艦隊これくしょん ―海に咲く五つの志―   作:震殿

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第3話 日常の中の戦場

午前六時――起床ラッパ

 午前五時五十九分。

 市ヶ谷海軍軍学校の宿舎は、まだ静けさに包まれていた。

 窓の外には朝の薄明かりが広がり、廊下には人の気配がほとんどない。

 だが、訓練生たちは知っていた。

 あと一分で、その静寂が破られることを。

 午前六時。

 起床ラッパが鳴り響いた。

 同時に、寝台から一斉に身体が起き上がる。

「起床!」

 山本陽向は勢いよく毛布を跳ね上げた。

 隣では黒木茉梨が素早く制服に袖を通している。

「陽向、襟が曲がってる!」

「分かってる!」

「分かってねぇから言ってんだろ!」

 その近くでは橘千鶴が制服を整え、雪代月乃が髪をまとめていた。

 雨宮翡翠も長い黒髪を手早く整え、靴を履く。

 入学から二週間。

 初日のような混乱は、もうない。

 とはいえ、余裕があるわけでもなかった。

 起床ラッパが鳴った瞬間から、時間は計測されている。

 整列場所では、第31分隊の担当教官である鬼塚冬理が時計を確認していた。

 起床から整列完了までの時間。

 初日の第31分隊は、二分十八秒。

 評価は『否』だった。

 その結果を、四十名の訓練生は覚えていた。

「行くよ!」

 陽向の声に、四人が頷いた。

 五人は宿舎を飛び出した。

 整列場所では、到着した訓練生から順番に隊列を作っていく。

 第31分隊は四列縦隊、各列十名を基本とする。

 ただし、号令官は隊列の外に立つため、実際に隊列へ入るのは三十九名。

 第四列は九名となる。

 整列位置は固定されていない。

 最初に到着した者が第一列右端。

 二人目が第二列右端。

 三人目が第三列右端。

 四人目が第四列右端。

 五人目は第一列の右から二番目。

 その順番で、訓練生たちは位置についていく。

 今日の号令官は陽向だった。

 陽向は第一列右端の訓練生よりさらに右側、隊列の外に立つ。

 千鶴、茉梨、月乃、翡翠も、それぞれ到着順に従って隊列へ入った。

 最後の訓練生が位置につき、姿勢を正した。

 その瞬間、鬼塚が時計を止める。

「一分四十二秒」

 鬼塚は淡々と告げた。

「第31分隊、整列所要時間、一分四十二秒。評価、良!」

 初日の二分十八秒から、三十六秒の短縮。

 陽向の胸に小さな達成感が生まれた。

 しかし、点呼はまだ終わっていない。

「気をつけ!」

 陽向の号令が響いた。

 訓練生たちが姿勢を正す。

「番号、始め!」

「一!」

 第一列右端から番号が始まった。

「二!」

「三!」

「四!」

 声が続いていく。

 第一列の番号が終わると、続いて各列の人数が確認される。

 そして第四列最後尾の訓練生が声を張り上げた。

「一欠!」

 隊列内は三十九名。

 号令官の陽向を加えれば、総員四十名。

 陽向は鬼塚へ向き直った。

「報告! 第31分隊、総員四十名! 現在員四十名! 欠員ありません!」

 鬼塚は頷いた。

 その後、隊列の前を歩きながら、訓練生たちを確認していく。

 制服の襟。

 靴の状態。

 隊列の間隔。

 姿勢。

 そして、号令と報告の明瞭さ。

「整列時間は改善された」

 鬼塚が口を開いた。

「だが、まだ動作にばらつきがある。速ければいいというものではない。正確さを伴わない迅速さは、ただの混乱だ」

「はい!」

「初日よりは良くなった。しかし、『良』で満足するな!」

「はい!」

