午前五時五十九分。
市ヶ谷軍学校、女子候補生隊舎。
窓の外には、夜明け前の薄暗い空が広がっていた。
規則正しく並べられた寝台には、昨日入校したばかりの少女たちが眠っている。
第31分隊。
四十名の候補生で編成された、軍学校の教育単位である。
その一角に、五人の少女の寝台があった。
山本陽向。
黒木茉梨。
橘千鶴。
雪代月乃。
そして、雨宮翡翠。
彼女たちにとって、軍学校で迎える初めての朝だった。
午前六時。
パパパパッ――!
起床ラッパが隊舎に鳴り響いた。
「――っ!?」
陽向は勢いよく跳ね起きた。
周囲の寝台でも、候補生たちが一斉に身体を起こす。
「陽向! 早く着替えて!」
隣の寝台から茉梨の声が飛んだ。
「分かってる!」
陽向は慌てて寝間着を脱ぎ、枕元に用意していた戦闘服へ手を伸ばした。
濃淡の異なる青色が細かな模様を描く、海洋迷彩の戦闘服。
海軍で使用される戦闘服であり、軍学校の候補生たちにも同じ形式のものが支給されていた。馴染んでいない。
「うわっ、袖が……!」
陽向の腕が、上着の途中で引っかかった。
「何やってるのよ!」
「引っかかったの!」
「落ち着いて通しなさい!」
「落ち着いてたら時間が!」
「慌ててるから引っかかるんでしょ!」
茉梨も戦闘服へ着替えながら叫んでいた。
陽向は必死に袖を通そうとする。
そのとき、昨日の入校時に受けた説明が頭をよぎった。
軍学校では、起床から消灯まで、一日の生活スケジュールが細かく定められている。
午前六時に起床し、戦闘服へ着替え、寝具を整えて屋外へ整列する。
午前七時からは課業前の体力向上訓練。
七時三十分に朝食。
八時から正午までは午前の課業。
正午から午後一時までは昼食と休憩、午後の準備。
午後一時から午後五時までは午後の課業。
午後五時から体力向上訓練を行い、六時に夕方の点呼。その後、夕食を済ませ、六時三十分から清掃、七時に巡検。
巡検後は入浴や翌日の準備を行い、午後十時に消灯となる。
そして、起床から最後の候補生が整列を完了するまでの時間は、教官によって計測される。そのことも説明されていた。
ただし、どれほどの時間で整列しなければならないのか分からない。
(時間を測るって言ってたけど……!)
陽向はようやく袖を通した。
(これ、どれくらいで終わらせればいいの!?)
「陽向! 寝具!」
「あっ!」
慌てて毛布へ手を伸ばす。
しかし、急いで端を揃えようとしても、なかなかうまくいかない。
少し離れた寝台では、千鶴も戦闘服の留め具に手間取っていた。
橘家の令嬢として、幼い頃から身だしなみには気を配ってきた。
しかし、今は丁寧さが時間を奪っている。
「……あら?」
上着の合わせが、わずかにずれていた。
直そうとして、さらに数秒を費やす。
一方、月乃は眠そうに目を細めながら起き上がっていた。
「あらあら……もう朝なのねぇ」
「月乃さん、急いでください!」
千鶴が声をかける。
「そうねぇ。急がないといけないわね」
穏やかな返事とは裏腹に、月乃も懸命に着替えていた。
そして、翡翠。
黒髪の少女は、既に戦闘服へ着替え終えていた。
袖口を確認し、寝具を整える。
余計な動作はない。
しかし、翡翠は周囲の候補生たちへ目を向けた。
まだ着替えている者。
寝具を整えている者。
靴を履こうとしている者。
全員が、同じように時間と格闘していた。
「……一分経過」
翡翠が小さく呟いた。
「ええっ!?」
陽向の声が裏返った。
「まだ寝台が!」
「陽向、早く!」
茉梨は寝具を整え終え、戦闘帽を手に取った。
陽向も慌てて毛布の端を揃える。
しかし、急いだせいで反対側が崩れた。
「ああ、もう!」
千鶴が声をかけた。
「陽向さん、そちらを少し引いてください!」
「こう!?」
「はい!」
何とか寝具を整え、陽向は戦闘帽をつかんだ。
候補生たちが次々に隊舎を飛び出していく。
屋外では着帽。
陽向も帽子をかぶり、指定された整列場所へ走った。
練兵場には、既に教官が立っていた。
鬼塚冬理。
第31分隊を担当する教官である。
年齢は不詳。
整った顔立ちは中性的で、初めて見る者には男性とも女性とも判断がつかない。
隙なく着こなした海洋迷彩の戦闘服と、静かに候補生たちを見据える鋭い眼差し。
その姿には、近寄りがたいほどの緊張感があった。
鬼塚は腕時計に目を落とし、時間を計測していた。
候補生たちは息を切らしながら隊列へ入っていく。
四十名は、横十名、縦四列に整列する。
候補生から見て、最前列の右端が一列目の一番。
そこから左へ二番、三番と続き、左端が十番となる。
そして一列目の後方に二列目、三列目、四列目が続く。
しかし、四十名全員はまだ揃っていない。
陽向が所定の位置についた後も、数人の候補生が駆け込んできた。
最後の一人が列へ入る。
その瞬間、鬼塚が計測を止めた。
「二分十八秒!」
朝の練兵場に、声が響いた。
「評価、否!」
陽向は目を見開いた。
(……否?)
