尾形百之助の受難   作:Mねぇ

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有坂百之助の金塊争奪戦

 

 

 

 

「霞子…和田大尉殿が消息不明になった」

 

『まぁ、穏やかではありませんわね』

 

「後任の大尉が派遣されてくるまで、俺が中隊を指揮しろと言われたんだが…何故俺なんだ、中隊どころか大隊で見たって中尉の中じゃ一番の若輩だ」

 

『元々百之助様は大尉に昇進しても可笑しくない功績を日露戦争で残しておいでですよ。二百三高地での第七師団の損耗具合を聞くに、小隊ごと全滅した隊も少なくなかったのではありませんか?

陛下が自刃を禁じたにも関わらず昨年腹を切ってしまわれた花沢中将の一件のしわ寄せで昇級を逃しただけで、妾は妥当な判断かと思います』

 

「そういう話じゃねぇんだよ…」

 

『ではどのようなお話なのです?』

 

 

1907年3月始め。旭川の有坂邸食堂にて。僅かに顔色を悪くした〝有坂 百之助〟とは対照的に、〝有坂 霞子〟は涼しい顔で紅茶を飲んでいた。そしてテーブルの脇に控えている女中に指先一つ振って百之助にも紅茶をサーブさせる。

 

…百之助が言うには、そもそも大尉ともあろう将校の消息不明になるまでの足跡が辿れないのが可笑しい、他にも熟練の中尉が居る中で若輩の自分にお鉢が回ってきたのには上の意図を感じる、鶴見中尉は上に昇進を妨害されているから別としてだ、と続く。

 

 

──それを聞いた霞子はおっとりとした微笑みのまま、何か隠し事をなさっていますわね、と百之助を眼差した。

百之助は紅茶のカップを正しく持ったまま席を立ち、霞子の座った椅子の横にピタリと張り付いて肩を抱き、耳元で囁いた。寝室で話す、私室と寝室のドアの前には人払いに下男を立たせろ、イワ子も寄せ付けるな、と。霞子はいつもの微笑みのまま頷いた。

 

 

「お前、口は固いほうか」

 

『言うなと言われた事は申し上げない主義ですわ。人の秘密をみだりに言い触らすのははしたないですもの』

 

「……ひとまずはその認識でいい。今から話す事は誰にも言うな。

お前は北海道に来て日が浅いから知らんだろうが、この地にはアイヌの埋蔵金伝説っつうのがある。幕末頃、和人からの扱いに蜂起したアイヌ達が北海道各地から寄せ集めた、二万貫の金塊の噂だ…莫大な金塊が、この広い北海道のどこかに眠っている……これを巡る争いが本格的に始まったとみていいだろう」

 

 

夫婦の寝室でまさかこんな色気のない話をする事になろうとは。霞子は二万貫という言葉に少し想像が追いつかずに、月並みな返事を返す。そもそも金塊にも金にも大した興味は無い。

 

 

『北海道は広いですわよ。闇雲に探したって見つかりっこないですわ。何か手掛かりなどはございませんの?』

 

「俺が士官学校に行くより少し前の話だ。苫小牧で七人のアイヌが殺害される事件が起きた……その七人のアイヌってのが北海道独立運動の為に金塊を使おうとしていた連中だ。分前で揉めたのか、それとも仲間割れか…奴らは殺し合い、生き残った一人の男が全てを分捕った。今は網走監獄に収監されている……その男は獄中で同じ房になった囚人達に金塊の在処を示す暗号の刺青を彫り…その噂を聞きつけた屯田兵のはみ出し連中が刺青の囚人どもを監獄から引き摺り出して……返り討ちだ。屯田兵は殺され、囚人は野に放たれた。ここまでは分かるか?」

 

『ではその刺青の囚人を集めて暗号を解けば金塊の在処が分かる、という訳ですわね?』

 

「簡単に言えばそうなるが……相手は網走に収監されるような囚人だ。終身刑の身の上だったヤツも居るだろう。協力的な姿勢で居るヤツはともかく…そうでないヤツには手荒な真似、最悪命を奪う事になる。こっちは刺青の彫られた皮があればいい訳だからな」

 

『物騒なお話ですわね』

 

「…思ってねぇだろその顔は。

日露関係の悪化だの、日露戦争だの、戦後処理だの…まぁ囚人探しどころではない有様だったからな。今になって軍が動き出したに違いない。和田大尉殿は恐らく殺されている…間違いなく鶴見中尉の手で」

 

『…鶴見様が何を考えているのかは存じ上げませんが、和田様が邪魔になったのですね。邪魔になった程度で殺してしまうのはどうかと思いますけれど…』

 

 

おっとり、僅かに眉を垂らしてそう言う霞子の権謀に慣れた様子に百之助は改めて、霞子が高級将校の娘である事を感じていた。

 

 

「……俺は花沢閣下の自刃も怪しいと思っている。花沢閣下は満鉄の計画に強硬に反対していた…満州進出を掲げる中央からしたらさぞかし邪魔になる存在だったろうよ…そして鶴見中尉は戦後間もなく言っていた。満州が日本の国土となれば、二百三高地、旅順、奉天で眠る戦友たちは実質日本の土地に眠っているのだと。だから満州進出を目指すべきだと………下手人は、宇佐美あたりか。アイツは鶴見中尉の命令となれば何でもする。上官殺しくらいなんてことはないだろうよ」

 

『妾達が旅行をしていた矢先の事で、驚きましたものね』

 

「……花沢閣下とは結局、披露宴で一度挨拶をしたっきり…聞きたい事は聞けずじまいか」

 

『妾、お義母様に百之助様を作る子種を提供してくださった事は感謝しておりますが、その後の花沢中将のやった事は畜生にも劣る所業と思っておりますの』

 

 

抱くだけ抱いて子が出来たら逃げる男など犬にも劣りますわ、と微笑んだまま吐き捨てる霞子に、やっと百之助は少しずつ機嫌が理解出来るようになり始めていた。

 

…そうして百之助は、珍しく鋭い勘で隠し事の有無を判断して話を深めていく霞子に洗いざらい己の目的を吐かされた。中尉に昇進して隊を移る時に鶴見の隊に残してきた自分の部下を既に動かしている事も、そして本来百之助は中央が鶴見の動向を探り報告する為に放たれた密偵である事も。そしてそれらを聞いた霞子はアッサリと、鶴見の妨害と鶴見の成果の簒奪を目的に動くと言った百之助の意向に頷いた。

 

 

──有坂百之助の金塊争奪戦の日々が始まる。

 

 

 

 

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「惨めですね〜、花沢閣下。見合い話をめちゃくちゃにしてまで聯隊旗手に据えた自慢の息子は参戦数日で戦死して、ずっと存在を無視してきた妾腹の息子は日露戦争を生き延びて今や有坂閣下の娘婿……自分の人生ってなんなんだ〜…って、叫び出したくなっちゃいませんか〜?」

 

 

時は遡って1906年10月末。北海道の〝花沢 幸次郎〟の邸宅で〝宇佐美 時重〟は白皙の美貌でうっとりと笑った。腹を割かれて瀕死の花沢に向かってだ。

 

…脂汗に塗れた花沢が、ニヤリと笑う。

 

 

「……有坂霞子…あの娘がついたのなら、私などアレの人生にはもう不要じゃ………私の倅を、そう易々と利用出来ると思うなよ……!」

 

「………つまんないの。なんだよ百之助、愛されてるじゃん………まぁ、僕は篤四郎さんの一番だから、そんなのどうでもいいけどねっ」

 

 

事切れた花沢の前に屈んだ宇佐美は、恍惚とした笑みで花沢邸を後にした。

 

…宇佐美が足取り軽やかに向かう馬車の中には〝鶴見 篤四郎〟が待っている。宇佐美にお褒めの言葉を授ける為に。そう思うだけで、宇佐美の足取りは益々軽やかになった。

 

 

──死神が笑う。

 

 

 

 

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『イワ子、これを郵便局に』

 

「かしこまりました。本日は随分と多いですね…金子様へのお手紙まで」

 

『花枝子さんも花沢中将の自刃から先、第七師団への中央からの扱いには思うところがおありのようだったの。少し相談したらすぐにお返事をくださったわ』

 

「金子様は相変わらず精力的でございますね」

 

『花枝子さんは本当に頼りになるわね』

 

 

1907年3月末。霞子は日課である文通による社交に精を出していた。イワ子に預けた大量の手紙の数々は、女学校時代の級友からその親親戚であるご夫人宛で、辿り着く先は様々だ。

 

…政界、財界、軍上層部、炭鉱に銀行に鉄道、果ては地方の豪農に豪商まで。

慶事を祝い、弔事を気遣い、経済の動きから子女の成長の事まで、常にやり取りをして深い付き合いを続けている。霞子はこう見えて友人が多い。

 

 

──〝金子 花枝子〟もその一人だ。華族女学校の在籍期間も重なっているし、割と気が合う。今回の手紙は、第七師団の地位向上への口添えを頼む…と言うよりは、日露戦争で家の家計を支えてきた働き手である若い男を亡くしたり、生きていても働けない身体で戻ってきた家への公的・私的な援助をもう少し手厚く出来るように動けませんか、というお願いの手紙だ。

鶴見に付き従う兵卒達の中には、故郷で暮らす家族や戦友の遺族への援助が充実すれば心を離す者も居るだろうと見込んで。

 

 

────霞子はおっとりとした微笑みのままインクを拭い取ったガラスペンを置いて、手紙の整理の為に本棚に向かった。

 

 

 

 

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「網走へ向かうのか。ここから網走の中間地点に旭川…旭川は第七師団の本部がある」

 

「そうだ。第七師団本部に鶴見中尉のこと密告したらどうかな?」

 

「本部には鶴見中尉の息の掛かった人間も居る。聯隊長の淀川中佐だ。

鶴見中尉は情報将校として二百三高地の無謀な正面突破で部下を死なせたくないと淀川中佐に作戦の欠陥を何度も指摘したが、全て揉み消された。それ以来淀川中佐は鶴見中尉に逆らえなくなった」

 

「誰か密告を聞いてくれそうな将校は居ないの?」

 

 

1907年4月。小樽のアイヌコタンで、軍を離れた〝谷垣 源次郎〟は刺青脱獄囚の一人である〝白石 由竹〟の言葉に、あの人ならあるいは、と零した。あの人って?と興味を示した〝杉元 佐一〟に、階級は中尉だが奥様が中央の高級将校のご息女でその縁で上層部との繋がりが太い将校が一人居る、と答える。

 

…そこで〝キロランケ〟が、ああ、と納得の声を上げた。

 

 

「キロちゃんも知ってる人?」

 

「ああ…谷垣が言ってるのは多分尾形中尉だな。いや、もう有坂なのか」

 

「そうだ。昨年十月にご結婚された」

 

「そうか、めでたいな」

 

「結婚して尾形から有坂?婿入りしたの?」

 

「奥様は陸軍砲兵中将〝有坂 成蔵〟閣下のご息女だ」

 

 

中将の娘…スッゲェ逆玉じゃん、と声をあげた白石に、逆玉ってなんだ?と〝アシㇼパ〟が疑問を呈す。

普通の女の人が物凄い身分の高い男の人に見初められるのを玉の輿っていってね、その逆だから逆玉の輿って言うんだよ。そう噛み砕いた説明を杉元がして、アシㇼパはなるほどと頷いた。

 

…その有坂中尉なら鶴見中尉を密告して制圧する事は出来るのか、と杉元が目元を鋭くすると、少なくとも有坂中尉は既に動いている、有坂中尉が少尉だった頃に指揮していた部下達は鶴見中尉から離反して独自に動いているようだ、鶴見中尉の部下から追われているのを見た、と谷垣は答えた。

 

 

──恐らく有坂中尉は鶴見中尉への積年の恨みを晴らそうとなさっているのだろう。今でこそ奥様と仲睦まじいが、奥様から結婚を申し込まれた当初は鶴見中尉から〝絶対に破談にするな〟とかなりの圧をかけられていたからな。谷垣の結論を聞いた杉元達は、それじゃ頼ったところで使われて終わりじゃねぇか、と突っ込んだ。

 

 

 

 

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「……確かに俺はアイツに〝俺の振る舞いを真似してろ〟と言ったが…」

 

『どうなさったのです?』

 

「鶴見中尉のとこに残してきた部下がどうとかって話したの覚えてるか?」

 

『ええ、勿論』

 

「……ソイツがとんでもねぇ事してやがる」

 

 

1907年4月。旭川。寝室で電報用紙を手に頭を抱える百之助の肩に手を添えた霞子がその手元を覗き込んで、まぁ、と声を漏らした。電報には百之助の部下が鶴見の元を離れて茨戸の宿場町で起きたヤクザの抗争に介入した末に刺青囚人の一味に加わった旨が書かれている。茨戸のヤクザはほぼ壊滅したらしい。どうしてそうなる、とボヤく百之助に、そういう人間だと思われているのでは?と霞子が首を傾げると、否定は出来ん、と答えた。

 

…百之助がそう指示を出したのは〝野間 直明〟一等卒。百之助の同年兵で、日露戦争では同じ小隊で戦い、百之助を塹壕に突き落として足を捻挫させた男だ。

 

 

──その男が、百之助からの密命をどう曲解したのか、大暴走していた。

百之助が言うには、まず二月に小樽の山へ軽装で踏み入って行く男を不審に思って追跡したところ、刺青脱獄囚を狙う別勢力〝不死身の杉元〟との接触があったという。野間は杉元との戦闘の末に崖から転がり落ちて負傷。その経緯を訝しんで小樽の山へ入った〝玉井〟〝岡田〟〝谷垣〟が行方を眩ませ、それを杉元の仕業と睨んだ野間が杉元に双子の片割れ〝二階堂 洋平〟を殺されて復讐に燃える〝二階堂 浩平〟を唆して鶴見から離反。

小樽のアイヌコタンで療養していた谷垣と何故か交戦、そして離反した野間と二階堂を追っていた〝三島〟を殺害し、鶴見達に追いつかれて確保された二階堂を置いて野間は逃亡。そして茨戸で〝土方 歳三〟率いる脱獄囚の勢力に参入。どうしてそうなる。百之助が頭を抱えて髪を乱した。

 

 

────その背中を気遣わしげに撫でる霞子は、電報用紙をそっと取り上げて寝室の暖炉に焚べて処分すると、息抜きに妾と遊びましょう、そんなに考え込んでは身体に障りますわ、と百之助の顎を擽って微笑んだ。

百之助は唇をひん曲げて、猫扱いするんじゃねぇよ、とボヤいた後に思いついたように悪い顔をして、そういや今は猫が盛る時期だなぁ、と霞子をベッドに押し倒した。霞子はその首に腕を回して、にっこりと微笑む。

 

 

 

 

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「よくも前山を…ッ、よくも戦友を殺せたものだな野間よ!!」

 

「月島軍曹達は反乱分子じゃあないですか」

 

「有坂の飼い犬め…分かっているぞ貴様の魂胆は!!