「点呼終了! 清掃にかかれ!」

 訓練生たちは速やかに移動を開始した。

 午前六時十分。

 第31分隊の一日が、本格的に動き始めた。

---

 午前六時十分――朝の清掃

 朝の点呼を終えた訓練生たちは、それぞれの担当場所へ向かった。

 廊下。

 階段。

 洗面所。

 居室。

 割り当てられた場所を、限られた時間で清掃する。

「三十六秒も速くなったね!」

 陽向が雑巾を動かしながら言った。

「そうだな」

 茉梨が答える。

「初日は『否』だったのに、今日は『良』だよ!」

「だからって浮かれてる場合じゃねぇだろ。次は『優』だ」

「分かってるって!」

 千鶴が二人を見た。

「お二人とも、手が止まっていますわよ」

「はーい!」

「分かってるよ!」

 月乃は微笑みながら、清掃用具を整えていた。

 翡翠は棚の隅を丁寧に拭いている。

「……陽向」

「ん?」

「……そこ」

 翡翠が指さした場所には、わずかに埃が残っていた。

「あっ、本当だ!」

 陽向は慌てて拭き直す。

「ありがとう、翡翠!」

「……うん」

 やがて清掃が終わり、訓練生たちは次の課業へ向けて準備を始めた。

 午前六時三十分。

 基本動作訓練が始まる。

 集合は五分前。

 鬼塚に急かされるまでもなく、全員が訓練場へ向かった。

---

 午前六時三十分――基本動作訓練

「気をつけ!」

 鬼塚の号令が訓練場に響いた。

 訓練生たちが姿勢を正す。

「右向け、右!」

 靴音が一斉に響いた。

「左向け、左!」

 再び、靴音。

「回れ、右!」

 入学初日と比べれば、動作はかなり揃ってきていた。

 しかし、鬼塚の目はごまかせない。

「黒木!」

「はい!」

「動作が速すぎる! 号令に合わせろ!」

「はい!」

 茉梨は悔しそうに唇を結んだ。

「雨宮!」

「はい!」

「動作が小さい! もっと明確に行え!」

「はい!」

 翡翠は小さく頷き、姿勢を正した。

 鬼塚は隊列の前を歩きながら、一人一人の動きを確認する。

「個人で動くことと、隊列で動くことは違う!」

 その声が訓練場に響いた。

「一人だけ速く動いても意味はない。全員が同じ号令で、同じ動作を行うことが重要だ!」

「はい!」

 陽向は周囲の動きを意識した。

 千鶴は姿勢を崩さないよう集中している。

 月乃は落ち着いた動作で号令に合わせていた。

 茉梨は速度を抑え、翡翠は動作を大きくする。

 それぞれが指摘された点を修正していった。

 後半には行進訓練も行われた。

「前へ、進め!」

 訓練生たちが一斉に歩き始める。

 足並みを揃え、一定の速度で進む。

 最初はわずかに乱れていた足音も、次第に揃っていった。

「全体、止まれ!」

 隊列が停止した。

 鬼塚はその様子を確認し、頷いた。

「先ほどより揃っている」

 訓練生たちの表情が、わずかに和らぐ。

「だが、まだまだだ。次も同じようにできるとは限らん!」

「はい!」

 軍学校では、一度できたからといって終わりではない。

 いつでも同じように行動できるようになるまで、繰り返す。

 それが訓練だった。

---

 午前七時――課業前体力向上訓練

 午前七時。

 基本動作訓練を終えた第31分隊は、課業前の体力向上訓練へ移った。

 ランニング。

 腕立て伏せ。

 腹筋運動。

 朝食前とはいえ、容赦はない。

「いち! に! さん! し!」

 掛け声が訓練場に響く。

 陽向は元気よく身体を動かしていた。

 茉梨も負けじと続く。

「陽向! 遅れてるぞ!」

「遅れてない!」

「じゃあ、もっと頑張れ!」