鬼塚は四十名を見渡した。
「これから、起床整列の評価基準を説明する!」
候補生たちは姿勢を正した。
「秀は一分以内!」
「優は一分三十秒以内!」
「良は二分以内!」
そして、声を強める。
「二分を超えれば否だ!」
候補生たちは黙って聞いていた。
「第31分隊、二分十八秒! 二分の基準を十八秒超過している!」
陽向は悔しそうに唇を噛んだ。
茉梨も前を向いたまま、眉を寄せている。
千鶴は着替えに手間取ったことを思い返していた。
月乃は隣の候補生の荒い呼吸を聞いていた。
翡翠は、最後に整列した候補生へ一瞬だけ視線を向けた。
自分が早く準備を終えても、時間は止まらない。
四十名全員が揃って初めて、分隊の記録となる。
「初日だから仕方がないと思うな!」
鬼塚の声が響いた。
「今日できなかったことを、明日できるようにする! そのために諸君はここへ来たのだ!」
「はい!」
「明日は今日より一秒でも早く整列しろ!」
「はい!」
鬼塚は当日の総代へ視線を向けた。
「総代、点呼!」
「はい!」 総代は日替わりで担当する。
分隊の人数を確認し、教官へ報告する役割だ。
「点呼!」
四十名の候補生が順番に応答する。
全員の確認を終えると、総代は鬼塚へ向き直った。
「報告! 第31分隊、総員四十名内、現四十名、異常なし!」
「よし!」
鬼塚は隊列を見渡した。
「三列目の四番! 戦闘服の襟が乱れている!」
「はい!」
「四列目の七番! 戦闘帽の位置を正せ!」
「はい!」
指摘された二名の候補生は、直ちに服装を整えた。
「時間を守ることは当然だ! だが、急ぐあまり服装を乱してよいわけではない!」
「はい!」
「速さと正確さ、その両方を身につけろ!」
「はい!」
鬼塚は腕時計から視線を上げた。
「これより基本動作訓練を実施する!」
陽向は思わず息を呑んだ。
まだ、朝の六時を少し過ぎたばかりだった。
「気をつけ!」
ザッ。
四十名の靴音が、朝の練兵場に響いた。
「休め!」
候補生たちは一斉に姿勢を変えた。
「気をつけ!」
再び姿勢を正す。
「右向け、右!」
ザッ、ザザッ。
靴音が揃わなかった。
陽向は勢いよく向きを変え、身体がわずかに揺れた。
茉梨は周囲より早く動いた。
千鶴は正確に動こうとするあまり、わずかに遅れた。
月乃は落ち着いていたが、動作の切り替えが遅い。
翡翠は正確だった。
しかし、周囲と完全に揃っているわけではない。
「止め!」
鬼塚の声が響いた。
「山本候補生!」
「はい!」
「動作が大きすぎる!」
「はい!」
「黒木候補生!」
「はい!」
「お前は一人で訓練をしているのか!」
「いいえ!」
「ならば周囲と動作を揃えろ!」
「はい!」
続いて、鬼塚の視線が翡翠へ向いた。
「雨宮候補生!」
「はい」
「動作は正確だ。だが、周囲とのタイミングが違う!」
「……はい」
鬼塚は四十名全員へ向き直った。
「諸君!」
全員が前を向く。
「ここにいるのは、四十人の個人ではない!」
鬼塚は声を張り上げた。
「第31分隊だ!」
その言葉が、朝の練兵場に響いた。
「一人だけ正確でも、隊列が乱れれば意味がない!」
「はい!」
「もう一度!」
基本動作が繰り返される。
「気をつけ!」
「休め!」
「右向け、右!」
「左向け、左!」
「回れ、右!」
何度も、何度も。
単純な動作の繰り返し。
しかし、四十名の動きを完全に揃えることは容易ではなかった。
陽向は、自分が少し早く動いていることに気づいた。
茉梨は、周囲の動作を意識し始めた。
千鶴は、丁寧さだけでは足りないと理解した。
月乃は、号令に対する反応を早めようとした。
