「……やはりな。初めから分かりきっていた事だ。日本がアメリカに勝てる訳がない」
『全国の大都市は焼け野原、広島と長崎は新型爆弾で灰燼と化して、満州は大混乱……今になって無条件降伏だなんて、銃後の家族を守らんと南方で戦って散った将兵達があまりにも憐れですわ』
「何言ってんだ、今から俺達だって嫌でもそれに巻き込まれるんだ……俺が戦犯として絞首台に上るのはいつだろうな」
『まぁ…百之助様ったら相変わらず悲観的ですわね。百之助様も妾も、戦時中から手は尽くしていましたでしょう?』
1945年8月15日正午。60代も半ばを迎えようとして定年を迎えているにも拘わらず、未だに中将として第5方面軍司令官、北部軍管区司令官の椅子に座らされている〝有坂 百之助〟が、玉音放送を聴きながらそうボヤく。〝有坂 霞子〟はおっとりと笑って、それでもどうにもならなかった時は…妾もお供致しますよ、と囁いた。
…真珠湾攻撃から始まったアメリカとの戦争が始まった時百之助はギリギリ中将としての定年を迎えていなかった為に、日露戦争でロシア軍を震撼させた第七師団を率いていた〝軍神・花沢 幸次郎〟の血を引き、日露戦争でロシア軍を戦慄させたアリサカ・ライフルの生みの親〝天才銃器開発者・有坂 成蔵〟の娘を妻に迎えている、という対ロシアの牽制に有効な〝神輿〟として北方への睨みを利かせる地位に押し込められて、定年を迎えて尚〝アメリカに勝つまではその地位を退く事は許さん〟と縛り付けられていたのだ。
──ただし百之助は、戦時中ひたすら責任逃れに走り回った。軍の会議では、非国民だ、反逆罪だ、と糾弾されないギリギリを攻めて〝時期尚早論〟と〝後方補給の重要性〟を繰り返し説き続けた。その結果今では北海道の慎重派の代表となっている。
そして妻の霞子はしょっちゅう東京や東京に暮らしていた上流階級が疎開先に選んだ熱海や箱根に出向いては女学校時代の友人達や軍の上層部の夫人達との茶会や昼餐会に顔を出し、中央の内情を探っては百之助に報告や助言をして立ち回りを支え、そして堪能な英語力で百之助を戦犯にさせない為の証拠書類を書き続けていた。
それが実を結ぶか否かは、これからの立ち回りに懸かっているが。
「早くて数日以内にはまず間違いなくソ連が北海道を攻めてくる……自衛の為には反撃を選ばざるを得ないが、そんな事をしたら俺は即座にソ連から戦犯として指名手配されてシベリア送りになっちまう」
『既に手は打ってございます。どんな状況になっても即座にアメリカ軍に釈明の書状を送る準備は整えておりますよ。ご覧になりますか?』
「見せろ」
霞子が幾つもの書類の束をソッと差し出すのを受け取って、百之助は目を通す。ロシアが南下してきた際に反撃した場合の釈明書類、アメリカとの戦争中に百之助がどうにか敗戦後の戦犯指名手配を避けようと屁理屈を捏ね回していた事の証拠書類、第5方面軍の管轄内で米軍の撃墜されたパイロットや不法入国した民間人や連行されてきた捕虜に対し〝国際法に則って人道的に処遇せよ〟と明確な命令を文書で出していた旨や部下による私刑や処刑を厳格に禁じ実際に虐待事件が起きないように厳罰を掲げて牽制していた事を示す証拠書類、そして結局女が五人に男が三人の八人も産まれた子供達のそれぞれの縁組先からの百之助を弁護し戦争には反対の姿勢を貫いていた事を説明する旨の陳情書、等々とにかく百之助を死刑にしない為の書類の数々が、全て日本語の原書と英語の訳書を綴じて揃えられている。
…若い時から変わらないどころか、年齢を重ねて手の込み具合が増していく霞子の手回しに百之助は静かに引いた。ありがたがればいいのか、それとも怖がればいいのか一瞬迷ったのだ。
──そう言っていた矢先の8月18日の深夜、千島列島の北端〝占守島〟にソ連軍が不法侵攻してきた。終戦の詔書が出た後であったが、侵略してくるソ連軍に対して反撃しないという手を選べば、未だ無条件降伏に納得せずに反乱の機会を窺っている若い将校達が暴動を起こすのは間違いない。そしてそもそも、反撃しないと民間人がどんな目に遭わされるか。満州で何が起きているのかは勿論知っている。短い懊悩の末に百之助は、武装解除はまだ早い、不法侵入者には断乎反撃せよ、と占守島の第91師団や戦車連隊に自衛のための反撃命令を下し、徹底的にソ連軍とやり合って大損害を与えた。
