上条は気が付いた。いつもの学園都市だった。
夕暮れ時の赤橙色に染まる空の下で舗装された歩道を学生たちが行き交い、遠くからは風力発電プロペラが回る規則的な低音が聞こえてくる。
「…………あれ?」
上条当麻は歩きながらふと立ち止まった。
どうやってここまで歩いてきたのか、その前後の記憶がひどく曖昧だ。まるで長くて深い夢から歩きながら目覚めたような、奇妙な感覚。
それになんだか体がやけに重い。全身の筋肉が軋むような、猛烈な疲労感がある。
それだけではない、右肩から首の付け根にかけてスパッと何か鋭利なもので切断されたような、ぞっとする幻痛までが走っていた。
「どうした寝惚けているのか」
不意に耳元で凛とした声が響いた。 声の主を探して右肩に視線を向けると、そこには上条の『理解者』がちょこんと座っていた。
鍔広い魔女の帽子に右目を覆う眼帯。露出の多い服を纏った、15センチメートルほどの手のひらサイズの少女──『妖精』オティヌスだ。
上条の記憶にある通りの完璧な姿である。
「いやちょっと……何と言うか。さっきまでお前と戦ってたような気がして……」
上条は右手で後頭部をガシガシと掻きながら、自分でも何を言っているのか分からないという顔で口を開いた。
「変な事を言うけど、その時のオティヌスがそんな洗練された体じゃなくてさ。なんつーか、もっとちんちくりんで、ほっぺたがすげぇ『もちもち』した体型になってたような……」
「白昼夢でも見たんじゃないか。……むっ、何をする」
上条は自分の記憶を確かめるように、肩に乗るオティヌスの頬を人差し指でツンツンと突いてみた。
しかし、彼女の頬はいつものスベスベとした肌触りであった。あの記憶にあったような、つきたてのお餅のような弾力(もちもち感)はない。
オティヌスは露骨に顔を嫌そうに歪めて上条の指をペチッと払いのけた。
(やっぱり、ただの夢だったのか……?)
上条は小さく息を吐いた。オティヌスがもちもちとした幼児体型の妖精になっていた記憶が微かにあるが、どう考えても現実離れしている。体を粉砕されたような幻痛も、異世界で自分が大暴れしたような残滓も。
度重なる激闘のストレスが、日常の中でそんな荒唐無稽な夢を見せる後遺症にでもなってしまったのだろうか。
上条は思わず身震いをした。
「うわぁ……俺の脳細胞、大丈夫か……それにしても、ひでぇ夢だった。俺が怪獣映画のモンスターみたいになって見知らぬ街をビームでドカドカ破壊してたような気がするんだよな……。なぁオティヌス、本当になんか知らねぇの?」
「寝惚けた事も休み休み言え。私は知らんよ」
オティヌスは腕を組み、ぷいっとそっぽを向いた。彼女がそう言うならばそうなのだろうと思いたいが、それでもあれは真に迫っていた。夢というには妙なのだ。
「ビルとか容赦なく両断して無残に崩落させてたような気がするんだが……これ、本当に夢か? なんか妙に生々しい……」
「あっ」
その時。オティヌスが、思わずといった様子で小さく声を漏らした。肩の上で彼女はまるで『今更気づいた』というように一つ瞬きをする。
(……しまったな)
オティヌスは内心で舌打ちをした。
あの異世界──エーリアスからこの学園都市へと強引に帰還する直前。世界樹のバックアップの余波を利用すれば、あの生意気なエルフたちが作り上げたモナティアムの街並みを元通りに修復することも可能だったはずだ。
だが上条の生首を回収し、こいつの体の修復と元の世界に帰還するための作業に気を取られていたため、すっかりそのアフターケアを忘れていた。
今頃あのハイテク都市は半壊したまま放置され、市長のエレナが瓦礫の山の上で涙を流しながら絶叫していることだろう。
しかし。「──神は、手厚いフォローはしないものだ。うむうむ」 ものの数秒で、オティヌスは完全に開き直った。
一人で納得したように腕を組むと自分を正当化するようにぼそりと呟く。
上条は何の事かさっぱり分からず、首を傾げた。
「はい?なんだって?」
