陽向の名案
休日の朝。
市ヶ谷海軍軍学校では、いつも通り朝の点呼が行われていた。
点呼を終えた訓練生たちは、それぞれ休日の予定に合わせて行動を始める。
そして、正門を出たところで――。
「ねえねえ、みんな!」
山本陽向が突然足を止めた。
「ん? 何だよ?」
黒木茉梨が振り返る。
橘千鶴、雪代月乃、雨宮翡翠も足を止めた。
陽向は四人の顔を順番に見回すと、満面の笑みを浮かべた。
「今日さ、みんなでショッピングモールに行かない?」
「……は?」
茉梨が目を丸くした。
「何だよ、いきなり」
「だって、せっかくのお休みだよ?」
陽向は両手を広げた。
「軍学校に入ってから、五人でゆっくり遊んだことってなかったでしょ?」
「それは、そうですわね」
千鶴が頷く。
「でも、急にどうしたんですの、陽向さん?」
「えへへ。ちょっと思いついちゃって!」
「……何を?」
翡翠が小さく尋ねた。
「みんなで遊んだら、絶対楽しいだろうなって!」
陽向は胸を張った。
「……それだけかよ」
茉梨が呆れたように言う。
「うん!」
「即答すんな!」
月乃がくすくすと笑った。
「ふふっ。でも、いい考えだと思うわぁ」
「でしょ!?」
「私も賛成ですわ。たまには、こういう休日もよろしいですもの」
千鶴も微笑んだ。
「……私も」
翡翠が小さく頷く。
「やった! じゃあ決まり!」
陽向は嬉しそうに両手を上げた。
茉梨はそんな四人を見回す。
「……おいおい、あたしの意見は?」
「茉梨ちゃんは行かないの?」
陽向が首を傾げた。
「いや、行かねぇとは言ってねぇけど……」
「じゃあ行こう!」
「人の話を最後まで聞け!」
陽向は笑いながら茉梨の手を取った。
「ほら、茉梨ちゃん! 早く行こうよ!」
「わ、分かったから引っ張んなって!」
茉梨は抗議しながらも、陽向について歩き出した。
千鶴と月乃は顔を見合わせて微笑む。
翡翠も静かに二人の後を追った。
昨日の夜、陽向が一人で思いついたこと。
それは、少し元気のない幼なじみを、みんなで連れ出すことだった。
難しいことは考えない。
ただ、一緒に遊んで、笑って、楽しい一日にする。
それが、陽向なりの方法だった。
こうして、五人の休日が始まった。
それぞれの買い物
ショッピングモールに到着すると、陽向は目を輝かせた。
「わあー! 広い!」
「陽向さん、走らないでくださいまし」
「分かってるって!」
「……今、走ろうとしてた」
翡翠がぽつりと言う。
「してないよ!?」
「足、浮いてたぞ」
茉梨が即座に突っ込んだ。
「もう、茉梨ちゃんまで!」
月乃がくすくすと笑う。
「ふふっ。元気ねぇ」
五人はまず、衣料品売り場を見て回ることにした。
千鶴は上品な色合いの服を手に取り、月乃は柔らかな素材のカーディガンを眺める。
茉梨は動きやすそうな服を選び、陽向は気になったものを次々と手に取っていた。
翡翠はというと、淡い青緑色の髪飾りの前で足を止めていた。
「……」
「翡翠ちゃん、それが気になるの?」
月乃が声をかける。
「……うん」
「綺麗な色ねぇ。翡翠ちゃんの瞳にも似合いそう」
翡翠は髪飾りをしばらく眺めた。
「……そうかな」
「ええ、とっても」
月乃が微笑むと、翡翠も小さく笑った。
一方、少し離れた場所では――。
「茉梨ちゃん! これどう!?」
陽向が明るい色の上着を掲げていた。
「お前が着るのか?」
「ううん、茉梨ちゃんに!」
「何であたしなんだよ!」
「似合いそうだから!」
陽向は茉梨の肩に上着を当てた。
「ほら! 似合う!」