────そしてソ連から〝
父親亡き後に勲功華族として家督を継いだ兄の〝有坂 勤〟に頼み込んでアリサカ・ライフルの未公開技術の提供をアメリカ軍にチラつかせ、太平洋戦争中の対日同盟こそあれ根本的にソ連とアメリカが相容れない国家主義を掲げている事を論拠に、日露戦争の英雄で軍神である花沢家の血を引く夫を保護するのはソ連への牽制にもなる、夫は日露戦争に出征しており長く北方防衛を務めた事からロシア・ソ連の軍事に明るくこれからの対ソ連行動の指針を示す一助になれる、そして現在の北海道に対するソ連の影響力拡大はアメリカが8月17日に示した占領方針に反するのではないか、これを許してソ連の好きにさせてはアメリカの威信に傷がつくのではないか、といつぞやの百之助に劣らぬ屁理屈を並べ立てた。
そんな政治工作を間近で見る事になった百之助は、10月に入って保護なのか連行なのか分からない装備でやって来たアメリカ軍に身柄を確保されながら霞子に、俺が戻ったら隠居しよう、水戸は北海道ほど寒くないから老体に優しい、とだけ言って一時的に北海道を後にした。
『お待ちしておりますね』
「ああ、大人しく待ってろよ」
『約束できかねます』
「…分かってるよ」
そう答えて、百之助は巣鴨プリズンの特別個室へと移送されて行った。
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「ねぇお母様」
『どうしたの、蝶子』
「お父様はいつ出て来られるのかしら」
『占守島での戦闘が純粋な自衛戦闘命令だったと認められれば…きっとすぐに出て来られるわ。貴方ったら本当に、いくつになってもお父様にベッタリね』
「だってお父様、お母様よりも私と沢山遊んでくれたもの」
『耳が痛いからやめてちょうだい』
「ふふ」
1945年12月。百之助と霞子の第一子で長女の〝野間 蝶子〟が霞子よりもずっと悪戯っぽく笑った。その隣には蝶子が20歳になるまで縁談という縁談を拒否して〝直ちゃんと結婚する〟と言って聞かなかった為に押し切られて夫になった〝野間 直明〟の姿がある。義眼が顕になるのを嫌がって目元に布を巻いている野間は母娘のやり取りにただ耳を傾けて茶を啜りながら、アイツ図太いからなんとかなるだろ、お前は俺が何回言っても信じねぇけど
…それに無言で頷く霞子は、相も変わらず政治工作に励んでいる。百之助の従卒や補佐官達から聴き取りをした、百之助が散々に戦争を批判するボヤキや愚痴を漏らしていた事を書き記し、日本語の原書と英語の訳書の内容が矛盾しない事を確かめて東京に進駐しているアメリカ軍に送り続けているのだ。
軍の会議の議事録などは、アメリカ軍が既に確認しているだろう。だからこそ霞子は、議事録に記された百之助の慎重論を裏付けるべく、戦争の継続に消極的で反逆罪に問われないギリギリまで攻めて反戦的な態度を貫いていた彼の普段の言動について、従卒や補佐官達から証拠となる証言を掻き集めて回っているのだ。
それと、逮捕され刑に処されそうになっている戦争推進派だった高級軍人達が、慎重論を唱える百之助を反逆罪に問おうとした戦時中の動きの証拠なども集めている。
──霞子の元には日々、結婚という形で日本各地に散らばって行った子供達からの報告が届く。
盲目の野間と結婚した事で隣近所どころか同居している蝶子はともかく、中央で軍人になり財界の女性と見合いを経て恋愛結婚をした長男の〝有坂 蝶之助〟からは上層部の誰がアメリカ軍に逮捕されて、誰が刑から免れられそうで、誰は刑から免れる事が難しそうなのか、そしてその具体的な根拠を纏めた報告書が届く。
他の娘達はそれぞれ、満州進出や軍国主義に批判的な姿勢を示している実業家や政治家の中から好みの男性を選ばせて、極力軋轢が生まれないように両家での顔合わせや話し合いを重ねて縁談を纏め上げた。娘達からは財界や政界の動きに纏わる報告が届く。
次男は有坂家の血なのか技術者の道を選び上司の娘と恋愛結婚。三男は外交官の道を選んで政界の女性と見合い結婚をした。次男からはアメリカ軍が日本の技術の何を求めていてどう振る舞えば興味を惹けるのか、三男からはアメリカが日本の占領に対してどういった方針を示そうとしているのか、そういった報告が新聞に載るより先に手元に届く。