翡翠は、自分自身も隊列の一部であることを意識し始めた。
午前七時。
「基本動作訓練、終了!」
候補生たちの間に、わずかな安堵が広がった。
しかし、鬼塚は続けた。
「これより課業前の体力向上訓練を実施する!」
陽向は額に浮かんだ汗を感じながら、昨日の説明を思い出した。
午前七時から体力向上訓練。
予定は分かっていた。
けれど、起床直後から基本動作を繰り返した身体は、既に重く感じられた。
(うぅ……朝ご飯まで、あと三十分……!)
「駆け足、進め!」
四十名が一斉に走り出した。
午前七時三十分。
朝食。
食堂へ入った陽向は、ようやく椅子に腰を下ろした。
「つ、疲れたぁ……」
「まだ午前中の講義も始まってないわよ」
茉梨が呆れたように答える。
「分かってるけど……」
陽向は目の前の朝食を見つめた。
「軍学校って、毎朝こんな感じなの?」
「少なくとも、今日だけ特別という説明はありませんでしたね」
千鶴が答えた。
「そうだよねぇ……」
月乃は穏やかに食事を進めていた。
「でも、慣れてきたら少しは楽になるんじゃないかしら」
「月乃ちゃん、慣れると思う?」
「どうかしらねぇ」
月乃は微笑んだ。
陽向は苦笑した。
その隣で、翡翠が時計を確認する。
「……七時四十一分です」
「え?」
「……講義の準備があります」
陽向は首を傾げた。
「八時からでしょ?」
「五分前には、講義室で準備を終えている必要があります」
千鶴が補足する。
「移動時間と着替えも考えると、そろそろ戻った方がよろしいですね」
午前中の講義では、候補生専用の制服を着用する。
海洋迷彩の戦闘服のまま講義室へ入るわけにはいかない。
陽向は箸を置いた。
「えっ、もう!?」
「だから早く食べなさいって言ったでしょ!」
茉梨が立ち上がった。
五人は食事を終え、隊舎へ戻った。
戦闘服を脱ぎ、候補生専用制服へ着替える。
候補生の階級は上等兵だが、待遇は幹部に準じる。
そのため、候補生専用制服の着用時には、幹部と同じ着帽規律が適用される。
立っている間は、屋内でも制帽を着用する。
着席するときには脱帽し、机の左前に、つばを自分へ向けて置く。
ただし、講義の開始時と終了時の敬礼については例外が認められていた。
講義室での起立・敬礼では、制帽を着用しなくてもよい。
千鶴は制服の襟元を丁寧に整えた。
茉梨は制帽をかぶり、鏡で位置を確認する。
月乃はゆっくりと袖を通した。
翡翠は着替えを終え、教材を手に取った。
「……七時五十分」
「はいはい! 分かってる!」
陽向も慌てて制帽をかぶった。
五人は講義室へ向かう。
午前七時五十五分。
第31分隊の候補生四十名は、既に着席を完了していた。
机の左前には、それぞれの制帽が置かれている。
つばは、すべて着席者の方へ向けられていた。
陽向は自分の帽子を見つめる。
(……こういうところまで決まってるんだ)
これまでの生活では、帽子の置き方を気にしたことなどなかった。
だが、ここでは違う。
動作の一つひとつに規律がある。
午前八時。
講義室の扉が開いた。
鬼塚冬理が入室する。
端正な顔立ちに浮かぶ表情は、相変わらず厳しい。
「起立!」
総代の号令に従い、候補生たちは立ち上がった。
講義開始時の敬礼であるため、制帽は机の上に置いたままだ。
「気をつけ!」
全員が姿勢を正した。
「敬礼!」
四十名が一斉に上体を十度傾けた。
鬼塚も脱帽のまま答礼する。
「直れ!」
候補生たちは姿勢を戻した。
「着席!」
四十名が一斉に腰を下ろす。
鬼塚も教卓の椅子に腰を下ろした。
「それでは、本日の講義を始める」
鬼塚の声とともに、午前の課業が始まった。
午前の講義は、軍人としての基本心得と礼式についてだった。
