星を掴め ―― 嗤われた【重力魔法】、時間も光も支配して最強になった 作:朝凪小夜
あの光を初めて見たのは六つの頃だった。
よく晴れた夕暮れだった。都市の外れ。貧しい家の子供たちが身を寄せ合って暮らす、あの一角。その隅で、クロトが小石を持ち上げていた。
誰も見ていなかった。ステラは剣の稽古に夢中で、他の子たちはクロトの魔法をとうに笑い飽きて、いなくなっていた。石ころを持ち上げるだけの、なんの役にも立たない魔法。誰も価値を認めなかった。役立たず。ハズレスキル。そう言ってみんなあの子に背を向けた。
だからあれを見ていたのは私だけ。
クロトが小石を持ち上げる。ひとつ、ふたつ。汗をかきながら、真剣な顔で。その掌の周りで。
光が歪んだ。
夕陽が、あの子の手のところでほんの少し進む道を変えた。きらりと。誰も気づかないほどわずかに。世界の理が、あの子の手のひらの周りだけほどけて、また結び直された。そんな光景だった。金色の夕暮れの光が、あの子の指の先で水面みたいに揺らいで。
その揺らぐ光に。あの子の髪が照らされていた。
白い髪だった。
この都市では見ない色。年寄りの白髪とも違う。生まれつきの雪のような白。夕陽を受けてその白が淡く金色に染まっていた。そしてその下の目。
蒼い目だった。
澄んだ空の碧さとも違う。もっと深い。夜の底の湖のような。あるいは光さえ沈み込んで二度と出てこない深淵のような。そんな蒼。
白い髪に蒼い目。それはあの子の力によく似ていた。誰にも気づかれない地味な色。街の雑踏に紛れてしまう目立たない子。なのに、その本質は。この世界のどの色とも違う特別な色をしていた。ちょうど石ころを持ち上げるだけのハズレスキルのその奥に。世界の理をねじ曲げる力が隠れていたように。
その白と蒼が。歪んだ光の中で。ほんの一瞬。この世のものとは思えないほど綺麗に見えた。
私は動けなかった。
息をするのも忘れてただそれを見ていた。
綺麗だと思った。
それだけだったはず。あの日は本当にそれだけだったはず。
私のスキルは光魔法。女神の力に近いと教会は私を重んじた。光を操る者。だから私には分かった。他の誰にも分からなかったことが。
あの歪んだ光の意味が。
光はまっすぐ進む。それが世界の理。何ものにも遮られずまっすぐに。曲がることなどない。太陽の光も月の光も私の光も。みんなまっすぐ。それが当たり前。
なのに、クロトの手のひらの周りで光は曲がった。
それがどれほどあり得ないことか。光を操る私にだけ分かった。世界のいちばん動かしがたい理が、あの子の小さな手のひらの周りでねじ曲げられていた。まるで神様がうっかりそこだけ世界の設計を間違えたみたいに。
あの子の力は世界のいちばん根っこに触れている。
誰も気づかなかった。教会も貴族も街の誰も。石ころを持ち上げるだけのハズレスキルだと笑った。笑って蹴って踏みつけた。あの子がどれほど途方もないものをその手に握っているかも知らずに。
愚か、だと思う。
あの子が持ち上げていたのは石ころなんかじゃない。世界の理そのものだった。ただその使い方があまりに原始的で。石を持ち上げるなんていういちばん粗雑な形でしか現れなかったから。誰にもその真価が見えなかった。
見えたのは私だけ。
――私だけ。
そのたった一人だけという事実が。私の中でどういうわけかゆっくりと形を変えていった。何年も、何年もかけて。
最初は、ただ、綺麗だと思っただけ。
次は、この光の価値を私だけが知っているという、ささやかな優越。誰も気づかない宝物を一人だけ握っている。そんな、子供らしいひそかな誇り。街のみんながあの子を笑うたびに、私は心の中で思っていた。あなたたちは何も知らない。あの子の手のひらで何が起きているか見えていない。見えているのは私だけ。
