艦隊これくしょん ―海に咲く五つの志―   作:震殿

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最近、転勤して仕事の都合上これから不定期になります


第5話 優秀な落第生たち

 入校から一か月

午前六時。

市ヶ谷海軍軍学校の一日は、今日も規則正しく始まった。

起床、点呼、清掃、基礎体力訓練、朝食。

入校から一か月が経過し、訓練生たちは軍学校での生活に少しずつ慣れ始めていた。

もっとも、生活に慣れることと、訓練が楽になることは別問題である。

「うぅ……足が痛い……」

朝食を終えた山本陽向は、食堂の椅子に座りながら情けない声を上げた。

「朝から何言ってんだよ」

隣に座る黒木茉梨が呆れたように言う。

「だって茉梨ちゃん! 今日の朝練、いつもより厳しかったと思わない?」

「いつもと変わんねぇだろ」

「えぇーっ!?」

「陽向さん、朝から随分と元気ですわね」

橘千鶴が穏やかに微笑む。

「千鶴ちゃんまでぇ……」

「ふふっ。陽向ちゃん、元気があるのはいいことよ」

雪代月乃は楽しそうに笑っていた。

その隣では、雨宮翡翠が静かに朝食を食べている。

「翡翠ちゃんはどうだった?」

陽向が尋ねる。

「……普通」

「えっ、普通なの!?」

「……うん」

「翡翠ちゃんって、結構体力あるよね……」

翡翠は小さく首を傾げた。

そんな五人のやり取りは、入校から一か月の間にすっかり日常の光景となっていた。

性格も、育った環境も、考え方も違う五人。

それでも、気づけば一緒に食事を取り、休憩時間を過ごすことが増えていた。

「そういえば、今日の午前中は戦術の授業だったよね?」

陽向が尋ねる。

「そうですわ。確か、これまでの講義内容を応用する実習だったはずです」

千鶴が答えた。

「おっ、ようやく実戦形式か!」

茉梨の目が輝く。

「楽しみだな!」

「茉梨ちゃん、そういうの好きだよねぇ」

「当たり前だろ。座学ばっかりじゃ退屈なんだよ」

「私は座学も好きですけれど」

千鶴が苦笑する。

「……実習」

翡翠が小さく呟いた。

「どうしたの、翡翠ちゃん?」

「……何でもない」

「そっか!」

陽向は笑顔で頷いた。

翡翠も、ほんのわずかに表情を緩めた。

その時だった。

食堂の壁に掛けられた時計が、午前七時四十分を示した。

「あっ! そろそろ行かなきゃ!」

陽向が立ち上がる。

「急がなくても間に合うだろ」

「でも、遅刻したら鬼塚教官に怒られるよ!」

「……それは嫌だな」

茉梨も立ち上がった。

「では、参りましょうか」

千鶴が席を離れる。

「翡翠ちゃん、行きましょう?」

月乃が声をかけた。

「……はい」

五人は食堂を後にした。

今日も、いつもと変わらない一日が始まる。

少なくとも、四人はそう思っていた。

---

 消したはずの名前

教室へ向かう途中、翡翠は一度だけ足を止めた。

「……あ」

「どうしたの、翡翠ちゃん?」

陽向が振り返る。

「……教科書」

「忘れたの?」

「……うん」

「じゃあ、一緒に取りに行こうか?」

「……大丈夫」

翡翠は小さく首を振った。

「先に、行ってください」

「そう? じゃあ教室で待ってるね!」

陽向は笑顔で手を振った。

「遅れんなよ、翡翠」

茉梨が言う。

「……うん」

四人の背中が廊下の角へ消えていく。

翡翠はしばらくその方向を見つめてから、静かに歩き始めた。

しかし、数歩進んだところで声がした。

「ねえ、雨宮さん」

翡翠は足を止めた。

振り返ると、三人の女子訓練生が立っていた。

同じ第31分隊に所属する訓練生たちだった。

「……何でしょうか」

「最近、随分楽しそうじゃない?」

一人が笑った。

「山本さんたちと、ずいぶん仲良くしてるみたいね」

「……」

「知らないんでしょうね、あの四人」

別の女子訓練生が口を開いた。

「あなたが誰の娘なのか」

翡翠の指先が、わずかに動いた。

「……何の話ですか」

「とぼけなくてもいいのに」

女子訓練生が一歩近づく。

「東郷司令の娘でしょう、あなた」

廊下には、朝の授業へ向かう訓練生たちの足音が響いていた。