「お、おい! 勝手に合わせんな!」
茉梨が抗議する。
しかし、陽向は満足そうだった。
「うん! やっぱり茉梨ちゃんには元気な色が似合うね!」
「……ったく」
茉梨は顔を背けた。
その口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。
下着売り場の大騒動
次に五人が立ち寄ったのは、女性用の下着売り場だった。
「せっかくですし、こちらも見ていきませんこと?」
千鶴の提案に、四人も頷いた。
「訓練で毎日使うしな。そろそろ買い足しておくか」
茉梨は迷うことなく、スポーツ用の下着が並ぶ棚へ向かった。
「やっぱ、動きやすいのが一番だな」
手に取ったのは、身体をしっかり支えられるスポーツブラだった。
「走っても邪魔にならねぇし、こういうのが一番使いやすいんだよ」
一方、千鶴は別の棚で商品を見比べていた。
「こちらは通気性がよさそうですわね。それに、長時間着けても負担が少なそうです」
千鶴が重視しているのは機能性だった。
素材や構造を確かめながら、いくつかの商品を慎重に比較している。
その隣では、翡翠がシンプルな下着を手に取っていた。
「……これ」
「あら、翡翠さんはそちらになさるの?」
「……うん。使いやすそう」
飾りの少ない、実用性を重視したものだった。
「洗いやすいし……普段も困らない」
「なるほど。翡翠さんらしい選び方ですわね」
千鶴が微笑む。
そして月乃は――。
「あら、これ素敵ねぇ」
大胆なデザインの下着を手に取っていた。
華やかな色合いに、繊細な装飾。
ほかの四人が選んでいるものとは、明らかに雰囲気が違う。
「つ、月乃!?」
茉梨が目を丸くした。
「あら、どうしたの?」
「いや、それ……結構大胆じゃねぇか?」
「そうかしら?」
月乃は不思議そうに首を傾げた。
「せっかくなら、こういう綺麗なものもいいと思うの」
「……へぇ」
茉梨は少し感心したように頷いた。
その頃、陽向は可愛らしいデザインの下着が並ぶ棚で目を輝かせていた。
「わあ! これ可愛い!」
淡い色合いに、小さなリボンの付いたもの。
花柄のものや、柔らかなレースをあしらったものもある。
「うーん、どれにしようかなぁ」
陽向は楽しそうに商品を見比べた。
やがて一つを選ぶと、四人のところへ戻ってきた。
「ねえねえ! みんなは何を買うの?」
「私はこれだ」
茉梨がスポーツブラを見せる。
「へぇ! 茉梨ちゃんらしいね!」
「そうか?」
「うん! 動きやすそう!」
陽向は何気なく、商品に付いたサイズ表示を見た。
「……あれ?」
「何だよ?」
「ううん、何でもない!」
陽向は次に千鶴のところへ向かった。
「千鶴ちゃんは?」
「私は、こちらにしようかと思っていますわ」
「へぇ、機能性重視なんだね!」
「ええ。普段の生活でも訓練でも、快適に使えるものがよろしいですから」
「なるほどー!」
陽向は頷きながら、千鶴が持つ商品のサイズ表示に目を落とした。
「…………」
「陽向さん?」
「……ううん!」
続いて翡翠のところへ向かう。
「翡翠ちゃんは何にしたの?」
「……これ」
翡翠がシンプルな下着を見せた。
「おお! 飾りが少なくて使いやすそう!」
「……うん」
陽向は笑いながら、ふとサイズ表示を見た。
「…………え?」
「……?」
翡翠が首を傾げる。
「……山本さん?」
「……な、何でもないよ!」
陽向は少し慌てた様子で月乃のところへ向かった。
「月乃ちゃんは?」
「私はこれにしようかしら」