ご主人様に反乱分子を差し出し出世というご褒美が欲しいのだ。だがケチな獲物じゃ見返りも少ない。我々が力をつけ増長し、本部の手に負えない存在となるまで虎視眈々と待っている。心酔する有坂中尉の為に我々を売るのだッ」

 

「仲間だの戦友だの、そんな感情で俺はアイツについちゃいねぇよ。鶴見中尉殿のやり口にはウンザリだ」

 

──ドン!

 

「江渡貝ッ生きてるか!?……あれかッ」

 

 

1907年6月。夕張の江渡貝剥製所。月島と扉越しに対峙した野間は脱走兵になってから伸ばし始めた髪をガシガシと掻き回して、俺はアイツの友達だからな、とごちた。

 

…この後野間は剥製所の主で鶴見の依頼で刺青人皮の偽物を制作していた〝江渡貝 弥作〟を追ってトロッコで突入した炭鉱が大非常を起こし、えらい目に遭うのだが。

 

 

──そして紆余曲折の末に土方一派と杉元一派が一緒になんこ鍋を囲む席で杉元に〝一度裏切ったやつは何度でも裏切る〟と因縁をつけられて答えた。俺は根に持つ性格じゃねぇ、だけど今のは傷ついたよ、と。百之助ならそう言うと思ったから。

 

 

────ちなみに野間は、きっちり根に持つ性格だ。杉元の前ではああ言ったが、百之助もきっちりどころかねっちょり根に持つ性格をしている。

 

 

 

 

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『百之助様、少々お話が』

 

「何かあったか?」

 

『いえ、その』

 

「何だ」

 

『子が出来たようでございます』

 

「……は?」

 

 

時は遡って1907年5月始め。旭川の有坂邸の食堂にて。霞子の言葉に百之助は紅茶に垂らそうとしていた蜂蜜をたっぷり纏った匙を取り落とした。ベチャ、と机の上で蜂蜜が広がる。霞子は指先を振って机の始末をするように女中に合図して、台拭きを握った女中が匙を片付け始めた。

 

…百之助の視線が霞子の顔と腹部を数回往復した後に、医者はなんと言ってる、と漸く絞り出す。

お医者様はまだ何とも言えないと仰いましたが月のものがふた月ほど来ておりませんの、週に三度は妾をお抱きになっていたのですから遅かれ早かれこうなっていたと思いますよ、と霞子は答える。

 

 

──百之助が机に肘をついて静かに頭を抱えた。そして女中から、お袖が汚れてしまいますので腕をお退けください、と注意された。この家の女中達は基本的に霞子の指示を優先する。イワ子がその筆頭だ。

 

 

「……産み月はいつだ」

 

『冬かと』

 

「…腹が膨らんできたら子供部屋を整えて暖炉の点検整備をして、乳母と子守りを雇い入れろ」

 

『はい』

 

 

沈痛な面持ちだが、決して投げ出す気はないと言葉で示した百之助に、霞子は微笑みを深めた。

 

…その夜霞子は、夫婦の寝室で百之助の胸に手を当てて、困ってらっしゃいますね、と眉を下げる。百之助は長い沈黙の後に、俺は父親を知らん、とぽつりと。そして、お前の父親のような朗らかで優しい親にはなれない、とも。

 

 

──霞子は仕方がなさそうに微笑んで、そして迷いなく言い切った。

 

 

『いいんですのよ。百之助様は百之助様のままで。

父親を知らないと言うのなら、百之助様が幼い時にお父様にして欲しかった事を、この子にしてあげてください。それを嫌がられた時だけやめてあげて、喜ばれたら続ければいいんです。

きっと、それだけでいいんですのよ』

 

「………そういうもんか?」

 

『妾はそう思いますわ』

 

「お前もそうするのか?」

 

『妾がそれをしようとしたら、やりたい事なんて子供が幼いうちに死なない事だけですわ』

 

「ハハ…そうだな」

 

『お気持ちは緩みましたか?』

 

「ああ」

 

『では、おやすみなさいませ』

 

 

霞子は枕元の灯りを消して、薄闇の中に白く浮かぶ百之助の頬を撫でた。

 

…霞子は、幼い頃の自分の発言で兄を泣かせてしまった事を思い出した。朧げな、二歳の時の言葉だ。

母の葬儀で、母の亡骸を前に無邪気に、お母様はどうして起きないの?と聞いて、兄が大粒の涙を落とした、あの日の記憶を。

 

 

──使用人達が噂をしていた。お身体が丈夫であらせられないのにお子を望むからだ。命と引き換え同然に産んだのが息子ならまだしも娘だなんて。その言葉の意味を理解した四歳の頃から霞子は嫋やかな笑みを貼り付けて、有坂家の子女として恥じないように生きてきた。父が寛容なのをいい事に好き勝手したところも大いにあるけれど。

 

 

────今となっては、瑣末事だ。母の事を思いながら瞼を閉じても、顔も思い出せないのだから。

霞子はその晩夢を見た。小さな女の子が独りで泣きながら、母親を呼んでいる夢を。

 

 

 

 

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「俺はアイツ程狙撃が得意じゃないんだがなぁ…」

 

「なんか言ったか?野間」

 

「いや、何も」

 

 

1907年6月下旬。旭川の第七師団本部周辺にて。野間は頭を掻いた。第七師団に連行されたマヌケの白石を奪還する為に、夕張からの道中で捕まえた刺青脱獄囚で詐欺師の〝鈴川 聖弘〟を網走監獄の典獄〝犬童 四郎助〟に化けさせて本部に侵入する計画だ。野間は有事の際の狙撃を任された。応接間を臨む高所を目指して移動する前にそうボヤいた野間に〝牛山 辰馬〟が声を掛けてきて、野間は無愛想に答える。

 

…それにしても酷い旅だった。野間は回想する。

剥製所には火炎瓶が投げ込まれて第七師団の兵士に囲まれ脱出戦をするはめになるし、やっとの思いで脱出して刺青人皮の真贋を確かめる為に贋作師の〝熊岸 長庵〟に会うために月形の樺戸監獄を目指して移動する最中にヤマギシの脳みそを食わされそうになった。食うのは構わんがせめて焼いてくれ。生の脳みそに塩をかけただけで食うのは食中りが怖い。

更に立ち寄ったアイヌコタンは樺戸監獄からの脱獄囚に占拠されていたし、アシㇼパを害されたと思い込んで荒ぶる不死身の杉元は羅刹のようだった。そしてやっと土方達と合流出来たと思ったらコレだ。もういい加減にしてくれ。

 

 

──しかし野間は知らない。この後の旅でもっと全裸の白石に下半身裸の姉畑に褌一丁の男共(酷いもの)を目にするという事を。

 

 

「なぁジイサン。どう思う」

 

「何をだ?」

 

「野間だよ」

 

「…恐らくだが、鶴見中尉とは別の人間の指示で動いているな。鶴見中尉の部下達も一枚岩ではないらしい。

構わんさ。日露戦争の生き残りで腕も立つし、軍内の事情にも精通している…いい用心棒だ。そうだろう?」

 

「まぁ、そうだな。奴さんが何企んでたって、害にならなきゃそれでいい訳だ」

 

 

土方は牛山の言葉にニンマリと笑った。

逃走用の馬を引いて、脱出後の合流地点に向かう。網走までの道はまだ長い。幸い元第七師団のキロランケも居るし、野間の話は改めて聞き出せば良い。そういう考えだ。

 

…ちなみにこの白石奪還作戦は大騒動になった末に、白石の奪還そのものには成功する。負傷して土方達との合流地点まで走る事は出来ないと判断した杉元達は気球隊の試作機を奪い、空へと舞い上がる。

 

 

──そして大雪山へ。第七師団の追っ手を撒きながら大雪山を越えて十勝・釧路方面へと下山していく。

その道中で野間は、低体温症で服を脱ぎ捨てて走っていく白石を捕獲したり、名前も分からんネズミの煎餅で空腹を凌いだり、アイヌに伝わる伝説の巨大蛇に遭遇したりと、また気の休まる間のない旅をする。今頃旭川で妻の霞子と穏やかに暮らしているだろう百之助を少し恨めしく思うくらいには、気苦労の絶えない旅だった。

 

 

 

 

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『今日は東京から客人が来ますの』

 

「義父上か?」

 

『父なら先日来ておりましたわ。すぐにお帰りになりましたが』

 

「……挨拶くらいさせろ。あと逐一言え」

 

『申し訳ありません。父が言わなくていいと言ったものですから』

 

 

1907年7月。旭川の有坂邸にて。霞子は僅かにふっくらしてきた腹を圧迫しない為にコルセットを着けるのをやめてエンパイア・ラインのドレス姿で朝食を食べていた。フライドエッグと塩漬けの鹿肉、とうもろこしのポタージュに野菜のマリネに焼きたてのパンが並ぶ食卓で、義父上でないなら客は誰だ、と百之助に問われて霞子は、女学校時代の友人で金子花枝子さんといいます、愛国婦人会の活動について相談をしていますの、と端的に答えた。

 

 

「…聞き覚えがある名前だな」

 

『花枝子さんは三菱財閥の幹部のお家柄ですのよ。それで聞いた事がおありなのでは?』

 

「いや、個人名でだ………ああ、花沢勇作童貞防衛作戦か」

 

『なんですって?』

 

「日露戦争の前…俺が士官学校に入学する少し前にそんな事があってな。聯隊旗手の暗黙の了解に〝童貞であること〟ってのがある…勇作さんを死亡率の高い旗手にしたくない花沢ヒロ夫人が夫の花沢閣下に内緒で勇作さんに見合いを斡旋したんだ。その相手が金子花枝子…お前の友人だ」

 

『まぁ、そんな事があってましたのね』

 

「妻の工作に気が付いた花沢閣下が第一師団の奥田中将を頼り、勇作さんの替え玉が見合いの席に立って事なきを得たが……あれは酷い話だった。勇作さんの替え玉は全裸で浴室から飛び出してきたんだぜ」

 

『愉快な方ですわね』

 

「汚ぇブツを見せられたこっちは堪ったもんじゃねぇよ」

 

 

霞子は〝花沢勇作童貞防衛作戦〟という単語に引き攣らせた笑みを柔らかいものに戻して、手元のパンをちぎった。

百之助はポタージュをスプーンで掬って、そういう訳だからその女に勇作さんの話はするなよ、俺があの件に関わってた事もだ、と口止めをする。勿論です、と頷いた霞子はにっこり微笑んで、花枝子さんは百之助さんに会えるのも楽しみになさっていますの、彼女は美男子に目がないんですのよ、晩餐の席ではお話し相手になって差し上げてくださいね、と続けた。

 

…何で俺が、と不満を零しかけた百之助は、霞子が心底不思議そうに首を傾げたので黙った。夫が妻の友人と親しくするのは霞子の中の常識では当たり前の事らしい。

 

 

──その日の午後、有坂邸の玄関に金子花枝子が訪れた。

 

 

『お久しぶりですわね、花枝子さん』

 

「霞子さんと旦那様の結婚式ぶりですわね。あの時のドレスも素敵でしたが、今日のドレスもお似合いですわ。やっぱり霞子さんには濃い色がお似合いになるんですのね」

 

『花枝子さんのお着物も素敵ですわ。絵羽模様の訪問着ですか?

立ち話もなんです。サロンにご案内しますわ』

 

「そうなんですのよ、ご案内ありがとうございます」

 

 

お付きの女中と用心棒を連れた花枝子を公的なもてなし用の応接間ではなく私的な交流用に作ったサロンに案内し、ソファを勧めた。連れていた女中も用心棒も部屋の外に下がらせて。

 

…通いの庭師に整えさせた庭を臨むサロンには、庭で育てて見頃を迎えた薔薇が飾られている。

霞子さんらしい趣向のお部屋ね、と褒めてから霞子が手ずから淹れた紅茶のカップを傾けた。

 

 

「ところで霞子さん、先程は言いませんでしたが、ドレスの趣味がお変わりになりました?

