古代?中世?残念。近代です!神魔と綴る近代史 作:暇つぶし放浪記
もし、この世が決して明けない闇に包まれているのなら、それは目を閉ざしているのと何ら変わりがないのではないか?
そう思ったから、目を閉じていた。
窓の外からざぁざぁと絶え間のない雨音が聞こえてくる。
耳を塞ぐのは億劫だった。
何もしたくなかった。
だから、ガチャリと扉が開いた音も聞かなかったことにした。
ふと明かりが点く。
さっと駆け抜けた光が開き切った瞳孔を刺激し、目が痛い。
堪らず瞬きを一回。
すると、曖昧模糊としていた世界は輪郭を帯び、形を取り戻す。
見慣れたリビングに、いつも座っていたソファー。
だが、大切なものを欠いていて意味ない伽藍洞の空間だ。
「……起きていたんですね。」
部屋に入ってきたのは予想通りの人物だった。
彼女の髪と衣服は濡れていた。
どうやら雨に打たれて帰ってきたらしい。
だからなのか、宝石のような紫紺の瞳も雨粒を浮かべていた。
「眠ると夢を見るからな。そんなの起きているのと変わらないだろ。」
アルスは頑として何もしたくなかった。
「エリザさんのこと聞きました。」
「だろうな。」
でなければ、そんな憐れみの目を向けてはこない。
誰から聞いたかは知らないものの、大体予想もつく。
お節介な知り合いの顔が数人ほど、頭に浮かぶ。
「犯人は?」
「逮捕されたらしい。もっとも、すぐに釈放されるだろうがな。」
絶対に刑務所にぶち込むとロバートは息巻いていたが、それは警邏隊の管轄ではない。
警邏隊の役割は捕まえた犯人を検察機関に送り届けることであり、犯人を起訴するかどうかは検察官が決める。
そして、起訴された内容が有罪かどうかは裁判官が決める。
それもダナンにはアルマダ人に対する領事裁判権がないので、アルマダ人によるアルマダ人の法の裁判で。
一役人の独断にしても、些か領分を超え過ぎている。
もっとも、彼らの言動を振り返れば、そこに辿り着く前に何らかの裏取引が成立するだろうが。
「……それを許すつもりなのですか?」
信じられないものを見たような眼をした後、彼女は眦を釣り上げる。
瞳には瞋恚の炎が揺れていて、握られた拳がそれに呼応して震えている。
必然、声音は咎めるような響きを帯びていた。
「ふははははは!」
その押しつけがましさをアルスは腹の底から嘲笑った。
耳朶を打つ笑声を掻き消すように雨音が強くなっていく。
遠くで雷鳴が轟く音さえした。
「――命が平等だとでも思っているのか?」
一頻り笑った後、背をソファーに預け、顎を持ち上げる。
全能感に溺れる気宇は今や神さえも見下していた。
「あのような小人の命がエリザの命に値するとでも?」
数億あっても物足りない。
冷笑し、言葉を吐き捨てる。
行動するということはそこに意味を見出すということである。
復讐ならば、復讐心と怒りを晴らす事込みで、相手に報復することでやられたことに対して釣り合いが取れると思っているから、復讐するのだ。
だが、彼女に釣り合うものなどこの世のどこにもありはしない。
降りしきる雨の音が静寂に反響する。
桜色の唇を嚙み、バアラトは押し黙っていた。
宿った炎も幾分か和らいでいる。
代わりに憐憫の光が揺蕩っていたが。
「……これからどうするつもりなんですか?」
「何も。」
無気力な一言が湿った空気に溶ける。
それこそアルスの望む顛末であった。
言うことは言ったと目を伏せる。
最後に目にしたのは華奢な肩を丸め、逡巡に揺れる彼女の姿だった。
無機質であった心が波立つ。
だが、目を閉じれば、それも見ずにいられた。
「――何もしないことは彼女が大切であったことの証明にはなりませんよ。」
頭の天辺から足元にまで駆け抜けた激情にかっと目を見開く。
まるで稲妻が走ったようだった。
「お前に何が分かる!!」
立ち上がり、怒りのままに吠え立てる。
窓の外から青白い光がパッと入ってきて、遅れて何もかもが壊れてしまいそうな轟音が耳を聾する。