しかし、三人は周囲の目を気にする様子もなかった。

「昔は英雄の娘って呼ばれてたんですって?」

一人が口元を歪める。

「それが今じゃ、失敗者の娘だなんてね」

「……」

「お父さんの名前が恥ずかしくて、姓まで変えたんでしょう?」

翡翠は俯かなかった。

ただ、静かに相手を見つめていた。

「……私は、雨宮です」

「そんなこと、知ってるわよ」

女子訓練生が笑う。

「でも、東郷の娘であることは変わらないでしょう?」

「……」

「あなたのお父さんのせいで、何人亡くなったと思っているの?」

翡翠の唇が、わずかに動いた。

けれど、言葉にはならなかった。

父の失敗。

失われた命。

崩れていった家族の生活。

母の死。

そして、捨てた名前。

忘れたことなど、一度もなかった。

「……授業がありますので」

翡翠は静かに頭を下げた。

「失礼します」

そのまま三人の横を通り過ぎる。

背後から声が飛んだ。

「名前を変えたって、過去は消えないのよ」

翡翠は立ち止まらなかった。

ただ、教科書を抱える腕に、少しだけ力が入った。

---

教室に戻ると、陽向がすぐに気づいた。

「あっ、翡翠ちゃん! おかえり!」

「……ただいま」

「教科書、見つかった?」

「……うん」

「よかった!」

陽向は嬉しそうに笑った。

翡翠は自分の席へ向かう。

その途中、先ほどの三人のうち一人が教室に入ってきた。

目が合った。

相手は小さく笑った。

翡翠は何も言わず、視線を逸らした。

「……翡翠ちゃん?」

千鶴が声をかける。

「お顔の色が、少し優れないようですが……」

「……大丈夫です、橘さん」

「本当ですの?」

「……はい」

翡翠は静かに頷いた。

千鶴は少し気になったものの、それ以上は尋ねなかった。

やがて、始業の鐘が鳴った。

---

 集団戦術実習

「全員、起立!」

陽向の号令が教室に響いた。

四十名の女子訓練生が一斉に立ち上がる。

教室に入ってきたのは、鬼塚冬理教官だった。

「着席!」

椅子を引く音が揃った。

鬼塚は教壇に立ち、訓練生たちを見渡した。

「本日は、これまで学んだ戦術基礎を応用した集団実習を行う」

教室の空気が引き締まる。

「今回の課題は、五名一組による模擬作戦だ」

茉梨が小さく笑った。

「ようやくか」

鬼塚は黒板に大きく文字を書いた。

集団戦術実習

「第31分隊四十名を、五名ずつ八班に分ける」

陽向が小さく手を挙げた。

「教官! 班は自由に組んでもいいんですか!」

「許可しない」

即答だった。

「えぇっ!?」

「班分けは訓練生番号順とする。私情による変更は認めん」

鬼塚は名簿を掲示した。

「諸君は将来、艦娘を率いる立場になる。気の合う者だけを選んで部隊を編成できると思うな」

「……はい」

陽向は肩を落とした。

名簿を確認すると、五人は全員別々の班に配属されていた。

「本当にバラバラだね……」

「別にいいだろ」

茉梨が肩をすくめる。

「訓練なんだからよ」

「それはそうだけど……」

「陽向さん。今回は、それぞれの力を試すよい機会ですわ」

千鶴が微笑んだ。

「そうねぇ。終わったら、また皆でお話ししましょう?」

月乃も頷く。

「……うん」

翡翠が小さく答えた。

鬼塚は教壇を叩いた。

「私語を慎め!」

教室が静まり返る。

「本日の実習では、班としての任務達成を最優先とする。個人がどれほど優秀でも、班として失敗すれば高い評価は与えられない」

鬼塚は四十名を見渡した。

「指揮官に必要なのは、正しい判断を下す能力だけではない。その判断を部下に伝え、組織として行動させる能力だ」

その言葉を、五人はそれぞれ違う思いで聞いていた。

---

 八つの班

実習室には、八つの大型戦術盤が並んでいた。

盤面には、島々と海域、輸送航路、そして味方艦隊の配置が表示されている。

今回の課題は、敵艦隊の侵攻から重要輸送航路を防衛することだった。

味方艦隊は敵より少数。

正面からの戦闘では不利な状況に置かれている。

各班には二十分の作戦立案時間が与えられ、その後、模擬戦闘が開始される。

