星を掴め ―― 嗤われた【重力魔法】、時間も光も支配して最強になった 作:朝凪小夜
その夜のことを俺は一生忘れないだろう。
忘れられるならどれほどよかったか。
思い出すのはいつもあの風に散る黒髪だ。
子供の頃。都市の外れの土の道。木剣を提げて俺の前を駆けていくステラ。誰よりも速く。黒い髪を無造作に束ねて。走るたびにその髪が風に散った。泥を跳ね上げ、汗をかいて、それでも笑って。
「クロト! 遅い!」
振り返って、そう言って笑う。緑の目がまっすぐ俺を見て。
その笑顔に俺は恋をした。
何の飾りもない。まっすぐで奔放で。世界でいちばん綺麗な笑顔だと思った。あの黒髪を追いかけて。俺は生きてきた。石ころ使いと嗤われても。蹴られても。あの笑顔があれば。俺は前を向けた。
あの黒髪。あの笑顔。
それが俺の宝物だった。
石を持ち上げるしか能のない四半人前の俺が。それでも諦めずに生きてこられたのは。あの笑顔がこの世にあったからだ。あのまっすぐな緑の目が俺をまっすぐ見てくれた。それだけで俺のみじめな日々は意味を持てた。あの黒髪は俺の暗い夜を照らすたった一つの灯だった。
――だから俺はあの夜を忘れられない。
その宝物が。俺の目の前で汚されていくのを。見てしまったから。
事の始まりは些細なことだった。
セルフィリア討伐の成功を前祝いする宴。ヴェルドー家が主催する盛大な席だった。討伐に名を連ねる腕利きの冒険者たちも末席に招かれた。
俺とルーチェは討伐には参加しない。だが情報を集める過程でギルドの顔役を通して末席に加わることになった。ルーチェが段取りをつけた。ヴェルドー家の討伐の規模や装備を間近で見ておける。そんな、またとない機会だと。
俺は気が進まなかった。ステラがいる。あいつの許嫁の家の宴だ。あの悪意のない見下しをまた浴びるかもしれない。
だがルーチェは言った。
「情報は必要よ。……大丈夫。私が隣にいるから」
その言葉に俺は頷いた。ルーチェがいるなら。耐えられるだろうと。
――甘かった。
俺は何も分かっていなかった。
宴の席で。
俺は末席の隅にいた。豪奢な広間。着飾った貴族たち。上座にはヴェルドー家の当主とその一族。そしてその当主の傍らに。
ステラがいた。
黒い髪を結い上げ、これまで見た中でいちばん上等な衣をまとって。剣星として。ヴェルドー家の次期女主人として。あいつはそこにいた。
そしてその隣に。
一人の青年がいた。
ヴェルドー家の嫡男。ステラの許嫁。
……美しい男だった。それが俺の第一印象だった。
整った顔立ち。品のある所作。まとう衣も、身のこなしも、生まれながらの貴族のそれだった。冒険者たちに鷹揚に酒を勧め、談笑している。その笑みには余裕があった。何一つ不足のない者の余裕。
だが。
美しいだけの男ではなかった。
俺には分かった。この二年、珠地域で力ある者を数えきれぬほど見てきた俺には。あの男の身の内に宿る力の大きさが。
貴族は身体に珠の力を宿す。強く長くその力を宿した者ほど位が高い。あの男の宿す力は。俺がこれまで見たどの冒険者よりも深く濃かった。生まれながらに聖点の力を器に満たし育てられた貴族の嫡男。その器は。俺のような庶民が珠地域で必死に掻き集めた強化など比較にもならない。
家柄だけではない。器も。力も。あの男は俺の遥か上にいた。
もし俺があの男に剣を向けたら。
――一瞬で殺される。
考えるまでもなかった。身分でも。力でも。あの男は俺の届かない場所にいた。俺が聖点をいくつ獲ろうと。この二年をいくつ積み重ねようと。あの生まれながらの絶対の格差は。埋まらない。
欠点が見当たらなかった。
家柄も、器量も、振る舞いも、力も。あの男には、俺がステラを諦める理由の全てが揃っていた。あんな男に望まれたなら。あいつがあの世界を選ぶのも。無理はないと。俺はそう思うしかなかった。
憎めさえしなかった。
あの男が下劣な成り上がりだったなら。俺は腹を立てられた。あんな奴にステラを渡すものかと。だがあの男は完璧だった。誰の目にも非の打ち所のない貴公子で。そして俺など指一本で捻り潰せる絶対の強者だった。俺の入り込む隙など。どこにもなかった。