だが、バアラトは揺るがない。
両足で立ち、まっすぐに怒りを受け止める。
その正しすぎる姿が尚の事、アルスを駆り立てた。
「あいつだけだったんだ!俺のことを認めてくれたのは!俺がここにいるって分かってくれたのは!!」
心臓を掴もうと胸倉に手をやる。
「だから、生きている実感があった!!アルスなんていう名前で生きていくことも許容できた!!」
だが、触れることは叶わず、荒々しく腕を薙ぎ払う。
この心は一人では満たせない。
「あいつがいたから俺は……」
言葉にすることが出来なかった。
目頭が熱くなり、感情の奔流が涙となって溢れ出る。
「くっ」と唸り、シャツの袖で拭う。
泣くこともまた許されていなかった。
それは彼女の死を受容することを意味するのだから。
どうしようもない感情を持て余しながら、それをやるせなくて、またソファーに座り直す。
バアラトは依然として変わらない。
前を向き、決して目を逸らさない。
「だから、この世界にはもう意味がないんですか?貴方の知り合いや友達も全部、無意味なんですか?」
「俺のではない。アルスのだ。」
「アルスも貴方の一部でしょう。」
「そうとも。断じて全部ではない。」
決然とした非難に自嘲的な笑みを浮かべる。
アルスとは影だ。
必要に応じて、使い分けられる存在に過ぎない。
「どうして影が一人で動く?光が消えれば、影もまた暗闇に還る。それが道理だろう。」
この世界を照らしていた太陽は沈んだ。
だから、アルスもまたそれに準ずる。
極めて単純な話だった。
それでもバアラトは負けじと食い下がった。
「エリザさんがそれを望んでいなかったとしてもですか?」
再び、視界に雷光が過ぎる。
二つの視線が交錯し、火花を散らす。
「いい加減、しつこいぞ。」
きつく睨みつけ、低く唸る。
痛い所を突かれたとは思っていない。
「もう放っておいてくれ。それともエリザに頼まれでもしたか?」
「いいえ。」
だろうな。
横に振られた首に得意げに鼻を鳴らす。
彼女が望んだのは己の意志で巣立つことであって、誰かの意思に従うことではない。
もしそうならとっくの昔に口出ししてきてる。
余裕を取り繕いつつ、バアラトの様子を窺う。
彼女は胸に手を当て、一言だけ続けた。
「私が貴方のことを心配なんです。」
ドクンッと心臓が強く跳ねる。
早鐘のように高鳴る鼓動が、心配そうなバアラトの表情に何かを見出そうとしている。
未練がましい。
その想い、断ち切ってやる。
「俺がお前を欺いていたとしてもか?」
空の上から竜の唸り声のような不穏な音が下りてくる。
初めてバアラトの表情が凍った。
徐々に曇り出す美貌を見て、笑みを深める。
白刃を突き立てられたように胸が痛んだが、知らぬふりをした。
「お前が最初に俺を誘ったとき、俺は既に革命の手立てを思いついていた。」
溜め込まれた全てのものを開放するように雷鳴が轟く。
バアラトは雷に打たれたかのように立ち尽くしている。
ずっと前からどうすればいいのかは分かっていた。
そうでなくとも、この一か月の間に思いついてはいただろう。
バアラトがやって来てからの記憶を振り返り、必要な情報を並べていく。
明らかに働き過ぎの少女。
ダナン人を見下すアルマダ人。
公用語化され、新聞に使われるようになったアルマ語。
ダナン語の新聞を読んだロバート。
些事であるかのように奪われたエリザベスの命。
侵攻によって滅んだアルストリア王国。
国民によって定義されるようになった国家。
これらを生み出した理由とこれらが意味することを整理すれば、自ずと答えは見えてくる。
バラバラのピースを組み合わせ、大きな青写真を描く。
やや目が粗い部分があるが、それはやりながらでも修正できる範囲だ。
つまり、ただ革命を起こすだけなら、バアラトの手助けなど必要なかったのだ。
「そして、数日前にお前が家から出た日、俺はもうお前の願いを叶える方法が分かっていた。」