「わあ! すごく綺麗!」
「ふふっ、ありがとう」
月乃が嬉しそうに微笑む。
陽向は商品を眺め、それからサイズ表示を見た。
「…………」
もう一度、表示を見る。
そして、自分が手に持っている商品のサイズ表示を確認した。
「…………」
陽向の表情が、少しずつ変わっていく。
茉梨。
千鶴。
翡翠。
月乃。
四人が持っている商品。
そして、自分の手元の商品。
陽向はゆっくりと顔を上げた。
「……ねえ、みんな」
「何だよ?」
茉梨が振り返る。
陽向は真剣な表情で四人を見回した。
「……もしかして」
「どうしましたの?」
千鶴が尋ねる。
次の瞬間――。
「私が一番小さい!?」
「声が大きいですわ!」
千鶴が慌てて注意した。
近くにいた買い物客が、ちらりとこちらを見る。
「だ、だって!」
陽向は慌てて声を落とした。
「みんなのサイズを見たら、私だけ……!」
「お前、そんなもん確認してたのかよ!」
茉梨が呆れたように言った。
「だって、気になっちゃったんだもん!」
「気になったとしても、大声で言うことじゃありませんわ!」
千鶴が頬を赤らめる。
月乃は困ったように微笑んだ。
「あらあら。そんなに驚くことかしら?」
「月乃ちゃんはいいよ! 背も高いし!」
「ふふっ、そう?」
「千鶴ちゃんも茉梨ちゃんも私より大きいし!」
「だから、何を今さら言ってんだよ」
茉梨が肩をすくめた。
陽向は最後に翡翠を見た。
「でも……翡翠ちゃんまで!」
「……?」
翡翠は首を傾げた。
「翡翠ちゃん、私より小さいのに!」
「……身長は」
「そう! 身長は!」
陽向が力強く頷く。
「なのに、どうして!?」
「……私に聞かれても」
翡翠は少し困ったように目を伏せた。
その様子を見た茉梨が、とうとう吹き出した。
「はははっ! お前、そんなこと気にしてたのかよ!」
「茉梨ちゃんだって私より大きいじゃん!」
「そりゃそうだろ!」
「ううっ……!」
陽向は肩を落とした。
千鶴が小さくため息をつく。
「陽向さん。人と比べる必要はありませんわ」
「そうよぉ。人それぞれなんだから」
月乃も優しく言った。
「……うん」
翡翠が小さく頷く。
陽向は四人を見回した。
「……そっか」
そして、ぱっと顔を上げる。
「よし! 気にしない!」
「立ち直るの早ぇな!」
「だって、気にしても仕方ないもん!」
陽向は笑った。
「それに、私は動きやすいし!」
「……まあ、それはそうだな」
茉梨も笑う。
千鶴は胸を撫で下ろした。
「もう少し静かにお買い物してくださいまし……」
陽向は可愛らしいリボンの付いた下着をもう一度眺めた。
「よし! やっぱりこれにする!」
「結局、最初に選んだものですのね」
「うん! 可愛いのが一番!」
その迷いのなさに、四人は思わず笑ってしまった。
料理だけは勘弁して
衣料品売り場を離れた五人は、生活用品売り場へ向かった。
食器や調理器具が並ぶ一角で、月乃が足を止める。
「あら、可愛い型ねぇ」
月乃が手に取ったのは、小さな花の形をした焼き菓子用の型だった。
「これなら、パウンドケーキを作る時にも使えそうね」
「月乃ちゃんって、お菓子作るの?」
陽向が尋ねた。
「ええ。マカロンやパウンドケーキを作るのが好きなの」
「へぇ! すごい!」
「陽向ちゃんたちは、お料理するのかしら?」
月乃が何気なく尋ねた。
「私は洋菓子を作ることが多いですわね」
千鶴が答える。
「あたしはクッキーとかスコーンだな」
茉梨も続いた。
「……私は、和菓子」
翡翠が小さく答える。
