星を掴め ―― 嗤われた【重力魔法】、時間も光も支配して最強になった 作:朝凪小夜
次にステラと会ったとき。
あいつはもう俺の知るステラではなかった。
その日、俺とルーチェはギルドの大広間にいた。
セルフィリアの討伐計画が正式に動き出していた。ヴェルドー家が大規模な討伐隊を編成する。その参加者の募集と説明のために。腕利きの冒険者たちがギルドの大広間に集められていた。
俺とルーチェもその場にいた。
参加するつもりはなかった。だが情報は欲しかった。ヴェルドー家がどんな規模でどんな装備でセルフィリアに挑むのか。それを知っておくことは俺たちがいつか聖点を目指す上で無駄にはならない。
大広間の上座に。
ヴェルドー家の家臣たちと並んで。ステラがいた。
剣星として。討伐隊の要として。あいつはそこにいた。
黒い髪を結い上げ貴族の装いをまとって。上座から、集まった冒険者たちを見下ろしている。緑の目が静かに広間を見渡していた。
その姿は堂々としていた。都市の誇り。剣星。誰もが憧れ畏れる、星の頂の存在。冒険者たちがあいつを見上げざわめいている。
上座から人々を見下ろす。その位置にあいつはいた。かつて泥の道を俺の前を駆けていた少女が。今は大広間のいちばん高い場所から、腕利きの冒険者たちを静かに見下ろしている。その構図そのものが二年という歳月の残酷さを物語っていた。
そしてその緑の目が。
俺を捉えた。
「あら。……クロト」
説明が一段落した後。ステラは上座を降りてこちらへ歩いてきた。従者を数人従えて。
俺は身構えた。何を身構えたのか自分でも分からない。ただ、あの教会前庭のステラとの微妙な距離が。まだ胸に残っていた。
「あなたも来ていたの。討伐隊に参加を?」
「……いや」
俺は答えた。
「情報を聞きに来ただけだ。俺たちは俺たちで聖点を目指してる。……お前も、知ってるだろ」
「ああ、そうだったわね」
ステラは微笑んだ。
その微笑みは優しかった。だが。
「あなた、まだあんなこと言ってるの」
――あんなこと。
その言葉に俺は胸を突かれた。
「聖点を二人で目指すなんて。……クロト、あなた、本気で言ってるの?」
ステラの声には悪意はなかった。
からかっているのでも、見下しているのでもない。ただ心の底から不思議そうに。信じられないというように。まるで子供が月に手を伸ばそうとしているのを見るような。
「二人で聖点を獲る。……無理よ、そんなの」
ステラは続けた。淡々と。
「セルフィリアがどれだけの場所か。分かってる? ヴェルドー家がこれだけの討伐隊を編成してようやく挑めるのよ。竜がいるの。狼の大群がいるの。……あなたとルーチェ、二人で? そんなの、どう考えても」
ステラはそこで言葉を切った。
そして少しだけ憐れむように。
「……死にに行くようなものだわ」
俺はしばらく言葉が出なかった。
ステラの言うことは正しい。今の俺たちの力ではセルフィリアは遠すぎる。二人で挑めば死ぬ。それは俺自身分かっている。マレナにも同じことを言われた。
だが。
マレナの言葉とステラの言葉は。同じ内容なのにまるで違って聞こえた。
マレナは俺を案じて言った。危ないから気をつけろと。俺の力を認めた上でその上でなお危険だと。
だがステラは。
俺の力を端から勘定に入れていなかった。
石ころ使いのクロト。時間を少し遅らせるだけの地味な力。そんな俺が聖点を目指すなんて月に手を伸ばすような子供じみた夢物語。あいつの目にはそう映っている。
あいつは俺がこの二年何をしてきたかを。知らない。
俺が時間を遅らせられるようになったことを。光を曲げられるようになったことを。魔物の群れを二人で掃討してきたことを。石ころ使いと嗤われた男が都市でも指折りの冒険者になったことを。
知らない。
いや。
知ろうともしていない。
あいつの中で俺はまだあの石ころ使いのクロトのままだった。二年前で時間が止まっている。あいつは頂へと駆け上がり俺のことなどとうに視界から消していた。だから俺がこの二年でどう変わったかなどあいつにはどうでもいいことだった。
悪意はない。
あいつはただ俺を心配して言っている。危ないことはやめなさいと。幼馴染として。かつての友として。
だがその悪意のなさが。
俺を深く抉った。
