星を掴め ―― 嗤われた【重力魔法】、時間も光も支配して最強になった 作:朝凪小夜
俺の暮らしはいつの間にかルーチェを中心に回っていた。
そのことに気づいたのはずっと後のことだ。当時の俺はただ日々が順調に回っていることに満足していた。何もかもがうまくいっている。力は伸び稼ぎもあり、討伐は成功し続けている。恵まれていると素直に思っていた。
その「うまくいっている」のほとんど全部がルーチェの手で整えられていることには。俺は気づいていなかった。
順調さというのは恐ろしいものだ。うまくいっているあいだは誰もその仕組みを疑わない。水が蛇口から出るあいだ誰も水道管のことなど考えない。俺にとってルーチェはその目に見えない水道管だった。
たとえば討伐の依頼。
俺たちのもとには良い依頼が途切れることなく舞い込んだ。報酬が良く、俺たちの力に見合った割の良い仕事。危険すぎず、しかし力を伸ばすにはちょうどいい難度の魔物。
最初は運がいいのだと思っていた。だがあるとき俺は気づいた。
その依頼を選んでいるのはルーチェだった。
「この依頼は、報酬は悪くないけど、場所が良くないわ。撤退路が確保できない。……こっちにしましょう。難度は少し高いけど、あなたの力を伸ばすにはいい相手よ」
ルーチェはギルドの掲示板の前でいつもそう言って依頼を選り分けた。俺にはどの依頼が良くて、どれが危ういのか判断がつかなかった。掲示板にはいつも何十もの依頼が貼り出されている。その一枚一枚の裏にある地形や魔物の癖や報酬の相場や依頼主の思惑。そういうものを読み解く目は俺にはなかった。だがルーチェにはそれが分かった。二年の経験。珠地域の知識。そういうものがあいつにはあった。
だから俺はルーチェに任せた。
「お前が選んでくれるなら間違いない。……助かるよ」
俺はそう言って感謝した。実際ルーチェの選ぶ依頼はいつも正解だった。おかげで俺たちは無駄な危険を冒すことなく着実に力を伸ばせた。
ありがたいと思った。
こんなに頼りになる相棒がいてくれる。それだけで俺は恵まれている。
依頼だけ、じゃなかった。
装備の手配。ルーチェは良い武具屋を知っていた。俺の重力魔法に合った軽い装備。魔力の消費を抑える護符。そういうものをルーチェは伝手を辿って揃えてくれた。値の交渉もあいつがやった。俺が店主と向き合っても、足元を見られて法外な値を吹っかけられるだけだった。だがルーチェが間に立つと同じ品が驚くほど安く手に入った。
情報の収集。珠地域のどこにどんな魔物が出るか。どの聖点がまだ支配されていないか。教会が何を企んでいるか。そういう情報がルーチェのもとには自然と集まってきた。教会に近い光魔法の使い手。その立場があいつに他の冒険者には届かない情報をもたらした。
人脈もそうだった。
ルーチェは顔が広かった。ギルドの幹部。他のパーティのリーダー。商人。教会の下級の聖職者。あいつが間に立てば話が驚くほど円滑に進んだ。俺一人では門前払いされるような相手もルーチェが一緒だと態度を変えた。石ころ使いあがりの庶民の冒険者。それが俺の世間からの見え方だった。だがルーチェの隣にいるとその見え方さえ変わった。
俺はそのたびに思った。
――ルーチェがいてくれてよかった。
もし俺一人だったら。良い依頼も選べず。良い装備も揃えられず。情報も人脈もなく。俺は今頃どうなっていただろう。石ころ使いの頃とたいして変わらないその日暮らしをしていたかもしれない。力だけは伸びても。その力を活かす場所にすらたどり着けずに。
ルーチェがいるから。俺はここまで来られた。
それは紛れもない事実だった。
だから俺は感謝した。心から。
「クロト。次の討伐だけど」
ある日、ルーチェが俺のねぐらで地図を広げながら言った。
「三日後でいいかしら。武具屋にあなたの護符の追加を頼んでるの。それが上がるのが明後日だから。……それとその日は教会の知り合いから珠地域の新しい情報が入る予定なの。それも聞いてから行きたいわ」
