彼に下された新たな任務は、元首相の孫娘の護衛。
交錯する大人たちの思惑。社交界に張り巡らされた視線。
少女は男に「それ」を手渡す。
そして、二人の前を流れていく――マヨコーン。
次回、「ピアノ、教えてくれる?」
初めて会った日、彼女は休みで、男は仕事だった。
祖父の古い知人が名誉会員をしているという会員制クラブのラウンジで、祖父の秘書は男を「政府から来ていただいた方です」とだけ紹介した。黒いスーツを着た、背の高い男だった。愛想はない。かといって、無愛想と呼ぶほどの角もない。短い挨拶を済ませると、男は彼女の斜め後ろ、半歩ぶん外れたところに立った。
名前だけは、前から知っていた。
空間転移の能力者。自分の体も、手に触れたものも、一瞬で別の場所へ移せる男。
能力者そのものは、珍しいけれど、いないわけではない。向こうの学校にも一人いた。手を触れずにページを一枚めくれるだけの子で、本人はそれを、ちょっとした特技くらいに思っていた。飛び級で大学に入る子や、十歳でコンクールを総なめにする子と同じ棚に並べられる、少しだけ特別な人たち。世間の能力者の扱いは、だいたいそんなところだ。
その中で、この男だけは棚が違った。
どこまで跳べるのか、どれだけのものを運べるのか、表に出ている話はどれも曖昧だった。はっきりしているのは、護衛としてこれ以上の人間はいない、ということだけだ。襲撃が起きてからでも、爆発が起きてからでも、守る相手ごと安全な場所へ消えられる。何かあったら連れて逃げる——それだけのことが、この男にかかると誰にも真似のできない切り札になる。能力者の中でも比べる相手がいない、とまで言われる男の名前を、彼女はニュースや大人たちの噂話で何度も聞いていた。
顔を見るのは、これが初めてだった。
護衛がつくこと自体は、珍しくもなかった。向こうにいた頃から、彼女の周りにはいつも誰かがいた。運転手、家のスタッフ、会場の入り口に立っている警備員。けれど、男がひとり、手を伸ばせば届く距離で彼女を守るために立っているのは、これが初めてだった。
ラウンジの隅に、黒いグランドピアノが置かれていた。
「ピアノ、ここにもあるんだ」
独り言のつもりだったのに、男はそれを律儀に拾った。
「弾けるの?」
「まぁ、ね」
彼女は鍵盤の蓋に指先を乗せて、少しだけ考えた。
「好きではないのかも」
言ってから、余計だったと思った。初対面の、それも仕事で来ている相手に聞かせる話ではない。彼女はいつもの笑顔で、それを上から塗り直した。
「あなたは?」
「あまり考えたことないな」
男は鍵盤に一度だけ目をやって、すぐに逸らした。
「ピアノでもやろうか。教えてくれる?」
「あはは、やる気ないくせに?」
男は否定しなかった。
ああ、分かってるんだ、と彼女は思った。私がここで笑っている理由を、この人はだいたい分かっている。分かったうえで、どうでもいい話題をひとつ放り投げて、半歩外れた場所から動かずにいる。
顔合わせの前、祖父の秘書は「よくしてさしあげてください」と言った。何を、どこまで、とは言わなかった。言わなくてもお分かりでしょう、という顔だけがあった。
分かっている。政府にはどうしても手放したくない男がいて、その男を手元に繋ぎとめておきたい人たちがいて、自分はちょうどいい場所に立っている。元首相の孫で、年頃で、見栄えもそれなりにする。自分の顔が何に使えるかくらい、鏡を見るより先に、周りの大人たちの目つきで覚えた。
だから、彼女は自分からは踏み込まないことにした。
来るなら、向こうから来ればいい。
◇
最初の外出は、その週の土曜日だった。
美術館をひとつと、百貨店をいくつか。祖父に頼まれていた挨拶回りをふたつ。男は一日じゅう、半歩後ろを黙ってついてきた。人混みの中でも、振り返ればいつも同じ距離にいた。
帰りの車の前で、彼女は振り返った。
「今日はありがとう。連れ回して」
「仕事だからね」
男はそれだけ言って、後部座席のドアを開けた。