以前はもっとこう、コルセットでギュッとお腹を絞めていらしたじゃない」

 

『産まれるまでは何が起きるか分からないからとお手紙には書かなかったんですけれど、子が出来たんですのよ』

 

「そういう事はお言いになって!お祝いの品を用意しましたのに!」

 

『まぁ、ごめんなさい』

 

「怒ってませんわ!」

 

 

花枝子は眉を逆立ててそう言って、拗ねたようにテーブルの上の菓子に手を伸ばす。霞子はおっとりと微笑んで、バタアをたっぷり練り込んで貰ったんですのよ、焼きたてで崩れやすいので気を付けてくださいましね、と言葉を添えた。

 

…二人のお茶会は穏やかに続く。話の内容は愛国婦人会による戦争遺族や傷痍軍人の慰問や支援物資の事から、留守家族に対する恤兵会や兵役優待会の活動まで多岐に渡り、花枝子が浮名を流している有力者の動向なども小さな声で語られた。

 

 

──霞子はおっとりとした微笑みのまま花枝子の話に頷いて、やはり民間の支援に頼るしかないところも多いですわね、と答える。

 

 

「けれど霞子さん、急にどうしましたの?

霞子さんは篤志看護師として陸軍予備病院で活動されていましたけど…私にこんな頼みをされるのは初めてですわ。それも手紙じゃなくて直接話を聞きたいなんて」

 

『…第七師団内に少々不穏な動きがありますの。簡単に遮られたり他人の手に渡ってしまう郵便では話せないと思ってお願いしたんです』

 

「花沢閣下の自刃の事ですわね。日露戦争であれだけの将兵を失って、閣下に自責の念を覚えるな、それでも生きろという方が無理なお話ですわ。

閣下の自刃の責任を第七師団に押しつけて本部は見ないふり…酷いお話ですこと」

 

『妾の夫も馬鹿げた話だと言っておりましたわ。確かに閣下が陛下の〝自刃を禁じる〟という御言葉に背いたのは事実ですが…その責任が第七師団の働きにあるなんて言われたら、中央への不満は募るばかりです。ただでさえ大本営の無謀な突撃作戦で多くの将兵を犠牲にしながらも作戦を遂行して帰還したと言いますのに』

 

「本部への謀反の動きがあるという事ですの?」

 

『……ほんの一部の人間に、です』

 

「………なんて事。無茶ですわ。本部から憲兵が派遣されればおしまいですのに」

 

 

二人は同時に俯いて片手で頭を抱えた。紅茶はすっかり冷たくなっている。霞子はテーブルの上のベルを鳴らして部屋の外で待機しているイワ子を呼ぶと、新しく紅茶を用意して頂戴、と冷たくなったポットを手渡して花枝子の隣に移動する。

 

…そして花枝子の耳元に唇を近付けて、中央に密告しても意味がないんですの、けれど首謀者に付き従う下士卒達の事はなんとか罪に問われないようにして差し上げたいんです、彼らは義憤を利用されているだけですわ、と囁いた。

 

 

──花枝子は霞子の手を取って、可能な限り口添えいたしますわ、と答えて頷く。頼りにしています、と霞子は花枝子に微笑んだ。

 

 

────その晩、花枝子は晩餐の席で百之助の美男子ぶりに久方ぶりの興奮を見せて、最初は愛想良く対応していた百之助が初対面の人間でも見てとれる程うんざりするまで喋り倒して一泊すると、東京に帰って行った。

ちなみに霞子はその席で、花枝子の口から日露戦争中に篤志看護師として働いて心労で倒れた事を百之助にバラされた。そして霞子は夜遅くまで百之助に説教された。

 

 

 

 

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「その先生って呼ぶのやめろよ杉元…」

 

「いやっ、なんか、なんかさ、こう…先生って呼びたくなっちゃうじゃん!?」

 

「……ならねぇよ。お前も姉畑もひたすら軽蔑する」

 

「なんだと!?」

 

 

1907年7月。釧路湿原にて。野間は〝姉畑 支遁〟のヒグマと性交して腹上死(最期)を目撃して死んだ目をした。そしてその姉畑を〝先生〟と呼ぶ杉元を軽蔑の目で見た。

野間に突っかかってきたと思ったらアシㇼパの姉畑の所業を追及する無邪気な問いに黙り込む杉元を鼻で笑って、男ってのはヤりたくなったら馬鹿になる生きモンなんだよ、と善意で教えてやると杉元に頭をスっ叩かれたが。

 

…何しやがるテメェ、アシㇼパさんに何言ってんだテメェ、と掴み合いを始める野間と杉元を横に、谷垣が姉畑の皮を剥ぐ為に遺体を抱えてヒグマを解体するアイヌ達から離れていく。

 

 

──新たに入手した姉畑の皮を加えて、杉元陣営の刺青人皮は八枚になった。

その晩、釧路のアイヌ達のカムイホプニレ(熊送りの儀式)のご相伴に預かった一行は、車座になって酒盛りをしていた。谷垣は動物の強姦殺害の犯人と誤解されて子熊のオリに閉じ込められていたので、その詫びだとばかりに酒を飲まされている。

 

 

「野間おまえ、誰も傷つけずに谷垣を逃がしたそうだな。杉元はすごく疑ってたし私もちょっと不安だったけど、見直したぞ」

 

「谷垣源次郎は戦友だからな…オイやめろ、手の臭い嗅がせようとすんな。ヘビなんか触ったところで臭わねぇよ」

 

 

昼間、ヒグマと一つになる事に執着する姉畑の刺青をヒグマから守る為に嫌いなヘビを触ったアシㇼパが手の臭いを全員に嗅がせようとしてくるのから逃れた野間は、手のニオイよりもっと大事な話だ、と小樽からアシㇼパを追ってきた理由を語る谷垣の話に耳を傾けた。

 

…曰く、アシㇼパの祖母が〝二度と孫と会えなくなる夢〟を見て自分の死期を悟り、アイヌのしきたりに従って家族に隠れて自分の死装束を作っているのだという。手紙でも送ってやれよ、と口を挟んだ野間にアシㇼパは言う。

アイヌの間では夢というのはカムイが私達に何か伝えたくて見せるものと強く信じられてきた。私は信じなくてもフチは古い考え方のアイヌだから信じるだろう。そして昔、娘──アシㇼパの母親の死も夢で予知したのだと。

 

 

──一度帰ろうか?そう野間達に対する態度とは別人のような優しさでアシㇼパに問うた杉元に、子供扱いするな、私にはどうしても知りたい事がある、知るべき事を知って自分の未来の為に前に進むんだ、そう答えたアシㇼパに野間は、こういうガキが居るからこの世は捨てたモンじゃないって思えるんだよなぁ、と頭を搔いた。

 

 

────翌朝、釧路湿原で銃身に水が入った状態で発砲したせいで小銃を壊した杉元を散々煽って、旭川で第七師団から奪い取って以来自分のモノにしている三八式歩兵銃を大事に抱えて、こんな高性能な銃は射撃のヘタクソなお前が持っても豚に真珠だ、と馬鹿にしてから野間は釧路のアイヌコタンを発つ。

この後野間は、釧路の町で待っていた谷垣の女〝インカㇻマッ〟を見て、どいつもこいつも女に牙抜かれやがって、と軽い頭痛を覚えた。

 

 

 

 

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「有坂中尉」

 

「淀川中佐殿」

 

「奥方は息災か?妻が気に掛けていてね」

 

「日々元気に過ごしております。春にはまた皆さんの前に出て来られるかと」

 

「そうか。旭川の社交界の新しい華があっという間に隠れてしまったと皆残念がっていてな…次を仕込むなら時を考えろよ?ハハ」

 

「ハハハ…気を付けます」

 

 

1907年8月。旭川の兵営。将校用の食堂で白昼堂々放たれた淀川中佐の言葉に百之助の愛想笑いが引き攣った。上官に夫婦生活に口を出されちゃ弁当が不味くなる、と内心毒を吐く。

微笑んで去って行く淀川に肩を震わせる百之助の背中を従卒の〝幡山 浩司〟軍曹──少尉時代の自分の小隊から中尉に昇進する時に引き抜いてきた──が軽く叩いて宥める。そして小声で、落ち着いてください、お気持ちは分かります、と囁いた。

 

…昼食をさっさと切り上げて執務室で珍しく煙草を咥えた百之助に幡山が、美しい奥方を持つとご苦労されますね、とマッチの火を差し出し、執務机に灰皿を置いた。幡山は百之助が士官学校に入学する前は百之助の上官で、霞子の差し入れ…と言うよりは下士卒問わず施される細やかな気遣いに懐柔されたクチだ。日露戦争では百之助を塹壕に引き摺り込んだ上で覆い被さって砲弾の破片から庇い、一時は野戦病院送りになっていた。

 

 

──チラチラと百之助の持つ煙草の箱を気にする幡山に、もう要らんからあとはお前が吸え、と封を切って一本吸っただけの煙草を渡してやる。日常的な喫煙はしない百之助は、将校に支給される煙草をこうして従卒に与えている。百之助としては捨てても良かったのだが、こうするようにと指示したのは霞子だ。

 

 

「ありがとうございます」

 

「不要品を押し付けられて感謝するんじゃねぇよ」

 

「自分は煙草が好きなので、ありがたいです。酒保のものより美味いんですよこっちの方が」

 

「煙草の味の違いなんぞ気にした事もない。苦いだけだ」

 

「有坂中尉殿はコーヒーも砂糖入れないと飲めませんからね」

 

「……ハハァ、よほど訓練を上乗せされたいらしい」

 

「すみません」

 

 

幡山が目を細めて笑う。百之助はそっぽを向いて溜息を吐いた。半分ほどの長さになった煙草を灰皿に押し付けて、机に向かう。和田大尉の消息不明に伴って中隊長心得を任されて以来、書類の量がドッと増えている。しかも鶴見の隊からもその旗下の〝鯉登 音之進〟の隊からも、マトモな書類が上がってこない。鶴見に逆らえない淀川が誤魔化してくれているが、この対応もいつまで続くか分からない。

 

…時折電報で送られてくる野間からの報告では、旭川で騒動を起こした後は釧路を経由して網走に向かっているという。鶴見達もそれを追っている筈だ。野間の珍道中に毎度頭を抱え理解に苦しみながらしっかり読み込んでいるので、電報用紙は処分しているが間違いはない。

 

 

──ちなみに霞子は、野間の報告という名の愚痴同然の電報を見ては、なんだか楽しそうですね、と微笑んでいる。霞子の政治工作は順調らしく、百之助とは対照的に機嫌が良い。

 

 

────網走で決着が着くといい。というか着いてくれ。これ以上書類を誤魔化し続けるのは無理がある。万年筆を握って百之助はそう祈っていた。

 

 

 

 

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「……やはり一発で頭とはいかんか」

 

 

1907年10月。網走監獄の高物見で、野間はポツリと呟いた。〝のっぺらぼう〟を仕損じた。野間がのっぺらぼうを狙って放った銃弾はのっぺらぼうの胸を貫く。即死はさせられなかったが、これでもう傍らの杉元に情報を漏らす事は出来ないだろう。

 

…野間がキロランケの策謀に乗ったのには一応、本人なりの理由がある。

野間が百之助に託された密命は幾つかある。一つは〝金塊争奪戦に乗り出した鶴見の妨害及び撹乱〟で、二つめは〝金塊の捜索及び発見〟であり、三つめは〝金塊を探す他勢力同士を潰し合わせる〟事で、最後の一つは〝より御し易い人間に金塊の捜索を主導させる〟だ。

鶴見の妨害は自身の離反と他勢力への加入で果たしたつもりだし、金塊の捜索は現在進行形で続けている。キロランケの策謀に乗ったのは、他勢力同士の潰し合いと御し易い人間に金塊を探させる事に繋がると判断したからだ。

キロランケがロシアから来たパルチザンである事は分かっている。ロシアの革命勢力が金塊の捜索を目的として日本に渡ってくるなら、いずれは鶴見とぶつかって潰し合うだろう。土方が率いるゴロツキ共では第七師団との正面衝突には耐えられない。

そして暗号の鍵を握るアシㇼパだ。まだ幼くロシアの革命思想にも北海道独立思想にも染まっていないアシㇼパの方が、北海道独立運動の為に金塊に手をつけたのっぺらぼうよりも御し易いと判断した。

 

 

──余計な口は封じとかねぇと、そう呟いて野間は、のっぺらぼうから何か情報を得た可能性が高い杉元に銃口を向けた。

 

 

────野間の撃った銃弾は、咄嗟の機転でのっぺらぼうの遺体を盾にした杉元の軍帽を弾き飛ばし、頭の端を引っ掛けるようにして辛うじて命中した。〝不殺弾〟とも呼ばれる三十年式実包だ。仕留められたかは怪しい。谷垣の妨害で杉元達が射線から消えた事、網走監獄への侵入を聞きつけて海軍の〝鯉登 平次〟少将を抱き込んで駆逐艦で襲撃してきた第七師団の撃ち込んだ照明弾からの引火で燃える網走監獄に漂う煙による視界不良でそれ以上の追撃を断念した野間はキロランケとの合流地点へ向かう。

 

 

「舟を出せ、逃げるぞ」

 

「野間!」

 

「谷垣源次郎は鶴見中尉達に捕まった」

 

「アチャと杉元は!?」

 

「…近付いて確認したが、二人共死んでいた」

 

 

アシㇼパが泣き叫ぶのを見下ろして野間は、やはりまだ子供だ、喪失感につけ込んでアイヌの金塊を放棄するように吹き込めばいい、のっぺらぼうを殺した判断は間違っていなかった、とほくそ笑んだ。

 

…燃える網走監獄を背に舟は網走川を下っていく。この後は沿岸沿いに稚内に向かい、樺太との交易をしているアイヌの舟に乗り換えて宗谷海峡を渡る。

 

 

──旅の舞台は樺太へ。海風に靡く髪を整えながら野間は、気落ちした様子のアシㇼパに手を差し伸べた。しっかりしろ。元気を出せ。行こうアシㇼパ。そう声を掛けられて、縋るような目で己を見上げたアシㇼパに、野間は珍しく微笑んだ。

 

 

 

 

[────────────────────────────────────────────────────────]

 

 

 

 

