星を掴め ―― 嗤われた【重力魔法】、時間も光も支配して最強になった 作:朝凪小夜
ステラと二年ぶりに言葉を交わしたのはまったくの偶然だった。
その日、俺とルーチェは教会に呼ばれていた。聖点討伐を目指す冒険者として正式に教会の名簿に名を連ねる手続きのためだ。聖点の支配には女神の力が――教会の認可がいる。だから、討伐を志す者はあらかじめ、教会にその意志を届け出ておく必要があった。
手続きを終え、教会の広い前庭を歩いていたとき。
俺はその姿を見た。
前庭の噴水の傍。数人の従者を従えて。黒い髪の女が立っていた。
ステラだった。
俺の足が止まった。
崖の際で見たあの遠景とは違う。今度は近い。前庭の噴水を挟んで十数歩ほどの距離。顔もはっきりと見えた。
緑の目。まっすぐな鼻筋。子供の頃から変わらないあの芯の通った立ち姿。
ステラだ。
間違いない。俺が幼い頃から目で追い続けてきたあいつだ。
その黒い髪が。
風になびいた。
教会の前庭を抜けていく風に。ステラの黒い髪がさらりと流れた。
その瞬間、俺の頭の中に一つの光景が蘇った。
――子供の頃。
都市の外れ。土の道。木剣を提げたステラが俺の前を駆けていく。誰よりも速く。黒い髪を無造作に後ろで束ねて。その束ねた髪が走るたびに風に散った。泥を跳ね上げ汗をかいてそれでもあいつは笑っていた。
「クロト遅い!」
振り返ってそう言って笑う。緑の目がまっすぐ俺を見て。
あの黒髪。風に散るあの黒髪。
俺が恋をした。
いつだったかも覚えていない。ただ気づいたときには、あの風に散る黒髪を目で追っていた。あいつが走れば俺も走った。あいつが笑えば俺も笑った。石ころ使いと嗤われても、あいつが「いつかすごいものになる」と言ってくれれば、それだけで俺は前を向けた。
あの黒髪の少女が。
今、目の前にいる。
だが。
噴水の傍に立つその黒髪は。
俺の知るあの黒髪とは違っていた。
無造作に束ねられてはいなかった。丁寧に結い上げられ、細い銀の飾りが編み込まれている。風になびいても乱れない。ほつれた一筋が頬にかかるさまさえ、どこか優雅だった。手入れの行き届いた艶やかな黒。あの頃の埃と汗にくすんでいた黒とはまるで別の色みたいに光っていた。
同じ黒髪だ。
色は変わらない。風になびくのも変わらない。
なのに。
なびき方が違う。あの頃の、泥と汗にまみれ、走るたびに散ったあの奔放な黒髪ではなかった。今風に流れる黒髪は静かで整っていて、そして――どこか遠かった。
髪だけじゃない。
まとう衣は上等な貴族の装い。立ち姿は相変わらず芯が通っているが、その芯の質が違う。かつての、まっすぐな跳ねるような芯ではなく、洗練された落ち着いた令嬢の佇まい。
従者たちに何か指示を出している。その口調も仕草も。俺の知るステラのあの屈託のない大声とは違った。静かで、品があって、当たり前のように人に傅かれることに慣れた者のそれだった。
二年。
たった二年で。
あいつはこんなにも変わったのか。
「……ステラ」
俺は思わずその名を呼んでいた。
声は届いたらしい。ステラがこちらを振り向いた。
緑の目が俺を捉える。
一瞬。
ステラの目がわずかに見開かれた。
俺を認識した。それは分かった。二年ぶりでも幼馴染の顔を忘れるはずがない。
「……クロト?」
ステラが俺の名を呼んだ。
その声を聞いて。俺の胸に懐かしさがこみ上げた。ステラの声だ。二年ぶりに聞くあいつの声。少し大人びて落ち着いた響きになっていたが。確かにステラの声だった。
「久しぶりだな、ステラ」
俺は噴水の傍へ近づいた。
「元気そうでよかった。……そのいろいろ聞いた。剣星として活躍してるって。都市の誇りだって」
ステラは俺を見ていた。緑の目が俺の頭から足元まで。一瞬、何かを確かめるように。その視線には幼馴染を懐かしむ色より先に。今の俺がどの程度の身なりのどの程度の立場の人間か。それを値踏みするような素早さがあった。ほんの一瞬。だが俺はそれを見て取った。あの頃のステラにはなかった視線の動きだった。
そして。
「クロト、あなた……冒険者になったのね」
「ああ。ルーチェと組んで。……お前も知ってるだろ、ルーチェ。あいつと二人で聖点を目指してる」
「聖点を?」
ステラの眉がわずかに動いた。
「あなたが? ……あの石ころ使いのあなたが?」
その言葉に。
俺は一瞬言葉を失った。
石ころ使い。
ステラの口からその言葉が出るとは思わなかった。あいつは昔、俺をそう呼ぶ連中を睨みつけていた。「クロトの魔法はいつかすごいものになる」と言い返していた。あの言葉がどれだけ俺を支えたか。あいつはたぶん覚えてもいない。
なのに。
今あいつは。
当たり前のようにその言葉を口にした。かつて自分が必死に否定していたその呼び名を。
だが。
悪意はなかった。あいつの緑の目には俺を見下すような色はなかった。ただ驚いている。石ころ使いと呼ばれていた幼馴染が聖点を目指すほどの冒険者になったことに純粋に驚いている。それだけだった。
