで、どうだったの?」
楽奈はカードの文字を指でなぞった。紙の表面を撫でるような動きで、桃香の名前のあたりで、わずかに止まる。
「おもしれーバンド」
「おもしれー、バンド」
「ギターの人も」
「ギターの人って、河原木桃香さん?」
愛音がカードに印字された名前を読み上げると、楽奈は一度頷いてから、少しだけ首を傾げた。
「おもしれー女」
「それ、本人に言ったら怒られそうだけどね」
愛音は笑ってから、自分のその言葉に、ほんの少し引っかかった。怒られそう、と言ったが、あの人は怒らないような気もした。パフェを五枚撮っても、突っ込みはしても怒りはしなかった。呆れて、笑って、それでも練習に遅れそうになりながら、カードを渡してきた。
「……私、このライブ、行ってみようかな」
言葉にしてから、それがもう半分決まっていたことに気づいた。暇だったら来て、と言われた。今の私らも見てみれば、と言われた。誘いとしては曖昧で、断る口実はいくらでもあったのに、愛音の中では、いつの間にか、行く側の選択肢のほうが重くなっている。
楽奈がカードから目を上げた。
「行くなら行く」
「え、一緒に来てくれるの?」
「抹茶あるなら」
「ライブハウスに抹茶は多分ないよ」
「じゃあ、考える」
「考えるんだ」
会話がそこまで進んだところで、パフェが運ばれてきた。透明なグラスの中の深い緑が、さっき愛音が見たものと寸分違わない形でテーブルに置かれる。楽奈は黙って、スプーンを手に取った。カードはテーブルの端に戻され、愛音の手元へ、そっと押し返される。
楽奈の食べ方は、いつも通り迷いがなかった。クリームから攻めるでも、アイスから崩すでもなく、層を縦に切るようにスプーンを入れて、全部を一口に収める。口に入れた瞬間、目がわずかに見開かれて、それから細くなった。何も言わなかったが、味は気に入ったらしい。愛音はその様子を見ながら、自分の抹茶パフェを思い出して、少しだけ誇らしい気持ちになった。写真を見て行こうと決めた自分の判断は、間違っていなかった。
楽奈は黙々と食べ続け、数分後にはグラスの底が見えていた。最後の一口を飲み込んで、スプーンを置く。
「ごちそうさま」
「早っ。おいしかった?」
「うん」
それで十分だった。愛音が会計をしようと、テーブルの端に置かれた伝票を取り上げたところで、手が止まった。
「……あれ」
「何」
「パフェ、二つ一緒になってるんだけど」
伝票には、抹茶パフェの文字が二行並んでいて、合計欄は一人分ではない金額になっていた。桃香は自分のコーヒー代だけを払って出ていったので、残っているのは愛音の席の伝票だけだ。つまり、楽奈のぶんの追加注文は、そのまま愛音のテーブルに紐づけられている。
「うん」
楽奈は平然としている。
「うん、じゃなくて」
「ごちそうさま」
「いや、お礼言われても。最初から奢ってもらうつもりだったの!?」
楽奈は答えず、水を一口飲んだ。その目は、さっきパフェを食べているときよりも穏やかで、愛音の抗議が自分に向いているという事実を、完全に把握していないように見えた。把握したうえで流しているのかもしれなかった。どちらなのかは、愛音にも判断がつかない。
「……もう、いいけど」
愛音は伝票を握ったまま、小さく息を吐いた。パフェ一つ分の出費は、財布にそれなりに響く。ただ、ここで怒っても、楽奈の「うん」が返ってくるだけだと、経験が教えていた。それに、一人で来たはずの店で、結局二人分の会計をしている自分が、なんだかおかしくもあった。
スマートフォンが、短く震えた。
画面に目を落とすと、グループチャットではなく、個別のメッセージだった。差出人は、そよ。
『パフェ、どうだった?』
愛音は、伝票から手を離した。
続けて、もう一件。
『楽奈ちゃん、行ったんだね』
さらに、三件目が来る。
『今日は無理だったけど、別の日なら行けるから』
三つの吹き出しが縦に並んで、画面の中でじっとしていた。グループではなく、愛音個人に宛てて送られている。冒頭のやり取りでは、そよは「今日は無理」としか書かなかった。別の日なら、という言葉は、そこにはなかった。
「……そよりん」