「〝不死身の杉元〟脳みそが欠けた気分はどうだね?我々は〝脳みそ欠け友達〟だな……」

 

 

1907年10月。網走近郊の病院の一室で、鶴見は網走で捕らえた刺青脱獄囚〝家永 カノ〟の手術と驚異的な回復力と握り飯を食べられる程に頭部被弾から回復した杉元に微笑む。

 

…アシㇼパ達は樺太に渡った筈だ、とキロランケの背景を加味して分析する鶴見に、オレを樺太に連れて行け、野間もキロランケもぶっ殺してやる、そう気勢を吐く杉元。

あんな狙撃をしてくるのは野間しか居ねぇ、撃たれた瞬間アイツを感じた、という言葉の意味はよく分からなかったが、鶴見は日露戦争で砲弾の破片を受けて傷跡に覆われた目元を細めて、鶴見なりに把握している野間の背景を語ってやる。

 

 

──野間の背後には有坂百之助という中尉が居る。過去強引に縁談を進められた恨みと、恐らく中央との繋がりで私の失脚を狙って状況を引っ掻き回すように野間に指示している。中央の高級将校の娘である妻の持つ人脈が強大すぎて潰すに潰せずにいる。野間を通じてアシㇼパを操って金塊を見つけさせ、中央に差し出して更なる出世を企んでいるのだろう。アレは野心の強い男でな。

 

 

「…その有坂って野郎も気に食わねぇ。テメェは顔も出さずに手下使ってチャチャ入れやがって…」

 

「ふふふ…困った男だろう?」

 

「卑怯な野郎だぜ」

 

「だが有能だ。野間を見ていれば分かるだろう?」

 

 

杉元は、鶴見の部下だけを差し向けたところでアシㇼパは信用しない、だから俺を使え、そう語り、網走監獄でキロランケにインカㇻマッを刺された恨みを抱く谷垣もそれに便乗する。頭を撃たれ脚を散弾で負傷している杉元に何かあれば自分が必要だ、アシㇼパは自分の事も信用している、そう言って。

 

 

──網走監獄で暴れた後始末が残っていてこの場を動けない鶴見が〝樺太先遣隊〟として指名した鯉登と月島に加わる形で、杉元と谷垣は樺太行きの船に乗り込んだ。

 

 

 

 

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「お前、女物ばっかり用意してるが男が産まれたらどうするつもりなんだ」

 

『アイヌの助産婦に診てもらったんですのよ。ほぼ確実に女の子だそうです。

アイヌの間では女は仰向けに、男はうつ伏せに産まないと長生きしないと言われているそうで…お腹の上から赤ん坊の骨盤を触って判断してお産の最中に赤ん坊の向きを変えるんですって。面白いですわね』

 

「答えになってねぇ」

 

『息子でも赤ん坊のうちは女物を着せますよ。病魔を避ける為に汚い名前をつけたり、道に捨てるフリをするのと似たような意味合いですわね』

 

「…案外迷信深いよなお前。俺に千人結渡してきた時も思ったが」

 

『縋れるものには縋る主義なんですの』

 

 

1907年12月。旭川の有坂邸の居間で女中達と一緒になって赤ん坊の産着や襁褓を縫っている霞子に百之助はそう言って、髪を掻き上げた。霞子はすっかり大きくなったお腹の上に広げている薄紅色の産着に厄除けの背縫いを入れながら、けれど名前は美しい響きがいいですわ、この子が一生名乗るものですもの、とおっとり微笑む。

 

…蝶のように自由に美しく生きられますように、そう願っておりますのよ、と言う霞子に、鳥じゃねえのか、と百之助は答える。

 

 

──幼い頃思っていましたわ、庭の花にとまる蝶のように妾も好きな場所に留まりたいと、その願いは叶いましたけれど、と言って普段より柔らかい笑みを百之助に向けた。百之助は小さく俯いて、考える。

 

 

「……安直だが〝蝶子〟…娘だったらな。息子だったら〝蝶之助(じょうのすけ)〟…蝶と書いてじょうと読ませる。少し変わった読みだがまぁ、悪くはないだろう」

 

『百之助様のお名前からとってますのね。士族らしい名前で素敵ですわ』

 

「…蝶之進にはしたくねぇ。鬱陶しく突っかかってくる嫌いな奴と字が被るんでな。蝶之丞だと読みがややこしい」

 

『鯉登様の事を仰ってます?』

 

「ああ…アイツは面倒くせぇ。口を開けば鶴見中尉殿鶴見中尉殿と喧しい。最後にゃ興奮して早口の薩摩弁になりやがる…言いてぇ事があるなら日本語で喋れよと思う」

 

『薩摩弁も日本語ですわよ』

 

「ありゃ外国語と一緒だ」

 

 

百之助様ロシア語は堪能ですのにね、でも薩摩弁は少しは覚えた方が宜しいですわ、軍の上層部は薩摩出身者も多いので、と霞子は微笑んだ。長州弁でしたら父に教われば宜しいですわ、とも。

 

…少し考えて百之助は、俺の鼓膜を破る気か、と言い返した。

霞子はそこで有坂の大声の事を漸く思い出したのか、長州弁は別の方に教わりましょうか、と考えを訂正して、背縫いを手伝って頂けますか?と百之助に背縫いの施されていない産着を手渡す。兵卒は自分の事は自分でやるので、百之助は人並み程度に裁縫が出来る。被服検査で服のほつれや釦取れが見つかると上官から指導を受けるので、初年兵は慣れない裁縫を必死で覚えるのだ。

 

 

──背縫いって何針縫うんだ、と糸のついた針を片手に首を傾げた百之助の隣に移動した霞子が、産着の背中を指でなぞって背縫いを施す向きと数を教えると、百之助は背中を丸めて針を進めた。

樺太での大騒動など知らないかのような穏やかな時間だった。

 

 

────樺太では、既に国境を越えて亜港監獄の傍に潜伏している野間達を追って、杉元達が犬橇でひたすら北上している。

大泊から上陸して敷香へと樺太の日本領土を北上する間はともかく、ロシアに密入国して以降野間からの電報は途絶えている。しかし今後のキロランケの方針は簡潔に報告されている。亜港監獄に収監されているロシアの反政府組織〝人民の意志〟の女首領〝ソフィア・ゴールデンハンド〟とその手下達を脱獄させて、間宮海峡を渡ってロシア本土に上陸して本土に潜伏している人民の意志の本隊と合流して日本へ連れ帰り、第七師団とぶつけて潰し合わせる計画だ。

金塊の捜索も同時に進め、第七師団と人民の意志、そして土方率いる脱獄囚の一味が潰し合っている隙に金塊を掠め獲る。金塊以外にも見つけなければならないもの──大日本帝国上層部が破棄したがっている、蝦夷共和国が西欧列強六カ国の使節を立ち会わせてアイヌと結んだ北海道各地の土地の権利書──もあるが、それは恐らく金塊とそう遠くない場所に隠されていると百之助は見ている。

網走で事が収まってくれと願った百之助の願いは叶わなかったが、結果として鶴見の部下と本格的に潰し合いが出来そうな外部の勢力を調達してきた野間の事は後で褒めてやろうと、百之助は思っている。

 

 

 

 

[────────────────────────────────────────────────────────]

 

 

 

 

「……あッ!!」

 

 

1907年12月末。亜港監獄の塀を爆破して脱出口を作るという手荒な方法でソフィアとその手下、そして亜港監獄の囚人達を脱獄させた野間達は、間宮海峡を埋め尽くす流氷原を渡ってロシア本土を目指していた。ソフィアとのっぺらぼう──〝ウイルク〟の思い出話をキロランケに訳させながら。

 

…その話が功を奏したのか、何か思い当たる節が出来たと言わんばかりの声をアシㇼパがあげる。野間は吹き荒れる吹雪と寒風の中、耳聡くそれを聞きつけてアシㇼパの様子を注視した。

 

 

──そして、涙を落とすアシㇼパの存在をキロランケ達から隠すように間に立って、先を急ごう、風も出てきた、と話を煙に巻いた。

 

 

────小用を足そうと一行から少し離れた白石が海流で簡単に動く流氷のせいで一時離脱し、西で合流する事を約束して離れていく。そして激しくなる風と雪。海流でぶつかり合ったのか高く盛り上がった流氷の影に避難してやり過ごす事を提案するキロランケ。氷を積んで風避けにしようとするキロランケから離れ、流木を燃やして暖まろう、そう言って流木を抱えるアシㇼパを追った野間は、もっと流木がないか探しに行こう、そんな言葉でアシㇼパを誘い出してキロランケ達から引き離す。

 

 

「野間ッ!!こっちにあるぞ」

 

「アシㇼパお前…さっき何か、とても重要な事を思い出したな?」

 

「……なんの事だ」

 

「刺青の暗号を解く鍵が分かったんじゃないか?アシㇼパ…俺には教えられないのか?

俺はここまで命を張って戦った分の報酬が欲しいだけだ。白石や…杉元と同じようにな。

国を作れる程のカネなど俺は要らん。独り占めしたところでのんびり暮らせるどころか俺が新たな争奪戦の中心になっちまうだけだ。暗号の解き方を教えてくれればアシㇼパもこの殺し合いから〝上がり〟だろ?

コタンに帰って婆さんに元気な顔を見せてやれよ。故郷の山で鹿だの栗鼠だの獲って自由に生きていきゃあいい。そうだろ?アシㇼパ…アイヌの事はキロランケやソフィアに任せちまえよ。お前がそんな重荷を背負う必要がどこにある?

教えてくれアシㇼパ」

 

「じゃあどうしてキロランケニㇱパから離れたところで聞き出そうとするんだ?」

 

──ドオォン…

 

「……先程聞こえた銃声と同じものだな」

 

 

亜港監獄を背に逃げていた時にも聞こえた、重く間延びした銃声に野間は双眼鏡を目元に宛てがう。野間の想像だが、あの銃声の主は谷垣だ。無煙火薬の実包が主流になった今、黒色火薬の銃を好んで使う物好きがそう多くて堪るか。

 

…吹雪の向こうには──怒り狂った〝不死身の杉元〟の姿。

 

 

──やはり生きていたか。そんな思いで銃を構える。雪と氷で何も見えない。照準が定まらない。ヤツを近付けたら一巻の終わりだ。

 

 

「野間、追っ手か?」

 

──アシㇼパ!!

 

「ソフィア達が心配してる。戻らないと」

 

「網走監獄で杉元とのっぺらぼうが撃たれた時、キロランケがどこかに合図していた。来いアシㇼパ」

 

 

野間はアシㇼパの腕を掴み、アシㇼパを呼ぶソフィアの声がする方角と反対へ向かう。

キロランケニㇱパが合図?何の為に?そう問うアシㇼパに野間は答える。アシㇼパがのっぺらぼうを自分の父親だと確認するのを待って誰かに狙撃させた、ウイルクとの間に何があったのかは知らん、おおかた金塊の用途で揉めていたんだろう、と。

 

…どうして今まで私に黙っていたんだ、そう困惑を顕に問い詰めるアシㇼパに、今話すのはお前が暗号を解く鍵を思い出したからだ、それにはキロランケの協力が必要だと思ったから黙って様子見していた、そう返して今度はアシㇼパを丸め込みにかかる。野間は黙っているのは得意だが、嘘はそこまで得意ではない。

 

 

──俺は金塊さえ手に入れば何でもいいがキロランケとこれ以上組むのは危険だ、お前だって暗号を解く鍵を聞き出したら用済みになるさ、俺や白石だって同じだぜ、アシㇼパ教えてくれ、何を思い出したんだ。焦りが言葉尻に乗る。

 

 

────早く聞き出して逃げないと、奴に追いつかれる。その焦りが野間に決定的な失言をさせた。

 

 

「俺は杉元に頼まれた」

 

「…!?杉元?」

 

「網走監獄で撃たれた二人に近付いた時…杉元にはまだ意識があった。旅順で死んだ親友の嫁の目を治す為に金塊を分けてやって欲しい…俺にそう頼んで、杉元は事切れた」

 

「そんなこと一度も話さなかったじゃないか!!〝見に行った時には死んでた〟って…」

 

「アイツが最期に話したのは故郷に居る親友の未亡人の事だったからだ。こんな話聞きたかねぇだろうと思って言わなかったんだよ」

 

 

アシㇼパが黙り込む。それをいい事に野間は言い募った。アイツとは仲良くなれなかったが道中助けられた事もある、杉元の最後の頼みの為だと思って教えてくれ、そう言い終える前にアシㇼパは、その人の名前は聞けたか?と口を開いた。予想外の問いに野間は言葉に詰まる。

辺りが騒がしくてよく聞こえなかったが…二文字の名前だ、トメとかウメとかそういう、と誤魔化して、軍に問い合わせれば杉元の地元は分かるからすぐに見つかるだろう、そう言ってアシㇼパを丸め込もうとするが、野間はアシㇼパを所詮子供と侮っていた。

 

…杉元が最期に何を言っていたのか、根掘り葉掘り聞き出そうとするアシㇼパを相手に言葉を紡げば紡ぐほど、ドツボに嵌っていく。

故郷に帰りたいと言ったと答えると、最期に何か食べたいとか言っていなかったか?と問われて。

 

 

──野間は自分の故郷の郷土料理の名前を答えてしまった。杉元の好きな食べ物なんて知らなかったから。

 

 

────そしてアシㇼパは野間に弓を引いた。私の知っている杉元なら〝干し柿〟と答えた筈だ、お前は何一つ信用出来ない、そう言って。

 

 

「……時間切れだな。俺の命運も尽きたか…なぁアシㇼパ、最後に教えてくれよ。初めて会った時お前、俺を殺そうとする杉元を止めたよな?あれは何でだ?この金塊争奪戦(殺し合い)の中で不殺の誓いでも立ててんのか?あの父親に殺しの心得は教わってないのか?