悪意なら跳ね返せる。憎しみなら憎み返せる。だがあいつのそれは憐れみですらなかった。ただ幼馴染を案じる善意。その善意が俺の二年を丸ごとなかったことにして。俺を二年前の石ころ使いの場所にそっと戻した。優しく。悪気なく。だからこそ俺にはどこにも怒りをぶつける先がなかった。
悪意のある見下しなら。まだ良かった。
「石ころ使いのくせに」と嘲られたなら。俺は腹を立てられた。ガレンやドグに蹴られたときのように。悔しさを燃料にできた。見返してやると。
だがステラのこれは。
違った。
あいつは俺を見下してすらいなかった。見下すにはまず相手を意識しなければならない。だがあいつの中で俺はもう意識する対象ですらなかった。かつての石ころ使いの幼馴染。それが大それた夢を追っている。危ないからやめさせてあげたい。ただそれだけ。
俺の努力も。俺の二年も。俺の想いも。
あいつの視界には。何一つ映っていなかった。
俺があいつに届くために聖点を目指していることも。あいつは想像すらしていない。当然だ。あいつの中で俺は恋の相手ですらない。ただの昔の幼馴染。それ以上でも以下でもない。
俺の恋は。
最初から片方だけのものだった。
いや。
――あの頃は。あの泥まみれで走っていた頃は。あいつも俺をまっすぐ見て笑ってくれた。「クロトの魔法はいつかすごいものになる」と言ってくれた。あの頃は。
そのステラは。
もういない。
貴族の世界に二年浸って。あいつは変わった。まっすぐなあの少女は。庶民の幼馴染を悪気なく見下ろす令嬢になった。悪気なく。それがいちばん堪えた。
「……心配ありがとう」
俺はやっとそれだけを言った。
「でも俺はやめない。……無理でも、無謀でも。俺は聖点を目指す」
ステラは俺のその言葉を。
困ったように聞いていた。まるで聞き分けのない子供を見るように。
「……そう。あなたがそう言うなら止めないけど」
あいつはそう言って微笑んだ。
「無理はしないでね。……死んだら元も子もないもの」
そしてあいつは踵を返した。
黒い髪が結い上げられたまま揺れる。あの風に散った奔放な黒髪の面影はもうどこにもなかった。
従者を従えて。あいつは上座へと戻っていった。
二度と振り返らずに。
俺はその場に立ち尽くしていた。
胸の中に、あの崖の際で開いた穴が。また開いていた。いや。あのときよりずっと深く。
あの時はまだ遠かった。届かないと思った。だがそれは身分の壁があるから。境界があるから。あいつ自身はまだあの頃のステラのままだと。俺は心のどこかで信じていた。
だが。
今日思い知った。
境界の向こうにいるのは。もうあの頃のステラではない。俺をまっすぐ見て笑ってくれたあの少女は。貴族の世界に溶けて消えた。残ったのは俺を悪気なく見下ろす令嬢だけ。
――戻らない。
その言葉が俺の中ではっきりと形を結んだ。
あいつはもう戻らない。俺がどれだけ力をつけても。聖点を獲っても。あいつはあの頃のステラには戻らない。俺が追いかけていたあの風に散る黒髪の少女は。もうこの世にいない。
なのに、俺は。
まだあいつを追っている。
いない少女を。二年前で止まったままの幻を。追いかけている。
馬鹿げている。
――だが。
それでも俺の中のあの始末に負えない性分は。まだ諦めるとは言わなかった。
なぜだ。あいつは戻らない。俺を見てすらいない。それでもなぜ俺は。
「クロト」
背後からルーチェの声がした。
振り向くとルーチェが静かに俺を見ていた。金の髪。碧い目。その目には俺を案じる色と。そして俺には読めないもう一つの色があった。
「……帰りましょう」
ルーチェはただそう言った。
俺は頷いた。
ルーチェの隣を歩きながら。俺は上座のステラを一度だけ振り返った。
あいつはもうこちらを見ていなかった。ヴェルドー家の家臣たちと何か話している。その横顔に。俺の居場所はどこにもなかった。
――このときの俺はまだ知らなかった。
これでもまだ。ステラの変わりようは。始まりに過ぎなかったことを。
俺がこれから目にするあいつの姿が。今日のこの悪意のない見下しなど。可愛いものだと思えるほどの。
もっと深く。もっとどうしようもないところまで。
あいつが堕ちていくことを。
そしてそれを目にしたとき。俺の胸の穴が。どんな色に染まるのかを。
俺はまだ知らずにいた。