敵の行動は教官側が操作するため、事前の想定通りに進むとは限らない。

「作戦開始まで二十分!」

鬼塚の声が響いた。

「各班、準備に入れ!」

訓練生たちは一斉に動き始めた。

陽向は班員たちへ笑顔で声をかける。

「よろしくね! みんなで頑張ろう!」

茉梨は早速、敵の配置を確認していた。

「……なるほどな」

千鶴は資料を広げ、丁寧に作戦を考え始める。

月乃は海域図を眺めながら、静かに敵の進路を予測していた。

そして、翡翠。

彼女は自分の班の戦術盤へ向かった。

そこには、四人の女子訓練生がいた。

朝、廊下で翡翠を呼び止めた三人も含まれていた。

「……よろしくお願いします」

翡翠が小さく頭を下げる。

しかし、誰も返事をしなかった。

「ねえ、作戦どうする?」

一人が口を開く。

「中央を固めればいいんじゃない?」

「でも、左右にも戦力を分けた方がいいと思うけど……」

四人は翡翠を無視して話し始めた。

翡翠は静かに戦術盤を見つめた。

「……あの」

返事はない。

「……敵の配置ですが」

「ねえ、そっちの資料を見せてくれる?」

翡翠の声を遮るように、班員が言った。

資料が四人の間で回される。

翡翠には渡されなかった。

「……」

彼女は何も言わず、盤面へ視線を戻した。

敵艦隊の初期配置。

中央に展開する主力らしき艦影。

左右の海域。

そして、敵の進路を制限する島々。

翡翠の目が、ある一点で止まった。

「……中央は、囮」

小さな声だった。

四人のうち一人が振り返る。

「何か言った?」

「……中央の敵艦隊は、囮だと思います」

「え?」

「……右側から、主力が来る可能性が高いです」

班員は一瞬、翡翠を見つめた。

そして、鼻で笑った。

「誰があなたに意見を求めたの?」

「……」

「私たちは私たちで考えているの。余計な口出しはしないでくれる?」

別の班員が言う。

「東郷司令の娘に、作戦を任せられるわけないじゃない」

「……」

翡翠は口を閉じた。

四人は再び作戦会議を始めた。

翡翠だけが、その輪の外に立っていた。

---

 陽向――誰も置いていけない

陽向の班は、順調な滑り出しを見せていた。

「敵の主力が中央から来るなら、左右に戦力を分けて挟み込もう!」

陽向が提案する。

「でも、それだと輸送航路が手薄にならないかな?」

班員が尋ねた。

「中央に予備戦力を残せば大丈夫だよ!」

陽向は素早く配置を変更した。

その判断は悪くなかった。

模擬戦闘が始まると、敵の先鋒は陽向たちの迎撃によって進路を阻まれた。

「やった!」

班員たちが喜ぶ。

しかし、敵の増援が現れたことで状況が変わった。

味方の一部が孤立し、損傷が増えていく。

「山本さん! この部隊は撤退させた方がいいと思う!」

班員の一人が言った。

「中央の防衛線が薄くなっちゃうよ!」

しかし、陽向は首を横に振った。

「待って! まだ助けられるよ!」

「でも、今から救援に向かったら――」

「置いていけない!」

陽向は即座に答えた。

「まだ戦ってるんだよ! 助けられるなら助けなきゃ!」

班員たちは一瞬、言葉を失った。

仲間を見捨てたくない。

その思いは、決して間違っていない。

だが、救援のために予備戦力を動かしたことで、中央の防衛線に隙間が生まれた。

そこへ敵の別働隊が侵入する。

「山本さん! 中央が突破されちゃう!」

「えっ!?」

陽向が振り返る。

しかし、間に合わなかった。

敵艦隊は輸送航路へ到達した。

戦術盤に赤い文字が表示される。

『作戦失敗』

「……あ」

陽向は呆然と盤面を見つめた。

「……助けたかっただけなのに」

班員の一人が、静かに言った。

「山本さんの気持ちは分かるよ。でも、私たちの任務は輸送航路を守ることだったんだよね……」

「……うん」

陽向は俯いた。

誰も置いていきたくない。

それは彼女の長所だった。

しかし、すべてを守ろうとした結果、本来守るべきものを失ってしまった。

---

 茉梨――速すぎる決断

「敵が来るのを待つ必要なんかねぇだろ!」

茉梨は戦術盤を指差した。

「先に叩けばいいんだよ!」

「でも、敵の全戦力が分かっていないよ?」