戦争の〝偶像〟ってのは何処も〝清さ〟を求めるモンなのかねぇ……聯隊旗手だってそうだ。童貞であれなんて酷い話だと思わねぇか?

戦場で真っ先に狙われる…銃を抜いて戦う事も出来ねぇ、殺される為に前線に立たされる男に、女の肌の温もりも柔らかさも教えてやらねぇなんて…憐れな話だよなぁ?

……なぁアシㇼパ。俺は人を殺したぜ?戦場で大勢な。殺さなきゃ殺される。生き残る為だ。戦場でテメェの命に換えられるモンなんか、嫁や子供を故郷で待たせてる友達の命くらいだ。俺にはそういう道理があった。道理がありゃあ人間は人間を殺せるんだ。お前にも道理をくれてやるよ。

お前の父親を殺したのは俺だ……これで道理が出来たなアシㇼパ。お前にも出来る…俺達と同じだ」

 

「……私は殺さない…」

 

「大したタマだ。テメェが殺されるってなってもその志を貫けるのか、試してやるよ」

 

 

野間はアシㇼパに銃口を向けた。この距離なら決して外さない。もう暗号の鍵をアシㇼパから引き出すのは無理だ。野間は杉元に殺される。それならせめて、アシㇼパを殺して、この金塊争奪戦を泥沼にしてやる。そうすれば第七師団も囚人もパルチザンも闇雲に金塊を探し回り、そして自分達がじっくり金塊を探す為に他勢力を排除しようとして、必然的に潰し合う。百之助なら、連中が共倒れになるのを待ってから自分の部下を動かして悠々と金塊を探すだろう。目的の為ならいつまででも〝待て〟が出来る男だから。

 

…アシㇼパが下ろしていた弓矢の先を僅かに持ち上げて野間の顔に向けた。そうだ、やれ。杉元に殴り殺されるくらいなら、アイヌの偶像に罪悪感を植え付けて死ぬ方が何倍もいい。

 

 

──野間ァ!!!杉元の怒声に驚いて矢から手を離したアシㇼパ。放たれた矢は野間の〝左目〟に突き立った。アイヌの毒矢だ。焼けるような痛みと共に意識が暗転していく。

 

 

────流氷原に倒れ込みながら、野間は思わず微笑んだ。

 

 

 

 

[────────────────────────────────────────────────────────]

 

 

 

 

「どうして野間はキロランケと組んでいたのか…有坂中尉がそのような指示をするとは思えん。野間の独断か?」

 

「野間は有坂中尉の飼い犬だろう。有坂中尉の指示に決まっている…所詮ヤツは兵卒上がりだ、金に目が眩んだんだろう。野間だってそうだ、有坂中尉から一体幾らの分け前を約束されているやら」

 

「そうであって欲しいね。気兼ねなく殺せる」

 

 

1908年1月。亜港監獄から程近いニヴフ民族の家で、キロランケとの戦闘で傷を負った月島と鯉登、谷垣が療養していた。特に重傷なのは月島だ。

 

…そして一番重篤なのは野間だ。

アシㇼパの矢が刺さった後、野間は杉元に左目を抉られ、毒を吸い出され、意識不明のまま手当てをされた。杉元の言い分は、アシㇼパさんをお前の死に関わらせて堪るかよ、というものだ。要はアシㇼパの為に野間は延命させられている。野間の為ではない。そして谷垣と鯉登からも散々な言われようだ。ついでに鯉登には百之助も好き放題言われている。

 

 

──この数日後、ニヴフ達の傷薬では野間は治せない、という言葉に杉元が亜港の医者に診てもらおうと言い出した。

密入国者で日本兵の我々が危険を冒してまで野間を助ける必要なんかない、と反論する鯉登に杉元は、月島軍曹だってちゃんとした医者に診てもらった方がいい、皆でニヴフの格好すりゃロシア人に俺達の見分けなんかつかねぇよ、と言って説得した。

 

 

────そうして赴いた先の医者は日露戦争経験者で杉元達が日本人である事は見抜かれてしまったが、連れ去られた女の子を取り返しに来ただけで回復したら大人しく日本に帰る、と月島が伝えると、折角治療したのが無駄になるからロシア軍に通報はしない、と言って手術が必要と判断した野間を自身の病院に運ばせた。病院に向かう犬橇に縛り付けられた野間は、僅かに口角を吊り上げて笑っている。

 

 

「野間が逃げた!!アシㇼパさん、野間が逃げた!!」

 

 

手術後に医者が野間の容態を、出来るだけの事はしたが明日の朝まで持たないだろう、と告げた事で、なんとか助けられないか頼んでみる、と言いながらも自分の手でトドメを刺す為に銃剣を手に手術室に入った杉元が、目を輝かせて病院から飛び出してくる。そのまま谷垣と白石に指示を出して野間を探して走って行く。

 

…杉元と入れ替わりに病院内に入った鯉登は、血を流して手術室の床に倒れている医者を助け起こして医者の視線の先を見て、扉の影で看護婦の喉に手術用の鋏を突きつけて隠れていた野間と目が合った。

 

 

「Ударь(殴れ)」

 

 

百之助に治安の悪いロシア語だけを習っていた野間の片言の命令に医者はすぐさま鯉登に殴り掛かり、後頭部を強かに殴られた鯉登が床に倒れる。看護婦を突き飛ばしてから鯉登に近寄った野間がその手から拳銃を奪い取って鯉登の頭に突きつけると〝Барчонак〟と罵った。

 

…野間は逃走に成功した。極寒の亜港で手術着一枚という信じられない軽装で裸馬に乗って。

 

 

──杉元は遠ざかっていく野間の背中をキラキラした瞳と思わず綻ぶ口元で見送って、元気になって戻ってこい、ぶっ殺してやるから、と心中である種の激励の言葉を送った。

 

 

 

 

[────────────────────────────────────────────────────────]

 

 

 

 

「霞子が産気づいたと下男が兵営に駆け込んできたんだが…霞子はどこだ」

 

「奥様でしたら客室の一つを事前に整えていらしたので、そちらでお医者様と助産婦さんをお呼びして篭っておいでです」

 

「何時間経った」

 

「五時間程です。お傍についているイワ子さんが仰るには、初産にしてはお産の進みが早いそうです」

 

 

1908年1月下旬。旭川の有坂邸玄関にて。百之助の帰りを玄関ホールで待っていた女中がコートを受け取りながらそう言って、奥様の所に行かれるならお風呂を先に済ませてくださいね、沸かしてありますので、と入浴を勧めた。

 

…入浴を済ませて汚れても構わない衣服に着替えて、霞子が篭っているだろう客室に向かうと、扉の前にはイワ子が立っていて、入室しようとする百之助を制止した。

 

 

「…何故止める」

 

「お嬢様は貴方様にお産を見られたくないようでして…私は貴方様を部屋に入れるなと頼まれているんです」

 

「……意味が分からん」

 

「………どうにもその…みっともなく痛みに悶える姿を見られたくないと言って聞かないんです…」

 

「一度俺が中に入れてくれと言っていると伝えて来てくれるか」

 

「結論は変わらないと思いますけど…言うだけ言ってきますね」

 

 

そう言ってイワ子は扉を最低限開けて客室の中に消えて行った。

 

…霞子の趣味で有坂邸は、洋風を好まない一部の客のもてなしや宿泊の為に誂えた和室が幾つかある程度で、九割が洋風の造りをしている。今霞子が篭っている部屋もだ。壁も扉も北海道の寒さを少しでも凌ぐために厚めにしてあるせいで中のやり取りは殆ど聞こえてこないが、暫くして驚いて大きな声で返事をしてしまったらしいイワ子の、本当に宜しいんですか、という声だけが聞こえた。そして扉が開く。

 

 

──陣痛が痛みや間隔共に落ち着いている間は居ていいけれど、いよいよお産が近づいてきたと分かる激しい痛みに短い間隔になってきたら部屋を出て行って欲しい、というよく分からん裁量で百之助の入室が認められた。

 

 

「霞子、今はどうだ」

 

『今は陣痛が五分間隔ですの、まだ痛みとしても耐えられそうなのですけど…』

 

「ですけど?」

 

『……えっと、その、お産が進んでくるとその、強い痛みにはしたなく叫んでしまう時もあるでしょうし………何よりその、お通じも…出てしまう事があるようで…………それだけは見られたくないんです…』

 

「日露戦争で死にたくねぇって泣き叫ぶ大の男も見たし、野戦病院で母親を呼んで泣くゴツい下士官も見たし、それこそクソも小便も見慣れてるぜ」

 

『そういう話じゃなくってですね…!』

 

「じゃあどういう話だ」

 

『妻として女として、そういう姿を見られるのが恥ずかしいと申し上げているんですのよ』

 

「………そうか。ならこれ以上は見られたくないってなったら言え。部屋の外に椅子でも置いて待つ」

 

 

まだいきんでいい状態ではないので好きに過ごしてください、と言われているらしくベッドに枕を積んで上体を預けて本を読んでいる霞子は、いつもの微笑みを携えていた。二分程話すと眉が僅かに寄って痛みに耐える素振りを見せた霞子の握り締めた本の代わりに、百之助は自分の手を握らせる。案外強い力で握られて少し驚く。

 

…いよいよ産み月が近づいてきてやっと友人達に妊娠を伝えたら全国各地から山のように届いた祝いの品の目録には百之助も目を通しているし、旭川の将校夫人達から贈られた品の整頓は百之助がやったが、その中でも特に気に入った品の話をする霞子の声に耳を傾けながら時を過ごす。陣痛の間隔が狭まる毎に痛みも強くなっていくのか、百之助が見た事がないくらいの汗を浮かべて苦しげに呻く頃には、陣痛は二分間隔になっていた。そして微かに生臭いようなにおいが室内に広がって、霞子の足元で膝掛けの下の様子を確認した助産婦が、破水しました、と医者を呼び寄せる。医師が霞子の下半身に手を差し入れて確認し、頷いた。

 

 

「頭も降りてきてますし、もういきんでもいいかと」

 

「俺は出た方がいいか?」

 

『………やっぱり、一緒に居てくださいませ。安心するので』

 

「…そうか」

 

 

浮かせかけていた腰をもう一度降ろして、百之助は霞子が握り締めている自分の手を包むようにもう片方の手を重ねて、額を寄せた。

 

…破水して一層強まった陣痛に耐えて、百之助の骨を砕かんばかりにしがみついて身を捩る霞子の背中や腰を擦ってやるイワ子が、もう少しですよ、破水したらあとはいきむだけですからね、と痛みに浅い呼吸を繰り返す霞子に声を掛ける。

 

 

──それから間もなくだった。産声が上がったのは。女の子ですよ、と助産婦が臍の緒の始末をしながら声をあげる。

途方もなく長く感じた時間は、時計を振り返ると百之助が部屋に入ってから長針が三周する程度しか経過しておらず、産湯を済ませて白い産着に包まれた赤ん坊を胸に置かれた霞子は服の前を寛げて赤ん坊に乳を含ませながら、その頬をつついて薄く笑んだ。

 

 

『このくらいならあと十人は産めますわ』

 

「お嬢様が特別丈夫なだけですよ。初産だというのに半日もかからずにアッサリ産んでしまわれるのですから…」

 

『ねぇイワ子、こういう所はお母様に似なくて良かったと思わない?』

 

「左様でございますね…」

 

「……あと十人は無理だぞ。養えん」

 

『ではあと七人程で』

 

「……佐官に出世したらいけるか…?」

 

 

そう頭の中で算盤を弾いている様子の百之助に微笑みを深めた霞子に医師は、陰部は縫わなくて良さそうだね、殆ど裂けてないし、と言って難産に備えて広げていた分娩用の鉗子や鋏を片付け始める。

 

…霞子に手渡されて赤ん坊をおっかなびっくり抱いた百之助は、首を肘で支えて腕で包むように抱くんです、と抱き方を教わりながら抱えて、娘だから蝶子だな、と呟く。

そして、娘なら兵隊にやらずに済む、と薄く笑んだ。

 

 

──胎盤の排出があるので、と赤ん坊──〝有坂 蝶子〟を抱いたまま部屋を出された百之助は、部屋の外で待ち構えていた女中に、子供部屋の暖炉に火を入れろ、あと先月雇った乳母を呼べ、子供部屋が暖まるまで居間で俺が見る、と指示を出す。

 

 

────ちなみに霞子は百之助には言わなかったが、中国の漢方〝紫河車(乾燥させた胎盤)〟の事や一部の地域で伝わっている胎盤を食べると母乳の出が良くなるという俗習を信じて胎盤を食べた。生姜醤油で。

産後すぐに食べきれなかった分は乾燥させて粉にして、薬のように飲んでいたのだが、完食する頃にはすっかり回復して、自身の母が霞子を産んだ後迎えられなかった床上げを産後一週間で済ませて、夫婦の寝室での生活に戻った。

 

 

 

 

[────────────────────────────────────────────────────────]

 

 

 

 

「連絡船は何処にとまってたんだ?」

 

「あのへん」

 

「…手練だな。杉元一味に新たに狙撃手が加わったか…」

 

「どうして脱がせるの?」

 

「コイツにゃもう要らねぇだろ?この銃だって…テメェがぶっ壊れるまで人を撃ちたいはずだ」

 

 

1908年2月。樺太の大泊港で野間は第七師団の一等卒の遺体から軍服と小銃を引っ剥がして笑った。そして軍服を着ていた方が情報収集の役に立つと考えて大泊の町へ戻る。どうせ連絡船に乗らないと北海道には帰れない。

 

…亜港で手術着一枚で逃亡した後、野間はそこらの民家で服を拝借しようとしてロシア人の家主に見つかり、どういう訳かその家主に迎え入れられて暫く療養生活を送る事が出来た。