「まあ! 翡翠ちゃんは和菓子が得意なのね」
「……うん」
月乃は嬉しそうに微笑んだ。
そして、最後の一人へ視線を向ける。
「それで、陽向ちゃんは?」
「私?」
陽向が胸を張った。
「私はね――」
「「やめろ!!」」
茉梨と千鶴の声が重なった。
「えっ!?」
陽向が目を丸くする。
月乃も驚いた。
「あらあら、どうしたの?」
茉梨は額に手を当てた。
「……思い出させないでくれ」
千鶴も珍しく険しい表情をしていた。
「……あれは、二度と口にしたくありませんわ」
「ちょっと! 二人ともひどくない!?」
「何があったの?」
月乃が尋ねると、茉梨は遠い目をした。
「……昔、陽向が料理を作ってくれたことがあってな」
「まあ、素敵ね」
「……見た目はな」
千鶴が静かに付け加える。
「見た目は、とても美味しそうでしたわ」
「そうそう! ちゃんと美味しそうにできたんだよ!」
陽向が嬉しそうに頷いた。
しかし、千鶴の表情は晴れない。
「……ですが、一口食べた瞬間……」
そこで言葉が途切れた。
茉梨が両腕を組む。
「……あれを料理って呼んでいいのか、今でも分かんねぇ」
「そんなに!?」
月乃が目を丸くした。
翡翠は三人を交互に見つめていた。
「……何を、作ったの?」
「……聞くな、翡翠」
茉梨が即答した。
「……記憶から消したいんだ」
千鶴も静かに頷く。
「できることなら、私も忘れたいですわ」
「もう! 大げさだよ!」
陽向は頬を膨らませた。
「私だって頑張ったんだから!」
「頑張ったことは認める!」
茉梨が言った。
「でもな、頑張れば何でも食えるようになるわけじゃねぇんだよ!」
「うぅ……」
月乃は困ったように微笑んだ。
「でも、陽向ちゃんにも得意な家事はあるんでしょう?」
「あるよ!」
陽向はすぐに顔を上げた。
「掃除と洗濯!」
「あら、そうなの?」
「うん! どっちも普通にできるよ!」
千鶴が頷いた。
「それは本当ですわ。掃除も洗濯も、陽向さんはきちんとできますもの」
「ああ。むしろ、料理だけ何でああなるのか分かんねぇ」
茉梨も同意した。
「えへへ!」
陽向は得意げに笑った。
月乃が首を傾げる。
「でも、掃除と洗濯ができるなら、お料理も少し練習すればできそうなのにねぇ」
「……それができたら苦労しねぇんだよ」
茉梨が呟く。
「……本当に、不思議ですわ」
千鶴もため息をついた。
翡翠は少し考えてから、陽向を見上げた。
「……今度、一緒に作る?」
「えっ! いいの!?」
「……うん」
「やったー!」
陽向が嬉しそうに両手を上げる。
その瞬間、茉梨と千鶴が同時に翡翠を見た。
「翡翠! 考え直せ!」
「翡翠さん! どうか慎重に!」
「……?」
翡翠は不思議そうに首を傾げた。
月乃は口元に手を当て、楽しそうに笑っていた。
「ふふふっ。皆で作れば、きっと大丈夫よ」
「月乃! お前、まだ知らねぇからそんなこと言えるんだ!」
「月乃さん、どうか油断なさらないでくださいまし!」
「ちょっと! みんなひどいよー!」
陽向の抗議が、生活用品売り場に響いた。
休日の鬼教官
昼食を終えた五人は、ショッピングモールの屋外広場へ出た。
穏やかな日差しが降り注ぎ、広場には家族連れや買い物客の姿があった。
「いやぁ、食った食った!」
茉梨が満足そうに伸びをする。
「茉梨ちゃん、食べすぎじゃない?」
「お前に言われたくねぇよ!」
「えっ、何で!?」
そんなやり取りをしながら歩いていた時だった。
「……あれ?」
陽向が足を止めた。