班員が反論する。

「だからこそだ! 先手を取れば相手の動きを崩せる!」

茉梨の判断には合理性があった。

敵の先鋒を早期に撃破できれば、主力の進軍を遅らせることができる。

問題は、その判断を班員全員が理解していなかったことだった。

「黒木さん、もう少し説明してくれない?」

「説明してる時間がもったいねぇ!」

「でも、私たちも作戦を理解していないと――」

「いいから、ここを攻めるんだよ!」

茉梨は盤上の艦隊を動かした。

模擬戦闘開始。

敵の先鋒が現れる。

「ほらな!」

茉梨は笑った。

「今だ! 一気に叩け!」

味方艦隊が敵へ突撃する。

最初の攻撃は成功した。

敵の先鋒は混乱し、進路を変更する。

「よっしゃ!」

しかし――。

「黒木さん! 後続が追いついてないよ!」

班員が叫んだ。

「何でだよ!」

「まだ移動指示が終わってないの!」

茉梨が先行させた艦隊と、後続の艦隊の間に大きな距離が生まれていた。

そこへ、敵の主力が現れる。

「……ちっ!」

茉梨は慌てて後退を指示した。

だが、間に合わなかった。

先行部隊は敵に包囲され、戦闘不能となった。

防衛線は崩壊した。

『作戦失敗』

「……くそっ!」

茉梨が机を叩く。

「最初の攻撃は成功してたのに……!」

班員が疲れたように言った。

「黒木さん、あなたの判断は速かったよ。でも、私たちがついていけなかったの」

「……」

茉梨は言い返そうとした。

しかし、言葉が出なかった。

自分の判断は間違っていなかった。

少なくとも、最初の一手は成功していた。

けれど、仲間が理解する前に動いてしまった。

速さは武器になる。

しかし、仲間を置き去りにする速さでは、部隊は動かない。

---

 千鶴――完璧を求めすぎて

千鶴の班は、作戦開始前から緻密な計画を立てていた。

「敵が中央から進軍した場合は、こちらの配置で対応できますわ」

千鶴が資料を示す。

「では、敵が左右に分かれた場合はどうしますか?」

班員が尋ねた。

「その場合はこちらですわ」

千鶴は別の作戦図を取り出した。

「敵が増援を投入した場合も、予備戦力を使えば対応可能です」

「すごいですね、橘さん……」

班員たちは感心していた。

千鶴の作戦は緻密だった。

想定される敵の動きに対して、複数の対処法が用意されている。

しかし、問題があった。

「橘さん、私たちは何を担当すればいいですか?」

班員の一人が尋ねた。

「少々お待ちくださいまし。全体の配置を確認してから決めますわ」

「ですが、もう時間が……」

「大丈夫です。私が整理いたしますから」

千鶴は資料を確認し続けた。

班員たちも手伝おうとする。

しかし、千鶴はそのたびに言った。

「お気遣いなく。私が責任を持って確認いたしますわ」

彼女に悪気はなかった。

むしろ、班員たちに負担をかけたくなかった。

自分がしっかり準備すれば、皆が安心して動ける。

そう考えていた。

しかし――。

「橘さん! 作戦開始まであと一分です!」

「……え?」

千鶴が時計を見る。

準備時間が、ほとんど残っていなかった。

「では、皆さん。こちらの配置で――」

「待ってください! 私たち、まだ自分の役割を聞いていません!」

「……!」

千鶴の表情が変わった。

慌てて指示を出す。

しかし、複雑な作戦を短時間で伝えることはできなかった。

模擬戦闘が始まる。

班員たちは千鶴の指示を待ち続けた。

その間にも、敵艦隊は進軍する。

「橘さん! 次はどうすればいいですか!」

「少々お待ちください!」

千鶴は資料を確認する。

しかし、想定していなかった敵の動きに対応するため、さらに考える時間が必要だった。

そして――。

『作戦失敗』

千鶴は静かに目を伏せた。

「……申し訳ありません」

班員たちは顔を見合わせた。

「いえ、橘さんの作戦は素晴らしかったと思います」

「でも、全部一人でやろうとしなくてもよかったんじゃないでしょうか?」

「……」

千鶴は唇を結んだ。

責任を果たそうとした。

誰にも負担をかけたくなかった。

けれど、その結果、仲間が力を発揮する機会を奪ってしまった。

