「……ごきげんよう、有坂嬢」
『まぁ…ごきげんよう、花沢閣下』
「婚約が決まったそうだな、おめでとう」
『ありがとうございます、本当に素敵なご縁に恵まれましたわ』
1902年11月下旬。麻布の有坂邸で催された霞子の兄〝有坂 勤〟の陸軍士官学校卒業を祝した昼餐会の席に〝花沢 幸次郎〟の姿があった。砲兵隊に少尉として任官する勤と直接的な関係はないが、霞子が呼びたがったので物は試しと招待状を送ったところ、花沢はあっさりと出席を承諾したのだ。
勤はこの時点で霞子の真意と花沢への敵意を悟っていたので、騒ぎにするなよ、頼むから、やるなら品良く上手くやれ、としっかり釘を刺して扇子を手渡した。
…そして花沢は本日の主役である勤に挨拶をすると、真っ直ぐに霞子の元に向かってきて、不器用に霞子の婚約への祝辞を述べた。霞子は目元だけでおっとりと微笑んで、普段は滅多に使用しない扇子を半分広げて口元を隠す。
「…婚約者とは上手くいっているのですか?」
『先日帝国ホテルで食事会をしましたの。素敵な方でしたわ』
「……無作法などはありませんでしたか?」
『とんでもありません。とても真面目で実直な方でしたわ』
「………失礼ながら、家同士の釣り合いは全くとれていないと聞き及んでいますが」
『そうなさったのはどなたです?』
「…………倅の何を気に入ったのですか?」
『三十年式を誰よりも巧みに美しく扱うお姿ですわ』
「……は?」
『父の開発した三十年式は妾達一族の誇りです。その誇りの素晴らしい性能を十二分に引き出す天才的な射撃手…それだけで妾は生涯唯一無二の夫として頭を下げるに値すると判断致しました。
いざ士官候補生に推薦してみれば頭脳は明晰、訓練の成績も優秀…オマケに容姿端麗。性格は真面目で実直で素晴らしい方ですわ。本当にいいご縁です。花沢閣下には本当に感謝しておりますのよ?』
「……………そうですか」
『本日は兄の勤の為にご足労頂きありがとうございます。
以前からご子息の勇作様にもご挨拶差し上げなければと思っておりましたの…お手紙を差し上げても宜しゅうございますか?』
「ご自由にどうぞ。息子の交友関係に口を挟むつもりはありません」
『感謝申し上げますわ』
霞子は優雅に目を細めて、扇子の下で唇を釣り上げると扇子を閉じた。先程までは口角が下がっていたので。
…ヒヤヒヤした顔で霞子を窺っていた勤は、僅かに肩を下げて去って行く花沢が霞子から離れた途端に寄って来て、首尾は、と小声で問う。霞子は満足気に笑みを深めて、上々でございますよお兄様、妾の気も晴れました、と囁いて扇子を勤に突き返した。
父上も母上もミトさんもお優しい方なのにお前は何でそんなに好戦的なんだ、と呟く勤に霞子はにっこりと微笑んで、妾は愛する方を侮辱されて粗末に扱われて黙っていられる女ではありませんことよ、と常のおっとりした口調で言い返して黙らせた。
──霞子のこういう所が怖いんだ、と勤は常々思っている。し、霞子の夫になる百之助とはいつか霞子の愚痴を肴に美味い酒でも呑めたらいいな、と密かに思っている。基本的に外ヅラが良すぎる霞子に対する愚痴を聞いてくれるのは継母のミトとイワ子しか居なかったのだ。
────後日、霞子と〝花沢 勇作〟の間を凄まじい頻度で手紙が行き交うようになって、興味本位で内容を見せて貰った勤は〝百之助親衛隊〟の如く熱量高く百之助の良さを語り合う百之助の異母弟と婚約者の姿を目の当たりにして、百之助を心底憐れむ事になる。
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『まぁ…楽しそうですこと』
「お嬢様…いくら尾形様と花沢様の仲が羨ましいからって、北海道に旅行に行くなどとは言い出さないでくださいね」
『そんな事言わないわ、イワ子ったら…妾をなんだと思っているの?』
「お嬢様は思い立ったらすぐ行動、周りの迷惑なんて考えもしない、お転婆で手がかかってどうしようもないお嬢様です」
『あら、非道い』
1903年12月。麻布の有坂邸で勇作からの手紙を開いた霞子は、勇作の美しく読みやすい筆跡で記された百之助と勇作の日常に目を通して、楽しげに…どこか羨ましそうに微笑んで、真っ新な便箋に返事を書き始めた。