そうでしょうね、と彼女は思った。それで構わない、とも思った。
車が走り出してから、なんとなく後ろを振り返った。さっきまで男が立っていた歩道には、もう誰もいなかった。
◇
その次に会ったとき、男はサンダルを履いていた。
約束の時刻ちょうどに、家の門の前の何もないところへ、男がふっと現れた。グレーのパーカーに、黒いサンダル。ポケットに両手を突っ込んで、眠そうに空を見上げている。先週のスーツと同じ人間だと分かるまでに、少しかかった。
「……それで来ていいの?」
「いいって言われてる」
「誰に」
「上の人」
職場でもだいたいこうなのだと、男は言った。昼間からソファで寝ていても、誰も何も言わないらしい。来なくていいとまで言われているのに、それでも毎日顔を出しているのだという。
「なんで?」
「拾ってもらったからね」
それ以上を、男は言わなかった。彼女も聞かなかった。
男の籍は、外務省のどこかの部署にあるらしい。国がこの男を抱えていることは誰もが知っているのに、顔を知っている人間はほとんどいない。そこにいるかもしれない、と思わせておくこと自体が、この男の仕事の半分なのだと、誰かが言っていた。
だから、隣を歩いていても誰も振り向かない。急な呼び出しがあっても、男は一瞬で戻れる。ついでに言えば、元首相の機嫌を取る役にも立つ。彼女がこの男を連れ出すことに、文句を言う人間はどこにもいなかった。
◇
それから、週に一度か二度、彼女は男を連れ出すようになった。
男が門の前の何もないところから現れても、もう驚かなかった。約束の時刻には、いつもちょうどだった。人混みでは、何も言わなくても彼女の半歩後ろにいる。コーヒーには何も入れない。待ち合わせに遅れたことは一度もないくせに、帰り際にはたいてい眠そうな顔をしている。そういうことを、彼女はひとつずつ覚えていった。
いつの間にか、彼女は男を「あなた」と呼ばなくなっていた。「あんた」のほうが口に馴染んだし、男もそれについて何も言わなかった。男のほうはといえば、彼女の行きたい場所に、文句も言わずについてきた。行き先に興味があるのかどうかは、相変わらずよく分からなかった。
その日は、電車に乗った。
言い出したのは彼女だった。男に頼めば、目的地までは一瞬で着く。けれどそれでは、ただ連れていかれるだけだ。
改札の前で、彼女は少しだけ背筋を伸ばした。
「初めてだ」
「もう忘れちゃった」
男は他人事のような顔で券売機を眺めていた。乗り方を、という意味らしい。この男はもう何年も、移動というものをしていないのかもしれなかった。
「期待してない」
彼女は鞄から交通系のICカードを二枚取り出して、一枚を男の手に押しつけた。
「ちゃんと調べてる。チャージもしてある」
「へえ」
男はカードを裏返して眺め、彼女が改札を抜けるのを見届けてから、同じようにした。
降りた駅で、靴を買おうと言い出したのは男のほうだった。
駅ビルの靴屋の前で、男はふと足を止めた。
「靴、買おうかな」
なんでまた、と彼女は口には出さず、顔だけでそう言った。
何度か一緒に出かけるうちに、この男の物の選び方はだいたい分かってきていた。動きやすいか、壊れにくいか、すぐに脱げるか。基準はたいていそのあたりで、見た目は勘定に入っていない。サンダルだって、たぶんそういう理由で履いている。
男が棚の前に立ったので、彼女は横から覗きこんだ。
「スニーカー? あんた、ランシューとかそっちのほうが好きだと思うわよ。ランシューってわかる? ランニングシューズよ」
「知ってるよ」
男はランニングシューズの棚を素通りして、普通のスニーカーを一足手に取った。白くて、飾りがなくて、どこにでもありそうな靴だった。試しに履いて、二、三歩歩いて、それで決めた。理由は言わなかった。
実用一点張りの男が、走りやすさを選ばなかった。普段はサンダルなのに。
自分の隣を歩くために、少しだけ普段と違うものを選んだのかもしれない——と一瞬だけ考えて、彼女はその考えをすぐに棚へ戻した。そんなことを考える人ではない。