完璧な計画を立てることと、部隊を動かすこと。

それは、必ずしも同じではなかった。

---

 月乃――伝わらない信頼

月乃の班は、比較的落ち着いた雰囲気だった。

「敵が来るまで、少し待ってみましょうか」

月乃が穏やかに提案する。

「待つの?」

班員が首を傾げた。

「ええ。敵の動きを見てから、必要なところに戦力を動かすの」

「なるほど……」

月乃の考えは、無理に攻撃せず、敵の動きを見極めるものだった。

味方の損害を抑えながら、必要な場面で迎撃する。

実際、模擬戦闘が始まると、その判断は効果を発揮した。

敵の先鋒が接近する。

「雪代さん! 攻撃した方がいいかな?」

「まだ大丈夫よ」

「でも、敵が近づいてるよ?」

「うん。もう少しだけ」

月乃は穏やかに答えた。

敵がさらに接近する。

「雪代さん、本当に大丈夫?」

「ええ」

月乃は戦術盤を見つめた。

彼女には、敵がどの方向へ進むのか、おおよその見当がついていた。

しかし、その理由を班員たちに十分説明していなかった。

「……もう少し、右に寄ってもらえる?」

「右?」

「ええ。少しだけ」

「どのくらい?」

「そうねぇ……少し」

班員は困ったように顔を見合わせた。

「雪代さん、もう少し具体的に教えてほしいな」

「……あら」

月乃は少し驚いた。

自分の中では、必要な配置が見えていた。

だから、最小限の指示で十分だと思っていた。

しかし、班員たちには、その意図が伝わっていなかった。

「敵が動いたよ!」

班員が叫ぶ。

「今よ。左側の部隊を動かして」

「左? さっき右って言わなかった?」

「右に寄せた部隊はそのままで、左側の予備戦力を――」

「待って! どっちを動かせばいいの!?」

指示が混乱する。

その間に、敵艦隊は防衛線の隙間へ進入した。

「……あらあら」

月乃が小さく呟く。

敵の動きは、ほぼ予想通りだった。

けれど、味方を思い通りに動かすことができなかった。

『作戦失敗』

月乃はしばらく戦術盤を見つめていた。

「……ごめんなさいね」

班員が首を振る。

「雪代さんの考えが悪かったわけじゃないと思うよ」

「ただ、何を考えているのか、もう少し教えてほしかったな」

「……そうねぇ」

月乃は静かに頷いた。

仲間を信頼すること。

自由に動ける余地を残すこと。

それは、月乃の長所だった。

しかし、信頼しているからこそ、伝えなければならないこともある。

---

 翡翠――聞かれなかった答え

翡翠の班では、作戦開始前から異様な空気が漂っていた。

四人の女子訓練生たちは、翡翠を除いて作戦を立てていた。

「中央を固めた方がいいと思うわ」

「敵の主力は中央でしょう?」

「左右には最低限の戦力だけ残せばいいんじゃない?」

翡翠は戦術盤を見つめた。

敵の配置。

海域の地形。

そして、敵の進軍方向。

「……あの」

誰も振り返らない。

「……中央は、囮だと思います」

「……」

「……右側から、敵の主力が来る可能性が高いです」

班員の一人が、ようやく翡翠を見た。

「あなた、まだそんなこと言ってるの?」

「……はい」

「だから、あなたの意見なんか聞いてないって言ってるでしょう?」

「……でも」

「でも、じゃないわよ」

別の班員が割り込む。

「東郷司令の娘が、偉そうに作戦を語らないでくれる?」

翡翠は口を閉じた。

「お父さんみたいに、味方を全滅させるつもりなの?」

四人の間から、小さな笑い声が漏れた。

「……」

翡翠は戦術盤へ視線を落とした。

それでも、もう一度だけ口を開いた。

「……右側の防衛を、厚くした方がいいです」

「しつこいわね」

一人が苛立ったように言う。

「あなたは余計なことをしないで」

「……」

「私たちの作戦に口を出さないで。分かった?」

翡翠はしばらく黙っていた。

そして、小さく頷いた。

「……分かりました」

四人は再び作戦会議を始めた。

翡翠には、最後まで役割が与えられなかった。

---

模擬戦闘が始まった。

敵の先鋒が中央から接近する。

「ほら、見なさい!」

班員の一人が笑った。

「やっぱり中央じゃない!」

