星を掴め ―― 嗤われた【重力魔法】、時間も光も支配して最強になった 作:朝凪小夜
石ころ一つを持ち上げるのに、俺は今日も汗だくになっている。
拳ほどの大きさの石だ。河原で拾ってきた、なんの変哲もないやつ。それが今、俺の掌の上、指三本ぶんの高さに浮いている。
たったそれだけのために、体の芯がじわりと冷えていく。魔力だ。抜けていく。指先から、腹の底から、根こそぎ持っていかれる。汲めども尽きぬ井戸なんてものは、少なくとも俺の体にはない。せいぜいが、雨上がりの水たまり程度のものだ。それを、こうして毎日、柄杓で一杯ずつ、大事に汲み出している。
石が、ぽとりと落ちた。
掌に戻ってきた重みを確かめて、俺は息を吐いた。額の汗を、手の甲で拭う。まだ朝だというのに、もう一仕事終えたような疲れがある。
「……よし。今日は指四本ぶん、いけたな」
誰も聞いていない独り言だ。だが、口に出すのは大事なことだと思っている。昨日は指三本。今日は四本。数えていなければ、この一本の差にすら気づけない。気づけなければ、続ける理由も見失う。
俺のスキルは【重力魔法】という。
名前だけ聞けば、たいそうなものに思えるかもしれない。重力。世界の理そのものを操る力。実際、聖点で初めてこのスキルを授かったと分かったとき、教会の記録官は、ほんの少しだけ眉を上げた。珍しい名だ、と。何百年ぶんもの、人の力の目録を諳んじている、あの老人が。
珍しかったのは、名前だけだった。
できることといえば、ものを持ち上げる。それだけ。しかも、法外な魔力を食う。石一つでこのざまだ。剣士が一日中、剣を振れるあいだ、俺は石を数えて魔力を使い果たす。冒険者としては半人前どころか、四半人前にも届かない。
珠地域に潜って魔物を狩る、そんな稼ぎ方は、俺には縁がない。持ち上げた石を敵に投げつける? 投げる前に、こっちが魔力切れで倒れる。だから俺は、ギルドの帳面付けだの、倉庫の掃除だのを引き受けて、その日の糧を得ている。石を持ち上げる練習は、稼ぎとはなんの関係もない。ただの、俺の道楽だ。
だから、俺の通り名は【重力使い】ではない。
「よう、石ころ使い。今日も一人で遊んでんのか」
声が降ってきた。
振り向かなくても分かる。ガレンだ。剣のスキル持ちで、都市じゃそこそこ名の知れた男。俺より三つ上で、体は俺の倍近くある。そして、俺を蹴るのが趣味みたいな奴でもある。後ろに、取り巻きが二人。
「遊んでるわけじゃない。訓練だ」
「訓練ぅ?」
ガレンが笑った。取り巻きも、追従して笑う。
「石ころ持ち上げて訓練とは、こりゃまた立派なもんだ。なあ、で、その石ころで何を倒すんだ? カエルか? ミミズか?」
「ミミズは持ち上げても倒れないだろう」
「……あぁ?」
軽口のつもりだった。だが、ガレンの目つきが変わる。こういう男には、正しいことを言うのが一番いけない。俺はそれを、この三年で嫌というほど学んだ。学んだが、直せていない。減らず口だけは、どうしても、引っ込まない。
ガレンの爪先が、俺の脇腹に入った。
「ぐっ……」
息が詰まる。膝が地面につく。痛い。当たり前だ。魔力で体を強化する芸当も、俺にはできない。重力を操るくせに、自分の体一つ守れやしない。
「生意気なんだよ、お前は」
もう一発。今度は背中だ。骨の上を、硬い爪先が抉る。
「スキルガチャで大外れ引いたくせによ。教会も気を遣ってお前を冒険者登録してやったんだ。感謝して、隅っこで小さくなってりゃいいものを」
三発目は、来なかった。
ガレンが飽きたからだ。この男の暴力には、いつも同じリズムがある。二発か三発、俺が言い返さなくなったら、それで終わり。殺す気はない。殺したら面倒だからだ。ただ、踏みたいだけ。自分より下の何かを踏んで、自分がまだ上にいると確かめたいだけ。
だから俺は、こういうとき、黙る。言い返せば、リズムが崩れて、余計に長引く。痛いのは、短いほうがいい。それくらいの計算は、できる。
「行くぞ」
ガレンが取り巻きを連れて去っていく。去り際、一人が俺の落とした石を蹴飛ばしていった。石は水音を立てて、河原の浅瀬に沈んだ。
俺は膝をついたまま、しばらくそれを見ていた。
……さて。
脇腹をさすりながら、立ち上がる。痛みは、まあ、慣れたものだ。折れてはいない。折れていたら、こんなふうには息ができない。肋骨の勘定なら、この年でずいぶん詳しくなった。どこを蹴られたら、どのくらいで痛みが引くか。だいたい分かる。
浅瀬まで歩いて、沈んだ石を拾い上げる。冷たい。
「悪かったな。お前は何も悪くない」