会計を済ませると、男は紙袋の中の箱を見下ろして、それから彼女のほうを見た。
少しだけ、ばつの悪そうな顔をした。
次の瞬間、紙袋は男の手から消えていた。
「……履いていかないの?」
「今日はいい」
「どこにやったの」
「家」
それだけだった。手品と呼ぶには、あまりに味気ない消え方だった。この男にとっては、物を家に置いてくることも、自分ごとどこかへ移ることも、たぶん同じくらいの手間なのだろう。
彼女のほうは、さっき雑貨屋で買ったハンカチの小さな袋を、ずっと自分の手で提げていた。
「それも送っとこうか」
「いい。持てるから」
今日は電車で来て、電車で帰る。能力で運ばれているわけではないのだから、一緒に買ったものくらい、自分で持って歩きたかった。
「あんたの靴も、私が持ってあげたのに」
「重いでしょ」
「重くないわよ、靴くらい」
男は少し首をかしげて、何も言わなかった。
◇
靴を買った日から、季節がひとつ進んだ。
出かける先は少しずつ増えた。古い喫茶店、駅前の本屋、夜まで開いている雑貨屋。彼女がドラマの話を始めると、男は最後まで黙って聞いた。映画は嫌い、しんみりするから、と彼女が言ったときには「違いが分からない」と返されて、彼女は帰り道の三十分をまるまる使ってその違いを説明した。男は最後まで分からなかったが、最後まで聞いていた。
男のほうも、ぽつぽつと自分のことを話すようになった。職場のソファの寝心地。たまに頼まれる、よその部署の荷運び。どれも聞けば答えるという程度の話だったけれど、聞かなくても話すことが、前よりは少しだけ増えた。
男がかなりの近視だと知ったのは、それから何度目かの外出のときだった。
カフェの窓際の席で、彼女はかねてから気になっていたことを聞いた。
「あんたって、人の顔見ないよね」
「そう?」
「そう。話してるとき、だいたい肩のあたり見てる」
男は少し考えてから、
「目が悪いんだよ。かなり」
と言った。
「それで護衛できるの?」
「できるよ。目で見なくても、どこに何があるかは分かるから」
男が言うには、周りの位置関係は、目とは別のところで掴んでいるらしい。誰がどこに立っていて、どちらを向いていて、どのくらいの速さで動いているか。真後ろにいる人間のことも分かる、と男はこともなげに言った。
「じゃあ、文字とか、顔とかは?」
「見えないと困るときは、ちゃんと見えるようにしてる」
なるほど、と彼女は思った。それもきっと、能力でどうにかしているのだろう。便利なものだ。
けれど、そういうことではない気がした。
「眼鏡、作ろうよ」
「いらないよ」
「作るの。私が選ぶ」
男は何か言いかけて、やめた。言っても無駄だと判断したらしかった。
その日のうちに、彼女は男を眼鏡屋へ引っぱっていった。
眼鏡屋でのフレーム選びは、ほとんど彼女の独壇場だった。
「次、これ」
「さっきのでいいよ」
「よくない。次、これ」
細い金属のフレーム、太い黒縁、角の丸いべっこう柄。彼女は棚から次々と抜き出しては男にかけさせ、一歩下がって眺め、首をかしげては外させた。男はされるがままだった。途中からは、言われる前に自分で顔を差し出すようになっていた。
結局、彼女が選んだのは、細いメタルの、ほんの少しだけ丸みのあるフレームだった。かけると、表情の薄い顔が、わずかに柔らかく見えた。
視力を測るからと、男は店員に奥へ連れていかれた。彼女は待合の椅子で脚を組んで、レンズの仕上がりを待った。
小一時間して、出来上がった眼鏡を、彼女は店員から受け取った。会計はもう済ませてある。これは彼女からの贈り物だった。
「はい」
男がそれをかけるのを待って、彼女は一歩近づいた。もう一歩。男の目の前で、顔を少し傾けてみせる。
「これで、私の顔もよく見えるでしょ?」
ああ、と男は思った。
こいつ、俺に顔をちゃんと見てほしいんだ。