広場の向こうに、見覚えのある女性がいた。
背筋を伸ばした立ち姿。
きびきびとした動作。
間違いない。
第31分隊の担当教官、鬼塚冬理だった。
鬼塚は朝の点呼を終えた後、校内でいくつかの書類仕事を片付けていた。その後、戸高校長から愛犬の散歩を任され、外出していたのである。
ただし――。
「よーしよし、マンチカン。今日もいい子だなぁ」
その声は、普段の鬼塚からは想像もできないほど優しかった。
鬼塚は大きなジャーマン・シェパードの頭を撫でながら、頬を緩ませていた。
「…………」
五人は立ち止まった。
「……鬼塚教官?」
陽向が呟く。
鬼塚の動きがぴたりと止まった。
ゆっくりと顔を上げる。
五人と目が合った。
「…………」
「…………」
数秒の沈黙。
「……ゴホン!」
鬼塚は大きく咳払いをした。
そして、何事もなかったかのように背筋を伸ばす。
「お前たち、ここで何をしている?」
「休日の外出です!」
陽向が反射的に答えた。
「そうか。休日であっても、軍学校の訓練生として節度ある行動を心がけ――」
「教官、その犬は?」
茉梨が尋ねた。
「……ジャーマン・シェパードだ」
「いや、それは分かりますけど」
茉梨は犬を見下ろした。
「名前、何ていうんですか?」
「……マンチカンだ」
「…………」
茉梨が固まった。
「……はい?」
「マンチカンだ」
「……マンチカン?」
「ああ」
「……それ、猫の種類じゃないですか?」
「…………」
鬼塚は答えなかった。
茉梨は改めて目の前の大型犬を見た。
立派な体格。
精悍な顔つき。
どう見てもジャーマン・シェパードである。
「……何でシェパードにマンチカンなんですか?」
「……」
「いや、正直、ネーミングセンスがないですか?」
「私ではない!」
鬼塚が慌てて否定した。
「その名前をお付けになったのは戸高校長だ! 私ではない!」
「戸高校長?」
陽向が首を傾げた。
千鶴が小さく口を開く。
「……市ヶ谷海軍軍学校の校長先生ですわよね?」
「そうだ。戸高友忠海軍中将。現在、本校の校長を務めておられる方だ」
「えっ!? 校長先生の犬なんですか!?」
陽向が驚いた。
「そうだ。マンチカンは戸高校長の愛犬だ。今日は私が散歩をお引き受けしている」
「へぇ……」
茉梨は改めてマンチカンを見た。
「じゃあ、この名前も校長先生が……」
「先ほどからそう言っているだろう!」
「いやぁ、まさか校長先生のネーミングセンスが……」
「黒木! それ以上は言うな!」
鬼塚の声が広場に響いた。
茉梨は慌てて口を閉じる。
しかし、その肩は小さく震えていた。
陽向も笑いをこらえている。
千鶴は口元に手を当て、月乃は楽しそうに微笑んでいた。
「……まったく」
鬼塚は咳払いをした。
「それより、お前たち。外出中とはいえ、訓練生としての自覚を――」
その時だった。
マンチカンが、ふらりと翡翠へ近づいた。
「……?」
翡翠は足元を見下ろした。
マンチカンは翡翠を見上げ、尻尾を振る。
そして鬼塚のところへ戻った。
かと思えば、また翡翠へ近づく。
「……?」
翡翠は首を傾げた。
マンチカンは再び鬼塚のもとへ戻り、また翡翠のところへやって来る。
それを何度か繰り返した。
「……遊びたいの?」
翡翠が小さく尋ねた。
マンチカンは嬉しそうに尻尾を振った。
翡翠は鬼塚を見上げる。
「……教官」
「何だ、雨宮?」
「……撫でても、いいですか?」
「……ああ。構わん」
翡翠はそっと手を伸ばした。
マンチカンは自分から頭を寄せてくる。