それがいつからだろう。
私だけが知っているでは足りなくなった。
私だけのものにしたい。
あの光を。あの世界の根っこに触れる歪んだ光を。それを生み出すあの子を。誰も価値を知らないままでいい。むしろ誰も気づかないほうがいい。あの光の価値を知るのが、この世で私ただ一人ならば。
――ならば、あの子は私だけのもの。
誰にも渡さなくていい。だって誰も欲しがらないのだから。誰もあの子の価値を知らないのだから。私だけが知っている。私だけが見ている。ならば、あの子は当然のように私のもの。そう思えた。思えてしまった。
その気持ちがいつ芽生えたのか。自分でもはっきりとは分からない。
綺麗が。優越に。優越が独占に。独占がもう名前もつけられないような重いものに。少しずつ少しずつ形を変えて。
気づいたときにはもう。重くなっていた。
どうしようもなく。
クロトはステラを好いている。
知っている。ずっと前から。
あの子の目がステラを追うそのまっすぐな熱を。私は幼い頃から隣で見てきた。クロトが石を持ち上げて笑われても、ステラだけは笑わなかった。「いつかすごいものになる」と言った。根拠もなくまっすぐに。あの一言がクロトをどれほど支えたか。
クロトはステラのあの一言に恋をしている。
私の言葉ではなかった。
私もあの頃クロトの魔法を信じていた。いいえ、信じていたなんて生ぬるい言葉じゃない。私は見えていた。ステラよりもずっと深くその真価を知っていた。ステラはただ優しさで「すごいものになる」と言った。でも私は本当にあの光がすごいものだとこの目で見ていた。
なのに、私は言えなかった。
ただ、隣で静かに見ていることしか。ステラはまっすぐに言葉にできた。何も見えていないのに、優しさだけで言い切れた。私は全部見えていたのに、言えなかった。この光は綺麗だと、あなたはすごいと、たったの一言がどうしても言えなかった。
だからクロトの心はステラに向いた。
皮肉な話。いちばん深く分かっていた私ではなく、何も分かっていなかったステラの言葉があの子を掴んだ。
それを恨んだことは――ある。何度も。ステラのあのまっすぐさが。何も持っていないくせに、全部持っているみたいなあの無邪気さが。妬ましくてたまらない夜もあった。
だがそれももういい。
時が経って。ステラは剣星になった。都市の誇りに。誰よりも強い、頂きに。そして貴族に望まれた。ヴェルドー家の許嫁に。庶民の血に箔をつけるため、聖点を獲ることになった。
私はそれをクロトよりずっと早く知っていた。教会に近い私にはそういう話が耳に入る。
そして私は悟った。
ステラはもうクロトの手の届かない場所へ行く。名門に嫁ぐ。それは決まったこと。覆らない。クロトがどれだけ力をつけても。庶民のままではあの境界を越えられない。
――越えるとすれば。
聖点を獲るしかない。
庶民が圧倒的な戦果で勲一等を掻っさらう。身分の壁を押し上げる。それしかない。そしてクロトのあの根源の力なら。あの世界の根っこに触れる力なら。聖点討伐でそれができるかもしれない。あの子は聖点でこそ本領を現す。私には分かっていた。
私はクロトがいつかその道にたどり着くことを知っていた。
クロトがステラを諦めきれないことを。届かないと知りながらそれでも追うことを。そして追うためには聖点を目指すしかないことを。
全部、分かっていた。
クロトが気づくよりもずっと早く。
だから私は先に動いた。
この二年、私は冒険者として地盤を固めた。パーティの伝手。珠地域の情報。教会との繋がり。装備。聖点討伐に必要なものを少しずつ揃えた。クロトがその道を歩き始めるそのずっと前から。
クロトのために?