言われてみれば、見ていなかった。見えなかったからではない。見る理由がなかった。位置さえ分かれば仕事には困らないし、人の顔をわざわざ覗きこむ必要もない。そういう習慣が、男にはもともとなかった。
だから今、言われたとおりに見た。
近い。近すぎて、睫毛の一本一本まで見える。勝ち気に上がった目尻と、こちらの反応を待っている口元。
「なんか生意気な顔だね」
開口一番、男はそう言った。
彼女は一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
「でしょ?」
まったく悪びれない。男は眼鏡の位置を指で直して、あらためて彼女の顔を見た。
こいつ、クソ美人だな。
口には出さなかった。出したところで、たぶんこいつは「知ってる」と言うだけだ。
その日から、男は普通に彼女と目を合わせるようになった。
◇
眼鏡を渡した日から、男はそれをかけてくるようになった。次の週も、その次の週も。門の前に現れる男の顔には、いつも彼女の選んだフレームが乗っていた。
男にしてみれば、せっかくもらったから、というくらいの話だった。
それでも、変わったことはあった。男は話すとき、ちゃんと彼女の目を見るようになった。彼女が何か言いかけてやめると、続きを待つようになった。彼女が冗談を言えば、肩のあたりではなく、顔を見て笑うようになった。
その頃から、二人の外出を「仕事」と呼ぶ者はいなくなった。男自身も、たぶん彼女も。
「その日、仕事なんだ」
ある日、次の約束を決めようとしたとき、男がそう言った。
「私も。その日は仕事」
どんな仕事かは、お互いに聞かなかった。
考えてみれば、相手がちゃんと「仕事」をしているところを、二人ともまだ見たことがなかった。
◇
その夜、彼女はある国の大使館で開かれたレセプションに出ていた。元首相の孫として、祖父の名代のような顔をして。
シャンパングラスを片手に、彼女は会場をゆっくりと泳いだ。名刺を差し出してくる議員の秘書に微笑み、昔話を始めようとする財界の老人に相槌を打ち、それとなく縁談を匂わせてくるどこかの夫人を、話題ごとそっと別の方向へ流す。年上の男たちの視線が、自分のどこに留まって、どこで逸れるのか。彼女には手に取るように分かった。分かっていれば、かわすのは難しくない。ひらり、ひらりと、花びらが風をよけるみたいに。
これが、彼女のもうひとつの仕事だった。
男を見つけたのは、会場の壁際だった。
黒いスーツ。表情の薄い顔。初めて会った日と同じ格好で、男はある要人の少し後ろに立っていた。誰も男のほうを見ていない。見ていないのに、男の立っている場所は、会場のどこから何が飛んできても間に合う位置だった。
それから、彼女は気づいた。
眼鏡をかけていない。
化粧室へ向かう廊下で、男とすれ違った。男は足を緩めて、こちらを見た。
「お、いるな」
「いるわよ。仕事だもの」
「普段と違うね」
「あんたもね。眼鏡は?」
「仕事中はコンタクト」
男は、なんでもないことのように言った。
「言ってなかったっけ」
「……聞いてない」
「言ったよ。眼鏡いらないって」
男は少しだけ首をかしげて、付け足した。
「それに、眼鏡なんて壊したら怒るでしょ、君」
「ふーん」
返せたのは、それだけだった。
男は要人の背中のほうへ戻っていった。振り返りもしなかった。
彼女はしばらく、廊下の真ん中で立ち尽くしていた。
コンタクト。
見えないと困るときは、ちゃんと見えるようにしてる。——あれは、そういう意味だったのか。
じゃあ、最初から見えてたんじゃん。
初めて会ったラウンジでも、電車でも、靴屋でも。私の顔なんて、この男にはずっと普通に見えていた。
だとしたら、あの眼鏡屋の、あれは。
これで私の顔もよく見えるでしょ、と得意げに顔を近づけた自分。開口一番の「なんか生意気な顔だね」。照れ隠しだと思っていた。初めてちゃんと見た顔に、男なりに何か言おうとして、ああなったのだと。
違う。あれは、普通に見えてるけど、お前、近いんだよ——くらいの意味だ。