その男の隣で。ステラは微笑んでいた。満ち足りた顔で。
その光景を末席から見ているだけで。俺の胸は静かに軋んだ。
だが。
本当の地獄は。まだ始まってもいなかった。
宴が進み。
酒が回り。
その男が。ステラの許嫁が。ふと末席の方に目を向けた。
そして俺を見つけた。
一瞬その切れ長の目が細められた。何かを思い出すように。それから男は傍らの家臣に何か囁いた。家臣が頷き答える。俺のことを教えたのだろう。ステラの元幼馴染で。聖点を目指すと嘯いている庶民の冒険者だと。
男の口元が。
わずかに笑んだ。
そして男は酒杯を片手に。よく通る優雅な声で言った。広間にいる皆に聞かせるように。だがその視線は。まっすぐ俺を見て。
「そういえば。ステラの昔の知り合いが来ている、と聞いたが」
広間の視線が末席の俺に集まった。
俺は身を硬くした。
「幼馴染だったかな。……いや、懐かしいことだ。ステラにもそういう時代があったのだな。庶民の子供たちと泥にまみれて遊んでいた頃が」
最初は軽かった。
優雅で。鷹揚で。宴の座興のように。婚約者の昔話を微笑ましく口にする。それだけの体裁だった。悪意などどこにもないように。
だが。
その目は。まっすぐ俺を見て笑っていた。俺の反応を。俺がどんな顔をするかを。値踏みするように。
俺が身を硬くしたのを。あの男は見てとった。
そして。
そこからあの男は。ゆっくりとその優雅さを脱ぎ始めた。
「今のステラからは想像もつかんだろう」
男はステラの結い上げた黒髪にそっと手を伸ばした。
その指が。あいつの髪に触れた。
俺の宝物だったあの黒髪に。
当たり前のように。所有物に触れるように。男の指があいつの髪を梳いた。
「今や剣星にして。私の妻となる女だ。庶民の泥の匂いなどもう微塵も残っておらん。……いや」
男はそこで酒杯を傾け。口の端を吊り上げた。
「泥の匂いを、洗い落としてやったのは。この私だがな」
声が少しずつ。重くなっていく。
優雅な仮面の下から。何か別のものが。滲み出してくる。
男の指は。あいつの髪から首筋へと滑った。人前で。宴の席で。当たり前のように。ステラを自分のものだと示すように。
そしてステラは。
――抗わなかった。
微笑んでいた。嫌がるそぶりも。恥じらいもなく。触れられることに慣れきった様子で。むしろ心地よさそうに。目を細めて。男の肩に身を寄せた。
満ち足りた顔で。
そのステラの様子を見て。あの男は。俺のこわばった顔を見て。
愉しそうに。笑った。
「なあ、庶民の君」
男の声から。もう優雅さは消えていた。低い声が、重く粘ついて耳に絡みつくようだった。
「教えてやろうか。この女が。夜、どうなるかを」
やめろと。俺は思った。だが声は出なかった。この場で庶民が貴族の言葉を遮ることなど。できるはずもなかった。俺は末席に縫い止められたまま。ただ聞くしかなかった。
「昼間は、剣星だ、都市の誇りだと、澄ました顔をして。……だが、夜になって私の寝所に放り込めば。あの気の強い目がたちまちとろけてな」
男はステラの腰に手を回した。
あいつは。されるがままに。むしろ擦り寄るように。
「最初の頃は庶民の意地か抗うふりもしていたが。今ではこちらが指を一本触れただけで。……いやはや。はしたないほどだ。剣星の名が泣くぞ。私の下であの女がどんな声を上げるか。どんな顔で強請るか。実にいい、唆るぞ。……君にも、この場の皆にも、聞かせてやりたいくらいだ」
広間に下卑た笑いが起きた。貴族たちが面白がって囃し立てる。ステラは。それを恥じるでもなく。ただ男の腕の中で。満ち足りた顔をしていた。
男はそのステラの頬を。指でなぞりゆっくりと首筋へ背に落としながら。俺を見た。
まっすぐ。嘲るように。勝ち誇るように。
「――どうだ、庶民。お前が泥の中で指をくわえて見ていた女は。今こうして私のものだ。骨の髄まで。……羨ましいか?」
