古代?中世?残念。近代です!神魔と綴る近代史 作:暇つぶし放浪記
悪魔には決して真名を名乗ってはならない。
でなければ、魂を囚われ、支配されてしまうから。
「私は貴方の本当の名前を知っています。」
そんな古臭い迷信もアルスにはどうにも遅すぎたものだったらしい。
深い霧の中で三寸先の悪魔が笑う。
「誰にも打ち明けられず、自分でもどうすることも出来ないぐらい固く鍵をかけてしまった、それを。貴方がこの国の唯一の後継である、その証明を。」
──取り戻したくは有りませんか?
抱きつくような距離でひっそりと囁く。
しなだれかかる肢体は柔らかい。
甘い香水の香りが鼻腔を擽る。
蠱惑的な誘惑に誘われるように肩から力が抜け、だらりと下げた手が腰の刀に触れる。
その刹那、腰の刀が閃き、銀色の光が夜霧を切り裂いた。
「ふふふ、つれない方ですね。」
だが、手応えはない。
空へと逃れた少女は軽やかに一回転し、音もなく着地する。
すかさず追撃を試みたが、
「オイタは駄目です。」
彼女の手がそれを阻んだ。
差し向けられた掌から迸る金色の雷光。
眩しさに思わず目を細めた、その刹那。
激しい衝撃が全身を貫いた。
「かはっ!?」
思わず止まる呼吸。
手足が痺れ、膝から崩れ落ちるように前方へと体が投げ出される。
何とか手をついたが、酷い有様だった。
「・・・・・ただの魔術じゃないな、これは。」
予備動作も詠唱も一切ない。
発動も恐ろしいほど早い。
幾度となく魔術師と戦ってきたが、こんな魔法は初めてだった。
「えぇ、私の権能です。こちらの方が手加減しやすいので。」
彼女はこちらへと悠然と歩を進め、目の前にやってくると、深く被っていたローブを脱ぐ。
露わになったのは天使のような微笑みを湛えた可憐な美貌。
見下ろす紫紺の瞳は彼女がしゃがんだ事でぐっと近くなり、奥に映る無様な我が身が見て取れた。
「私の名前はバアラト。貴方達の間では別の名前の方がよく知られていると思いますが、その名は好きでは無いので、バアラトと呼んでください。」
「・・・・・なんの話だ?」
「自己紹介ですよ。貴方と契約を結ぶ前に軽い挨拶をしようと思って来たんです。」
挨拶?
人をこんな風にしておいてか?
怒りを通り越していっそ呆れてしまった。
「さて、お仕事の邪魔をするつもりはありませんので、そろそろ私は行きます。パトロール頑張ってください。」
それだけ言うと彼女は立ち上がり、霧の中へと消えて行った。
「お、おい!ちょっと待て!」
アルスが必死に呼び止めたが、返ってくる言葉は無い。
まだ痺れの残る身体に鞭を打ち、何度かの試行の末に起き上がり、彼女の後を追う。
だが、深い夜と霧に包まれた街を探せども、見つかるのは沈黙と孤独のみ。
結局、この日、彼女を見つけることは出来なかった。
◇
アルス・ウェルズ。
十八歳。
生まれ育った首都近郊で、義母と二人で暮らし、街の治安を守る警邏隊に所属している。
歳の割に階級は高いが、それ以外に特筆すべきことの無い男だ。
少なくとも、アルスはそう思っている。
ただ一つ、その名にまつわることを除いては。
(なんだったんだ、あの女は。)
夜勤を終えての帰り道、バアラトと出会った路地裏を通り過ぎる。
差し込む朝日に照らされた通りは数時間前に見た景色とはまるで別物で、昨夜の出来事は全て夢で、本当は何も起こっていなかったかのよう。
(夢・・・・・なわけないよな。)
転んだ時の擦傷。
皮膚の表面に残る微かな焦げ。
着替えた時に見たそれらが彼女がいた事を確かに物語っていた。
(だとしたら、どうやって俺の名前を?)