からかったつもりで、からかわれていた。
頬が熱くなるのが分かった。会場に戻る前に、彼女は化粧を直さなければならなかった。
男のほうは、その夜のことをほとんど何とも思っていなかった。
会場の向こうに彼女がいた。いつもより笑い方が上品で、いつもより隙がなかった。お、いるな、と思った。普段と違うな、とも思った。それで終わりだった。男は感慨もなく仕事をこなし、要人を車まで送り届けて、帰った。
帰りの車の中で、彼女はずっと窓の外を見ていた。
最初から見えていた。それなのに、男はあの眼鏡をかけてくる。仕事のときはコンタクトで、自分と会うときだけ、わざわざあの眼鏡で。
眼鏡なんて壊したら怒るでしょ、と男はさっき言った。怒るに決まっている。だから男は、あれを仕事には持ってこない。壊さないように、大事に使っている。私が選んだ眼鏡を。
それに、と彼女は思い出す。あの日から、男は本当にこちらの顔を見るようになった。肩のあたりではなく、ちゃんと目を。見えていたのに見ていなかったものを、あの日から見るようになった。
窓ガラスに、自分の顔がうっすらと映っていた。口元が緩んでいるのに気づいて、彼女は慌てて頬杖をついた。
◇
あの夜から二週間ほどして、彼女は男を水族館へ連れていった。
行き先を決めたのも、チケットを取ったのも、順路を調べたのも彼女だった。今日ははっきり、そのつもりで来ている。エスコートするのは自分のほうで、されるのは男のほう。逆じゃないのかと誰かに言われても、別に構わなかった。
大水槽の前で、彼女は男を見上げた。
「こういうところは初めてでしょ?」
「仕事で来たことあるよ。こういうところの護衛も初めてじゃない」
ふうん、と彼女は言った。
その口の端が、ほんの少しだけ下がったのを、男は見た。目は笑ったままなのに、さっきまでそこに映っていた水槽の光が、すっと引っこんだように見えた。
今のは良くなかったな、と男は思った。
何が良くなかったのかは、よく分からない。ただ、残念そうだということは分かった。眼鏡をもらってから、そういうことは前より分かるようになった。
男は水槽のほうへ向き直った。
ガラスの向こうを、銀色の群れがひとかたまりになって横切っていく。大きなエイが、天井近くをゆっくりと滑っていく。前に来たときは、出入り口と非常口と人の流れしか見ていなかった。
「でも、こうしてちゃんと魚を見るのは初めてだ。すごいな」
「お昼はお寿司にする?」
男の言葉の終わりに、ほとんど被せるようにして彼女が言った。
見ると、彼女はもう笑っていた。さっき引っこんだ光が、ちゃんと目に戻っている。
魚を見てすごいと言ったそばから、寿司の話だ。さっきの仕返しのつもりらしい。もっとも、昼食の相談としても本気のようだった。
男に分かったのは、そこまでだった。
「寿司か」
男は少し顔をしかめた。
「苦手なんだよな、ああいうこじんまりした店は」
白木のカウンターと、目の前で握る板前と、背中のすぐ後ろの壁。男が思い浮かべているのは、たぶんそういう店だ。仕事で何度も、誰かの後ろに立って過ごしてきた店。
彼女も、ああいう店の奥にある個室は好きではなかった。周りに誰の気配もない部屋は、どうにも落ち着かない。
「回転寿司だよ」
彼女は得意げに言った。
「テレビで見たんだ。ハンバーグとかラーメンも回ってるんだって」
彼女も、回転寿司は初めてだった。祖父に連れていかれる店にはレーンなんてないし、皿に値段も書いていない。一度くらい、普通のデートみたいなことをしてみたかった。
店に入ると、彼女はレーンの前で動かなくなった。
流れてくる皿を、端から端まで目で追う。注文用のタブレットを勝手にめくっていく。男が湯呑みに粉茶を入れるのを、珍しいものでも見るように眺める。
やがて、目の前を一枚の皿が通りすぎた。
軍艦の上に、マヨネーズで和えたコーンがこんもりと乗っている。
「これ、寿司なの?」
彼女は声を上げて笑った。