鬼塚は黒板に三つの言葉を書いた。
『規律・責任・敬意』
「諸君。敬礼とは何か?」
鬼塚が問いかけた。
一人の候補生が手を挙げる。
「上官に対する敬意を示す行為です!」
「よし。ほかには?」
「軍人として、相手に礼を示す行為です!」
鬼塚は頷いた。
「そのとおりだ。だが、敬礼とは、ただ手を上げればよいものではない」
鬼塚は教卓から立ち上がると、机に置いていた制帽を手に取った。
そして、制帽をかぶり、候補生たちへ向き直る。
「まず、着帽時の敬礼について説明する」
鬼塚は背筋を伸ばし、挙手の敬礼を行った。
「手指の形、腕の角度、姿勢。いずれも正確に行うこと」
候補生たちは、その一連の動作を真剣に見つめていた。
「次に、脱帽時の敬礼だ」
鬼塚は挙げていた右手を下ろし、制帽を脱いで教卓へ置いた。
「通常の脱帽時には、上体を十度傾けて敬礼する」
鬼塚は姿勢を正し、上体を十度傾けた。
「そして、四十五度の敬礼」
鬼塚の声が、わずかに低くなる。
「これは、死亡した隊員を送り出す際に行う特別な敬礼だ。着帽している場合も、必ず脱帽して行う」
そう告げると、鬼塚はゆっくりと上体を四十五度傾けた。
講義室が静まり返った。
陽向は真剣に耳を傾けていた。
千鶴はノートへ書き留める。
月乃は静かに目を伏せた。
翡翠は鬼塚の言葉を一つずつ記憶していた。
そして茉梨は、奥歯を噛み締め、握り拳にさらに力が入った。
鬼塚の声が続く。
「四十五度の敬礼は、深く頭を下げれば敬意が増すというものではない。故人を送り出すための特別な礼式だ。通常の敬礼と混同するな」
「はい!」
「礼式には意味がある。その意味を理解して行うこと」
翡翠はノートに短く書き留めた。
『敬礼は、動作ではなく意味を伴う』
その文字を見つめながら、彼女は静かに考えた。
規律とは、ただ命令に従うことなのだろうか。
それとも、その先に何かがあるのだろうか。
まだ、答えは出なかった。
正午。
午前の講義が終了した。
鬼塚は制帽を外し、教卓の左前に、つばを自分へ向けて置いた。
「起立!」
総代の号令で、四十名が立ち上がる。
「気をつけ!」
「敬礼!」
候補生たちは制帽を着用せず、十度の敬礼を行った。
鬼塚も答礼する。
「直れ!」
こうして、軍学校での最初の午前講義が終了した。
午後零時。
午前の講義が終了した候補生たちは昼食を取り、午後の課業に備えた。
午後一時からは屋外での行進訓練が予定されている。
そのため、候補生たちは再び隊舎へ戻り、候補生専用制服から海洋迷彩の戦闘服へ着替えた。
千鶴は制服を丁寧に片づける。
茉梨は素早く戦闘服へ袖を通した。
月乃は教材を所定の場所へ戻す。
翡翠は着替えを終えると時計を確認した。
「……十二時四十八分です」
「もうそんな時間?」
陽向が慌てて戦闘帽を手に取った。
「急ぎましょう」
千鶴の言葉に、五人は頷いた。
午後零時五十五分。
第31分隊四十名は、練兵場に整列していた。
全員が海洋迷彩の戦闘服を着用し、戦闘帽をかぶっている。
鬼塚の姿はまだない。
しかし、候補生たちは勝手に動かなかった。
屋外訓練では、教官が到着してから整列するのではない。
教官を迎える前に整列を完了し、待機する。
それが規律だった。
陽向は前方を見つめながら、小さく息を吐いた。
(……今度は間に合った)
隣の茉梨が小声で言った。
「気を抜かないで」
「分かってる」
陽向は姿勢を正した。
午後一時。
鬼塚が練兵場へ姿を現した。
総代が号令をかける。
「気をつけ!」
ザッ。
四十名の靴音が揃う。
「敬礼!」
全員が着帽時の挙手の敬礼を行った。