「茉梨こそ!」

 千鶴は二人のやり取りを聞きながら、黙々と運動を続けた。

 月乃は無理に速度を上げず、一定のペースを保っている。

 翡翠は呼吸を整えることに集中していた。

 頭では理解できていても、身体が思うように動かないことがある。

 翡翠は、その違いを実感していた。

 鬼塚は訓練生たちの様子を確認しながら、必要に応じて指示を出していた。

 補助についている助教たちも、訓練生の体調や動作を確認している。

 しかし、訓練を指揮しているのは、あくまで鬼塚だった。

 午前七時三十分。

 訓練が終了した。

「……お腹すいた」

 陽向が呟いた。

「朝からあれだけ動けば当然ですわ」

 千鶴が答える。

「私はまだ走れるぞ!」

 茉梨が笑った。

「茉梨ちゃん、元気ねぇ」

 月乃が微笑む。

 翡翠は食堂の方を見つめていた。

「翡翠もお腹すいた?」

「……うん」

「だよね!」

 五人は朝食へ向かった。

---

 午前八時――軍事史講義

 午前七時五十五分。

 第31分隊の訓練生たちは、すでに講義室への集合を終えていた。

 教科書と筆記用具を机の上に並べ、講義の開始を待つ。

 午前八時。

 鬼塚冬理が講義室に入った。

「起立!」

 訓練生たちが立ち上がる。

 挨拶を終え、着席した。

「本日の午前の課業は軍事史だ」

 鬼塚は教科書を開いた。

「軍事史では、過去の戦争と、そこに関わった人物たちの判断を学ぶ。戦いの勝敗だけでなく、なぜその決断に至ったのかを考えろ」

 黒板に年号が書かれていく。

 時代によって変わる兵器、戦術、国家間の関係。

 鬼塚はそれらを説明しながら、歴史に名を残した人物たちの功績と失敗を取り上げていった。

 やがて、一人の人物の名前が黒板に書かれた。

東郷平八郎。

「東郷平八郎。最終階級は元帥海軍大将。日露戦争において連合艦隊司令長官を務めた人物だ。一九〇五年の日本海海戦では、ロシアのバルチック艦隊を迎え撃ち、日本の連合艦隊を勝利に導いた」

 鬼塚は日本海の海図を示した。

「当時の日本海軍は、敵艦隊の進路を予測し、迎撃の準備を進めていた。東郷の指揮を理解するには、海戦当日の行動だけでなく、それ以前の情報収集や作戦準備にも目を向ける必要がある」

 翡翠は、静かにノートへ筆を走らせていた。

 教科書に掲載された海図と、黒板に描かれた艦隊の進路を見比べる。

 そして、鬼塚が説明した内容を短い言葉で書き留めていく。

 時折、筆が止まる。

 翡翠は海図をじっと見つめ、何かを考えるように目を細めた。

 それから、ノートの余白に小さな線を書き加えた。

「日本海海戦において重要なのは、敵艦隊を発見した後の判断だけではない。どの海域で迎え撃つか、どのように艦隊を運動させるか――」

 鬼塚の説明が続く。

 翡翠は顔を上げ、再び黒板へ視線を向けた。

 教室には、教官の声と訓練生たちが筆を走らせる音が響いていた。

 講義はその後も、さまざまな時代の戦争と人物を取り上げながら進んでいった。

 やがて話題は、第二次世界大戦へと移る。

「次に、高野五十六について説明する」

 鬼塚は黒板に名前を書いた。

高野五十六。

「高野五十六。最終階級は元帥海軍大将。第二次世界大戦で活躍した海軍軍人だ。連合艦隊司令長官を務め、太平洋戦争における重要な作戦に関わった」

 鬼塚は黒板に二つの海戦名を書き加えた。

 真珠湾攻撃。

 ミッドウェー海戦。

「一九四一年の真珠湾攻撃は、アメリカ太平洋艦隊に対する大規模な航空攻撃だった。奇襲によって一定の成果を上げた一方、アメリカの戦争遂行能力を決定的に失わせることはできなかった」

