古代?中世?残念。近代です!神魔と綴る近代史 作:暇つぶし放浪記
バアラトと出会ってから一か月の時が過ぎた。
彼女が家に住むようになったこと以外はこれといって大きな変化は起きていない。
気温も徐々に高まり出し、日差しが心地よい穏やかな日々が続いている。
だが、それは裏返せば、停滞しているということでもある。
バアラトの勧誘活動は全くと言っていい程、進展していない。
駅前を中心に精力的に活動を続けているようだが、どれも上手くいっていないらしい。
「明後日から少しこの街を離れて、活動してみようと思います。」
だからなのか、いつものように帰ってきた彼女に進捗を尋ねると、そんなことを口にし始めた。
ソファーに横になりながら本を読んでいたアルスは驚きの余り、顔の真上で本を落とし、その本を避けようとして今度は床へと落ちていった。
情けない悲鳴が居間に響く。
気恥ずかしさと痛みでこのまま死んでしまいたかったが、そうもいかないので、よろよろと起き上がり、か細い声で尋ねる。
「……また急な話だな。」
「少し前から考えていたことです。この街ではもうめぼしい人には勧誘し切ってしまいましたし、顔も知られて、警戒されている感じもします。一旦、別の街に移ったほうが良い上手くいくんじゃないかなと。」
「そうか。」
アルスは口から衝いて出そうになった言葉をどうにか飲み込んで、相槌を打つ。
(多分、そういう小手先の問題じゃないんだよな。)
代わりに胸の中で否定的な考えが響く。
そもそも彼女の行動には一貫性が足りないのだ。
何を目的として行動し、そこで何を得るのか、そしてそれが次の目的にどう繋がるのか、そういった未来への展望がない。
だから、場当たり的に宗教の教義を説いたり、『契約者』にしようと勧誘したりする。
それでは駄目なのだ。
組織とは目的によって定義された存在なのだから。
宗教団体なら、特定の宗教を信仰する為に作られ、行動する。
革命組織でも同じだ。
その明瞭さに人は期待を抱く。
逆に目的が曖昧だと行動は場当たり的になり、顧客は組織に自分の持つ期待を預けていいか分からなくなる。
カレーを食べたい客が、何を売ってるか分からない定食屋なんかに入らず、カレー専門店に行くように。
だから、先ずは目的をはっきりさせなければならない。
どこから手を付けてもいいし、短期的でも、長期的でも構わないから。
(とはいえ、そういうのは失敗して学んでいくことだって聞くし、それに焦ってる今の状態で言っても逆効果になるだけだろうな。)
下手に口出しせず、見守ることにする。
「少しってどのぐらいだ?」
「二、三日ほどを予定しています。」
そのぐらいなら宿泊費と食費だけじゃなくて、お小遣いも出してやるか。
根を詰め過ぎてるようだし、良い気分転換にもなる。
やれやれ仕方ないなと鼻を鳴らすと、すっと紫紺の瞳が細められる。
「どうして子供のお使いを見るような生温かな目をしているんです?」
凍てつく微笑みを口に張り付け、一際、丁寧な口調で尋ねる。
「気のせいだろ。」
対するアルスの答えは酷く雑なもので、肩を竦めてしらばっくれただけ。
瞬間、波が引くように笑みが消える。
バアラトはゆっくりと優雅に、それでいて信じられないほど早足に歩き、一瞬で距離を詰める。
そして、まだ尻もちついたままのアルスの肩をおみ足で蹴っ飛ばし、背中を踏みつけにした。
「ぐえぇぇぇ!?」
二度、部屋に響き渡る情けない悲鳴。
嗜虐的な声音がそれに続く。
「ふふふ、蛙化しちゃいましたね?王子だけに。」
「上手い事言ってんじゃねぇ!」
誰が逆カエルの王子様だ!?
「と言うか、やめろ!?小刻みに、背中を、揺らすな!あっ、うあっ!」
母指球で背中のツボを押すかのように、繰り返し足を押し付けてくる。
その度に心地の良い電流が背中を這い回り、思わず声が出てしまう。
痛くはないし、気持ちいいのだが、どう考えても絵面がやばい。
もしこんなところを誰かに見られでもしたら。
そう考えた矢先の出来事である。
「ただいま。なんか今日は賑やかだネ……」
間の悪いことにエリザベスが仕事から帰ってきてしまった。
彼女は目の前の光景に動きを止め、言葉を失って棒立ちになる。
手から滑り落ちた紙袋の音が静まり返った部屋に木霊する。
誰もが皆、時を凍てつかせ、動けないでいた。
「お、お邪魔しました!?ご、ごゆっくりどうぞ!」
家主であるにも関わらず、いやに他人行儀に断りを入れ、エリザは部屋を立ち去ろうとする。
「待て待て待て!!」
必死に引き留め、ことの経緯を説明し、何とか誤解を解く。
「なるほど。そういうことだったんだね。」
幸いにもエリザベスは物分かりが良かった。
最初こそ怪訝そうにしていたが、話を聞くうちに「ああ」と理解したような表情をし、最後は腕を組んで頷いてくれた。
その上で彼女は言う。
「でも、人が来るかもしれないところで誤解されるようなことをするのは良くないよね。恋人同士仲が良いのは良いことだけどさ。」
はい、仰る通りです。
アルスはその場に正座して、深く反省する。
反省の余り、師に怒られていた時の姿勢がつい出てしまっていた。
「バアラトちゃんもおふざけとはいえ、簡単に人を蹴ったり、踏んだりしちゃだめだよ。」
「申し訳ありません。」
窘められ、バアラトはしゅんと肩を落として謝罪する。
初めて見る殊勝な姿はともすれば子供のようであり、庇護欲を刺激する。
「こいつは許してやってくれ。恋人になってからの距離を掴みかねてるんだよ。」
前者はまるっきり嘘だが、後者は事実だった。
アルスも、バアラトもお互いに適切な距離感が分からないままでいる。
それぞれ一度は相手に同情し、共感したうえで、別々の道を選び、なのに傍にいる。
その不可解で複雑な状況がどこに線引きをするのかということを難しくしていた。
「君のそういう態度がバアラトちゃんにそういうさせている原因なんだと私は思うけどね。」
うぐっ!?
鋭い指摘に堪らず唸り声をあげる。
返す言葉もなかった。
彼女にその意図はないだろうが、それは全てアルスが彼女を呼び止めたことが原因である。
つまり、アルスのせいだった。
罪悪感の重さに引っ張られるように俯き、目を伏せる。
「でも、君のそういうところが見れるようになって、私は嬉しい。」
空気に溶かすような囁き声。
――えっ!?
勢いよく顔を上げると、光と共にパンっという音が飛び込んでくる。
重く息苦しい空間がすっと軽くなる。
水のようだった空気が元に戻ったようだった。
柏手を一つ打った後、エリザは一転して朗々とした声を響かせる。
「これでこの話はおしまい。明後日の件も了解。それじゃ、帰りにお菓子買ってきたから、皆で食べよう。」
「ほら!立った、立った」とアルスを立たせ、「甘いもの好き?」とバアラトに声をかける。
あまりの変わりようにアルスは目を白黒させて驚いたが、それが彼女なりに気遣いなのだとすぐに理解する。
(やっぱり、エリザには敵わないな。)
そして、義母の偉大さをより一層深く噛み締めるのだった。