「何でもない。お前はただ立ったまま居眠りをしていただけだ理解者よ。それよりも早く帰らないと、あの腹ペコ魔道図書館が待っているだろう。遅くなればまた頭を噛まれて怒るぞ」
「うげっ、そうだった!!」
上条は慌てて歩幅を広げて学生寮のある方向へと歩き出した。
「飯かー、どうしよう。冷蔵庫の中に大した余り物もなかったし、手っ取り早くカレーでいいか?スーパーで特売のルーでも買っていくか」
生活感溢れる夕飯の悩みを口にする上条。そこで肩の上のオティヌスが、普段の彼女からはあまり聞かれないようなリクエストを口にした。
「今日は甘い物が良いな」
「……ん?どうしたんだオティヌス。お前、そんなに好き嫌いしてご飯をねだるタイプだったっけ?」
上条は目を丸くしてオティヌスを見た。
基本的にオティヌスは作ったものであれば──彼女のサイズに切り分けてさえやれば、余程に酷い料理じゃなければ文句を言わずに口にする。自分から特定の味覚、それも「甘い物」を要求してくるなど珍しいことだった。
オティヌス自身も自分の内側から湧き上がるその欲求に少しだけ驚いていた。
エーリアスという世界における『妖精』という種族は、本能的にとにかく甘味が大好物である。女王のエルフィン然り、他の妖精たち然り。
どうやら、あの世界で一時的にとはいえ妖精の肉体と属性に引っ張られていた影響が、この元の世界、元の姿に戻ってからも微かな『甘党化の欲求』として残ってしまったらしい。
厄介な副作用を持ち帰ってしまったものだ、とオティヌスは思いつつも。
あの気の抜けた、だがどこか温かかったメルヘンチックな世界の住人たちを思い出すと、彼女は眼帯の奥の瞳を優しく細めた。
「まあ、たまには良いじゃないか」
「お、おう?まぁ、たまにはパンケーキでも焼くか。インデックスも喜ぶだろうし」
「ふふっ、期待しているぞ人間」
夕陽に照らされる学園都市の歩道を、どこにでもいる不幸な少年と、彼を誰よりも理解する魔神が並んで歩いていく。
あの異世界でのドタバタとした大騒動の記憶は、少年の頭の中ではすでに幻のように溶け去っていたが──その日常は確かな絆と共にこれからも続いていくのだった。
まあ、この5分後に学園都市の存亡を揺るがすような事件に遭遇するのも彼等の日常なのだが。
エルフの都市『モナティアム』は無残にも半壊していた。
市長エレナが心血を注ぎ、長大な年月と莫大なコストをかけて築き上げたサイバーな高層ビル群。
その多くが両断されて崩落し、瓦礫の山へと姿を変えている。
至る所で黒煙が上がりネオンの残骸が虚しくスパークや明滅を繰り返していた。
市庁舎の前に広がる広場。その中心に一人佇む教主は、ぼんやりと空を見上げながらほんの数分前までそこにいたはずの『異界の客』たちのことを思い出していた。
無限の空間を一撃で粉砕した妖精と、その一撃を受けて首だけになった少年の事をだ。
時間は少し前へ。
隔離空間が無くなり、オティヌスが上条の生首をキャッチした直後のことである。
オティヌスは安らかな寝顔(?)を浮かべる上条の首を左脇にひょいと抱え直すと、唖然とする教主に向かって、クイッと短い指で手招きをした。
「おい教主。こいつの右手だよ」
「……はい?」
「市庁舎の入り口にある傘立てに置いてきただろう。持ってこい」
「……折り畳み傘じゃないんですから……」
教主は引き攣る顔を押さえながら市庁舎の入り口へと走り、傘立てにポツンと刺さっていた血の気の引いた人間の右腕を急いで持ってきたのだった。
冷たくて重い生々しい人間の腕。本来なら触りたい気持ちなど微塵もない。
「持ってきましたけど……」
右腕を差し出しながら教主は不安に駆られていた。
これから一体どうするというのだろうか。オティヌスの手元には上条の『頭部』。そして教主の手には上条の『右腕』。それ以外の胴体や四肢は、先ほどのグングニルの一撃で完全に消滅してしまっている。
腕と首しかない人間を元に戻せる処置など、教主の知る限りでは存在しない。どんな優れて天才的な医者であったとしても不可能だと断言できる。
だがオティヌスは涼しい顔で右腕を受け取った。