 陽向は真剣な表情でノートを取っていた。

 普段は明るく、何かと茉梨に注意されることも多い陽向だったが、講義中は鬼塚の説明を聞き逃すまいと集中していた。

 黒板の文字を書き写し、教科書の該当箇所に印をつける。

 だが、鬼塚の説明が進むにつれ、陽向の眉が少しずつ寄っていった。

「……えっと」

 小さく呟き、先ほど書いたノートを見返す。

 真珠湾攻撃。

 ミッドウェー海戦。

 戦争の流れと、それぞれの作戦が持つ意味。

 陽向は教科書をもう一度読み、理解した部分を自分なりの言葉で書き足した。

「翌一九四二年のミッドウェー海戦では、日本海軍は主力空母四隻を失う大敗を喫した。ここで考えるべきなのは、作戦の成否だけではなく――」

 鬼塚の説明が続く。

 陽向は顔を上げ、黒板と教科書を交互に見つめた。

 まだ完全に理解できたわけではない。

 それでも、分からないままにせず、一つずつ覚えようとしていた。

 その後も講義は進み、教科書のページが何度もめくられた。

 やがて、鬼塚が次の説明へ移ろうとした時だった。

「教官、質問があります!」

 一人の訓練生が手を挙げた。

「何だ?」

「先ほど紹介された高野五十六についてなんですが……」

「うむ」

「近年活躍した山本五十六という軍人がいますよね?」

「ああ」

「二人とも五十六という名前ですが、何か関係があるんですか?」

 鬼塚は頷いた。

「良い質問だ。確かに名前は同じだが、高野五十六と山本五十六は別人だ」

 教室の何人かが顔を上げた。

「高野五十六は第二次世界大戦で活躍した人物。一方、山本五十六は近年の深海棲艦との戦争で活躍した軍人だ。生きた時代が異なる」

「では、偶然同じ名前になったんですか?」

「いや。山本五十六の父親が、高野五十六を深く敬愛していたそうだ」

 鬼塚は続けた。

「そのため、自分の息子にも高野五十六のような立派な人物になってほしいという願いを込めて、『五十六』と名付けたと伝えられている」

「なるほど……」

 質問した訓練生は納得したように頷いた。

「そして山本五十六は、その名に恥じぬ活躍を見せた。深海棲艦との戦争で数々の功績を残し、英雄と称された人物だ」

 鬼塚は少し間を置いた。

「生前の階級は海軍少将。だが、深海棲艦との戦闘において戦死し、死後に海軍中将へ昇進している」

 その言葉を聞いた茉梨の握り拳に、わずかに力が入った。

 鬼塚は講義を続けた。

「さて、話を戻そう。歴史上の人物を学ぶ際には、その功績だけでなく、当時の状況や判断の背景を理解することが重要だ」

 訓練生たちは再び教科書へ目を落とした。

 軍事史の講義は、その後も続いていった。

 やがて鬼塚は、近代の戦争史から、現在も続く深海棲艦との戦争へと話題を移した。

「次に、深海棲艦による大規模侵攻について学ぶ」

 黒板に二つの数字が書かれた。

第一次大規模侵攻――百五十二隻。

第二次大規模侵攻――二百十八隻。

「第一次大規模侵攻は、開戦時に南方で発生した。敵戦力は百五十二隻」

 鬼塚は海図を指した。

「第二次大規模侵攻は、その五年後。北方で確認された敵戦力は二百十八隻だった」

 訓練生たちはノートを取り始めた。

「敵戦力は増加している。だが、これが何を意味するのかは、まだ明確ではない」

 翡翠は数字を見つめた。

 百五十二。

 二百十八。

 その差は六十六隻。

 しかし、単に敵の数が増えたというだけではない。

 敵がどこから来たのか。

 どのように戦力を集めたのか。

 なぜ五年という間隔で大規模侵攻が起きたのか。

 分からないことが多すぎる。

「雨宮」

「はい」

「何か疑問があるのか?」

「……はい」

「言ってみろ」

 翡翠は少し考えた。

「……敵の戦力が増えた理由は、分かっているんですか?」

「正確には分かっていない」

「……そうですか」

「何か考えがあるのか?」

「……まだ、ありません」

 教室の一部から、小さな笑い声が漏れた。

 しかし、鬼塚は笑わなかった。

「それでいい。分からないことを、分かったつもりで判断するな」

 翡翠が顔を上げる。

「ただし、指揮官は答えが分からないまま決断しなければならない場合もある。そのために知識と経験を積むのだ」

「……はい」

 翡翠は頷いた。

 鬼塚は再び黒板へ向き直った。

「歴史を学ぶ理由は、過去の戦いを暗記するためだけではない」

 鬼塚は海図を指した。