病院で拝借したモルヒネを自己注射して痛みを誤魔化しながら過ごし、病院から拝借した馬で南下して大泊まで辿り着き、今は大泊で潜伏しながら連絡船に潜り込んで北海道に戻る機会を伺っている。

 

 

──野間は樺太の日本領土に戻ってから百之助に電報を打った。アシㇼパが暗号の鍵を思い出した事、そして自分はそれを引き出すのに失敗した事、北海道に戻ったら土方一派に合流して金塊の捜索を続行する事、それらを簡潔に伝えたのみだ。負傷した事は伝えていない。

 

 

「アイヌの女の子を見なかったか?」

 

「アイヌの女の子?ああ泊まってたわよ。海軍がその女の子を追っかけて連絡船を砲撃したとかなんとか、噂になってたもの…」

 

「女の子は捕まったのか?」

 

「北海道の近くで船から流氷に下りて逃げちゃったんだって」

 

「そうか、ありがとうな」

 

 

野間は余所行きの愛想笑いでそう告げて、連絡船の停泊している港に戻る。船賃などないが、まぁなんとかなるだろう、手持ちの物で交渉しよう、そう考えて。

 

…案の定乗り口で船員に、金が無いなら乗せられない、と止められて船長が呼ばれる騒ぎになり、野間は神妙な顔で平然と嘘八百を並べた。

 

 

──日露戦争の樺太作戦で負傷して最近まで寝たきりだった、年老いた両親の待つ北海道に帰りたい、船賃は無いが代わりにこれで乗せて貰えないだろうか、そう言ってロシア人の所で作るのを手伝ってから持っていた棒鱈を差し出して、物悲しげに目を伏せる。

 

 

────船長は目に涙を浮かべて野間を通した。

 

 

 

 

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「…少し札幌に行ってくる。早けりゃ明日には戻る」

 

『札幌で何かございましたか?』

 

「野間の居場所が分かった…あの馬鹿を回収してくる。もう充分だ。アイツはこの件から手を引かせて、金塊争奪戦が終わるまでウチで匿う。網走で派手に暴れてくれたおかげで鶴見中尉の中央への反乱を告発する材料なら揃ってる…それを俺の密偵として野間が集めた事にして、脱走兵としての処罰を帳消しにする。嘘は吐いてねぇだろ?」

 

『そうでございますね。では、お気をつけて』

 

 

1908年3月初め。旭川の有坂邸の玄関。生後一月半が経ち、あやされたり声を掛けられたりすると声を立てて笑うようになった蝶子の柔らかい髪を指先で梳く百之助がそう言った。その蝶子を抱いて頬を擽ってあやしている霞子は、穏やかな微笑みで答えて頭を下げた。霞子の腕の中で蝶子が笑う。

 

…その声を背に百之助は一度兵営に顔を出し、従卒他ごく少数の部下を引き連れて汽車で札幌に向かう。鉄道網の発達に伴って移動時間はかなり短縮され、その気になれば日帰りも可能だが、今回は泊まりがけだ。先月末に起きた娼婦殺害事件の事も調べておきたい。

 

 

──片道約六時間の汽車の旅を経て、札幌の外れの古寺の戸の前に立ったのは日も暮れかけた頃だった。幡山が拳銃を片手に百之助の前に立つ。旭川から連れて来た部下が戸の前に半円形に展開して銃を構えた。

 

 

「有坂中尉殿。ここは私が」

 

「ああ、頼む」

 

──ドンドン!ドンドン!

 

「ごめんください、どなたかいらっしゃいますか?」

 

──ドタドタ、ガタッ…

 

「はぁい、どちらさ…第七師団…!!ッああ!」

 

「よォ、落ち着けよ……喧嘩しに来たわけじゃねぇ。お前らも構えを解け、相手は非武装だ…オマケに随分な腰抜けのようだしな」

 

「はッ、有坂中尉殿!」

 

「有坂ぁ〜?……あッ、有古が言ってた中尉か。いくら鶴見中尉と反目してる将校って言っても俺の一存じゃ通せねぇなぁ……ちょっと待ってろ、土方さんに確認してくる」

 

「存分に話し合うといいさ…俺は野間と話しに来ただけだって伝えろ」

 

 

呑気に戸を開けたのは土方に追従する元網走監獄の看守部長〝門倉 利運〟で、目の前に構えられた銃口に顔を真っ青にして腰を抜かした。

 

…顔だけはキリリと気合いの入った様子で応対したが、未だ腰が立たないのか四つん這いで、オマケに戸は開け放ったまま引っ込んでいく門倉の背を見送って百之助は、戸を閉めてやれ、と幡山に指示を出す。

 

 

──百之助達が古寺に通されたのはその約十分後。本堂の畳で土方と相対した。百之助の後ろには幡山含む部下が五人。土方の後ろには先程応対した門倉は勿論、〝不敗の牛山〟〝永倉 新八〟〝都丹 庵士〟〝奥山 夏太郎〟〝キラウㇱ〟〝有古 イポㇷ゚テ〟…そして野間が並んでいる。

 

 

「有坂中尉、と言ったな。野間に用があるそうだが…脱走兵一人に中尉が部下を引き連れて訪問とは、随分な事だ」

 

「分かってるんだろう?ジイサン。野間は俺の指示で動いていた…網走までアンタらの動きは筒抜けだったぜ。まぁ、俺はアンタらの企みを邪魔するつもりはないんだがな」

 

「鶴見中尉の妨害には随分と余念が無いようだが?」

 

「そりゃあなぁ…鶴見中尉の動きが派手になればなる程不利益を被るのは俺達第七師団全体だ。アンタら脱獄囚が金塊を手に入れようが、それを元手に蝦夷共和国を再興しようが、ロシアのパルチザンと手を組んでロシア極東・北海道連合を立ち上げようが知った事じゃあないが…鶴見中尉の中央への反乱は現実問題として、自分に危害が及ぶ。放って置くのは自滅願望のある奴だけだ」

 

「口の回る男だ。若い割に度胸がある。覚悟のある証だ……守るべきものもさぞ多かろう」

 

「俺はこう見えて妻も娘も居るんでな…今は中隊長心得の地位を預かっている。俺が部下を率いて鶴見中尉に直接相対してもいいが…下らん内紛で部下を大勢死なせたんじゃあ、その家族に面目が立たんだろう。だから野間を遣わせた。お前ら脱獄囚と鶴見中尉で潰し合ってくれりゃあそれでいい…だが野間はもう、見ての通りの満身創痍。そろそろ引き上げさせようと思ってな。迎えに来ただけなんだよ」

 

 

百之助の物言いに土方の背後がザワついた。今俺達に第七師団と潰し合えって言ったよな、信じられん、なんつう野郎だ、と。土方は愉快そうに微笑んで、だそうだぞ野間、と野間を振り返る。

野間は不快そうに眉を寄せ、ボソボソと小声で文句らしきものを垂れてから頭を搔くと、口を開いた。

 

 

「俺はまだ戻らないぜ。まだやれる。個人的にカタをつけたい事もあるしな……それが気に食わないってんなら、密偵の任を解いてくださいよ有坂中尉殿」

 

「俺相手に改まった呼称を使う必要はねぇぜ、野間。ここまでやってくれたんだ、後は好きにしていい。

密偵の任を解くのは構わんが、俺はお前を捨て駒にするつもりもねぇ…お前は脱走の罪を帳消しにして余りまる成果をあげてくれた。いつでも旭川に逃げて来い。鶴見中尉が失脚するまでお前を匿ってやる準備は出来てんだ。それだけ覚えておいてくれよ?」

 

「相変わらずお優しい事で……なぁお前、俺が死ぬ思いで北海道を駆け回ってる間に何呑気にガキ作ってんだコラ、どうせ写真持ってんだろ見せろ」

 

「ハハァッ…まだ生まれて一月半の狆くしゃ顔だぜ。見るか?」

 

「見せろ」

 

 

ス、と百之助の肋骨服の隠から当たり前のように引き出された数枚の写真が、百之助の傍に寄った野間の手に渡る。土方と野間を除く土方陣営は呆気にとられた顔でそのやり取りを見ていた。

野間が受け取った写真をサッと捲って全ての枚数確認すると、怖ぇくらい奥様にそっくりじゃねぇか、どこが狆くしゃ顔だ巫山戯んな、こりゃ美人になるぞ、と感慨深そうに零して〝美人〟という言葉に釣られて正気に返った牛山がノシノシ近付いて野間の手元を覗き込み、蝶子を抱いて写真の中で微笑む霞子を、とんでもねぇ美人だ、お前こんな美人な嫁居るんだから危ない事してんじゃねぇよ、と百之助を容赦なくド突く。

 

…それを皮切りに土方陣営の間で写真が回し見され始め、美人だ、しかも有古の話じゃ嫁さん金持ちなんだろ、俺達兵卒にもマメに気配りしてくださって性格も良いんですよ、お前前世で何したらこんな嫁が貰えるんだ、こんなに性格悪いのに、この世は不条理だ、俺なんてツイてなさすぎて女房と子供に逃げられたのに、と百之助が好き放題に罵られる。

 

 

──最後に写真を手に取った土方は、私があと三十若かったらこの女性を口説いていたな、大切にしなさい、と鷹揚に笑って百之助に写真を返してやった。百之助は露骨に嫌そうな顔をしながら写真を隠に戻す。土方は愉快そうに笑って、一人の男を一途に愛して支えてくれる…そういう女性は得難い宝だ、ともすれば金塊よりも価値があるかも知れんな、と続ける。

 

 

────去り際になってこの間ずっと黙っていた幡山が、奥様は有坂中尉殿の事を大変可愛らしいと思ってらっしゃるんですよ、奥様は有坂中尉殿を一生手放さないおつもりです、と余計な事を言って百之助に脛を蹴られた。

 

 

 

 

[────────────────────────────────────────────────────────]

 

 

 

 

「おい宇佐美、程々にしろよ。チンポに火がつくぜ」

 

「これが結果を残してる唯一の捜査方法ですよ。菊田特務曹長は犯人を逃したでしょ、黙ってろですよ」

 

「第七師団じゃ可笑しな連中ばっかりで〝ウチの男共はどうなってんだ〟と思ってたが…特に有坂中尉殿なんかそうだ。確かに最初は夫人も強引過ぎるとこがあったが、あんないい縁談をずーっと嫌がって、あんないい女を六年も待たせやがった」

 

「有坂中尉と言えば…菊田特務曹長は聞きました?」

 

「……何をだ?」

 

「生まれた子供は娘だったそうですよ?」

 

「女の子か、いいじゃねぇか。夫婦揃って色が白くて髪が真っ黒で…夫人は勿論、有坂中尉殿も顔だけはいいから、きっと美人に育つぜ」

 

「ふふ…百之助ってば、娘の事どんな顔して抱くんでしょうねぇ、どの面下げて父親だって言えるんですかねぇ…母親共々父親に捨てられて、父恋しさに第七師団に入ったのに無視されて、花沢勇作少尉が二百三高地で死んだのにそれでも見向きもされなくて……どうやって父親やるんですかねぇ。まぁ夫人は気の利く人ですけど?屋敷も使用人も皆夫人の実家に用意して貰って…あんな半分ヒモみたいな暮らししてたんじゃ父親の威厳もクソもない!」

 

「そりゃあ言い過ぎだ宇佐美。確かに有坂中尉殿はちょっと可笑しな野郎だし、夫人はちょっと世話焼き過ぎで手回しし過ぎなとこもあるがよ…」

 

「ふふっ、いくら出世したって根っこはいつまでも甘えん坊のハナタレ小僧のまんま!」

 

 

1908年4月。先月末のジャック・ザ・リッパー模倣犯との遭遇以来、札幌の貧民窟で洋袴の前を寛げてひたすら陰部を刺激して〝精子探偵〟としての活動を続ける〝宇佐美 時重〟上等兵に背を向けて、半分他人のフリをしながら〝菊田 杢太郎〟特務曹長は答えた。

 

…犯人が二日おきに犯行現場に戻って来てそこで自慰行為をしているのは分かったが、だからと言ってお前までそこで自慰行為をする必要があるのか、と正論を言ってやりたいが、言ったところでこの狂人(イカレ)は聞きやしないので、菊田は宇佐美がこれ以上公序良俗に反した行いをしないか監視する為について回っているのだ。

 

 

「だが射撃の腕で敵う奴は居なかったし、日露戦争での小隊指揮だって見事なモンだった。鶴見中尉殿も目をかけていたぜ」

 

「はああ!?あんなの鉄砲だけでしょ?日露戦争でだって、アイツは他の隊が潰し合ったのの残りを仕留めてお零れ貰ってただけですよ!

僕の方が鶴見中尉殿の一番ですよ、コンニャロ」

 

「……話にならんな」

 

「今だってそうですよ、夫人の実家への忖度で中隊長心得なんて身の丈に合わない役職貰って、やってる事はなんです?