鬼塚が答礼する。
「直れ!」
候補生たちは姿勢を戻した。
「これより行進訓練を実施する!」
「はい!」
鬼塚は第31分隊を見渡した。
「午前中の基本動作を思い出せ。行進は一人で行うものではない!」
その言葉に、五人はそれぞれ表情を引き締めた。
六、一秒の遅れ
行進訓練の途中、隊列を組み直す指示が出された。
「指定位置へ集合!」
四十名が一斉に移動する。
しかし、一人の候補生が足をもつれさせ、列に入るのが遅れた。
最後の候補生が所定の位置についたとき、鬼塚は腕時計を確認した。
「一秒遅れだ」
その声に、全員の表情が変わった。
遅れた候補生は、申し訳なさそうに俯きかける。
「顔を上げろ!」
「はい!」
「時間を守ることは、個人の責任だ。だが、部隊として時間を守ることは、全員の責任だ!」
鬼塚は四十名を見渡した。
「全員、連帯責任!」
「はい!」
「バービージャンプ!」
候補生たちは一斉に動き始めた。
屋外の練兵場に、四十名の荒い呼吸が響く。
陽向は苦しそうに息を吐いた。
茉梨は歯を食いしばって動作を続ける。
千鶴は顔を赤くしながらも、動きを止めない。
月乃は自分の呼吸を整えつつ、隣の候補生を気にかけた。
翡翠は無言で動作を繰り返した。
そして、集合に遅れた候補生も、皆と同じように訓練を受けていた。
やがて、鬼塚が終了を告げる。
「整列!」
四十名が再び隊列を組んだ。
「諸君!」
鬼塚は静かに告げた。
「今、遅れた候補生を責めた者はいないか?」
誰も答えない。
「一秒の遅れが部隊全体へ影響することは理解したはずだ」
鬼塚は続ける。
「ならば、次はどうすれば遅れを防げるか考えろ」
陽向は顔を上げた。
「自分だけ間に合えばよいのではない。周囲の状況を見ろ。仲間が困っているなら、必要な声をかけろ」
茉梨は、遅れた候補生へ一瞬視線を向けた。
先ほど、彼女が遅れたとき。
自分は、どうしてもっと早く動かないのかと思った。
だが、もし自分が同じ立場だったら。
もし、陽向が隣にいて声をかけてくれたなら。
少しだけ、考え方が変わった。
陽向もまた、同じことを感じていた。
(自分だけじゃ、駄目なんだ)
鬼塚の言葉が、胸の奥に残った。
「気をつけ!」
四十名が姿勢を正した。
「前へ、進め!」
候補生たちは歩き始める。
ザッ、ザザッ、ザッ。
足音が乱れた。
陽向は歩幅が大きく、少しずつ前へ出てしまう。
茉梨はそれに合わせようとして速度を上げた。
千鶴は歩幅を一定に保とうとするあまり、周囲との間隔が開く。
月乃はわずかに遅れた。
翡翠は全体を観察していたが、自分自身の歩調が合っていなかった。
「止まれ!」
鬼塚の声が響いた。
四十名が停止する。
「諸君は、何をしている?」
誰も答えない。
「これは競争ではない!」
鬼塚は隊列の前を歩いた。
「歩調を合わせろ! 一人で歩いているんじゃない!」
陽向は思わず息を呑んだ。
「山本候補生!」
「はい!」
「お前は、なぜ先へ出る!」
「……早く歩こうとしていました!」
「早く歩くことを命じたか!」
「いいえ!」
「黒木候補生!」
「はい!」
「なぜ山本候補生に合わせて速度を上げた!」
「……遅れないようにするためです!」
「違う!」
鬼塚の声が鋭く響いた。
「必要なのは、特定の誰かに合わせることではない! 分隊全体で歩調を揃えることだ!」
続いて、鬼塚は千鶴へ向いた。
「橘候補生!」
「はい!」
「正確に歩こうとしているのは分かる。だが、周囲との間隔を見ろ!」
「はい!」
「雪代候補生!」
「はい!」
「周囲を見ているだけでは駄目だ。自分もその歩調に合わせろ!」
「はい!」
「雨宮候補生!」