「過去に何が起こり、なぜその結果に至ったのか。それを考え続けることが、未来の判断につながる」

 訓練生たちは静かに耳を傾けていた。

---

 正午――昼休み

 正午。

 午前の課業が終了した。

 第31分隊の訓練生たちは昼食へ向かった。

 食堂には、他の分隊の訓練生たちも集まっている。

 五人は食事を取りながら、午前の講義について話していた。

「今日の講義、難しかったね」

 陽向が言った。

「軍事史は覚えることが多いですもの」

 千鶴が答える。

「東郷平八郎、高野五十六、山本五十六……」

 陽向は指を折りながら名前を挙げた。

「同じ海軍の軍人でも、時代が違うんだね」

「そうですわね。置かれた状況も、使われた兵器も異なりますもの」

 月乃が穏やかに言った。

「でも、指揮官として考えなければならないことには、共通する部分もあるのかもしれないわね」

 翡翠は静かに頷いた。

「……うん」

 茉梨は黙って食事を進めていた。

「茉梨?」

 陽向が声をかける。

「ん?」

「今日の午後、何やるんだっけ?」

「戦術の基礎だろ。お前、時間割見てねぇのか?」

「見たけど忘れちゃった!」

「まったく……」

 茉梨は呆れたように笑った。

 千鶴も小さく息を吐く。

「陽向、明日の時間割はきちんと確認してくださいまし」

「はーい!」

 やがて五人は食事を終え、午後の課業に必要なものを確認した。

 午後一時の開始に間に合うよう、五分前には講義室へ集合する。

 休憩時間は長くない。

 それでも、互いの顔を見ながら食事を取る時間は、五人にとって少しずつ大切なものになっていた。

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 午後一時――戦術の基礎

 午後零時五十五分。

 第31分隊は、午後の課業を行う講義室に集合していた。

 午後一時。

 鬼塚による戦術基礎の講義が始まった。

 鬼塚は黒板に簡単な海域図を描いた。

 味方艦隊。

 敵艦隊。

 その間にある島影。

「敵艦隊がこちらへ接近している。君たちは、この海域を防衛しなければならない」

 鬼塚は訓練生たちを見渡した。

「どう行動する?」

 何人かが手を挙げた。

「正面から迎撃します!」

「島影を利用して攻撃します!」

「味方を二つに分けて挟撃します!」

 鬼塚はそれぞれの案について、利点と欠点を説明した。

「正面からの迎撃は単純だが、敵が優勢なら損害が大きくなる」

「島影を利用する場合、敵の位置を正確に把握できなければ逆に危険となる」

「挟撃は有効な場合もあるが、部隊間の連携が取れなければ各個撃破される恐れがある」

 翡翠は黒板を見つめていた。

 味方の位置。

 敵の進路。

 島影。

 海域の広さ。

 考えるべき条件が、次々と頭に浮かぶ。

 しかし、まだ知らないことも多い。

 艦娘の具体的な能力。

 装備の性能。

 深海棲艦の行動。

 その全てを理解しているわけではなかった。

 翡翠は、ノートの端に小さく海域図を描いた。

 鬼塚の説明を聞きながら、味方艦隊の位置を何度か書き直す。

「……翡翠?」

 隣の陽向が小声で呼びかけた。

 翡翠は顔を上げた。

「……何?」

「それ、何してるの?」

「……別の進み方を考えてた」

「へぇ……」

 陽向はノートを覗き込んだ。

 だが、描かれた線の意味はよく分からない。

「……難しそう」

「……まだ、途中」

 翡翠は小さく答えた。

 鬼塚の声が響く。

「そこ、私語を慎め!」

「はい!」

 二人はすぐに姿勢を正した。

 午後の課業は、座学だけでは終わらなかった。

 後半には屋外での訓練も行われ、訓練生たちは指示に従って動き、連携の基本を学んだ。

 助教たちは各所で安全確認や訓練の補佐を行っていたが、指導の中心は鬼塚だった。

 午前中の基本動作とは違い、今度は状況に応じて自分たちで考える場面もある。

 陽向は積極的に声を出した。

 茉梨は率先して動いた。

 千鶴は周囲の状況を確認し、月乃は遅れている者に目を向けた。

 翡翠は全体の動きを観察していた。

 五人はまだ、同じ分隊の仲間というだけだった。

 それぞれの考え方も、得意なことも違う。

 だが、その違いは少しずつ、互いを知るきっかけになっていた。

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 午後五時――課業後体力向上訓練