「中央に戦力を集中させて!」

味方艦隊が中央へ移動する。

翡翠は黙って盤面を見つめていた。

敵の先鋒は、味方の防衛線に接近すると、突然進路を変更した。

「……あれ?」

班員の一人が首を傾げた。

「何、あの動き?」

敵の先鋒が中央から離れ始める。

その直後だった。

戦術盤の右側に、新たな敵艦隊が出現した。

「なっ……!」

「右側から敵の主力!?」

班員たちが固まる。

翡翠の予測通りだった。

「右側の防衛が薄い!」

「中央の部隊を戻して!」

「間に合わない!」

四人は慌てて指示を出し始めた。

しかし、すでに遅かった。

右側から侵入した敵主力は、防衛線を突破した。

「もうっ!」

「どうしてこんなことに……!」

敵艦隊は、そのまま輸送航路へ到達した。

戦術盤に赤い文字が浮かび上がる。

『作戦失敗』

しばらく、誰も口を開かなかった。

やがて、一人の班員が机を叩いた。

「……もう!」

「中央に戦力を集めすぎたのよ!」

「あなたが中央を固めようって言ったんでしょう!」

「何よ! あなたも賛成したじゃない!」

四人は互いの判断を責め始めた。

その様子を、翡翠は静かに見つめていた。

やがて、一人の訓練生が翡翠へ目を向けた。

「……そうだわ」

「……?」

「あなたのせいでしょう、雨宮さん」

翡翠は目を瞬かせた。

「……え?」

「あなたがちゃんと動かなかったから負けたのよ!」

「……私は、右側から敵が来ると……」

「言い訳しないで!」

翡翠の言葉は、最後まで聞いてもらえなかった。

「あなたが班の足を引っ張ったんじゃない!」

「そもそも、あなたみたいな人がこの班にいること自体、間違いだったのよ!」

「東郷司令の娘なんかと一緒にされた時点で、私たちは運が悪かったんだよ!」

翡翠は何も答えなかった。

「もっとちゃんと説明してくれていれば、こんなことにはならなかったのに!」

「……」

翡翠は、作戦開始前のことを思い返していた。

中央は囮だと伝えた。

右側から敵の主力が来ると伝えた。

防衛を厚くするよう提案した。

しかし、彼女たちは聞こうとしなかった。

それでも、今ここで何を言っても、彼女たちは認めないだろう。

「……ごめんなさい」

翡翠は小さく頭を下げた。

その一言を聞いた班員たちは、さらに勢いづいた。

「ほら! 本人も認めてるじゃない!」

「最初からあなたが余計なことをしなければよかったのよ!」

翡翠は何も言わなかった。

「……失礼します」

静かに頭を下げ、その場を離れようとする。

「ちょっと、逃げるつもり?」

背後から声が飛んだ。

「お父さんと同じね!」

その言葉に、翡翠の足が止まった。

ほんの一瞬。

しかし、彼女は振り返らなかった。

再び歩き始めた翡翠の表情は、いつもと変わらないように見えた。

ただ、制服の袖を握る指先にだけ、わずかな力が込められていた。

---

 五人の反省会

実習終了後。

第31分隊の訓練生たちは、教室へ戻っていた。

鬼塚は教壇に立ち、八班の結果を確認していた。

「今回の実習では、八班中、三班が任務を達成した」

教室がざわつく。

「残る五班は、いずれも任務失敗だ」

陽向たち五人は、それぞれ別の席で静かに聞いていた。

「だが、失敗した班の中にも、優れた判断はあった」

鬼塚は資料をめくる。

「敵の行動を正確に予測した者。効果的な先制攻撃を行った者。綿密な防衛計画を立案した者」

五人は、思わず顔を上げた。

「しかし、それらの判断が班全体の成功につながったとは限らない」

鬼塚は教室を見渡した。

「なぜだと思う?」

誰も答えなかった。

「優秀な判断を下すことと、優秀な指揮官であることは違うからだ」

鬼塚の声が響く。

「諸君は一人で戦うわけではない。指揮官となれば、部下の命を預かることになる」

鬼塚は黒板に二つの言葉を書いた。

個人の能力

集団の能力

「個人の能力が高くとも、それを集団の力に変えられなければ意味がない」

そして、訓練生たちを見渡した。

「今日の失敗を忘れるな。なぜ失敗したのかを考え、次の訓練に生かせ」

「はい!」

四十名の返事が揃った。

---