「はい」
「全体を観察することは大切だ。だが、お前自身も隊列の一部だということを忘れるな!」
「……はい」
翡翠は静かに返事をした。
鬼塚は全員へ向き直った。
「もう一度!」
四十名が再び歩き始める。
ザッ、ザッ、ザザッ。
まだ、揃わない。
「止まれ!」
再びやり直し。
何度も繰り返される行進訓練。
陽向は、周囲の足音を意識し始めた。
茉梨は、先へ出ることよりも間隔を保つことを考えた。
千鶴は、隣の候補生の歩調へ注意を向ける。
月乃は、号令と周囲の動きに集中した。
翡翠は、全体を見るだけでなく、自分の歩幅を調整し始めた。
そして――。
ザッ、ザッ、ザッ。
ほんの数歩。
四十名の足音が、ほぼ同時に響いた。
陽向は驚いた。
(……揃った?)
しかし、すぐに足音は乱れた。
鬼塚が号令をかける。
「止まれ!」
四十名が停止する。
鬼塚はしばらく黙っていた。
「……今の数歩は、悪くなかった」
候補生たちの表情がわずかに明るくなる。
「だが、まだ数歩だ!」
「はい!」
「最初から最後まで揃えられるようになれ!」
「はい!」
陽向は小さく拳を握った。
たった数歩。
それでも、自分たちの足音が重なった瞬間があった。
その感覚が、妙に嬉しかった。
午後五時。
課業終了。
しかし、候補生たちの一日はまだ終わらない。
続いて課業後の体力向上訓練が行われた。
午後六時。
夕方の点呼。
総代が四十名の人数を確認する。
「報告! 第31分隊、総員四十名内、現四十名、異常なし!」
鬼塚への報告が終わると、候補生たちは夕食へ向かった。
午後六時三十分。
掃除開始。
隊舎の床、廊下、洗面所、居室。
それぞれの担当場所を整える。
陽向は雑巾を手に、廊下の床を拭いていた。
「茉梨ちゃん、こっちは終わったよ!」
「だったら、反対側も確認して」
「はーい!」
千鶴は洗面所の鏡を丁寧に磨いていた。
「こちらは、もう少しで終わりそうですね」
月乃は居室の棚を拭いている。
「あら、思ったより埃が溜まっているのねぇ」
翡翠は掃除を終えた場所を、一つずつ確認していた。
四十名の候補生たちは、それぞれの担当場所を時間内に仕上げようと動き続けた。
午後七時。
「巡検準備!」
候補生たちは講義室へ集合した。
海洋迷彩の戦闘服を着用したまま、屋内では脱帽する。
鬼塚たち教官が隊舎内の整理整頓と清掃状況を確認する。
その後ろには、当日の総代が同行していた。
総代は教官からの指摘を聞き取り、後で分隊全員へ伝える。
しばらくして、巡検が終了した。
鬼塚は同行していた総代へ向き直った。
「本日の指摘事項は以上だ」
「はい!」
「それから、明日の総代について伝える」
総代は姿勢を正した。
「明日の第31分隊総代は、山本陽向候補生とする」
「はい! 山本陽向候補生ですね!」
「本人へ直接伝達するように」
「はい!」
鬼塚は頷いた。
「では、分隊へ戻れ」
「はい!」
総代は敬礼し、鬼塚のもとを離れた。
講義室へ戻ると、四十名の候補生たちが待機していた。
「本日の巡検における指摘事項を伝達します!」
四十名が姿勢を正した。
「第一、洗面所の蛇口の根元に水垢が残っていたこと!」
千鶴がわずかに表情を曇らせた。
鏡は丁寧に磨いたつもりだったが、蛇口の根元までは確認できていなかった。
「第二、廊下の窓枠の上部に埃が残っていたこと!」
陽向は小さく肩をすくめた。
床ばかりに気を取られ、窓枠の上までは目が届いていなかった。
「第三、一部の寝台で毛布の端が揃っていなかったこと!」
月乃が小さく首を傾げる。
陽向は今朝、慌てて寝具を整えたことを思い出した。
(……もしかして、私のところ?)