「……ふふっ」
翡翠が小さく笑った。
やがて翡翠は四人の輪から少し離れ、マンチカンと遊び始めた。
一方、鬼塚は残る四人へ向き直る。
「……さて、話を戻すぞ」
「はい!」
「休日であっても、軍学校の訓練生であることを忘れるな。規律ある行動を――」
「……くっ」
「黒木!」
「は、はい!」
「何がおかしい?」
「いえ! 何でもありません!」
茉梨は必死に表情を整えた。
月乃が穏やかに微笑む。
「とても可愛がっていらっしゃいましたもの」
「雪代!」
「はい?」
「……余計なことは言わんでよろしい」
鬼塚は姿勢を正した。
「いいか。私生活と軍学校での指導は別だ。そこを混同するな!」
「はい!」
四人の返事が揃う。
その少し離れた場所では――。
「……お手」
マンチカンが前足を差し出した。
「……上手」
翡翠はその前足を優しく握った。
マンチカンが尻尾を大きく振る。
「……いい子」
翡翠は嬉しそうに頭を撫でた。
鬼塚は思わずそちらを見た。
「……おお、マンチカン。上手にできたなぁ」
その声は、先ほどまでとはまるで違っていた。
四人が一斉に鬼塚を見る。
「…………」
「…………」
鬼塚は固まった。
「……ゴホン!」
再び咳払い。
「と、とにかく! 休日を有意義に過ごせ!」
「はい!」
陽向が元気よく答える。
茉梨は顔を背け、肩を震わせていた。
千鶴は口元に手を添え、月乃はにこにこと笑っている。
鬼塚は深く息を吐いた。
そして、もう一度翡翠の方を見る。
「……雨宮」
「……はい?」
「そろそろマンチカンを返してもらえるか?」
「……はい」
翡翠は少し名残惜しそうにマンチカンの頭を撫でた。
「……またね」
マンチカンは嬉しそうに尻尾を振った。
その様子を見た鬼塚の頬が、またわずかに緩む。
しかし、四人の視線に気づくと、すぐに表情を引き締めた。
「……ゴホン!」
鬼塚は咳払いをすると、何事もなかったかのように背筋を伸ばした。
「……まったく。歴代の訓練生には、一度たりとも知られたことがなかったというのに……」
ぼそりと呟く。
「……今日は少々、油断したな」
本人としては、誰にも聞こえない程度の独り言だった。
しかし――。
「……え?」
陽向が目を丸くした。
「教官、今まで一度もバレたことなかったんですか?」
「…………」
鬼塚の動きが止まった。
「……何の話だ?」
「いや、今そう言ってましたよね?」
茉梨がにやりと笑う。
「歴代の訓練生にはバレたことがないって」
「……聞こえていたのか?」
「ばっちり!」
陽向が元気よく答えた。
「…………」
鬼塚は片手で額を押さえた。
千鶴が興味深そうに尋ねる。
「ということは、教官はこれまで、ずっと犬がお好きなことを隠していらしたのですか?」
「隠していたわけではない!」
「では、どうして今まで知られなかったのでしょう?」
「……それはだな」
鬼塚は言葉に詰まった。
月乃が微笑む。
「ふふっ。もしかして、いつもは人前で犬を可愛がらないようにしていらっしゃるの?」
「雪代! 余計な詮索はするな!」
「あら、ごめんなさい」
月乃は楽しそうに笑った。
茉梨がさらに口を開く。
「じゃあ教官、あたしたちが初めてってことですか?」
「……」
「歴代初?」
「……黒木」
「はい?」
「……その話は、もう終わりだ!」
鬼塚が強引に言い切った。
「しかし教官――」
「終わりだと言っている!」
「は、はい!」
茉梨は反射的に姿勢を正した。
鬼塚は大きく息を吐いた。
「……いいか、お前たち」