「ああ。……任せる」
俺は頷いた。
いつからか、討伐の日程も、段取りも、全部ルーチェが組むようになっていた。俺はそれに頷くだけ。だがそれで何も問題はなかった。ルーチェの組む段取りはいつも完璧だった。俺があれこれ考えるよりずっと良い結果になった。
俺はただ強くなることだけを考えていればよかった。
残りの面倒なことは全部ルーチェが引き受けてくれる。依頼の選別。装備の手配。情報の収集。人脈の維持。段取りの組み立て。
俺はそれを当たり前のように受け取っていた。
そして。
その当たり前が。
少しずつ俺から「一人でやる力」を奪っていることには。
俺はまったく気づいていなかった。
一度だけ。
ルーチェが体調を崩して討伐に来られなかったことがあった。
たいしたことはなかった。少し熱が出ただけ。数日休めば治る。だがその数日俺は一人で動くことになった。
俺はそこで思い知った。
依頼を選べなかった。掲示板の前に立って。俺は途方に暮れた。どの依頼が良くてどれが危ういのか。まるで判断がつかない。いつもルーチェが選んでくれていたから。俺はいつの間にか自分で選ぶ力を失っていた。掲示板の何十もの紙がただの意味のない文字の羅列に見えた。
装備を揃えられなかった。武具屋に行っても、どう交渉すればいいのか分からない。店主に法外な値を言われて、俺はただ黙ってそれを買うしかなかった。
情報も人脈も段取りも。何もかもルーチェがいないと回らなかった。
俺はその数日ほとんど何もできずに過ごした。ねぐらで石を握って。時間を遅らせる練習だけを繰り返した。それだけは一人でもできた。だがそれ以外の何もかもが。俺一人では動かなかった。
力はあった。魔物を倒す力は都市でも指折りだ。なのに、その力を使う場所へたどり着くことすら一人ではできない。俺は自分の力を持て余したまま、ねぐらの隅でただ時間が過ぎるのを待っていた。
ルーチェが戻ってきたとき。俺は心の底から安堵した。
「……お前がいないと駄目だな。俺は」
俺はそう呟いた。冗談めかして。だが半分は本気だった。いや。本当は半分どころではなかったのかもしれない。
ルーチェはその言葉を聞いて。
一瞬その碧い目の奥が。何か深い静かな光を宿した気がした。
だが次の瞬間にはルーチェはいつもの柔らかい微笑みに戻っていた。
「そんなことないわ。……でも」
ルーチェは静かに言った。
「でも私がいる。だから大丈夫。あなたは一人で頑張らなくていいの。……私がぜんぶやるから」
その言葉は優しかった。
俺はその優しさに包まれるように頷いた。そうだ。俺は一人で頑張らなくていい。ルーチェがいる。あいつがぜんぶやってくれる。俺はただ強くなることだけを考えていればいい。
なんて恵まれているのだろう。
そう思った。
俺はただ感謝していた。
心強い相棒がいることに。俺の足りないものを全部埋めてくれる幼馴染がいることに。
その夜俺は日記に書いた。
『第二百八十九日。ルーチェのおかげで何もかも順調だ。依頼も、装備も、情報も、あいつが整えてくれる。俺は強くなることだけに集中できる。……いい相棒を持った。あいつがいないともう俺は駄目かもしれない』
その最後の一行を。
俺はなんの気なしに書いた。
あいつがいないともう俺は駄目かもしれない。
冗談のつもりだった。感謝の裏返し。頼りになる相棒への軽口。
だが。
その一行は。
冗談でも軽口でもなかった。
それは少しずつ俺の本当の姿になりつつあった。
かつてこの日記は。俺が一人で石ころを磨き、一人で時間の秘密を掴んでいく、その孤独な探究の記録だった。誰にも頼らず。誰にも認められず。ただ一人で前に進んでいく。その証だった。
その日記に今俺は書いている。あいつがいないと駄目かもしれないと。
一人で立っていた男の日記が。いつの間にか誰かに寄りかかる男の日記に変わっていた。
――ルーチェなしでは駄目な俺。
ただペンを置いて。俺はその夜も穏やかな気持ちで眠りについた。