答えのない疑問が頭の中を巡回する。
上の空のまま煉瓦造りの軒並みを進む。
「おい、どうした?そんなにぼーっとして。」
不意に声を掛けられる。
見れば、サイズの合ってない衣服を着た小太りの男が「よっ」と軽く手を挙げて挨拶してきた。
その拍子に、はち切れんばかりにウエストを締め付けていたジャケットのボタンが勢い良く弾け飛ぶ。
アルスはそれを慣れた手つきでパシッと受け止めた。
「むっ、流石の反射神経だな。ぼんやりしてるようで抜け目がない。軍人なんか辞めてボクサーになった方がいいんじゃないか?」
「冗談はその格好だけにしてくれ、エドさん。」
小太りの男、エドワード・メイソンの軽口にボタンと皮肉を投げ返す。
彼の服装は生地や作りはしっかりしたものだが、いずれもサイズがバラバラで、コートは適正サイズより一つ大きく、ジャケットは三つは小さい。
節約するために古着を買うこと自体を悪く言うつもりは無いが、もう少し体裁は整えるべきだろう。
「はっはっはっ、そういうお前だってトンチキな格好じゃないか。」
もっとも、そう返されると弱かった。
アルスの服はどれも穴や継ぎ当てが無く、きっちりとアイロンや糊付けがされていて、まるで新品のよう。
しかし、シャツの上から東洋の羽織に袖を通し、腰には異国の彎刀を帯びている。
奇抜さでいえば、アルスの方が上である。
何か反論してやりたかったが、ここは大人しく戦略的撤退を選ぶ。
「それでどうしてあんなにぼーっとしてたんだ?」
自らの勝利を悟ったのか、したり顔で聞いてくる。
豊かに茂る顎髭を人差し指と親指で引き寄せるように挟み、片眉を持ち上げてじろじろと観察してくる。
そして、パッと顔を明るくしたかと思うと、勢いよく指を鳴らした。
「そうか!分かった!女だ!」
何故、分かった!?
思わず息が止まる。
「何処ぞの娘と痺れるような恋をして、熱い一夜を迎えた後だったんだな!」
だが、それが勘違いに過ぎないとすぐに分かる。
確かに痺れるような思いはしたが、あれを恋というには余りにも刺激的過ぎる。
下手したら死んでる。
「じゃなきゃ、あんな顔は出来ん。お前も遂に女を知ったんだな。」
「はぁ。」
がしりと肩を掴み、一人前の男を見るような目をしてくるエドワードに思わず溜息が溢れる。
「な、訳ないでしょ。」
良いから肩、離せよ。
露骨な塩対応で両腕を払い除ける。
「単に仕事でちょっと疲れてただけですよ。昨夜は霧も濃かったですし。」
「疲れた?体力バカのお前が?」
まるで偽物でも見るような目をする。
しかし、すぐに前のめりだった体を引いた。
「いや、お前がそういう誤魔化し方をするってことはあんまり詮索しない方が良いんだろう。」
「それを言わなきゃ完璧なんですけどね。」
「許せ。性分だ。」
潔過ぎる発言にやれやれと横髪を掻く。
ずけずけとした態度や物言いの割に頭のキレは悪くないから、踏み込んで欲しくない部分に容易に踏み込んでしまう。
店の事は兎も角としても、やはりトラブルメーカーとしての気質がエドワードには見られた。
「ただ、本当に困った時は言えよ?お前には店の事で色々世話になったから、出来る限りのことはしてやる。」
それでも見捨てられないのは彼の不思議な人徳によるものだろう。
「期待しないでおきますよ。」
「はっはっはっ、素直じゃないな。」
賑やかな笑声を背にその場を後にする。
暫く歩いて、見晴らしの良い住宅街に辿り着く。
ここにアルスの家があった。
「ただいま。」
住宅街の中でも一際、大きな庭を持つ赤煉瓦の一軒家に入る。
だが、返事はない。
代わりに居間の方から姦しい話し声が聞こえてきた。
「やっと帰ってきた。ごめんね、こんなに待たせちゃって。」
「いえ、急に押しかけたのは私の方ですから。それに彼について色々知れて楽しかったです。」
「そう?それなら何時でもここにおいでよ。私の知ってることなら幾らでも教えてあげるからさ。」
誰か客人でも来ているのだろうか?
こんな朝早くに。
珍しいことでもあるものだなと訝しみながら、声の方へと足を進める。
そして、信じられない光景を目の当たりにした。
「おかえりなさい。お仕事、お疲れ様でした。」
見覚えのある天使のような微笑みと蠱惑的な声。
ソファーに腰掛け、優雅に寛ぐ彼女は見間違えるはずもない、昨夜、出会ったバアラトであった。
「ふふっ、驚いた?」
そのすぐ傍にはアルスの義母、エリザベス・ウェルズの姿もあった。
「昨日の夕方、君に会いたいって私の店に来たんだよ。」
彼女はスっと立ち上がり、呆然とするアルスの元へ移動すると、その脇腹を軽く肘で小突いた。
「まったく隅に置けないな。こんなに可愛い彼女がいるなら紹介してくれればよかったのに。」
「かっ、かのじょ!?」
到底、自分とは思えない上ずった声が出た。
どんな説明してんだ!?こいつは!?
