星を掴め ―― 嗤われた【重力魔法】、時間も光も支配して最強になった 作:朝凪小夜
あの夜から俺の中で何かが壊れた。
いや。壊れたというのは正しくない。壊れたなら痛むはずだ。だが俺の中にあったのは痛みではなかった。
空白だった。
宴の翌日から、俺はいつも通り暮らそうとした。
朝起きて。討伐の支度をして。ルーチェと合流して。珠地域へ向かう。魔物を倒す。強化を吸収する。日記をつける。
全部、いつも通りにやった。体は覚えている。二年繰り返してきた動作だ。頭が空っぽでも手足は勝手に動いた。
だが。
何も感じなかった。
魔物を倒しても、あの体が軽くなる手応えが来なかった。いや、来ているはずなのだ。俺は確かに強くなっている。強化を吸収している。だがその強くなったことが。もうどうでもよかった。かつて、指一本ぶんの高さに一喜一憂していたあの俺は。今、竜すら遠からず倒せそうな力を手にしつつある。なのに何も感じない。
なんのために強くなるのか。
その問いに。俺は答えられなくなっていた。
ずっと俺はステラのために強くなってきた。
届かないと分かっていても。あいつに近づくために。聖点を獲って身分の壁を越えて。同じ場所に立つために。
それが俺の全部だった。石ころ使いと嗤われた頃から。時間を遅らせ、光を曲げ、魔物を倒し。全部、あいつに繋がっていた。あいつのあの風に散る黒髪。あのまっすぐな笑顔。それを追いかけて。俺はここまで来た。俺の力の一つ一つ。俺の日記の一行一行。全部あの黒髪に向かっていた。
だが。
その追いかけていたものが。
もうどこにもなかった。
あの夜、俺は見た。あいつがあの男の下で。満ち足りて幸せそうにしている姿を。俺の知らない女の顔で。骨の髄まであの男のものになって。
俺が恋したあの少女は。もういない。
それだけならまだ。俺は幻を追い続けられたかもしれない。いない少女を想い続けることはできたかもしれない。死んだ相手を悼むように。遠くへ行った相手を想うように。
だがあいつは。
いないのではなかった。
そこにいた。生きて。笑って。満ち足りて。あの男の腕の中で。俺の想いなど微塵も知らないまま。俺の二年など視界にも入れないまま。幸せに。
――追い返す相手もいない。取り戻すものもない。
あいつは不幸になったわけじゃない。攫われたわけでも、無理強いされたわけでもない。あいつは自分であの場所を選んで。そこで幸せになっていた。誰かがあいつをあそこへ引きずり込んだのなら。俺はその誰かを憎めた。だがあいつは、自分の足であそこへ歩いていって。自分の意志であの男の腕に収まった。
俺が割り込む余地は。どこにもなかった。
あいつを取り戻す?
何から。あいつは幸せなのに。
あいつに俺の想いを告げる?
なんのために。あいつは俺を見てすらいないのに。
聖点を獲って身分の壁を越える?