…勇作からの手紙にはお決まりの挨拶の後に、先日兄様が服を汚してしまった私に軍袴を貸してくださったのです、私は兄様がお風邪を召されますと遠慮したのですが兄様は気にしなくていいと仰いました、兄様は面倒見のいい方です、と浮き立つような筆跡が紙の上を踊っている。先日のビスケットとジャムはコーヒーと一緒に隊の皆で美味しく頂きました、名残惜しそうにゆっくり食べていた谷垣一等卒が宇佐美上等兵に横取りされていました、と結ばれる頃には筆跡は大人しくなっているが。
──霞子は勇作への返事に、北海道の寒さを気遣う挨拶の後に、士官学校時代の百之助が逢瀬に連れ出してくれた想い出を記す。日本橋久松の明治座で芝居を見た時に、人混みで逸れないように袖を握らせてくれた事、制服がシワになりますと遠慮したら気にしなくていいと言ってくれた事、ぶっきらぼうな物言いをされるだけでお優しい方ですわよね、と勇作に同意の言葉を連ねて、今度の差し入れは谷垣様に少し多めに差し上げてくださいね、と結んで封筒へ。
────イワ子は知っている。霞子と百之助の間を行き交う手紙よりも、霞子と勇作の間を行き交う手紙の方が頻度が高い事を。霞子お嬢様と尾形様と呼び合っている霞子と百之助と違って、霞子と勇作は
ちなみに百之助は、霞子と勇作が文通している事を知らない。ただし差し入れが回を重ねる毎に妙にウケが良くなっていくので、誰かが事細かに評判を霞子に報告しているのだろう事は察している。
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『ねぇイワ子、とうとう第七師団に動員令が下されてしまったわね』
「…何か、御守りなどをご用意されてはいかがです?」
『巷では〝処女はタマに当たらない〟とか言われて、処女の陰毛を篭めた御守り袋なんかが有難がられているそうよ…妾も勿論処女だけど、流石にそんな物を尾形様にお渡しするのははしたないわよね』
「絶対によしてくださいねそんな真似」
『分かってるわよ』
1904年8月。霞子は麻布の有坂邸の私室で勤への差し入れを纏めながら、そんな事を言って少し眉を寄せた。
…結局霞子は、大阪の方で〝千人結〟という長さ1メートルの白い布に千人の女性が一針ずつ結び目を作って武運長久や弾丸よけを祈願する御守りの噂を耳にしていたのを思い出して、千人結の制作に取り掛かった。
──旅順は寒くて薄い布では寒いでしょうから
『…女学校の級友にもそのご親戚にも針を刺して頂いたけれど、千人には到底足りないわね』
「出入りの商人にも頼んでみますか?」
『いえ、町角にでも立って道行く女性に頼んでみます』
「…こうなったら私もとことん付き合いますよ」
『ありがとうイワ子』
針と糸を片手に麻布の
…下級労働者とされる職人や商人の妻や娘に頼み込み、一針刺せば深く頭を下げて丁寧に礼をしてくれる、風変わりで熱心なお嬢様を一目見ようと訪れる者も居れば、私の夫も旅順に居るの、私の兄弟も旅順に征ったの、貴方の好い人も帰ってこられるといいわね、と列を作って並ぶ女性も居た。
そうして千人の女性から一針ずつ結び目を作って貰う頃には、霞子は谷町に知人友人が出来るくらいには馴染んでいて、付き添いとして霞子の後ろに控えていたイワ子は霞子のお遣いで谷町に買い物に行くと〝霞子お嬢様に持って行け〟と些細なオマケを貰えるくらいになっていた。
──霞子が数え切れない程の回数頭を下げて拵えた千人結を、至極アッサリと有難みの欠片もなく受け取る百之助にイワ子は物申してやりたくなったけれど、他人に恩を着せるのが嫌いな霞子の意を汲んで、イワ子は黙って百之助を見送ったのだ。声もなく涙を落とす霞子に驚いてそれどころじゃなくなったところも勿論あるけれど。
────そしてイワ子は決めた。いつかあの男に思いの丈をぶち撒けて嫌味を言ってやろうと。
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『そう、勇作くんが…お亡くなりになったのね。
妾、嫌な女になってしまったわ。一瞬だけ、尾形様じゃなくて良かったと思ってしまったの』
「お嬢様…」
『……ヒロ夫人も一人息子を亡くされて、さぞ悲しんでいらっしゃるでしょうね…』