石に謝る男。傍から見れば、いよいよ頭がおかしくなったと思われるだろう。けっこうだ。どうせ誰も見ていない。この河原の、饐えた水の匂いのする一角に、好きこのんで来る人間なんて、俺くらいのものだ。
俺は石を懐に入れて、河原を後にした。
日が傾く頃、俺のねぐらに戻る。
都市の外壁に沿った、物置みたいな小屋だ。もともとは倉庫だったのを、家賃代わりに掃除と管理を引き受けて、隅を間借りしている。狭い。雨漏りもする。冬は隙間風がひどい。だが、一人でいられる。それだけで十分だ。
板張りの床に座り込み、懐から石を出して、机代わりの木箱の上に置く。
それから、日記を開いた。
安物の紙束だ。ギルドで書き損じの帳面を分けてもらって、綴じ直したもの。そこに、俺は毎日、同じことを書いている。
『第百九十七日。持ち上げ、指四本ぶん。魔力消費、体感で前日比やや減。石を落とす瞬間、指先に妙な引っかかりあり』
最後の一行を書いて、俺はペンを止めた。
妙な引っかかり。
今日、ガレンに蹴られる前だ。石を落としたとき、ほんの一瞬、掌に残った感覚があった。うまく言葉にできない。石が落ちるのが、ほんの少しだけ、遅れた気がした。
……気のせいだろう。疲れていたんだ。
だが、俺はその一行を消さなかった。気のせいかもしれないことも、書いておく。それが俺のやり方だ。気のせいを百回書けば、百回のうち一回くらいは、気のせいじゃないものが混じっているかもしれない。混じっていたとき、記録がなければ、それに気づけない。
なぜこんなことを続けているのか。
自分でも、たまに分からなくなる。ものを持ち上げるだけの魔法。それをどれだけ磨いたところで、剣士のひと振りに勝てるわけもない。指四本が指五本になったところで、ガレンの爪先を止められるようにはならない。
それでも、俺は諦めていない。
諦めが悪いのは、生まれつきだと思う。母がそうだった。
病で寝付いて、もう長くないと医者に言われて、それでも三年生きた。「まだ死ぬ理由が見当たらない」が口癖だった。理由が見当たらないから、生きる。理屈になっていない。だが、俺はその理屈になっていない理屈が、嫌いじゃなかった。
母は、最後まで、俺の魔法を笑わなかった。石を持ち上げる俺を見て、「クロトの手は、器用だねえ」と言った。器用でもなんでもない。ただ重いものを、無駄に魔力を使って浮かせているだけだ。だが母は、痩せ細った顔で、嬉しそうに笑った。
その母も、もういない。
だから俺は、諦める理由を探している。
この力に何の意味もないと、心の底から納得できたなら、そのときは諦める。母のいない世界で、石を持ち上げ続ける理由も、なくなる。だが、まだその理由が見当たらない。指四本が、昨日より一本増えた。それは、まだ何かが伸びているということだ。伸びているものを、途中で放り出す理由はない。
……というのは、たぶん、半分は言い訳だ。
本当のところは、もっと単純かもしれない。この石を持ち上げているあいだだけは、俺は「石ころ使い」じゃない。誰かに何かを証明する必要もない。ただ、掌の上の重さと向き合っている。それだけの時間が、俺には要るのだと思う。母が「器用だねえ」と笑ってくれた、あの時間の続きを、俺はまだ、生きているのかもしれない。
いけない。感傷的になってきた。
俺は頭を振って、机の上の石を、もう一度掌に乗せた。
「もう一回だけ、やるか」
夕飯前の、最後の一回。
魔力を練る。
これも、この三年で身につけた数少ない技術だ。井戸が小さいなら、汲み方を丁寧にするしかない。腹の底の熱を、細く、長く、一本の糸みたいに引き出していく。急げば溢れて無駄になる。惜しめば足りない。ちょうどいい太さを、指先の感覚だけで探る。
石が、浮く。
指一本。二本。三本。
いつもなら、ここらで魔力の底が見えてくる。だが、今日はもう一段いけそうな気がした。ガレンに蹴られたぶん、悔しさが燃料になっているのかもしれない。悔しさは、不思議と、魔力の練りをよくする。腹の底が、熱くなるからだ。
指四本。
浮いた石を、じっと見る。
いつも俺は、ただ持ち上げて、落とすだけだった。だが、さっき河原で感じた「引っかかり」が、頭の隅に残っている。あれは何だったのか。
試しに、落とす瞬間に意識を向けてみることにした。
持ち上げるのは、要するに、下向きの重さに逆らって、上向きの力を作ることだ。ずっと、そう理解してきた。石にかかる重さを、俺の魔力で押し返している。綱引きみたいなものだ。俺の力が勝てば、石は浮く。負ければ、落ちる。
だが、もし。
押し返すんじゃなく、石にかかる重さそのものを、いじれるとしたら。