隣にいる茉梨も、陽向へ一瞬だけ視線を向けた。
その視線に気づいた陽向は、わずかに頬を膨らませる。
しかし、今は総代の報告中だ。
陽向は何も言わず、前へ向き直った。
総代は最後まで指摘事項を伝達した。
その後、候補生たちは必要な確認を行うため、居室へ戻った。
陽向は自分の寝台を見つめた。
「……あ、本当だ。ちょっと曲がってる」
千鶴が隣から覗き込む。
「こちらを少し引けば、整うと思います」
「こう?」
「はい。綺麗になりました」
「ありがとう、千鶴ちゃん!」
千鶴は控えめに微笑んだ。
その様子を、翡翠が少し離れた場所から見ていた。
誰かが困っていれば、別の誰かが手を貸す。
それは、特別なことではないのかもしれない。
しかし、翡翠にとっては、まだ少し不思議な光景だった。
巡検が終わると、ようやく自由時間となった。
しかし、候補生たちにとって、その時間は完全な休息ではなかった。
入浴。
戦闘服の手入れ。
候補生専用制服のアイロンがけ。
靴の手入れ。
翌日の教材準備。
やるべきことは、まだ残っていた。
陽向は椅子に腰を下ろした。
「はぁ……やっと終わったぁ……」
「まだ終わってないわよ」
茉梨が言う。
「明日の準備が残ってるでしょ」
「分かってるよぉ……」
千鶴は制服へ丁寧にアイロンをかけていた。
月乃は翌日の教材を揃えている。
翡翠は黙々と靴を磨いていた。
そのとき、居室の入口から声がした。
「山本陽向候補生、いますか?」
陽向が顔を上げる。
「はい! 私です!」
入口には、今日の総代を務めた候補生が立っていた。
「少しよろしいですか?」
「はい!」
陽向は椅子から立ち上がり、入口へ向かった。
総代は陽向の前で立ち止まった。
「巡検終了後、鬼塚教官から指示がありました」
「はい」
「明日の第31分隊総代は、山本陽向候補生です」
「……え?」
陽向は固まった。「はい。明日はよろしくお願いします」
「は、はい! よろしくお願いします!」
陽向が慌てて姿勢を正すと、総代は小さく頷いた。
「それでは、失礼します」
伝達を終えた総代は、居室を後にした。
陽向は、その場に立ち尽くしていた。
「……私が総代?」
その様子を見ていた茉梨が、思わず吹き出した。
「ぷっ……陽向が総代?」
「ちょっと! 笑わないでよ!」
「だって、朝からあんなに慌ててたじゃない」
「明日はちゃんとするもん!」
千鶴が穏やかに声をかけた。
「陽向さんなら、大丈夫だと思います」
「本当!?」
「はい。皆さんのことをよく見ていらっしゃいますから」
月乃も微笑んだ。
「そうねぇ。陽向ちゃんらしく頑張ればいいと思うわ」
「ありがとう!」
陽向は嬉しそうに笑った。
そして、翡翠へ視線を向けた。
「翡翠ちゃんは?」
翡翠は靴を磨く手を止めた。
「……起床前に、必要なものを揃えておいた方がいいと思います」
「え?」
「……朝は時間がありませんから」
陽向は一瞬きょとんとした。
そして、笑った。
「確かに!」
茉梨がため息をつく。
「明日は絶対に寝坊しないでよ」
「しないってば!」
周囲から小さな笑いが起こった。
千鶴も微笑む。
月乃も穏やかに笑った。
翡翠は再び靴を磨き始めた。
しかし、その表情は、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。
午後九時三十分。
候補生たちは翌日の準備を終え、就寝の支度を始めた。
海洋迷彩の戦闘服を脱ぎ、それぞれの寝間着へ着替える。
就寝時の服装は自由だが、当たり前だけど戦闘服と候補生専用制服を着用したまま眠ることは禁止されている。