越えてどうする。越えた先にあいつはいない。いるのはあの男の腕の中で満ち足りている俺の知らない女だけだ。
全部。
意味がなかった。
俺の目指していたものは。最初からどこにもなかったのだ。俺は幻を追いかけて。その幻すらあの夜砕けて消えた。追いかけるという行為そのものが宙に浮いた。走る先を失った足のように。俺はどこへも進めなくなった。
俺は空っぽになった。
聖点を目指す理由が分からなくなった。強くなる意味が分からなくなった。討伐に行っても。魔物を倒しても。何も心に響かなかった。ただ体だけがいつもの動作を繰り返している。中身の抜けた人形みたいに。
夜日記を開いても。
書くことがなかった。
いや。書くべきことはあった。今日どんな魔物を倒したか。強化をどれだけ吸収したか。力がどう伸びたか。記録すべきことは山ほどあった。
だがペンが動かなかった。
それを記録してなんになる。強くなってなんになる。この記録のその先に。もう目指す場所はない。かつてこの日記は。俺が上へ、上へと、登っていくその足跡だった。一行書くたびに。俺は一段高い場所へ来ていた。だが今。登る先の頂が消えた。足跡を記す意味も消えた。
俺は日記を開いたまま。白い紙を見つめて。長いこと動けずにいた。
母の言葉が頭をよぎった。
――諦める理由が見当たらないから生きる。
諦める理由を探して。俺はここまで来た。石ころを磨き続けた。どれだけ見下されても。諦める理由が見つからない限り、俺は前を向いてきた。あの口癖は俺の背骨だった。折れそうになるたびあの言葉が俺を支えた。
だが。
今は。
諦める理由なんて探すまでもなかった。
だって。
――諦める対象そのものが消えてしまった。
目指すものがないのだ。諦めるも何もない。俺の前にはもう道がなかった。細い、細い糸だと思っていたあの道。同じ頂を見上げているそれだけが繋ぐ糸。その糸はあの夜、ぷつりと切れて。
母のあの口癖は。諦める理由があるかないかという話だった。だが今の俺には。諦めるその対象がない。母の言葉は目指すものがある者にしか効かない。目指すものを失った俺には。あの背骨だった言葉すら。もう意味をなさなかった。
俺はどこにも向かえなくなっていた。
何も欲しくなかった。
生まれて初めての感覚だった。
石ころ使いの頃でさえ。俺は何かを欲していた。見返したい。強くなりたい。あいつに届きたい。渇きがあった。その渇きが俺を突き動かしていた。蹴られても嗤われても。俺の中にはいつも火があった。乾いた喉が水を求めるように。俺は何かを求め続けていた。
だが今は。
渇きすらなかった。
強くなりたいとも思わない。見返したいとも思わない。あいつに届きたいとも――もう思えない。届く先にあいつがいないのだから。
欲しいものが何もない。
それは楽なのかと思った。渇きがないなら。苦しみもないはずだと。求めなければ失うこともない。届かないと嘆くこともない。
だが違った。
渇きのない体は。ただ空っぽで。空っぽの体を抱えて生きるのは。渇いているよりずっと辛かった。何も欲しくないのに。それでも朝は来て。体は動いて。日々は過ぎていく。なんの意味もなく。渇いていた頃はまだ良かった。渇きは生きている証だった。今の俺にはその渇きすらない。生きているという感覚すら薄い。
俺は抜け殻になって。
ただ時間が過ぎるのを。見ていた。
そんな俺の隣に。
ルーチェがいた。
あいつは何も聞かなかった。あの夜、なぜ俺が宴を抜けて、吐いていたのか。なぜ、こんなに抜け殻になってしまったのか。何も問い詰めなかった。
ただいつも通り。俺の隣にいた。
討伐の段取りを組み。依頼を選び。装備を整え。俺が何もできなくても。何も感じなくても。ルーチェは変わらず俺の暮らしを回してくれた。
空っぽの俺の代わりに。
あいつが全部やってくれた。
俺はその金の髪の気配を。ぼんやりと隣に感じていた。
空っぽの俺の中で。唯一。まだそこに確かにあるもの。それがルーチェの気配だった。ステラを失って。目的を失って。何もかもが色を失った俺の世界で。ただ一つ。ルーチェの静かな温もりだけが。まだそこにあった。
俺はそれに。すがるように。寄りかかっていた。
自分でも気づかないうちに。
空っぽの器は寄りかかる先を探す。倒れないために。そして俺のいちばん近くにいつもあったのが。金の髪だった。
「クロト」
ある夜、ルーチェが俺のねぐらで静かに言った。
俺は木箱にもたれて。ぼんやりと宙を見ていた。
「……無理しなくていいのよ」
ルーチェの声は。柔らかかった。
「今は何も考えなくていい。目指すものが分からなくても。強くなる意味が分からなくても。……いいの。私がいるから」
私がいるから。
その言葉が。空っぽの俺の中に。静かに染みてきた。
目指すものがない。目的がない。何も欲しくない。そんな抜け殻の俺を。ルーチェは否定しなかった。責めなかった。ただ隣にいて。私がいるからと。
俺はその言葉に。ただ頷いた。
頷くしかなかった。
目的を失った俺の空白は。
埋められるのを。待っている器だった。
からっぽの器ほど注がれたものを選ばない。何が注がれても。渇いた器はそれを飲み干してしまう。今の俺がまさにそうだった。空っぽで。渇いていて。何かで満たされることを体の芯で求めていた。たとえそれがどんなものであろうと。