悪意がないからこそ。
俺はなぜか胸がざわついた。
あいつはただ事実として俺を「石ころ使い」と呼んだ。かつてあいつが必死に否定していたその呼び名を。今はなんの抵抗もなく。当たり前のように。あいつの中であの庇ってくれた記憶はもう風化して。俺はただの昔の石ころ使いの幼馴染に戻っていた。
あの頃のステラは。
もう、いないのかもしれない。
「変わったのね、あなたも」
ステラはそう言って微笑んだ。
その微笑みは優しかった。だが俺の知るあの屈託のない笑顔とは違った。崖の際で遠くに見たあの令嬢の微笑み。それと同じだった。品があって整っていてそしてどこか距離があった。
「私もいろいろ変わったわ。……もうあの頃とは違うの」
その声にはどこか満ち足りた響きがあった。
変わった。もうあの頃とは違う。それをあいつは悲しんでいるようには聞こえなかった。むしろ今の自分に居場所を見つけた者の。正しい場所に収まった者の。そんな静かな充足がにじんでいた。
「聞いたよ。……許嫁がいるんだってな」
俺は努めて平静に言った。
「ヴェルドー家のご子息だっけか。名門だ。……おめでとう」
「ありがとう」
ステラは微笑んだまま頷いた。躊躇いも照れもなかった。まるで当然の帰結を受け入れるように。
「聖点を獲るの。私。庶民の血に箔をつけるために。……それで正式に輿入れが決まるわ」
「そうか」
俺は頷いた。それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
あいつは聖点を獲る。名門に嫁ぐために。俺があいつに届くために目指しているその同じ聖点を。あいつはあいつを俺の手の届かない場所へ完全に連れて行くための道具として獲ろうとしている。
同じ聖点。
だが意味がまるで違った。
俺にとって聖点はあいつに近づくための細い道。あいつにとって聖点は俺から遠ざかるための最後の一段。
風がまた吹いた。
ステラの結い上げられた黒髪が静かになびいた。乱れず優雅に。あの頃の泥まみれで風に散った奔放な黒髪ではなく。
「……それじゃ私行くわね」
ステラはそう言って踵を返した。
「クロト。あなたも頑張って。……聖点獲れるといいわね」
その言葉に悪意はなかった。皮肉もなかった。ただ幼馴染の健闘を祈る。それだけの言葉だった。
だが。
俺にはそれが。
届かない場所から投げかけられた憐れみのように聞こえた。
あいつはたぶん思っていない。俺があいつに届くために聖点を目指しているなんて。ただ幼馴染が大それた夢を追っている。そう思って微笑んで健闘を祈った。それだけ。
俺の想いなど。
あいつの視界には。もう映っていなかった。
ステラが従者たちを従えて去っていく。
その黒髪が。風になびきながら遠ざかっていく。
俺はその後ろ姿を見送っていた。
変わらない黒髪だった。色はあの頃のまま。風になびくのもあの頃のまま。
だが。
もうあの黒髪は俺の方を振り返って笑ってはくれない。泥を跳ね上げ汗をかいてまっすぐ走ってはくれない。
結い上げられ飾られ優雅になびくその黒髪は。
俺の知らない誰かのものだった。
「クロト」
背後から声がした。ルーチェだった。手続きを終えて俺を探しに来たのだろう。金の髪が教会の光の中で静かに揺れている。黒く遠ざかっていく髪と。すぐ隣の金の髪。俺はその二つを同じ視界の中に見ていた。片方は去っていく。片方は俺の隣に残っている。
「……ステラと話してたの?」
「ああ」
俺は頷いた。それ以上言葉が出なかった。
ルーチェは遠ざかるステラの後ろ姿をしばらく見ていた。それから俺の顔を見た。碧い目が俺の表情を静かに読んでいる。何かを確かめるように。俺の胸の中の黒髪の残り火がどのくらいの大きさか。それを測るように。
「……変わったでしょう。ステラ」
「……ああ」
「二年あの世界にいれば。人は変わるわ。……仕方のないことなのかもしれない」
ルーチェの声は静かだった。責めるでも憐れむでもなく。ただ俺の胸にその言葉をそっと置くように。
俺はその言葉に頷くこともできなかった。ただ遠ざかる黒髪を見ていた。
仕方のないこと。
そうなのかもしれない。あいつは貴族の世界で二年を過ごした。その世界に馴染んだ。変わった。それは責められることではないのかもしれない。
だが。
俺の胸にはあの頃の風に散る黒髪が。まだ鮮やかに焼きついていた。
あの黒髪を追いかけて。俺はここまで来た。
その黒髪はもうない。
いや。
黒髪はそこにある。ただ俺の追いかけたあの黒髪ではなくなっていた。
――このときの俺はまだ知らなかった。
これがほんの始まりに過ぎなかったことを。
あいつが変わっていくのは。まだこれから。もっと深く。もっと取り返しのつかないところまで。
そして。
その隣で俺が。あの頃の黒髪を想い続けることが。どれほど俺を曇らせていくのかを。
俺はまだ何も知らずにいた。
ただ風に散るあの黒髪だけを。胸のいちばん奥に抱えて。