中央の軍人──と言っても安全な後方で経理として算盤を弾いて財務管理をするのが主な仕事だが──の長男以外は誰一人として軍籍を持たない、徹底して軍国主義から距離を置いて、戦争に狂う大日本帝国上層部からも距離を置いて、狂った時代を如何に安全に生きるかに重きを置いて子供達の縁組を決めた事は、家族構成を調べればすぐに分かる。
家族の今の形は百之助と霞子が話し合って大まかな方針を決め、そして年頃になった子供達にそれぞれ事情を話して、ある程度の理解を得て作り上げてきた。
『上手くいけば不起訴で公職追放で済むけれど……悪くて死刑ですわ。ソ連で銃殺されるか、アメリカで絞殺されるかは、まだ分かりませんけれど』
「お母様はどうなさるの?」
『百之助様は戻ってきたら水戸に隠居しようと仰ったの。それを信じて、でも出来る限りの事はして、お戻りを待ちます。
でもどうやっても死刑になるとなったその時は、妾もお供致しますわ。百之助様を一人寂しく地獄に逝かせるなんて致しません。
安心なさい、父も母も潔く国に殉じたとなれば、貴方達が戦争犯罪人の家族として白い目で見られる事はきっとありません。灰の中から立ち直っていくこの国で、きっと平和に生きられるわ』
「…でも私、お父様が死刑になるのも、お母様が自決されるのも嫌です。戦争犯罪人の娘だって、いいではありませんか…あの地獄のような戦争を、私達家族は誰一人欠ける事なく生き延びたのですから。生きてさえいれば、人生は案外なんとかなるものです」
「お前にしちゃいい事言うじゃねえか。
『……そうね。お父様の功績が、閣下の血の威光が…そして妾達の根回しが、いい方向に作用してくれると信じましょう』
霞子はそうおっとりと微笑んで、そろそろ隠居の支度を始めていてもいい頃ね、と七十を目前にしても未だ元気に仕えてくれているイワ子を呼んで、床下や蔵、箪笥の中に貯め込んでいる絹の反物や貴金属や宝石を子供達の手元を経由して密かに水戸に運び出すように指示した。
…日露戦争での辛勝を見た百之助は、いずれ日本は大敗する、そうなった時に現金資産は役に立たん、絹とか金とか宝石とかそういう嵩張らなくて物々交換で喜ばれる物品に換えておけ、最低限の生活資金だけを残してな、と常々子供達にも言い聞かせていたので、有坂家には隠し資産の為の細工箪笥が何処にでもある。それらの運び出しを指示したのだ。
──この二ヶ月後、預金封鎖と新円切替を契機として、多くの資産家が生活や資金繰りに苦しみ始めるのを横目に霞子とその子供達は、預金封鎖に左右されず、必要に応じて換金や交換に充てられる現物資産を元手に比較的悠々と新しい日本への適応を始めていた。
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『…信じていました。お戻りになると』
「……お前が散々っぱら俺の恥を書面にしてアメ公に送りつけてくれたおかげでなぁ?
最後にゃ担当官が呆れてたぜ、お前のワイフは男のプライドを守る気は無いのかってなぁ?」
『有事に矜恃など瑣末な事かと思いましたの』
「ハハァ、違いねぇ」
1946年4月。霞子が執拗いくらいに送り続けた証拠書類や本人の供述の甲斐あって戦争犯罪人としての容疑が晴れて不起訴となり、公職追放の沙汰のみで巣鴨プリズンから出て来られた百之助を出迎えた霞子は、嬉しそうに微笑んだ。
…これでやっと隠居出来る、そう晴れやかに笑った百之助に、隣近所へのご挨拶や心づけも済ませて準備は整っておりますよ、蝶子も直明さんも一足先に水戸の家に移っておりますの、イワ子も一緒ですわ、と当たり前のように答える霞子。
──そうか、と一言答えて霞子が百之助の迎えの為に手配した自動車に乗り込んだ。
自身の故郷へ向かう車の中で百之助は霞子の肩に頭を凭れさせて、もうこりごりだ、二度と軍だの政治だのには関わらねぇ、と愚痴を零す。ボソボソと続く長い愚痴と文句と悪態を聞きながら霞子は、これからはゆるりと老後を過ごしましょうね、と微笑んで、水戸は穏やかな所ですから、と気遣う。
「田舎になんか二度と帰らねぇと思ってたが…そう聞くと着くのが待ち遠しいな」
『妾、冬に何度か茨城に行ったのですけれど、あんこう鍋より共酢の方が美味しゅうございましたわ』
「半世紀近く一緒に居るが…とことん食の趣味の合わん女だ」
『蝶子は鍋の方がいいと言ってましたわ』