 午後五時。

 午後の課業が終了した。

 しかし、一日の訓練はまだ終わらない。

 鬼塚の指導の下、課業後の体力向上訓練が始まった。

 すでに午前中から身体を動かしているため、訓練生たちの疲労も大きい。

「……まだ走るの?」

 陽向が呟いた。

「走るんだよ」

 茉梨が即答する。

「分かってるけど!」

「だったら、行くぞ!」

 茉梨が先に駆け出した。

 陽向も慌てて続く。

 千鶴は一定の呼吸を意識しながら走り、月乃は無理に速度を上げず、自分のペースを維持していた。

 翡翠も黙々と走っていたが、次第に呼吸が乱れ始めた。

「……はぁ……」

 その様子に気づいた月乃が、隣へ寄った。

「翡翠ちゃん、大丈夫?」

「……うん」

「無理に速く走らなくてもいいのよ。まずは呼吸を整えましょう」

「……ありがとう」

 翡翠は頷き、呼吸を意識した。

 速く走ることだけが目的ではない。

 最後まで身体を動かし続けることも、大切な訓練だった。

 午後六時が近づく頃、訓練は終了した。

 訓練生たちは速やかに夕方の点呼へ向かった。

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 午後六時――夕方の点呼

 午後六時。

 第31分隊は整列を終え、夕方の点呼を受けた。

 鬼塚の前で号令に従って姿勢を正し、人数の確認が行われる。

 疲労のためか、朝よりも表情の硬い訓練生が多かった。

 しかし、号令への返答ははっきりとしていた。

 点呼が終わると、夕食の時間となった。

 食堂では、訓練を終えた訓練生たちが食事を取っている。

「……疲れたぁ」

 陽向が椅子に座るなり、小さく呟いた。

「まだ一日が終わったわけではありませんわよ」

 千鶴が言った。

「分かってるよ。これから掃除でしょ?」

「その後は巡検もありますもの」

「そうだった……」

 茉梨が笑う。

「今日は陽向が総代だろ?」

「そうだよ」

「しっかりやれよ」

「分かってるって!」

 陽向は胸を張った。

 だが、その表情には少し緊張が混じっていた。

 朝の点呼で号令をかけるだけではない。

 今日の総代には、夜の巡検でも役割がある。

 鬼塚の後ろについて回り、指摘された事項を聞き取り、巡検後に分隊全員へ伝えなければならない。

 陽向は食事を取りながら、頭の中でその流れを確認していた。

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 午後六時三十分――夜の清掃

 午後六時三十分。

 夕食を終えた訓練生たちは、再び清掃に取りかかった。

 朝とは違い、夜の清掃では、その後の巡検も意識しなければならない。

 床に埃が残っていないか。

 机や棚が整理されているか。

 寝台周りに乱れはないか。

 清掃用具は正しい場所に戻されているか。

 千鶴は担当場所を確認しながら、丁寧に作業を進めた。

「陽向、そちらの棚も確認してくださいまし」

「了解!」

 茉梨は床を拭き終えると、用具を片づけた。

「こっちは終わったぞ」

「ありがとう、茉梨ちゃん」

 月乃は微笑みながら、最後の確認をしている。

 翡翠は棚の上を見上げた。

「……あ」

「どうした?」

 茉梨が尋ねる。

「……ここ、埃がある」

「どこだ?」

「……上」

 茉梨が覗き込む。

「うわ、本当だ」

「危なかったですわね」

 千鶴が言った。

 陽向は雑巾を受け取ると、棚の上を拭いた。

「よし! これで大丈夫!」

 清掃を終えた訓練生たちは、巡検に備えて講義室へ移動した。

 午後七時。

 巡検が始まる。

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 午後七時――巡検

 午後七時。

 鬼塚冬理による巡検が始まった。

 鬼塚は必要な確認を補佐する助教たちとともに、宿舎内を巡回する。

 その後ろには、今日の総代である陽向がついていた。

 鬼塚は一つ一つの場所を確認していく。

 床。

 棚。

 寝台。

 衣類の整理状況。

 清掃用具の配置。

 陽向は緊張した面持ちで、鬼塚の後ろを歩いていた。

 やがて、鬼塚が足を止めた。

「山本」

「はい!」

「この棚を見ろ」

 陽向は視線を向けた。

 棚の中に置かれた物品が、わずかに乱れている。