そっちでどうとでも出来る小さな書類不備を指摘して突っ返してきたり、網走の件でも人員を貸し渋ったり、野間なんかを使って鶴見中尉殿の邪魔をして…鶴見中尉殿を困らせる事ばっかり!」

 

「野間の脱走の裏で有坂中尉殿が糸引いてたってのか?」

 

「あら知らなかったんですか?野間と有坂中尉は昔っから妙に仲が良くて…二人でよく悪巧みしてましたもん。

鶴見中尉殿に夫人との縁談を〝絶対に破談にするな〟って圧かけられたのを今も逆恨みしてるんですよ。鶴見中尉殿のおかげで夫人と相思相愛の夫婦になれた癖に…自分の幸せも分かんないなんて、可愛いでしょう?ヒヒン…」

 

「付き合ってられん」

 

 

絶頂と共に崩れ落ちる宇佐美を路上に放置して、菊田は次の犯行現場の捜査に向かった。付き合ってられん。

 

…今夜も捜査に進展は無い。犯人との遭遇も叶わなかった。

 

 

──宇佐美はしきりに陰部を摩擦しながら、野間直明は必ずまた僕達の前に現れる、百之助の命令で…鶴見中尉殿を困らせに!!と叫んだ。

 

 

 

 

[────────────────────────────────────────────────────────]

 

 

 

 

「……フンニーー…!」

 

『見てください百之助様、蝶子が寝返りを出来るようになったんですのよ』

 

「…泣いてるが」

 

『これは仰向けに戻りたいのに戻れなくて泣いてるんですのよ』

 

「……意味が分からん」

 

『こうやって少しずつ出来る事が増えていって、子は大きくなるんです』

 

 

1908年4月。旭川の有坂邸の居間で、欧米から輸入したベビーベッドの上で寝返りをして、寝返り返りが出来ずにグズっている生後三ヶ月の蝶子をひっくり返してやりながら霞子は微笑んだ。それを覗き込む百之助は、仰向けになった途端にピタリと泣き止んで手足を振り回す蝶子の頬を指で突いた。霞子の頬とも違う柔らかさを気に入っているので。

 

…首が据わって縦抱きが出来るようになった蝶子を抱き上げてやると百之助の顔をじっと見つめてから、ニコォ、と笑って、うー、あー、と声を出す。蝶子は不思議と百之助によく懐いていた。軍務を終えて、もしくは機密でない書類を持ち帰って自身の書斎で過ごす間はベビーベッドを書斎に運ばせて近くで作業をしていたり、急激に大きくなっていく中で身体が痛むのか夕暮れ時になるとよく泣く蝶子を抱いてあやしているからか、夜間は乳母任せで乳母が休息をとる早朝から昼にかけてはイワ子に任せて文通の返事を書く時間に充てている霞子に対してよりも懐いているフシがある。

 

 

──霞子も育児はしている。しているのだが、蝶子の成長はよく把握しているのに、赤ん坊に対してどう接すればいいのかは百之助よりも分かっていないんじゃないかと思う時があるくらいには、不慣れな様子を見せる。継母の産んだ弟妹は多いが、やはり有坂家では乳母や子守りの少女が育児の大部分を担っていたらしい。家の女主人の仕事は家政の管理運営と子供の教育の手配で、子供と密に関わって育児をする事ではないという認識があるようだった。

 

 

「あまり泣かせてやるな」

 

『赤ん坊は泣くのが仕事ではありませんか?』

 

「泣く前に手を貸してやれって言ってんだ」

 

『何でもかんでも先回りして手を貸しては為にならないのではありませんか?』

 

「…そりゃあもうちょっと大きくなってからの話だろ」

 

『それもそうですね』

 

 

小さな手で百之助の顔を叩いて喜んでいる蝶子に好きにさせてやりながら、百之助は溜め息を一つ。多分霞子はこう言ったところで大して変わらないだろう。イマイチ納得していない顔をしている。ように見える。

 

…霞子は百之助の腕の中で上機嫌に笑っている蝶子の頬に手を伸ばして指先で撫でると、もうお食い初めの頃ですね、真冬という事で先送りにしたお宮参りもいたしませんと、お招きする方々の分は料理人に頼むとして…この子のお膳は一緒に作りませんか?と微笑んだ。

お前料理とか出来るのか?と蝶子を抱いたまま首を傾げる百之助に、失礼ですね、と霞子は僅かに眉を寄せ、得意とは言えませんが人並み程度には出来るんですのよ、と反論した。

 

 

──百之助は思わずイワ子を振り向くが、イワ子は辛うじて見て取れるくらいの仕草で首を横に振る。それが全てを物語っていたので百之助は、見苦しいモンを客前に出す訳にはいかんから料理人に任せるぞ、お前は来客と近所に配る赤飯と菓子の手配でもしてろ、と霞子の提案を却下した。

 

 

────霞子は少し残念そうにしながら、お客様の目に触れるものですものね、と納得した様子を見せた後に、そう言えば鶴見様は招待しなくていいんですのよね、と服の隠から取り出した雑記帳に書かれた招待者の一覧を百之助に差し出すと、呼ばんでいい、どうせ来ないし来られた所で迷惑なだけだ、と鶴見の名前を横線で潰した。

 

 

 

 

[────────────────────────────────────────────────────────]

 

 

 

 

「故郷(さと)の家族から手紙が届いたんだが…恤兵会からの慰問品が増えたそうだ」

 

「へぇ?良かったじゃねえか。お前ん家大家族だもんな」

 

「俺も聞いたぜ。未亡人になった姉貴が喜んでた。愛国婦人会から授産場の紹介して貰って、手に職つけれそうだって」

 

「俺の妹も、愛国婦人会から農繁期に子供の預け先紹介して貰えてなんとかなりそうだって、だから心配しなくていいって手紙寄越してきたんだ」

 

 

1908年4月。アシㇼパ達を探して稚内からオホーツク沿岸を捜索していた第七師団の兵士達の間を、静かに噂話が流れていた。故郷の家族、戦友の遺族、傷痍退役した元戦友からたまに届く、近況を記した手紙に書かれた明るい話だ。

 

…その話をしていると、何処からともなく誰かが言う。このまま俺達の家族の暮らしはいい方へ向かっていくんじゃないか、鶴見中尉殿の言う事にも一理あると思ってるけど…正直俺は大きな理想より今生きてる家族の今の暮らしの方が大事だ、折角日露戦争を生き延びたのに金塊探しを始めて何人仲間が死んだか、情けないけど死にたくねぇよ、有坂中尉殿は日露戦争の時俺らを無駄死にさせねえって言って上に楯突いてくれたのに、今だって有坂中尉殿は自分の部下を金塊探しに関わらせようとしてねぇ、と小さく、けれど確かに。

 

 

──そしていつしか、有坂夫人が旅順まで送ってくれた羊羹美味かったよな、有坂中尉殿が士官学校行ってる頃に貰った舶来品の酒も美味かったよ、あの頃はあの人の所に有坂中尉殿を帰すんだって真っ直ぐ走れたのにな、俺ら一人一人に…死んだ奴らにまで慰労の手紙送ってくれたんだぜ、と百之助の小隊で日露戦争を戦った兵卒がこぼし始める。有坂中尉殿の所に戻りてぇよ、と。

 

 

「有坂中尉殿、どうしてるんだろうなぁ」

 

「……さぁな。でも俺達の指揮官が有坂中尉殿だったら、今頃こんなとこでアイヌの娘っ子探して草の根分けてねぇよ」

 

「お前ら知らんの?有坂中尉殿んとこ娘生まれたんだよ。きっとめんこいぞ、夫人が綺麗だから」

 

「有坂中尉殿も顔は良いだろ、口悪いけど……性格もちょっと悪いけど…」

 

 

その言葉に、ドッ、と笑い声が響いた。性格悪いけど人としては腐ってないからなあの人は、と誰かが大きな声で反論する。

 

…先の見えない金塊探しと、先の見えない政権転覆計画の合間の、束の間の時間だ。

 

 

──この翌日、鶴見が〝二名をアシㇼパ捜索に残してあとの全員は私について札幌に向かう〟と宣言した。

 

 

 

 

[────────────────────────────────────────────────────────]

 

 

 

 

「札幌で事が大きく動きそうだな。そろそろ佳境か」

 

『和田様が消息不明になって、鶴見様が動き出して一年と少し…長い間中隊長心得のお役目ご苦労様でございます』

 

「…まだ終わってねぇんだよ。というか、事が片付いてからが一番面倒くせぇんだ…日露戦争の後もそうだった……というか何故後任の大尉が来ない…!いつまで俺に中隊長心得をさせる気だ!」

 

『ご心労が重なっておりますね…』

 

 

1908年5月始め。旭川の有坂邸、夫婦の寝室で、ベッドに腰掛けて頭を抱えている百之助の背中を撫でながら、霞子は気遣わしげにその背中に寄り添った。項に鼻先を寄せて、耳輪に額をくっつける。

 

…おやすみになれそうですか、と細く問うと、酒くれ、なるべく強いやつ、と珍しく寝酒を欲しがる百之助に、霞子は自分の書斎からとっておきの〝大黒天印ブランデー〟を取ってきて、一杯手渡す。

 

 

──本当はハチミツを溶かすともっと美味しいんですけれど、こんな夜分遅くに台所を漁る訳にもいきませんから、と少し申し訳なさそうに。

 

 

「……酒の味なんて皆一緒だろ。消毒液舐めるようなモンだ」

 

『百之助様って変な所味覚が子供ですわよね』

 

「お前が大酒飲みなだけだ。初めて寄越してきた手紙にブランデーがどうたらって書いてただろ」

 

『まぁ、覚えていてくださったんですか?』

 

「………変な手紙だったからな」

 

 

あのお手紙はイワ子に言われて何回も書き直したんですのよ、と拗ねたような口調で言う霞子に、お前イワ子に迷惑かけすぎだろ、そろそろ逃げられるぞ、と百之助が薄笑いを浮かべた。

イワ子は妾とずっと一緒に居るって約束しましたもの、イワ子の老後の世話は妾がみるんですのよ、と霞子が当たり前のように言うのを聞いて、百之助は思わず霞子の顔を凝視した。

 

…お前あの女中一生面倒見る気なのか、と信じられないようなものを見た目で。

 

 

『当たり前ですわ。ずっと一緒に居るんですもの。イワ子がどこかを悪くして働けなくなったら、今度は妾がイワ子の世話をするんです。

若い女中には仕事の中で家事や礼節を教えて一廉のお家との良い縁談を纏めて嫁がせる。結婚の道を選ばなかった女中は家で最期まで面倒を見るか…故郷に帰って家族と老後を過ごすのに不自由のないお手当てを持たせる。それが女主人の役目ですわ』

 

「じゃあ最近若い女中が一人入れ替わったのもそれか?」

 

『外で買い出しをしていた所を百之助様とは別の隊の大尉殿に見初められたんですの。

淀川様に為人とお家の事情とその他諸々、結婚を考えるのに必要な事を全て教えて頂いて、問題ないと判断したので当人にも伝えたところ、何度か逢瀬を重ねてから考えたいと言ったので、その旨を先方にもお伝えして、承諾して頂いて、先日無事嫁いで行きましたわ。

彼女に仕立てた白無垢は妾からの餞別ですわ。婚儀が終わったら袖を切って喪服として生涯使って、最期は自分の死装束にするのよ、と教えましたの。妾もお式で使った白無垢はそうしておりますが…最近は喪服は黒に、という流れがありますし、喪服として使えるかは分かりませんけれど。

彼女が抜けるのは痛手でしたわ…蝶子がまだ小さいのに女中の顔ぶれが入れ替わるのは少し嫌でしたの…けれどそんな事で花の盛りを無為に過ごさせるなんて出来ませんものね』

 

「仲人までしてたのか…案外仕事が多いんだな、お前」

 

『遊んで暮らしている訳ではありませんのよ?』

 

「知ってるよ。ちょっと揶揄っただけだ」

 

『人を揶揄って笑えるくらいお気持ちが緩まれたなら、このブランデーの残りは妾が飲んでもよろしゅうございますか?』

 

「いいぜ、俺には味が分からんからな」

 

 

そう言ってグラスが霞子の手に渡る。百之助には違いが分からないがブランデー用だという花のような形のグラスの底を手で温めながら鼻先でグラスの口を揺らした後に舌を濡らす程度に口に含んで、ほぅ、と息を吐く。明らかにいつもより緩んだ微笑みを浮かべて。そのまま前よりも少し大きく口に含んで、暫く口にブランデーを含んだまま鼻から静かに深呼吸をしてから飲み下す。

こうやって香りと味わいを楽しむんですのよ、紅茶に注いでも美味しゅうございます、と霞子は少し頬を赤らめて話す。酒が好きな割に弱いのだ霞子は。酔い潰れる事がないだけで、普通に酔う。

 

…グラスが空になったのを確認してから取り上げてベッドの枕元に置き、酒が入ってる時のお前は具合がいい、と下腹部をなぞって誘いをかける。

 

 

──霞子は百之助の意図を読み取って、もう月のものは再開しておりますの、痛みもありませんし百之助様のお好きになさって、と頬に擦り寄った。酒に火照った肌で。

 

 

────約一年ぶりの夜は大変盛り上がったとだけ言っておく。

 

 

 

 

[────────────────────────────────────────────────────────]

 

 

 

 

「さてさて…これやったらさぞかし大混乱になるんだろうなぁ……」

 

 

1908年5月。札幌の洋食店〝水風亭〟前での杉元達による騒ぎを高物見から双眼鏡で窺う野間は、アシㇼパに照準を合わせて唇を吊り上げた。

 

…その時、自分の後ろに誰かが立っているような、そんな気がして意識が逸れる。

 

 

──樺太でロシアとの国境を越えた時、ロシアの国境守備隊からの襲撃を受けて野間は夜通しロシアの狙撃手とやり合った。雪を口に含んで吐息を誤魔化し、物陰を渡って一晩かけてジリジリと狙撃手との距離を詰め、最終的には背後から強襲して顔面に銃弾を浴びせて勝利した。そして高熱を出したのだ。それ以来、時折幻を見る。

それは自分が殺したロシア兵である事もあれば、自分の真横で斃れた戦友であったり、日露戦争で命を落としたかつての上官であったり、様々だ。

 

 