――いいえ。
私のために。
クロトがいつか聖点を目指すとき。その隣にいるのが私であるように。クロトがその道を進むためになくてはならないのが私であるように。そのための準備。二年ぶんの準備。
クロトが私を頼るように。
クロトが私なしでは進めないように。
あの子が「助かる」と頭を下げたとき。「ありがとう」と言ったとき。私の胸に広がったものをなんと呼べばいいのか。
喜びではなかった。もっと深く静かで確かなもの。
あの子は私を必要とし始めている。私が二年かけてそう仕向けた通りに。あの子は自分の意志で私に頭を下げている。そう思い込んでいる。差し伸べられた手がいつからそのために伸ばされていたのかも知らずに。
その確信。
クロトはまだステラを見ている。届かない星を見上げている。それでいい。見上げていればいい。私はその隣であの子が決してその星に届かないことを誰よりも正確に知りながら。
支えるふりをして。
あの子の道の一歩一歩に。私を編み込んでいく。
一つしなかったことがある。
半年ほど前。クロトがまだ石ころ使いと嗤われていた頃。ある冒険者がクロトの魔法に目を留めた。低級の魔物相手にクロトの力が使えるのではないかと。ほんの少し持ち上げるだけでも牽制にならないか、と。その男はクロトを自分のパーティに誘おうとしていた。
もしあのときクロトがその誘いに乗っていたら。
クロトはもっと早く珠地域で力をつけていた。私の手を借りずに。私以外の仲間と共に。私のいない場所で。
私はそれをさせなかった。
難しいことではなかった。その男に少しだけ別の話を吹き込むだけ。クロトの魔力の少なさを。実戦での使えなさを。「あの子は石ころしか持ち上げられない。パーティのお荷物になるだけ」と。ほんの数言。それだけであの男はすぐに興味を失った。クロトを誘わなかった。
私は嘘をついたわけじゃない。当時のクロトの魔力の少なさは事実だった。ただその事実だけを選んであの男に渡した。あの子の本当の真価には一言も触れずに。
クロトは何も知らない。自分にそんな誘いがあったことも。それが消えたことも。私が消したことも。
罪悪感はなかった。
だってあの誘いに乗っていたら。クロトは私のいない場所で力をつけていた。私以外の誰かと。そんなことあっていいはずがない。あの光の価値を知るのは私だけ。あの子の隣にいるべきなのは私だけ。
だから私はしなかった。クロトが私以外の手を取ることを。
――させなかった。
手を汚したとすら言えない。私はただしなかっただけ。あの子に伸びるはずだった別の手を。私がそっと払いのけた。それだけ。誰も傷つけていない。誰も殺していない。ただ一つの可能性をあの子の知らないところで消しただけ。
これから先もそう。
クロトの道から私以外のあらゆる可能性を。私は静かに消していく。あの子が気づかないうちに。あの子が私だけを頼るように。私だけを必要とするように。誰もあの子に手を差し伸べないように。差し伸べる前に私がその手を消しておく。
それが罪だと言うなら。
構わない。
クロトは私に聞いた。
「なぜ聖点を獲りたいのか分からない」と。
私は答えた。「理由は後から分かればいい。私がいるから」と。
優しい言葉に聞こえたでしょう。あの子は救われた顔をしていた。行き場のない衝動を抱えたあの子に私が居場所を与えた。そう思ったでしょう。
でも。
私が本当に思っていたのは。
――理由なんて見つからなくていい。
あなたがステラに届く理由を見つけられないまま。ただ私の敷いた道を進んでくれれば。行き場のないその執念を。届かない星へのその想いを。全部私が抱え込んで。少しずつ少しずつあなたの中のステラを。私で埋めていければ。
いつか。
あなたが見上げているその星が。ステラではなくなる日まで。
あなたの目が、もうあの黒い髪を追わなくなる日まで。あなたの心のいちばん真ん中にステラの代わりに私が座る日まで。
私は待つ。
どれだけ時間がかかっても。どんな手を使っても。
クロト。
あなたはまだ何も知らない。
あなたが届かないと諦めたあの光を。私がとうの昔に諦めていたことを。
いいえ。
諦めたのではない。
私はあなたがあの光に届かないことを。誰よりも正確に知っていた。あなたがあの星に手を伸ばすたびに、その手が空を切ることを私は知っていた。知っていて、その隣で微笑んでいた。
だからこそ。
――だからこそ、私はあなたの隣にいる。
あの夕暮れの。歪んだ光をたった一人見ていたあの日から。ずっと。
この気持ちがいつ重くなったのか。今でも自分では分からない。
でも。
もう決めているの。
あの光は。あなたは。
――私のものだと。
どんな手を使っても。