「整理が不十分だ。次回からは配置を統一するよう伝えろ」

「はい!」

 陽向は指摘内容を頭に刻んだ。

 別の場所では、清掃用具の置き方について注意を受けた。

「使用後の用具は、決められた場所に戻すこと。清掃が終わればそれでよいというものではない」

「はい!」

 陽向は一つも聞き逃すまいと、鬼塚の言葉に集中した。

 巡検は続いた。

 指摘された内容を覚えながら歩くのは、思った以上に緊張する。

 しかし、陽向は最後まで姿勢を崩さなかった。

 巡検終了後。

 第31分隊の訓練生たちは講義室に集合していた。

 陽向は全員の前に立った。

「それでは、本日の巡検で指摘された事項を伝えます!」

 教室が静かになる。

「まず、棚の中の物品の配置が統一されていないとの指摘がありました。明日からは決められた位置に整理してください!」

 陽向は続けた。

「それから、清掃用具の収納についても注意がありました。使用後は必ず所定の場所へ戻してください!」

 訓練生たちは真剣に聞いていた。

「以上です!」

 報告を終えた陽向は、ようやく小さく息を吐いた。

 鬼塚からの指摘を、分隊全員へ伝える。

 それも総代の責任だった。

 自分一人が正しく行動するだけでは足りない。

 周囲の者へ、必要なことを正確に伝えなければならない。

 朝の基本動作訓練で教わったことと、どこか似ている。

 陽向はそんなことを考えていた。

---

 巡検後――それぞれの夜

 巡検が終わると、午後十時の消灯まで自由時間となった。

 とはいえ、何もしなくてよいわけではない。

 入浴。

 翌日の準備。

 制服や戦闘服、作業服のアイロンがけ。

 必要に応じた勉強。

 やるべきことはいくらでもあった。

 訓練生たちは、それぞれの予定に従って動き始めた。

「私、先に風呂入ってくるわ」

 茉梨が着替えを手に取った。

「もう行くの?」

 陽向が尋ねる。

「ああ。後でゆっくり明日の準備したいしな」

「そっか。いってらっしゃい!」

「おう!」

 茉梨は軽く手を振り、部屋を出ていった。

 扉が閉まる。

 陽向はしばらくその扉を見つめていた。

「……ねえ、みんな」

 普段より少し静かな声だった。

「どうしましたの?」

 千鶴が顔を上げる。

「今日の茉梨、なんか変じゃなかった?」

 月乃が首を傾げた。

「茉梨ちゃんが?」

「うん。午後から、ちょっと様子がおかしい気がして」

 千鶴は少し考えた。

「そう言われてみれば……普段より口数が少なかったような気もしますわね」

「……うん」

 翡翠も小さく頷いた。

「……考え事、してた」

「やっぱり?」

 陽向は眉を寄せた。

「訓練の時はいつもどおりだったし、私にも普通に話しかけてきたんだけど……」

 そこで言葉を切る。

「なんか、時々ぼーっとしてたんだよね」

 月乃が穏やかに言った。

「何か気になることでもあったのかしら」

「分かんない」

 陽向は首を横に振った。

「私、茉梨とは昔から一緒にいるけど……今日みたいなのは、ちょっと珍しいかな」

「何か聞いてみましたの?」

「ううん。聞こうと思ったんだけど、普通にしてたから」

 千鶴は頷いた。

「本人が話していないことを、無理に聞き出すのもよくありませんわね」

「そうねぇ」

 月乃も同意した。

「でも、もし何か悩んでいるなら、一人で抱え込んでほしくはないわ」

 翡翠は黙って三人の話を聞いていた。

 やがて、小さく口を開く。

「……いつもどおりに、しよう」

 三人が翡翠を見る。

「……話したくなったら、聞けばいい」

 陽向は少し考え、それから頷いた。

「……うん。そうだね」

「私たちにできることがあれば、力になりたいですわね」

 千鶴が言った。

「そうねぇ。茉梨ちゃんが元気になってくれるといいわね」

 月乃も微笑んだ。

 その後、千鶴は入浴の準備を始め、月乃も一緒に部屋を出ていった。

 翡翠も洗面所へ向かい、部屋には陽向だけが残された。

「……茉梨、かぁ」

 陽向は椅子に座り、天井を見上げた。

 午後から、どこか様子がおかしかった茉梨。

 理由は分からない。

 何かを聞いても、きっといつもどおりに笑ってごまかすだろう。

「うーん……」

 陽向は腕を組んだ。

 しばらく考え込む。

 そして、不意に顔を上げた。

「……あっ!」

 何かを思いついたように、目を輝かせる。

「そうだ! それなら……!」

 陽向は思わず立ち上がった。