1904年12月中旬。広島の陸軍予備病院で篤志看護婦として働く霞子は、勇作の戦死の報せを聞いて僅かに眉を下げて俯いた。霞子の手の中で、継母から届いた電報用紙がクシャリと潰れる。
…お悔やみの手紙を出すのは少し時間を置いてからにしましょう、今はきっとお気持ちの整理をする時間が必要なはずよ、と霞子は判断して、看護婦の下宿で便箋を自分の荷物にしまい込んだ。
──霞子はきっと、自宅に保管している勇作からの手紙を見たら泣いてしまうだろうと思った。
あの美しい字を兄と過ごす日々では些細な事に喜んで踊らせて、北海道の季節の移り変わりや兵営での日常を細やかに鮮やかに教えてくれる、その手紙がもうこれ以上増える事はない、そう思い知る事が、素直で心根の優しい青年がもうこの世に居ない事を、霞子に突きつけてくるから。
『せめて…勇作くんが苦しんで亡くなっていないといいわね』
「左様でございますね」
『だってここには…手足が引き裂かれても尚死ねずに苦しんでいる方も居るのよ。あんな大怪我をしても死ねないのに、戦地で本当に死んでしまった方は、どんな死に方をするのかと考えたら、妾怖いの…どんなに痛いのかしら、どんなに苦しいのかしら……ああ、こんな事、軍人の娘が言ってはならない事だわ』
「お聞かせください、お嬢様」
『…………お国の為に、陛下の為に、銃後の家族の為に…そんな事を言って国の為に人を死なせるのって、おかしいわ。
お国の発展の為に本当に必要なのは、戦争じゃないんじゃないかしら…人が自由に行き交って社会を動かす為の鉄道の開発や、戦争をしない為の平和的外交こそが、本当に必要なんじゃないかしら…………今言った事は忘れてちょうだいイワ子』
「そうですね。いくらでも考えてください…そして考えている事も私に教えてくださいね?
お嬢様はいつだって一人でお考えになって、一人でお決めになって、私が聞かされるのは最終結論だけなんです。たまには考えるところから付き合わせてくださいね」
『そうね。今回はそうするわ。戦争が終わって実家に戻ったら…勇作くんからの手紙を片付けないといけないわね。
ねぇイワ子、代わりにやってくれないかしら…届いた日付の順に、綴じるだけなの。妾まだ、勇作くんからの手紙を読み返す勇気がないの』
「かしこまりました。いつもお嬢様がやってるように、ですね」
『お願いね』
イワ子に手を握られてそう頼む霞子を、イワ子は妹や娘を見るような目で見つめて、ニコリと微笑んだ。
…霞子は僅かに寄せていた眉を緩めて、常のおっとりとした微笑みで、光沢のない絹で仕立てた黒いヴィクトリアン・モーニング・ドレスの手配を実家に頼んでおいてちょうだい、襟元と袖口には黒いクレープ生地をつけて帽子にはハーフベールを忘れずに、あまり派手ではない真珠のブローチとイヤリングを合わせておいて、と頼む。
──終戦とほぼ同時期に勇作の遺骨が花沢家に返還され、町を挙げた大規模な葬儀が執り行われた。当時最先端で最も格式高いとされた黒一色のドレス姿で勇作の葬儀に参列した霞子は、花沢夫妻に礼儀正しい弔辞を述べて頭を下げると憔悴しきった様子の〝花沢 ヒロ〟を気遣うように黒いグローブに包まれた手をヒロの肩に添え、ヒロ夫人さえ宜しければお茶でもしませんか、と微笑み、花沢に視線を寄越す。その視線の圧に花沢は、ミルクホールにでも行ってきなさい、と促した。
────これを機に霞子はヒロとも文通をするようになり、その事を知った花沢は微妙な顔をした。私の家族がどんどんあの女に取り込まれていく、と。間違っていない。
────fin.
あとがき
尾形百之助の受難の裏話です。
有坂霞子の暗躍ともいう。年月日で大体本編のいつの頃の裏話か分かるようになっているので見比べてみてください。
花沢幸次郎をですね…しょげさせたかったんスよ、個人的に許せないの極みなので。種だけ撒いて責任とらない男地雷です。創作だろうと無理です。
この時霞子に嫌味・皮肉・牽制の嵐を食らっているので、金塊争奪戦編での花沢幸次郎の発言がああなったんですよ〜っていうネタバレです。
勇作殿とはとても仲良しでした。どちらも郵送代を気にするような性格でも経済状況でもないので、現代のLINE並の気軽さで手紙をやり取りしてたという地味な裏設定があります。
今回のお話もどなたかに面白いなと思って頂けたら幸いです。