陽向は動きやすい半袖の寝間着に着替えた。
茉梨は飾り気のない上下の寝間着を身につける。
千鶴は落ち着いた色合いの長袖の寝間着。
月乃はゆったりとした柔らかな寝間着。
翡翠は無地の長袖と長ズボンだった。
それぞれの性格が、ほんの少しだけ服装にも表れていた。
陽向は寝台へ腰を下ろした。
「……今日、一日長かったね」
茉梨が隣で寝具を整えながら答える。
「まだ一日目なのにね」
「明日も同じことするんだよね?」
「当然でしょ」
「うぅ……」
陽向は枕を抱えた。
千鶴が小さく笑った。
「でも、少しずつ慣れていくと思います」
月乃も頷いた。
「そうねぇ。最初は誰でも大変よ」
翡翠は黙って寝具を整えていた。
陽向が声をかける。
「翡翠ちゃん」
「……はい」
「今日の行進、最後ちょっとだけ揃ったよね」
翡翠は少し考えた。
「……はい」
「私、あれ嬉しかったんだ」
「……そうですか」
「うん!」
陽向は笑った。
「最初は全然合わなかったのに、少しだけ足音が一緒になったでしょ?」 茉梨が腕を組む。
「まだ数歩だけどね」
「それでもいいじゃん!」
「……まあ、そうね」
千鶴が静かに頷いた。
「確かに、最後は少し揃っていましたね」
月乃も微笑む。
「四十人で同じように歩くって、思ったより難しいものねぇ」
陽向は天井を見上げた。
「でもさ……」
少しだけ、声が小さくなる。
「いつか、四十人全員で最初から最後まで揃えられたら、すごいよね」
茉梨は何も言わなかった。
千鶴は微笑んだ。
月乃は穏やかに頷いた。
翡翠は静かに陽向を見つめていた。
四十人。
それぞれに違う過去がある。
違う考え方がある。
違う歩幅がある。
それを一つに揃える。
簡単なことではない。
しかし――。
「……できると思います」
翡翠が小さく言った。
陽向は顔を向けた。
「え?」
翡翠は少しだけ視線を逸らした。
「……練習すれば」
陽向は、ぱっと笑顔になった。
「うん! そうだよね!」
茉梨が呆れたように笑う。
「明日の総代が、まず寝坊しなければね」
「もう! 茉梨ちゃん!」
小さな笑い声が、居室に広がった。
午後九時五十五分。
候補生たちは寝台へ入り、消灯を待った。
陽向は目を閉じる前に、もう一度だけ呟いた。
「……明日も頑張ろう」
午後十時。
消灯。
隊舎の明かりが落ちた。
四十名の候補生たちは、それぞれの寝台で眠りにつく。
五人はまだ、互いのことをほとんど知らない。陽向、茉梨、千鶴のように、以前から深い関係を持つ者もいる。
しかし、月乃、翡翠にとっては、まだ出会って間もない同期たちだった。
誰がどんな過去を抱えているのか。
何を守るために軍人を志したのか。
そして、これからどんな道を歩むのか。
まだ、知らないことがいくつもある。
それでも。
今日、四十名は同じ起床ラッパで目を覚ました。
同じ海洋迷彩の戦闘服に袖を通し、同じ号令で立ち上がった。
同じ訓練を受け、同じ失敗を経験した。
一人が遅れれば、全員が責任を負う。
一人が先へ進みすぎれば、隊列は乱れる。
だが、互いの歩幅を意識すれば。
ほんの数歩でも、足音は重なる。
まだ、五人の歩調は揃っていない。
第31分隊の四十名も、まだ一つの部隊にはなれていない。
それでも、確かに。
今日という一日を通して、彼女たちは一歩だけ前へ進んだ。
いつか、この五人が海の向こうで同じ志を掲げることになるなど、今は誰も知らない。
今はただ、軍学校の小さな隊舎で。
明日の起床ラッパを待ちながら、静かに眠っていた。
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