信じられないものを見るような目でバアラトを見下ろす。
「もう。そんなに見つめられたら照れます。」
朱色に染まった頬を隠すように白い手で覆い、すっと目を伏せる。
そのいじらしい姿にアルスは電流でも浴びたような衝撃を受けた。
(こ、これが恋・・・・・!?)
んな訳あるか!?
さっき別れたばかりの小太りな男が頭の中で勝手な科白を付け加えたが、ありったけのNOを突き付ける。
高鳴る鼓動も明らかにストレス性の動悸でしかない。
だが、そんな想いをぶちまける訳にはいかなかった。
(エリザがここにいる以上、下手に逆らえない。ここは合わせるしかないか。)
この距離であっても一撃で仕留めきれないのは昨夜の通り。
対して、向こうは掌一つでこちらを制圧できる。
気は進まないが、恋人のフリをする事に決める。
と言っても恋人など出来た試しはないので、雰囲気だけだが。
小さく息を吐き、身体の緊張を解す。
そして、強ばっていた表情を意図的に柔らかくし、彼女の隣に腰かける。
視線は彼女に釘付けなまま、親しげに話しかける。
「来るなら来るって言ってくれれば良かったのに。そうしたらもっと早く帰ってきたのに。」
「貴方を驚かせたかったんです。驚いてくれましたか?」
「それはもう。心臓が止まるかと思ったよ。」
電撃と恐怖でな。
心の中で吐き捨てる。
そんな内心もきっと見透かしているのだろう、彼女は楽しげに目を細め、クスリと喉を鳴らす。
「もし、そうなったら私が治してあげますね。こうやって。」
伸ばされた彼女の手が胸に触れる。
心音を確かめるように。
まるで死神に触れられているような気分だ。
だが、恐怖などおくびにも出さず、さも愛おしげにバアエルを見つめた。
沈黙が絡み合う視線の間を漂う。
「ふふっ、朝っぱらから見せつけてくれるね。」
静寂を破ったのはエリザベス。
胸の前で腕を組み、しょうがない子供を見るような目をしている。
「それなら私はもうお店の方に行こうかな。あんまり長居するとお邪魔みたいだし。」
「・・・・・そういう訳じゃないぞ?」
「なら、どうして言い淀むのかな?」
片眉を持ち上げ、上から見下ろすように尋ねる。
反応に窮したアルスは思わず苦笑いした。
義母との団欒は何よりの癒しであるが、どこかへ行って欲しいと切に願っていたのは事実だからだ。
「何でなんですか?言ってください。」
余計な茶々を入れながら肩を揺さぶってくるバアラトにイラッとし、金色の前髪で隠れたおでこにデコピンをお見舞いする。
すると、彼女は一瞬、何をされたのか分からない顔をした後、おでこを軽く撫で、「ふふふ」とよりご機嫌に笑った。
なんだ、変態か?
「やっぱり仲が良い。相性が良いのかな?」
どうしてそうなる?
アルスは辟易したが、そんな心の声は届かなかったようだ。
何やら妙な確信を抱いたようで、エリザベスはうんうんと何度か頷きを繰り返している。
「それとさっきのは冗談だから。今日は週末でお客さんも沢山来るし、常連さんの予約も入ってるから早めに準備しておきたいだけ。」
「でも、朝食はまだなんだろ?」
「それなら行きがけにパイでも買っていくさ。」
その返答にアルスはまたもや罪悪感を抱いた。
パイは確かに朝早くから売ってるし、定番のメニューではある。
だが、それは工場勤務などの労働者階級の話であって、下層とはいえ、自分の店を構え、確かな人脈を持つ中流階級のやる事ではない。
それを強いたのは恐らく、自分なのだ。
職業差別の意図なく、悪いと感じるのは人間の性だろう。
だが、そのことを謝ることは彼女の厚意を無下にすることでもあり、結果的に押し黙るほか無かった。
「それじゃあ、行ってくるね。」
その後悔を抱えたまま、彼女の出発を見送った。
一人分、静かになった家はまるで伽藍堂のようで、少し寂しく感じる。
「漸く二人きりになれましたね。」
だが、そんな空白の余韻もすぐに悪魔の声に塗り潰される。
そう、本題はここからなのだ。
気を引き締め、彼女の方を向き直る。
「でも、その前に紅茶をもう一杯いただけますか?話し込んでたら喉が乾いちゃって。」
覚悟を嘲笑うような余裕の笑みとスっと前に出されるティーカップ。
そろそろ一発殴っても許されると思うんだが。