思いつきだった。根拠はない。ただ、そう考えた瞬間、指先の練り方が、ほんのわずかに変わった気がした。押し上げるのではなく――石の周りの「落ちようとする流れ」を、掌で包み込むような。綱を引くのではなく、綱が張られている地面のほうを、傾けるような。
石が、落ちる。
俺は手を開いていた。
落ちる。落ちる、が――
「……ん?」
遅い。
石が、遅い。
指四本ぶんの高さから床までなんて、瞬きより短い時間のはずだ。それが、遅れている。ほんの一拍。羽根が落ちるみたいに、ではない。羽根は空気に受け止められて遅くなる。これは違う。石は、石のまま、まっすぐに落ちている。ただ、その落ちる速さそのものが、鈍い。
石が床に触れた。ことん、と、間の抜けた音がした。
小屋の中が、しんとしている。
俺は、手を開いたままの姿勢で、固まっていた。心臓が、やけに大きく鳴っている。
「……今の、なんだ」
声が、少し掠れた。
もう一度。頭より先に、手が動いていた。石を拾い、掌に乗せ、魔力を練る。さっきと同じように。押し上げるんじゃなく、包み込む。地面のほうを傾けるように。
浮く。指四本。
落とす。
――遅れた。
今度は、しっかり見ていた。見間違いじゃない。石は、遅れて落ちた。俺の掌の真下、拳一つぶんの空間。そこだけ、石の落ちる速さが鈍っている。まるでそこだけ、時間の流れが薄まったみたいに。
時間。
その言葉が浮かんだ瞬間、背筋を、氷みたいなものが這い上がった。悪寒だ。だが、寒いんじゃない。むしろ、体の芯が熱い。悪寒と高揚が、同じ場所で、ぐちゃぐちゃに混ざっている。こんな感覚は、生まれて初めてだった。
俺は、震える手で、日記を引き寄せた。
さっき書いた『妙な引っかかり』の一行の、その下に、ペンを走らせる。
『石を落とすとき、落下が遅れる。掌の真下、拳一つぶんの範囲。時間が――』
そこまで書いて、ペンが止まった。
時間が、なんだ。
遅れる?
止まる?
薄まる?
どの言葉も、正しい気がしないし、間違っている気もする。俺には、これを言い表す言葉がない。
だが、言葉がなくたって、起きていることは起きている。
俺は顔を上げて、机の上の石を見た。なんの変哲もない、河原の石。拳ほどの大きさ。ガレンに蹴飛ばされ、浅瀬に沈んで、俺が謝った石。
その石が今、俺の掌の上で、時間に触れていた。
……誰も知らないはずだ。
ふいに、そう思った。教会には、これまでに見つかったスキルの記録が、山のように積まれている。何百年ぶんもの、人の力の目録。俺の【重力魔法】も、そこに一行だけ載っている。
「対象を浮揚させる。消費魔力大」――たったそれだけ。
そこには、こんな話は書かれていない。重力を操る者が、時間に触れたなんて話は。少なくとも、俺が冒険者登録のときに読ませてもらった写しには、一行もなかった。
誰も知らない。
貴族の書物にも、教会の記録にも、載っていない。
俺だけが、今、これを握っている。
その事実が、じわりと、腹の底に染みてくる。指四本ぶんの持ち上げに一喜一憂していた、四半人前の石ころ使い。その俺が、誰も踏み込んだことのない場所に、たった一人で立っている。
可笑しくなって、俺は少し笑った。
「……理由が、また見当たらなくなったな」
諦める理由を探していたはずが、また一つ、諦められない理由が増えた。始末に負えない。
外はもう、すっかり暗い。夕飯は抜きだ。魔力を使いすぎて、腹より先に頭がふらつく。それでも、俺は石を置けなかった。
もう一度、掌に乗せる。
この落下の遅れが、いったい何なのか。どこまで遅らせられるのか。範囲を広げられるのか。石以外でも起きるのか。重さで変わるのか。
問いが、次から次へと湧いてくる。答えは、一つもない。
けれど、それでいい。
問いがあるということは、まだ先があるということだ。まだ、伸びしろがあるということだ。伸びているものを、途中で放り出す理由はない。母の口癖じゃないが、やめる理由が、また一つ、遠のいた。
俺は震える手で、もう一度、魔力を練り始めた。
この日の日記の最後には、こう書いてある。
『第百九十七日。追記。今日、俺のスキルは、たぶん、少しだけ変わった。まだ何も分からない。だが、明日も試す』
――これが、後に世界を丸ごとひっくり返す力の、いちばん最初の一行だった。
もっとも、そのときの俺は、そんなことは何一つ知らない。
ただ、掌の上の石が、ほんの少し遅れて落ちる。それが嬉しくて、たまらなかっただけだ。
母が生きていたら、見せてやりたかった。ほら、母さん。俺の石ころは、ちょっとだけ、すごいものになったかもしれない。
そう呟いて、俺はまた、石を掌に乗せた。
冷たい石が、俺の手の中で、静かに、時間を、遅らせていた。