愛音はその名前を口に出して、画面から目を離した。向かいで、楽奈が水のグラスを両手で持ったまま、こちらを見ている。
「そよ?」
「うん。ちょっとね」
「ふうん」
楽奈はそれ以上聞かなかった。愛音は返信の画面を開きかけて、指を止める。何を返せばいいのかは、すぐには思いつかなかった。「おいしかったよ」と書くのは簡単だが、それだけでは足りない気がする。「楽奈ちゃん、急に来たんだよ」と書けば説明にはなるが、説明を求められているわけではない。三つ目の一文は、返事を求める文面ではなかった。ただ、そこにそよの気持ちの何かが置かれていて、愛音はそれを受け取ったまま、どう扱えばいいのかを決めかねていた。
あとでフォローしとかなきゃ、と、愛音は思った。
画面を閉じて、財布を出す。レジへ向かう途中、カードをもう一度ポケットに入れて、その薄い厚みを指先で確かめた。
*
川沿いの道を、桃香は少し早足で歩いていた。ギターケースを背負った肩に、ストラップが食い込む。時計を見るのはやめた。見たところで、数分の遅れが縮まるわけではない。
信号を渡り、スタジオのある建物へ近づくにつれ、歩調が自然と整ってきた。足の運びに合わせて、頭の中で何かが小さく鳴っている。ノートに書きかけて、まだ形にならなかった節だった。さっきまで、あれほど決まらなかったのに、今は妙に、次の音が分かる。
階段を下りて、重い防音扉の前に立つ。取っ手に手をかけ開いたところで、早速中から、聞き慣れた声がした。
「桃香さん、遅いです!」
扉を開けると、仁菜が腕を組んで立っていた。眉は吊り上がっているが、本気で怒っているというより、待たされた時間を、きちんと数えていた人の顔だった。その後ろで、すばるがドラムの椅子に座ったまま手を振り、智はキーボードの前から視線だけを寄越している。ルパは壁にもたれて、肩をすくめた。
「悪い。ちょっと、コーヒーが」
「コーヒーで遅刻したんですか?」
「飲んでたら、話し込んだんだよ」
「誰とですか」
「通りすがりの」
「通りすがりと、そんなに話し込みます?」
桃香はケースを床に下ろして、答えを濁した。仁菜はさらに何か言いかけたが、そこで、ふと眉を寄せた。
「あれ。桃香さん、さっき、鼻歌歌ってましたよね?」
「歌ってない」
「いや、入って来る時聞こえました。なんか、新しいやつっぽい」
「気のせいだろ」
「絶対歌ってましたって」
「歌ってない」
即答だった。仁菜は納得いかない顔で口を尖らせたが、それ以上は追及せず、アンプの前へ戻っていく。桃香は、ケースの留め具を外した。蓋を開け、中のギターを取り出し、ストラップを肩にかける。その手つきに、迷いはなかった。
アンプへ向かう足取りが、ここへ来たときより、ほんの少しだけ軽い気がした。
『その時いる人たちで、その時やりたい音やればいいんじゃないですか?』
さっき聞いた言葉が、今さらになって頭の中へ戻ってくる。
事情も知らないくせに、ずいぶん簡単に言ってくれたものだと思う。もっとも、何も話さなかったのはこちらなのだから、知らないのは当然だった。あの頃のことも、抜けた理由も、そのあと何があったのかも、あの子は何ひとつ知らない。
それでも、だからこそ言えたのかもしれない。
ダイヤモンドダストを抜けたことを後悔している――そんなふうに言えば、それは違う。ただ、何も残っていないわけでもなかった。あいつらと鳴らしたかった音は確かにあったし、あの頃にしか鳴らせなかった音だって、きっとあった。なくなったことにしてしまう必要もないし、今さら取り戻す必要もない。
今は、ここにいる。
桃香は自分の定位置まで歩いて、ギターを構えた。これから先のことなんて分からない。現実が甘くないことなら、もう嫌というほど知っている。音楽を続けていれば全部うまくいくなんて思っていないし、一度選び直したくらいで何もかも綺麗になるほど都合のいい世界でもない。
それでも顔を上げると、仁菜たちの視線がこちらへ集まっていた。準備はできている、とでも言いたげに。
ピックを持つ指へ、自然と力が入る。
昔と同じじゃない。
いる人間も、鳴らす音も、立っている場所も。
だから何だ。
「やるぞ」
桃香はギターを鳴らすために、腕を上げた。
──同じじゃなくても、やり直せる。