「ハハァ、そうかよ。気が合うじゃねえか」
いつぞやの新婚旅行を思わせる行き先に当時とは違う交通手段で向かう道中、焼け野原になった町を眺める。ボロボロの国民服を着て大きな荷物を抱えて歩く人々の横を、百之助と霞子を乗せた本物のガソリンで走る自動車が悠々と通り抜ける。
…六十を過ぎても黒々とした髪に縁取られた汚れ一つない霞子の横顔は、やはり別世界の住人のようだった。百之助はそれをいつぞやのように嫌味だとは感じなくなっていたけれど。
──水戸に着くまで、百之助はただ外を眺めていた。あの戦争に狂った連中は何を思って国を焼かせたんだろうな、さっさと手を引いていれば兵士も民間人もあんなに死なずに済んだというのに、と考えながら。
その事をポツリと零すと霞子は、軍国主義は病のようなものですわ、正気に返ったのですから日本は今から生まれ変わります、この国はアメリカの言いなりになるほど弱い国ではないと妾は思っております、と微笑んだ。
────霞子の言葉の通りに、急速に灰の中から蘇っていくこの国を、百之助は水戸から見届ける事になる。
東京が、大阪が、神戸が、大空襲で焼け野原になったのを逆手に区画整理がされて背の高い建物が建ち並ぶようになったが、1958年の東京タワーの完成を待たずにイワ子が、1964年の東京五輪を見届ける事なく野間が、順番にこの世を去っていく。
三十を前にして父親が死んだ時ですら涙を見せなかった霞子が、イワ子の死に静かに涙を落とすのを見た。蝶子が野間の死に穏やかに向き合って、直ちゃん頑張ったね、と涙を堪えて微笑むのを見た。有坂家は少し静かになった。
[────────────────────────────────────────────────────────]
「霞子」
『はい』
「……悪くない人生だった。
半世紀以上お前に振り回されて、やっと少し落ち着いたと思ったらガキ共が生まれてまた振り回されて、イワ子にゃ一生ナメられてるわ、国は無理難題しか言ってこねえわ、軍国主義に染まった部下共は血の気が多くて言う事聞かねえわで、まぁ散々だったが………悪くはなかったぜ」
『左様ですか』
「蝶子達を頼む」
『…百之助様、妾〝輪廻転生〟を信じていますの。もしも同じ時代に同じ人間として生まれてこられたら、また妾を妻にしてくださいますか?』
「……気が向いたらな」
1967年、冬。数年前に既に転移で全身に拡がっている癌を宣告された百之助は、治療ではなく痛みの緩和を選び、霞子と蝶子の手を借りて水戸で静かに暮らしていた。霞子は未だにどこかを病んだり悪くしたりした様子もなくピンピンしている。
…この数日後、百之助は静かに息を引き取った。霞子に手を握られて、穏やかに。それを見送った霞子は少し俯いて暫く深呼吸を繰り返した後に、一度も〝愛してる〟とは言ってくださいませんでしたね、と寂しそうに零して粛々と葬儀の準備を始めた。
──そして通夜と告別式を終えて親族と近しい者だけを招いた火葬場でやっと気付いたように、妾も言った事がありませんでしたわ、と喉仏の骨を拾いながら呟いて、蝶子に呆れた目を向けられる。
────その後も霞子は十年程生きた。上質な絹の黒い着物を纏って、結い上げた髪に有坂家の紋を彫った平打ち簪を挿して、背筋をピンと伸ばして、堂々と。
盆と正月は大勢の孫や曾孫に囲まれて、玄孫の誕生まで見届けて、それはもう楽しそうな微笑みで。
1977年の秋に丁度95歳で老衰によってその息を止めるまで、霞子は嫋やかに微笑んでいた。霞子の希望の通りに百之助との結婚式で着た白無垢を死装束に纏って、百之助と同じ墓に眠った。
〝有坂夫婦の幸福〟な日々はこうして終わりを告げた。
────fin.
あとがき
ええ、一度産んだからにはですね、最期まで責任持って書くのが物書きってものですよ、書き切りました。
最初からこうするって決めてたんです。
霞子は幸せでした、最期まで。明治、大正、昭和を生きて、激動の時代を権力と人脈と財力で図太く生き抜きましたからね。
欲しいものは全て手に入れて、手放すことなく、堂々と生きた破滅しないファム・ファタールです。
それに徹底的に巻き込まれた百之助も最終的には幸せだったと思いますよ。ちょっと受難が多過ぎましたが。
ここまでお付き合いくださりありがとうございました。
また何処かでお会い出来たら幸いです。