俺の頭の中で。
勝手に。
――やめろ。
俺は心の中で叫んだ。
やめろ。考えるな。想像するな。
だが止まらなかった。
男の言葉が。引き金だった。とろりと蕩ける目。すがりつく手。俺の脳が。俺の意思を無視して。その光景を。描き始めた。
あの緑の目が。俺をまっすぐ見て笑っていたあの目が。この男の下で。蕩けて。あのまっすぐな声が。この男の名を。あの風に散った黒髪が。乱れて汗に濡れて。
やめろ。
やめてくれ。
振り払おうとしても。目を閉じても。像は。俺の瞼の裏で。鮮やかに。俺が恋したあの少女が。俺の知らない、女の顔で。この完璧な男の。
ステラはまだ微笑んでいた。
男の肩に身を寄せて。何も言わずに。ただその言葉を。否定もせず。恥じらいもせず。満ち足りた顔で。肯定するように。
――それが全部本当だと。あいつのその仕草が。告げていた。
男の言葉と。あいつの沈黙が。二つの方向から。俺を挟んで。逃げ場を奪った。俺の脳が。描いた像から。もう逃げられなかった。
胃の底から。
何かがせり上がってきた。
あの男は。
俺のその青ざめた顔を。しばらく眺めていた。まるで踏み潰した虫がもがくのを観察するように。
そして。
満足したように。ふっと笑った。
「……まあ、精々励むがいい。庶民。聖点だかなんだか。せいぜい夢を見るといい」
それだけ言って。あの男はもう俺には興味を失ったように。ステラを伴って。上座の方へと戻っていった。
笑いながら。
愉しい余興でも終えたように。軽い足取りで。二度とこちらを振り返りもせず。
あの男は何一つ間違ったことをしていなかった。婚約者を伴い。その関係を口にし。庶民の身の程知らずをたしなめた。それだけだ。この場の誰もあの男を責めはしない。むしろ貴族たちは面白い座興だったと笑っている。
悪いのは。この場で動揺している。俺の方だった。
俺は末席に取り残された。
誰も俺を見ていなかった。あの男にとって俺は。もう記憶にも残らない。踏み潰した虫けら。それ以下の何か。
俺は席を立った。
どう立ったのか覚えていない。気づけば俺は広間を出て宴の喧騒を背に。誰もいない廊下の隅で。壁に手をつき。
吐いた。
胃の中のものを。全部。
えずきながら。俺は涙が出ているのに気づいた。悔しさか。悲しみか。それともただの生理的な反応か。分からなかった。ただ体が。俺の意思とは関係なく。あの光景を。拒絶していた。
あの宝物が。
汚された。
いや。違う。
汚されたのではない。
あいつは。ステラは。あの男の色に染まって。満ち足りて。幸せそうにしていた。汚されたと感じているのは。俺だけだ。
あいつにとってそれは。汚れでも堕落でもなかった。ただ正しい場所に収まった。ただそれだけ。
俺が恋したあの少女は。もういない。
いないどころじゃない。
あいつは。あのまっすぐな笑顔で走っていた少女は。今あの男の下で。俺の知らない女の顔で。幸せになっていた。
俺の恋した相手が。俺の想いなど微塵も知らないまま。俺の二年など。何一つ届かないまま。あの男の腕の中で。
えずきが止まらなかった。
俺の二年が。俺の想いが。俺の恋が。全部。全部。何の意味もなかった。あいつの世界には。俺の居場所など。最初から。どこにも。
どれくらいそうしていたか。
冷たい廊下の床に。膝をついたまま。俺は動けずにいた。
やがて。
背後に気配がした。
振り向かなくても分かった。ルーチェだった。俺を追って宴を抜けてきたのだろう。
ルーチェは何も言わなかった。
ただ俺の傍にそっと膝をつき。震える俺の背に。静かに手を置いた。
温かい手だった。
その温もりに。俺は。
崩れ落ちるように。ルーチェの方へ。体を預けた。
自分でもなぜそうしたのか分からない。ただそこに。温もりがあった。俺の開いた穴に。何かを注いでくれる温もりが。それだけが。あの夜の俺に。残された唯一の。
ルーチェは俺を受け止めた。
何も言わずに。ただ静かに。
その金の髪が。俺の頬に触れた。
俺はただ。
温もりにすがって。
泣いていた。