「案ずるな。こいつの胸から下を消し飛ばして殺した時の事だが、私が元通りにしたからな。今回も同じように修復してやるだけのことだ」
「…………」
教主はあんまり聞きたくない、ドン引きするような恐ろしい過去の修復歴をサラリと言い出されて顔面を痙攣させた。
一体、元の世界でこの二人の間にどれだけの血みどろの殺し合いがあったと言うのか。これ以上踏み込むと自分の精神衛生に悪影響を及ぼすと判断し、教主は聞かなかった事にした。
オティヌスは右手の指をスッと伸ばした。
すると、どこからともなく『グングニル』が、彼女の手の中に吸い込まれるように引き戻された。彼女はそれをぐるりと器用に回して切っ先を天へと向ける。
「世界樹というものは、どの神話にも類型は存在する。特に北欧神話におけるユグドラシルとは九つの世界を繋ぐ柱としての役割を持つ存在となっている」
オティヌスは教主に講義でもするかのように、静かに魔術的な解説を呟き始めた。
「このエーリアスという世界を構成する世界樹のバックアップと、元の力を一時的に取り戻した私の力。その二つを繋ぎ合わせれば、境界をこじ開け世界の枠を飛び越えることなど造作もない」
オティヌスは上条の頭部と右腕を見ながらグングニルを片手で器用に回す。
「お前は、こいつの右腕の『幻想殺し』が私の魔術を打ち消すのではないかと危惧しているのだろうが……私が直々に世界を上書きしてやるのだ。幻想殺しの妨害など問題にならんよ。むしろこの右手の基準点に引っ張られるようにして、こいつの肉体その物が在るべき形へと復元されていくだろう」
「はぁ……?なるほど……?」
教主は適当に相槌を打った。
九つの世界だの、境界だの、幻想殺しだの、基準点だの。彼女が何を言っているのか、何がなんやらサッパリ分からなかったからだ。
教主がポカンと口を開けて立っているのを見て、オティヌスはふっと息を吐いた。
「……どうにも張り合いが無いな」
このエーリアスの住人相手に魔術の深淵を語っても仕方がない。理解者である少年は、今は生首となってスヤスヤと眠っている。
オティヌスは諦めたように軽く槍を振った。
「世話になったな。──さらばだ」
その言葉と共に。
バキィッ!という空間がガラスのように割れる音が響き──オティヌスと、上条の首、そして右腕は瞬く間に虚空へと吸い込まれていった。
何の痕跡も残さなかった。まるで元からこの世界に存在していなかったかのような、完璧な消失であった。
──そして現在。
「夢だったのかな……」
教主は、もぬけの殻となった市庁舎前の広場でポツリと独り言をこぼした。
あれほど規格外の力を持った存在が、本当にこんなメルヘン世界にやってきていたのだろうか。
しかし周囲を見渡せば真っ二つに切断された高層ビルや、抉れたアスファルトといった惨状が間違いなく彼らがここに居たことを証明している。
「教主ぅぅぅぅぅぅぅーっ!!」
その時だった、半壊した市庁舎の入り口から、けたたましい声と共に飛び出してきた小さな影があった。エルフィンだ。
彼女は短い手足をバタバタと全力で動かし、猛烈な勢いで教主の胸へとダイブしてきた。
「ぐえっ」 カエルが潰れたような声を出して受け止める教主。
「教主!大丈夫!?あの変なバケモノに食べられなかった!?痛くなかった!?」
エルフィンは教主の法衣をギュッと掴み涙目で下から見上げてくる。自分の命を懸けて前線に行った──オティヌスに連れ出された──教主を、彼女なりに本気で心配していたらしい。
その後ろからは、いつもの完璧な笑顔を浮かべた司祭長のネルがゆっくりと歩いてきた。
「ご無事で何よりです教主様。明日からの執務にも支障はなさそうですね」
ネルの心配のベクトルが若干労働基準法スレスレな気がしたが、教主は「怪我はしてないよ」と安心させるように肩をぐるぐると回してアピールした。
「それにしても騒々しい人達でしたねぇ」
ネルが崩落したモナティアムの街並みをぐるりと見渡しながら、どこか他人事のように言った。