 その顔には、先ほどまでの心配そうな表情はなかった。

 代わりに浮かんでいたのは、いつもの明るい笑顔だった。

「よーし!」

 小さく拳を握る。

 ちょうどその時、廊下から足音が近づいてきた。

 陽向は慌てて椅子に座り直し、何事もなかったように翌日の準備を始めた。

 やがて、扉が開く。

「ただいまー!」

 茉梨が戻ってきた。

「おかえり、茉梨!」

 陽向はいつも以上に明るい声で迎えた。

「何だよ、陽向。やけに元気だな」

「えへへ、そうかな?」

「何だよ、その笑い方」

「何でもなーい!」

 茉梨は不思議そうに首を傾げた。

 陽向は笑顔のまま、再び制服へ目を向ける。

 その胸の中には、たった今思いついた小さな考えがあった。

 けれど、それを茉梨に話すつもりは、まだなかった。

 茉莉以外の4人も入浴から帰ってきて、部屋には五人が揃って明日の準備を始めた。

「……陽向、そこ」

 翡翠が小さく指摘した。

「え?」

「……しわ」

 陽向がアイロンをかけていた制服を見る。

「あっ、本当だ」

 茉梨が笑う。

「お前、同じところばっかりやってるからだろ」

「だって難しいんだもん!」

「慣れれば大丈夫よ」

 月乃が穏やかに言った。

 千鶴は自分の制服を丁寧に整えながら、陽向へ声をかける。

「生地を引っ張りすぎないようにしてくださいまし」

「うん!」

 陽向は慎重にアイロンを動かした。

 しばらくして、ようやく納得のいく仕上がりになった。

「できた!」

「よかったですわね」

「千鶴、ありがとう!」

 陽向は満足そうに制服を見つめた。

 その後、五人は翌日の準備を終え、残った時間を勉強に使った。

 陽向は教科書を開いた途端、眉をひそめた。

「……分からない」

「どこですの?」

「ここ」

 千鶴が覗き込む。

「そこは今日の午前中に説明されたところですわ」

「そうなんだけど……」

 茉梨が横から口を挟んだ。

「陽向、ちゃんと聞いてたのか?」

「聞いてたよ!」

「じゃあ、何で分かんねぇんだ?」

「それはこっちが聞きたい!」

 茉梨が吹き出した。

 月乃も小さく笑う。

 翡翠は二人のやり取りを眺めてから、陽向のノートを指さした。

「……ここ」

「ん?」

「……この説明と、同じ」

 陽向は教科書とノートを見比べた。

 しばらくして、目を見開く。

「あっ! そういうことか!」

「……うん」

「ありがとう、翡翠!」

 翡翠は小さく頷いた。

 その様子を見て、千鶴が微笑む。

「少しずつ、皆さんの得意なことが分かってきましたわね」

「そうだね!」

 陽向は明るく答えた。

「茉梨は運動が得意だし、千鶴は勉強ができるし、月乃は落ち着いてるし、翡翠は……」

 そこで、少し考えた。

「……なんか、すごい!」

「何だよ、それ!」

 茉梨が笑い出した。

 翡翠は首を傾げた。

「……すごい?」

「うん!」

「……何が?」

「それは……これから見つける!」

 千鶴が呆れたように息を吐いた。

「陽向らしいですわね」

 月乃が楽しそうに微笑んだ。

「ふふっ。これからが楽しみね」

 五人の笑い声が、夜の宿舎に小さく響いた。

 その笑顔を見ながら、陽向は少しだけ安心した。

 茉梨は今、いつもと同じように笑っている。

 けれど、午後から感じていた違和感が、完全になくなったわけではなかった。

 陽向はそのことを口にはせず、もう一度教科書へ目を落とした。

---

 午後十時――消灯

 午後十時。

 消灯時刻となった。

 訓練生たちは寝台に入り、部屋の明かりが落とされた。

 一日中、訓練と講義を受けていた身体には、疲労が残っている。

 ほどなくして、静かな寝息が聞こえ始めた。

 しかし、茉梨だけはまだ目を閉じずにいた。

 暗い天井を見つめる。

 ふと、午前の軍事史講義で鬼塚が口にした名前が浮かんだ。

 山本五十六。

 茉梨は、ゆっくりと目を閉じた。

「……五十六さん」

 その声は、誰にも届かなかった。

第三話「日常の中の戦争」――完。




ココ最近ドタバタしててやばい
他県への転勤で荷物をまとめたり転勤先の家の契約とかで

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  • 教官
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