五人を順番に見回す。
「今日、ここで見たことは他言無用だ」
「見たこと、ですか?」
千鶴が尋ねる。
「そうだ。特に……私とマンチカンのことだ」
鬼塚は少し言いにくそうに続けた。
「私が犬を好んでいることや、その……先ほどの様子を、ほかの訓練生に話す必要はない」
「へぇ……教官、やっぱり気にしてるんですね」
茉梨がにやりと笑った。
「黒木!」
「はい!」
「……余計なことは言わんでよろしい!」
月乃が穏やかに微笑む。
「大丈夫ですよぉ。私たちだけの秘密にしておきますから」
「……そうしてくれ」
鬼塚は小さく頷いた。
「……私も、言いません」
翡翠が静かに答える。
「うむ。頼んだぞ、雨宮」
千鶴も丁寧に頭を下げた。
「承知いたしましたわ、教官」
「私も誰にも言いません!」
陽向が胸を張る。
鬼塚はようやく安心したように息を吐いた。
「……よろしい。では、門限に遅れないよう帰校しろ」
「はい!」
五人の返事が揃う。
鬼塚はマンチカンのリードを持ち直した。
「……行くぞ、マンチカン」
その声は、いつもの厳しい教官のものだった。
しかし、歩き出した直後――。
「……いい子だ。帰ったらおやつにしような」
小さく漏れた優しい声を、五人は聞き逃さなかった。
「…………」
茉梨の肩が震える。
陽向が慌てて口を押さえる。
千鶴は目を伏せ、月乃はにこにこと笑っていた。
翡翠だけは、遠ざかるマンチカンを見ながら少し寂しそうに小さく手を振っていた。
鬼塚冬理。
第31分隊の厳格な担当教官。
歴代の訓練生に一度も知られなかったその秘密は、今日、五人の少女に知られてしまった。
そして、その秘密を知る五人が自分の担当する分隊にいるという事実が、鬼塚にとって新たな悩みの種となるのだった。
五人でいる時間
鬼塚と別れた五人は、再びショッピングモールの中へ戻った。
「いやぁ……まさか鬼塚教官がなぁ」
茉梨が思い出し笑いをする。
「茉梨ちゃん、まだ笑ってる!」
「だってよ! あの教官が『いい子だなぁ』って!」
茉梨は鬼塚の声色を真似しようとして、途中で吹き出した。
「茉梨さん。あまり教官をからかうものではありませんわ」
千鶴が注意する。
しかし、その口元にも笑みが浮かんでいた。
「千鶴だって笑ってんじゃねぇか!」
「わ、私は……!」
千鶴が言葉に詰まる。
月乃は楽しそうに微笑んだ。
「ふふっ。でも、意外な一面が見られたわねぇ」
「……マンチカン、かわいかった」
翡翠がぽつりと言った。
「そっちかよ!」
茉梨が突っ込む。
「……?」
翡翠は不思議そうに首を傾げた。
その様子に、五人はまた笑った。
やがて、窓の外が少しずつ夕暮れ色に染まり始めた。
「そろそろ帰らないといけませんわね」
千鶴が時計を確認する。
「えー、もう?」
陽向が残念そうに言った。
「門限があるんですもの。仕方ありませんわ」
「そうねぇ。帰りの時間も考えないと」
月乃が頷く。
茉梨は買い物袋を持ち直した。
「まあ、結構楽しめたしな」
「本当!?」
陽向が振り返った。
「……何だよ、急に」
「今日、楽しかった?」
「……ああ」
茉梨は少し照れくさそうに笑った。
「楽しかったよ」
「そっか!」
陽向の顔がぱっと明るくなる。
「よかった!」
茉梨はそんな陽向を見つめた。
「……お前さ」
「ん?」
「……いや、何でもない」
「えー! 気になる!」
「何でもねぇって!」
茉梨は先に歩き出した。
陽向が慌てて追いかける。
「待ってよ、茉梨ちゃん!」
「置いてくぞ!」
「それ、朝も言ってた!」