「あはは。ねえ、これ寿司なの?」
笑いながら、しっかりその皿を取っていた。
ひとくちで頬張って、彼女は目を細めた。こういう味が、昔から好きだった。好きなのに、口にする機会はほとんどなかった。だから余計に。
ニンニクの乗った炙りサーモンにも、迷わず手を伸ばした。今日はデートだと決めて出てきたはずなのに、そのことは、皿が目の前に来た瞬間にどこかへ行っていた。
男はそれを見ても、特に何も言わなかった。ただ、彼女が取り逃した皿を、ついでのように取って、彼女の前に置いた。
「向こうにいた頃は、こういうの、テレビの中のものだったから」
湯呑みを両手で包んで、彼女は言った。
「親父さんの仕事で向こうにいたんだっけ」
「そう。今こっちにいるのも、父の都合」
「そっか」
男は少し間を置いた。
「お前、あそこの娘でもあるのか」
「でもって何よ」
男は答えず、流れてきた玉子の皿を取った。
彼女はもう一度レーンのほうを向いた。ハンバーグの乗った皿が、ゆっくりとこちらへ近づいてくるところだった。
◇
それからも、二人はよく出かけた。
回転寿司には、あれから何度か行った。彼女はマヨコーンを必ず二皿取る。男は決まって玉子から食べる。電車の乗り換えを調べるのは今も彼女の役目で、男は相変わらず覚える気がない。そういうことを、お互いにいちいち口にはしなかった。
ある日の帰り道、駅の連絡通路で、男がふと足を止めた。
通路の脇に、アップライトのピアノが一台置かれていた。どなたでも自由に弾いてください、と書かれた札が立っている。弾いているのは、制服姿の高校生だった。上手いとは言えない。それでも、迷いのない指だった。
男は通路の柱にもたれて、それを聴いていた。
この人、こういうの聴くんだ。
彼女は少し驚いた。男が何かに足を止めるのを見るのは、ほとんど初めてだった。靴屋の前を除けば。
曲が終わって、高校生が照れくさそうに頭を下げて去っていった。男はまだ柱にもたれたまま、空いた椅子のほうを見ていた。
彼女は鞄を肩にかけ直して、ピアノの前に座った。
自分でも、なぜそうしたのかはよく分からなかった。弾きたかったわけではない。好きかと聞かれれば、今でも「好きではないのかも」と答える気がする。ただ、男が興味を持ったらしいものの近くに、自分も行ってみたかった。
鍵盤に指を置く。子どもの頃から、数えきれないほど弾かされた曲。考えなくても、手のほうが覚えている。
通りすがりの何人かが足を緩めて、また歩いていった。
弾き終えて顔を上げると、男がすぐそばに立っていた。眼鏡の奥の目が、まっすぐにこちらを見ていた。
「ピアノ、教えてくれる?」
彼女は一瞬、息を止めた。
同じ台詞を、前にも聞いた。初めて会った日、クラブのラウンジで。あのとき男は鍵盤を一度見ただけで、すぐに目を逸らした。どうでもいい話題で、彼女とのあいだに線を一本引くための台詞だった。
今は、こっちを見ている。
「私、結構スパルタ教育受けてたからねぇ」
彼女は鍵盤の上で、指をひらひらと動かしてみせた。
「ビシバシ行くよ?」
「いいじゃん」
男はそう言って、少しだけ笑った。
彼女は椅子の端に寄って、空いた半分をぽんと叩いた。男は少し迷うような顔をしてから、そこに腰を下ろした。足元は、いつかの白いスニーカーだった。
「まず背中。丸い」
「丸くないよ」
「丸い。やり直し」
男が言われたとおりに背筋を伸ばす。彼女はその手を取って、鍵盤の上に置いた。置いてから、あ、と思った。思ったけれど、今さら離すのも変だったので、そのまま続けた。
「指、硬い。力抜いて」
「抜いてるよ」
「抜けてない」
ぺしり、と手の甲を叩くと、男は「痛い」と言った。少しも痛くなさそうな声だった。
男はたぶん、今夜のうちに「今日はちょっと楽しかったな」と思って、それでおしまいにする。
彼女のほうは、帰り道で、明日の朝で、来週のどこかで、何度でもこれを思い出すことになる。
それでいい、と彼女は思った。今のところは。