────きっとそれは、野間の中の罪の意識が見せるものだと、野間は解っている。解っているのだ。

ロシア人を殺した──銃で。銃剣で。手投げ弾で。死にたくなかった。

死んだ戦友の死体を盾にして突き進んだ──マキシム機関銃の弾雨の中を。その死体を穴だらけにしながら。死にたくなかった。

28センチ榴弾砲が敵味方を問わず挽肉にするのを見た──砲弾の破片ですぐ隣を走っていた兵士がバラバラの肉塊になるのを見た。当たったのが自分でなくて良かったと一瞬でも思った事に吐き気がした。それでも死にたくなかった。

狂った犬のように走った──死にたくなかったから。

野間は死にたくないから、銃口を下ろして高物見から退避した。

 

 

「網走じゃハメてくれたな土方歳三!!俺をアシㇼパさんから引き剥がしやがって、お陰で俺は野間に頭を撃たれたぞ!」

 

「え?そうだったのか?」

 

「網走で殺してもよかった」

 

「やってみろよクソジジイ」

 

「お前は邪魔になると分かっていた」

 

「そりゃ邪魔するさ。のっぺらぼうと土方歳三はアシㇼパさんをアイヌの偶像にして新聞で国民を煽り、独立戦争の闘士に仕立てあげようとしてたんじゃねえのかよ」

 

「私の考えは少し違う。女子供の兵士は必要ない。だが自分の民族の未来がどうでもいいのなら、山で呑気に暮らせばいい」

 

「じゃあふたりとも殺し合う必要はない!」

 

 

壁も扉も大破した水風亭の前で牛山に締め上げられながら吼える杉元に、土方は冷静に言い放つ。アシㇼパはその言葉に声をあげた。そして問う。土方歳三が考える未来ではアイヌはどうなっているのか、と。

 

…土方は答えた。北海道の森林資源はこのままでは枯渇する、蝦夷共和国の経済基盤は炭鉱に置く、炭鉱開発は諸外国から移民を募って国力増大を目指し、大和民族だけで暮らしてきた内地人より古くから極東の少数民族やロシア人と暮らしてきたアイヌなら多民族国家の〝つなぎ〟になれる、そして…北海道アイヌと樺太アイヌと帝政ロシアに迫害されたポーランド人の血が混ざりあったアシㇼパこそ多文化国家の主導者として最適だ、と。

 

 

──その言葉に暗い目をする杉元とは対照的にアシㇼパは、鶴見・土方どちらの陣営も把握していない刺青人皮を持っている、我々は手を組むしかない、と土方に述べた。

 

 

────土方の拠点の一つである札幌の外れの古寺で土方陣営と杉元陣営がこれまで集めてきて手元にある刺青人皮を広げてアシㇼパは、暗号の鍵を教えなさい、と静かに圧をかける土方に〝分からない〟と答えた。暗号の鍵が本当に自身の父親の名前なのか、確証が持てなくなったから。

しかしもう、時間がない。札幌の娼婦連続殺人の犯人がジャック・ザ・リッパーだとしたら、最後の殺人までの猶予はあと二日しかないのだから。

 

 

 

 

[────────────────────────────────────────────────────────]

 

 

 

 

「鶴見中尉が動き出したな。至急函館──五稜郭に向かうぞ。

俺の部下全員と、第七師団内の憲兵を総動員だ。第一師団長の奥田閣下と、義父上…有坂閣下に電報を打て。増援を求めろ。

鶴見中尉を捕らえて反乱分子を鎮圧し、鶴見中尉は首謀者として中央に差し出す。残りの連中は…まぁなんだ、死刑だけは避けられるように手を回すぞ」

 

「はッ、至急電報を打て!憲兵に号令を掛けろ!私は馬で旭川駅に向かい列車を抑える、数名伴をしろ!」

 

「はい!」

 

 

1908年5月。札幌で麦酒工場が燃えた翌夕方の旭川歩兵第二十七聯隊の兵営で、幡山の号令が響く。数日前から兵営に詰めていた百之助の元に伝令係が転がり込んできて、事態は遂に動き出した。

 

…夕飯時にも拘わらずすぐさま身支度を整えて飛び出してくる兵士達を束ねて、百之助は旭川から函館に向かう片道約十六時間の汽車に乗り込んだ。ちなみに本来の運行スケジュールは翌朝発だった。そこは軍の権限を振り翳して無理を効かせた。

 

 

──翌日昼前に函館駅傍で機関車本体を失って取り残された客車の後ろに停車して降りた百之助と部下、そして第七師団所属の憲兵達は、凄惨な戦いの痕跡と夥しい死者、何故か一両目に転がっているヒグマの死体、そして生き残った鶴見の部下達を前に、頭痛を覚える事になる。ここに居たであろう土方一派と杉元一派の姿は無い。死体も残されていない事から上手く逃げ遂せたらしい。

 

 

────真っ先に投降したのは鯉登だった。満身創痍の月島を抱え、これ以上逆らうつもりはない、部下達もだ、と月島を地面に横たえてから両手を上げた鯉登に手枷が掛けられる。鶴見の姿は無い。

 

 

「生き残りを全員拘束しろ。怪我人は応急処置をしてから拘束だ。武器を取り上げ手足を縛り上げてから監視に十名程この場に残す。幡山軍曹、お前が残って指揮を取れ。

残りは俺と線路脇に転がってる連中の回収に向かうぞ。馬を降ろして、俺達が乗ってきた列車のケツの車両の連結を外して馬と繋いで馬に曳かせる。線路脇に転がってる連中はそれに収容しろ」

 

「はい、有坂中尉殿!」

 

「馬を降ろせ!縄持って来い!」

 

 

百之助の指示に乱れる事なく従う兵士達を見て鯉登が、私はいい…部下達はどうなる、と分かり切った問いを零す。軍法会議は避けられん…だがお前達の死刑だけは免れるように有坂閣下に口添えを頼んである、妻が言うには有坂閣下も武器弾薬の提供だのと鶴見中尉に手を貸していたようだからな…どこまでその口利きが効果を発揮するかは分からんが、と珍しく丁寧に答えてやる百之助。

鯉登は目を伏せて、感謝する、とだけ答えた。

 

…線路沿いを回って淡々と死者と負傷者の収容を始めた矢先、部下が鋭く叫んだ。野間はまだ息があります、と。馬で近寄れば状況は切迫していた。野間が線路脇に転がっている。つい先々月見た時は健在だった右目に風穴を空けて、虫の息で。

傷を焼いて血を止めろ、病院に運べ、あとは運に任せるしかない、そう指示を出せば、部下達は線路から引き剥がした枕木を燃やして炙った銃剣で傷を焼き、車両から放たれた馬に乗せて函館の町へと駆けて行く。それを見送って百之助は、深い溜息を零す。

 

 

──金塊争奪戦は終結した。首謀者である鶴見の消息は不明、捕らえられた生き残りの部下達は当局の厳しい訊問にも固く口を閉ざして多くを語る事は無く、中央は真相の究明よりも一連の件の揉み消しを謀り、百之助は有事の中で中隊長心得としての責務を全うしたとして時期外れで大尉への昇進を果たし、ゆくゆくは将官も視野に入れないか、と陸軍大学校への推薦状を送られた。口止め料だ。

百之助が所在の捜索と発見後の破棄を中央に命じられていた北海道の土地の権利書は、榎本武揚の紹介で伊藤博文と西園寺公望の後援を受けたアシㇼパが手にして公のものとなった。百之助が受けていた密命は失敗に終わったが、中央は咎め立てすらしてこなかったので、全ては〝なかったこと〟になる。

 

 

────事件がある程度の収束を見せる頃には季節も変わり、風には秋の気配を感じる頃になっていた。

 

 

「………鯉登のボンボンに全部おっ被せて転属してぇ…」

 

『軍ではままある事ですわ。今回はまぁ…規模が大き過ぎますけれど』

 

「…大体将官になんてなりたくねぇよ。分かり切ってんだろ、先なんて。日露戦争を見てみろ…ありゃ戦勝とは言えん。辛勝っつうんだよ。負けなかっただけだ。

この先も大日本帝国のやり方がもつとは俺は思わねぇ…いずれ大国に敗戦する時が来る。そん時に賊軍として受ける裁きは階級が高ければ高い程重くなる……俺は好き好んで処刑台に上がる馬鹿になるつもりはねぇぜ」

 

『何十年先のお話になるかは知りませんが…その時は妾、百之助様にお供致しますわ』

 

「せんでいい。お前はガキ共の面倒見てろ」

 

『まぁ、お冷たいこと』

 

 

旭川の有坂邸でそう言って、二人目を抱えてほんの僅かにふっくらし始めた腹に向かって霞子は、坊や聞きました?お父様が意地悪を仰るのよ、と語りかけて微笑んだ。眉を寄せた百之助が、お前の母親は破滅願望があるらしいからしっかり懐いてこの世に引き留めとけよ、蝶子だけでは不足らしい、と声を掛けた。

 

…春に産み月を予定している二人目はその時初めて僅かな胎動を母体の霞子に伝えてきて、霞子は丸くした目で、お返事が上手ね、と微笑んだ。

 

 

──〝有坂 百之助の金塊争奪戦〟は終始割と穏やかだった。多くの死者を出した血で血を洗う金塊争奪戦の中で、百之助は血の一滴も流す事なく書類仕事に頭を抱えるばかりであったので。

 

 

 

 

[────────────────────────────────────────────────────────]

 

 

 

 

「直ちゃん、おめめ痛いの?」

 

「…ん?ああ……いつもの事だ」

 

「直ちゃん、触ってもいい?」

 

「あ?どこをだよ」

 

「おめめ」

 

「触ったっていい事ねえぞ」

 

「いいの、触っていい?」

 

「構わんが…」

 

 

1913年3月。五歳になった蝶子は野間の目元に小さな手でそっと触れた。空っぽの瞼を包み込むように。

 

…そして柔らかい声で〝ちちんぷいぷい、御代の御宝〟と繰り返し唱える。

 

 

──なんだそりゃ、新しい遊びか?と問うた野間に、痛み除けのおまじないよ、直ちゃんが痛い時はわたしがいつでも唱えてあげるね、だからもう我慢しちゃダメよ、と蝶子は微笑んだ。

 

 

────野間の伽藍堂の目が熱くなった。両の目を無くしてから初めて、今目の前にあるものが見れたらどんなに素晴らしいだろうと思えた。

野間の心は、今やっと、戦場から還って来たのだ。

 

 

 

 

────fin.




あとがき


なんか…百之助サイドとそれ以外サイドの温度差で風邪引きそうな金塊争奪戦編になっちゃって…申し訳ないなって思ってます…でも楽しかったので後悔してないです。

本編の展開とキャラクター贔屓でお察しの方も居るかもしれませんが当方ゴの尾受けは最大手杉尾とか禁断の勇尾よりも宇佐尾・野間尾の民でして…性癖のままに書くとどうしても宇佐美と野間が出張る出張る。野間に至っては捏造の嵐。反省してません。やり切りました。

ゴの男達の肉体的な逞しさと精神的な弱さのバランス感覚が大好きです。野間もそういう男として書けていたら嬉しいです。

本作の合言葉は〝尾形百之助は可哀想可愛い〟なのですが、それはそれとして百之助の危険性とかそういうのを消さずに書きたくて考えてたらこういう行動になりました。胃痛枠にもなっちゃった…嫁に振り回され、部下に振り回され、上官に振り回され、果ては娘にも振り回される、苦労の絶えない男です。
可哀想で可愛いね♡♡♡て気持ちで今話も受難させました。楽しかったです。

最後の方駆け足も駆け足になっちゃって大変申し訳ないんですけど、私の筆力の限界です、無才なもので…
ここで端折った札幌ビール工場編や五稜郭・暴走列車編の裏話をしようと思います。

まず宇佐美ですが、死亡しています。ビール工場内で門倉イジメに励んでいる現場に通りかかった野間と格闘した末に、胸(肺のあたり)を撃たれて、鶴見中尉の腕の中で原作通りに。札幌ビール工場編は概ね原作通りです。

五稜郭編ではヴァシリVS百之助ではなくVS野間として狙撃戦は起きていますが、野間は脚ではなく肩を撃たれています。五稜郭編も概ね原作通りです。

暴走列車編が結構違うんですけど…暴走列車に土方達が乗り込んできたのをきっかけに、百之助の影響下にあった兵士達が鶴見に反旗を翻して蜂起します。そして、これ以上無益な人死にを出したくない、せめて生きて故郷に帰りたい、もう鶴見中尉には付き合っていられない、と自ら列車から飛び降りたり、刺青囚人の側についたり、それぞれの行動を起こし始めます。飛び降りた面々は生き残って事後処理をする百之助達に拘束されます。囚人側についた面々は残念ながら…て感じです。土方達側の死者も原作通りです。

野間はその頃列車の天井の上で鶴見に、これでアンタも終わりだな、俺の任務は達成された訳だ、と語り、私の邪魔ばかりして何が目的だったんだ?と問われると、反乱分子の妨害が任務だった、あと個人的にアンタがキョロキョロ余所見ばっかしてるの見ると腹が立ってたんだよ昔から、と答えます。
そこを杉元に襲撃されて原作の百之助がそうであったように、アシㇼパの毒矢の毒による錯乱と日露戦争からずっと抱えてきた罪悪感に耐えられずに銃口を自分の残された右目に向けて発砲します。しかし〝死にたくない〟という感情で僅かに銃口がブレた為に右目の眼窩の縁を粉々にしながら銃弾は頭の端を貫通し、残された右目も摘出する事になりますが辛うじて生き残ります。

その後は百之助の意向で有坂家に引き取られて、有坂家で世話になる対価に蝶子達の子守りをして暮らしています。

そういうオチだったんですけど、もう気力が続かなくて色々と端折りました。
そろそろ〝その罪の在処〟の執筆に戻ろうと思います。
ここまでお読みくださりありがとうございました。
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