心の底から同感だよ、と教主が深く頷いたその時だった。
「あいつらはどうしたぁぁぁぁぁぁぁーっ!!」
怒り心頭の大声で割って入ってきた者が居た。
市長のエレナである。彼女は顔を真っ赤にして、鬼のような形相で教主たちに詰め寄ってきた。
「おい!あの眼帯の妖精と、あのバケモノ人間はどこに行った!?見ろぉ!私の街が滅茶苦茶じゃないか!お前らの知り合いなんだから、きっちり弁償してもらうからなっ!!」
エレナの口から飛沫が飛ぶほどの怒声。モナティアムの市街地がこれほど広範囲にわたって破壊されたとなれば、その損害額は天文学的な数字になるはずだ。
元の世界に返ったと、教主は頭をかきながら言った。それを聞いたエレナは更に罵声を上げた。
そんなエレナの悲痛な叫びに対して、妖精の女王は鼻をホジホジしながら言い放った。
「えー?また1から作り直せば良いじゃない。エルフなんだから得意でしょ、そういう作業。街が壊れても1日で元に戻してるじゃない」
「何を言ってるんだこのバカ女王はぁぁぁっ!!」
火に油を注ぐエルフィンの言葉にエレナは頭を抱えて地団駄を踏んだ。
「あのなぁ!ここまでインフラを復旧させてビルを再建するのに、どれだけの資材が必要だと思っている!どれ程の莫大なコストがかかるか、お前達に今から1日かけてみっちり講義してや・ろ・う・か!?」
エレナの血涙を流さんばかりの訴え。しかしエルフィンは両耳を塞いだ。あーあー聞こえなーい、とばかりに首を振った。
「えーっ、そんな面倒臭い勉強したくなーい。ほら教主、ネル、もう帰るわよ!お腹空いたし!」
「ま、待て!逃がすか!一歩もここから出さんぞ!」
エレナが教主の腕を掴もうと手を伸ばした、その時。エルフィンが、急にハッとした顔をして、明後日の方向にある巨大な瓦礫の山をビシッと指差した。
「あっ。──あのバケモノ人間が居る」
「──ひぃっ!?」
エレナの動きがビタッと止まった。
顔面から血の気が一瞬で引いたエレナは「ヒュッ」と喉の奥で悲鳴を鳴らすと、そのまま頭を抱えてガタガタと震えながらその場にしゃがみ込んでしまった。
捕虜時代においてエルフ達は人間にトラウマを抱いている。
そしてたった一人で街を破壊し、恐怖の音響兵器や猛毒などを振り撒いた上条の竜。トラウマが穿られエレナの脳髄にフラッシュバックしたのだ。
「あははははっ!ウソよウソ!引っかかった!おもしろーい!」
震えるエレナを指差して、意地悪く大爆笑するエルフィン。
教主はエルフィンの頭をどつきたい衝動に駆られたが、すんでのところで思いとどまった。
ここでエルフィンを説教してグズグズしているとエレナが我に返り、本当に復興責任が世界樹教団に押し付けられかねないからだ。
教主とネルはエルフィンと違って責任感はある。だがそれでもこう思うのだ『誰が何と言おうと私達に責任は無い』
教主は横にいるネルと視線を交わした。 ネルもまた笑顔のまま無言でコクリと頷く。「今が逃げ時ですね」という強烈な意思疎通だった。
「ほら女王様、帰りますよ!パン屋のエシュールが店を閉めちゃいますからね!」
「わっ、ホントだ!急げ急げーっ!」
教主とネルは、エルフィンを促すと、そのまま脱兎のごとくモナティアムのゲートへと向かって全速力で逃走を開始した。
「あ、あっ……!ま、待て!逃げるな卑怯者ぉぉぉっ!!」
彼らの背後から、ようやく嘘だと気づいたエレナの悲痛な叫び声が追ってくる。しかし教主たちは振り返ることなく、エーリアスの森へと姿を消していった。
「くそ……くそぉぉぉぉぉーっ!!!あの人間と妖精は覚えてろよーっ!!この世界から脱出したらお前の星を侵略してやる……これは冗談じゃないんだからなっ」
周囲をきょろきょろ見ながら言うエレナ、声は後半になるにつれて声量は小さくなっていった。
半壊したモナティアムの広場。
そこには責任逃れされた市長エレナの号泣が虚しく響き渡り──その周囲には「市長様。明日からの瓦礫撤去のシフトはどうします?」と疲れた顔で指示を待つエルフ達だけが、ポツンと残されていたのだった。