即ち、信仰を取り戻すことをこの科学と国家の時代に整合させる手段を発見していたということだ。
特に前者のプランと組み合わせれば、国家単位で信仰を取り戻すことさえ可能だろう。
「その上でお前には黙っていた。」
これは明確な裏切りである。
そもそも、彼女に無理だからと言って、引き留めたのはアルスだった。
なのに、本当はそれを可能にする術があった。
その事を知っていて、バアラトに伝えなかった。
のうのうと同じ時間を過ごし、挙句、戻った時の約束までしていた。
一体、どの面下げて、胸を高鳴らせているのか。
少しは恥を知るべきだ。
重ねた罪が心臓を重たく押し潰す。
ようやく落ち着きを取り戻した心は既に死に体であった。
それでこそふさわしい。
「もう分っただろ?俺にはお前が構うほどの価値のある人間じゃない。生きている価値すらない人間なんだよ。」
死ぬ理由があるわけじゃない。
死にたいわけじゃない。
生きている価値がなくて、生きていたくない。
――もう何もしたくないんだ。
誰かこの思考と視界を消してくれ。
その想いが届いたのか、ふと明かりが消えた。
これでいい。
世界が闇に満ちれば視界は意味を為さず、何も感じないのなら思考は生まれない。
もう理由を考える必要もない。
いずれ存在ごと観測された世界が消えるだろう。
「――それがどうしたというのですか?」
世界に光が満ちる。
中空を駆ける金色の稲妻が闇を切り裂いていく。
その起点にバアラトがいた。
彼女は溢れんばかりの雷を全身で纏い、眩く輝く髪をさっと靡かせた。
「私の願いを一つだけ。」
矢のような視線が心臓を貫く。
止まりかけた心臓が力強く跳ね、鼓動を取り戻していく。
バアラトは悠然と歩を進め、目の前で立ち止まる。
「私の名前を呼んでください。」
泣き出しそうな笑みだった。
誰かを求めて、彷徨っていたのは彼女も同じだった。
誰もが当たり前に享受する幸福を取り戻したいと願っているのは何も変わらなかった。
だから、一緒にいたかった。
ずっと彼女に本当の名前を呼んで欲しかった。
――バアラト。
気づけば、彼女の名前を呼んでいた。
金色の光が大きくなる。
思わず目を瞑るが、痛みはやってこない。
温かくて、柔らかい。
目を開けると、大きな胸に包み込まれていた。
優しく頭を引き寄せられ、抱擁されている。
甘い香りが鼻腔をくすぐる。
このまま身を委ねられたら。
そう思う何処かで、それを拒む自分がいて、躊躇うように身を固くする。
「ジュリウス・バルカ・アルストリア。」
そっと頭を撫でるような声音に目を見開く。
ただ一人を除いて、誰も知らない本当の名前。
「私は貴方の名を知っています。」
懐かしいセリフだった。
思えば、初めて出会ったときも抱きしめられたんだった。
頑なだった何かが氷解し、全身から力が抜ける。
雨が遠くに聞こえた。
「貴方が私の名前を呼んでくれるのなら、私も貴方の名前を何度だって呼びましょう。生きる意味も、価値も、私が貴方に与えます。」
朗々と紡がれる声音とは裏腹に頭を抱き寄せる力が強くなる。
華奢な体は小刻みに震えていた。
一人で長く雨に打たれ過ぎたのだ。
「だから、ずっと傍にいてください。貴方がいなくなったら、誰が私の名前を呼ぶんですか。」
そうか、こいつも救われていたのか。
あのどこにでもあるような平穏な日々にも意味があったのだ。
胸に突き刺さっていた罪の十字架が取れていく。
(エリザ、すまない。)
あれだけ尽くしてくれたのに、何もかもを捧げてくれたのに、何も返せなかった。
命より大切だったと証明することさえ出来ない。
それどころか、薄情にも別の生きる意味を見つけようとさえしている。
だけど、それでも――
微笑みを湛えた誰かがすっと背中を押してくれた気がした。
躊躇っていた手をバアラトの背に回し、優しく抱きしめる。
僅かな点滅の後に明かりが戻る。
今もまだ雨は上がっていない。
だが、もう心に迷いはなかった。