その日の夕方。

訓練を終えた五人は、校内の中庭に集まっていた。

「……はぁ」

陽向が大きくため息をついた。

「難しかったなぁ、今日の実習」

「……ああ」

茉梨が腕を組む。

「あたしも失敗した」

「茉梨ちゃんも?」

「おう。先に攻撃したら、後続がついてこなかった」

「それは……大変でしたわね」

千鶴が小さく頷く。

「千鶴ちゃんは?」

陽向が尋ねた。

「私は……作戦を考えることに集中しすぎて、皆さんへの指示が遅れてしまいましたわ」

「千鶴ちゃんでも、そんなことあるんだね」

「……ええ」

千鶴は少し寂しそうに微笑んだ。

月乃が穏やかに口を開く。

「私も、皆に考えが伝わらなかったの」

「月乃ちゃんも?」

「ええ。自分では分かっているつもりでも、皆には分からないことがあるのねぇ」

「……私も」

翡翠が小さく呟いた。

四人が振り返る。

「翡翠ちゃんも失敗したの?」

陽向が尋ねた。

「……うん」

「何があったんだ?」

茉梨が尋ねる。

翡翠は少し考えてから答えた。

「……敵が来る場所、分かってた」

「えっ! すごいじゃん!」

陽向が目を輝かせる。

「……でも、伝わらなかった」

「……なるほどな」

茉梨が頷いた。

「説明って難しいよな」

翡翠は小さく頷いた。

「……うん」

それ以上、何も言わなかった。

班員たちが自分の意見を無視したこと。

東郷司令の娘だと侮辱されたこと。

そして、敗北の責任をすべて押しつけられたこと。

そのどれも、四人には話さなかった。

「……難しいね」

陽向が呟いた。

「みんなで戦うって」

「……そうだな」

茉梨が答える。

「一人だったら、もっと上手くできた気がするんだけどな」

「でも、指揮官は一人で戦うわけではありませんもの」

千鶴が静かに言った。

「……そうねぇ」

月乃が頷く。

翡翠は夕暮れの空を見上げた。

「……一人じゃ、守れない」

その言葉に、四人が翡翠を見た。

翡翠は少しだけ目を伏せる。

「……全部は」

陽向はしばらく考えた。

そして、突然顔を上げた。

「……よし!」

「何だよ、急に」

茉梨が尋ねる。

「次は絶対、成功させよう!」

陽向は四人を見回した。

「みんなも、そう思うでしょ?」

「当たり前だろ!」

茉梨が笑った。

「私も、今回の反省を生かしたいですわ」

千鶴も頷く。

「ふふっ。そうねぇ」

月乃が微笑んだ。

「……うん」

翡翠も小さく答えた。

陽向は嬉しそうに笑った。

「じゃあ、決まり!」

五人は顔を見合わせた。

まだ、互いの能力を十分に理解しているわけではない。

それぞれの考え方も、戦い方も違う。

けれど、少なくとも一つだけは同じだった。

次こそは、仲間と共に任務を成功させたい。

その思いだった。

---

 鬼教官の記録

同じ頃。

教官室では、鬼塚冬理が今日の実習記録を整理していた。

机の上には、第31分隊四十名の評価資料が並んでいる。

鬼塚は五枚の記録用紙を抜き出した。

山本陽向。

個人の判断力は良好。

仲間を守ろうとする意識が強く、周囲をまとめる力もある。

しかし、救援を優先するあまり、任務全体の優先順位を見失う傾向がある。

黒木茉梨。

状況判断が速く、攻撃的な戦術に優れる。

先制攻撃の判断も的確。

しかし、独断で行動する傾向が強く、班員との連携に問題がある。

橘千鶴。

戦術立案能力が高く、計画も緻密。

想定される状況への対応力も優れている。

しかし、責任を一人で抱え込み、班員への役割分担が不十分。

雪代月乃。

敵の行動を見極める能力に優れ、損害を抑える判断ができる。

しかし、指示が簡潔すぎるため、班員に意図が伝わりにくい。

雨宮翡翠。

鬼塚は最後の記録用紙を手に取った。

敵の意図を読み取る能力が非常に高い。

今回の実習でも、敵主力の進路を事前に予測していた。

しかし、班員との意思疎通に問題がある。

鬼塚は資料をめくった。

そこには、翡翠の班員四人が提出した報告があった。

『敗因は雨宮翡翠の判断ミスにある』

『雨宮が作戦会議に協力しなかった』

『雨宮の行動が班の足を引っ張った』