「だったら早く来い!」
千鶴と月乃は顔を見合わせて笑った。
翡翠も二人の背中を見つめ、小さく微笑んだ。
今日一日、陽向はいつも以上に賑やかだった。
買い物中も、食事中も、帰り道でも。
何かにつけて茉梨に話しかけ、笑わせようとしていた。
茉梨には、その理由が何となく分かっていた。
昨日、自分が少し元気をなくしていたから。
きっと、それだけのことなのだ。
陽向は昔から、そういうやつだった。
「……ありがとな」
茉梨が小さく呟いた。
「え?」
陽向が振り返る。
「何か言った?」
「何でもねぇよ!」
「えー! 絶対何か言った!」
「うるせぇ! 早く帰るぞ!」
「もう! 茉梨ちゃんってば!」
夕暮れの街に、二人の声が響く。
その後ろを、千鶴と月乃、そして翡翠が歩いていく。
五人が軍学校に戻った頃には、空はすっかり夕暮れ色に染まっていた。
買い物袋をそれぞれの部屋に置き、制服に着替える。
楽しかった休日も、もうすぐ終わりだ。
そして、夜の点呼。
第31分隊の四十名が整列する中、鬼塚冬理がいつも通りの厳しい表情で姿を現した。
「――全員、姿勢を正せ!」
鋭い号令が響く。
昼間、マンチカンの頭を撫でていた人物と同じとは思えない。
鬼塚は一人ひとりの姿勢を確認しながら、列の前を歩いていく。
「休日だからといって気を緩めるな。明日からは通常の訓練に戻る。各自、準備を怠らないように!」
「はい!」
四十名の声が揃う。
鬼塚の態度は、普段と何一つ変わらなかった。
少なくとも、本人はそのつもりだった。
しかし――。
「…………」
陽向。
「…………」
茉梨。
「…………」
千鶴。
「…………」
月乃。
「…………」
翡翠。
五人は整列したまま、鬼塚を見つめていた。
誰も何も言わない。
もちろん、笑ってもいない。
ただ、昼間の光景が頭から離れなかった。
『よーしよし、マンチカン。今日もいい子だなぁ』
あの優しい声。
あの緩んだ頬。
そして、猫の品種と同じ名前を持つ大きなシェパード。
鬼塚は列の前を歩きながら、ふと五人の視線に気づいた。
「…………」
一瞬、足が止まる。
五人と目が合った。
「…………」
「…………」
鬼塚は何事もなかったかのように視線を戻した。
「……ゴホン!」
いつもより、少し大きな咳払いだった。
「……以上! 各自、明日の訓練に備えろ!」
「はい!」
四十名が返事をする。
点呼は何事もなく終了した。
だが、解散した後――。
「……ぷっ」
茉梨が小さく吹き出した。
「茉梨ちゃん、だめだって!」
陽向が慌てて小声で注意する。
「お前だって笑いそうじゃねぇか!」
「そ、それは……!」
「陽向さん、茉梨さん。声を抑えてくださいまし」
千鶴も小声で注意するが、その口元は緩んでいた。
月乃がくすくすと笑う。
「ふふっ。教官、私たちのことを気にしていたみたいねぇ」
「……うん」
翡翠が小さく頷いた。
「……でも、秘密」
その一言に、四人は顔を見合わせた。
「……だな」
茉梨が笑う。
「うん! 五人だけの秘密!」
陽向も頷いた。
こうして、五人の休日は幕を閉じた。
特別な訓練も、難しい戦術もない。
ただ買い物をして、笑って、騒いだだけの一日。
けれど、その日の出来事は、五人にとって忘れられない思い出になった。
そして鬼塚冬理にとっても――。
おそらく、別の意味で忘れられない一日になったことだろう。
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