四人の報告は、ほとんど同じ内容だった。

鬼塚は眉をひそめた。

「……妙だな」

翡翠は、敵主力の進路を事前に予測していた。

その記録は、戦術盤の操作履歴にも残っている。

にもかかわらず、班員四人は翡翠が敗因だと主張している。

「……全員が、雨宮の責任だと?」

鬼塚はしばらく資料を見つめた。

「……ふむ」

何かがおかしい。

しかし、現時点では確証がなかった。

鬼塚は記録用紙を机に置いた。

「……継続観察が必要だな」

そして、五人の記録を重ねた。

個人能力だけを見れば、いずれも優秀だった。

特に、戦術判断に関しては、ほかの訓練生より優れた部分がある。

だが――。

「……全員、班としては失敗か」

鬼塚は小さく呟いた。

五人とも、異なる長所を持っている。

そして、その長所と表裏一体の弱点も抱えていた。

ただし、雨宮翡翠については、ほかの四人とは事情が異なる可能性がある。

鬼塚は最後に、五人の記録へ短い一文を書き加えた。

『個人能力は高いが、集団行動に課題あり。継続観察を要する』

そして、翡翠の記録にだけ、別の一文を付け加えた。

『班員の報告内容と実習記録に相違あり。要確認』

窓の外では、夕日が校舎を赤く染めていた。

鬼塚は静かに資料を閉じた。

---

 誰にも言えないこと

その日の夜。

消灯時刻を迎えた軍学校は、静寂に包まれていた。

訓練生たちは、それぞれの寝台で眠りについている。

翡翠もまた、自分の寝台に横になっていた。

薄暗い天井を見つめる。

今日の実習。

班員たちの言葉。

そして、朝の廊下で聞いた言葉。

『東郷司令の娘でしょう、あなた』

『お父さんみたいに、味方を全滅させるつもりなの?』

『あなたのせいで負けたのよ』

翡翠は静かに目を閉じた。

名前を変えた。

東郷という姓を捨て、雨宮として生きることを選んだ。

それでも、過去は追いかけてくる。

父の失敗。

母の死。

失われた家族。

そして、自分に向けられる憎しみ。

「……」

翡翠は寝返りを打った。

今日、陽向たちは笑っていた。

茉梨は悔しそうにしていた。

千鶴は自分の失敗を反省していた。

月乃は穏やかに皆を励ましていた。

四人は、優しかった。

だからこそ――。

「……言えない」

翡翠は小さく呟いた。

自分が東郷司令の娘だと知ったら。

父の過去を知ったら。

四人も、同じように自分を責めるのだろうか。

そんなことはないと、思いたかった。

けれど、確かめる勇気はなかった。

翡翠は布団を少しだけ引き上げた。

「……おやすみなさい」

誰に向けたわけでもない、小さな言葉。

返事はなかった。

やがて、翡翠は静かに目を閉じた。

---

この日、五人は別々の班で失敗した。

陽向は、仲間を見捨てられなかった。

茉梨は、仲間より先に進みすぎた。

千鶴は、責任を一人で抱え込んだ。

月乃は、自分の考えを十分に伝えられなかった。

そして翡翠は――。

正しい答えを見つけながらも、その声を聞いてもらえなかった。

五人はまだ知らない。

やがて、自分たちが同じ小隊に集められることを。

そして、互いの長所と弱点を理解し、一つの部隊として成長していくことを。

しかし、その日が訪れるまでには、まだ多くの困難が待ち受けていた。

特に、一人の少女が抱える過去と苦しみについて、ほかの四人はまだ何も知らなかった。

それでも、五人の運命は少しずつ近づいていた。

五つの異なる才能。

五つの異なる過去。

そして、まだ誰も知らない、五つの志。

彼女たちの物語は、まだ始まったばかりだった。

第五話 優秀な落第生たち 完




最初この海に咲く五つの志を書く前の設定作成段階では翡翠しか登場しない予定でしたが、楽しくなり過ぎて茉莉を増やして千鶴、陽向、月乃とどんどん増えて来て
海に咲く五つの志が出来上がりました

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  • 黒木茉莉
  • 橘千鶴
  • 山本陽向
  • 鬼塚教官
  • 戸高校長
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