星を掴め ―― 嗤われた【重力魔法】、時間も光も支配して最強になった 作:朝凪小夜
空っぽになった俺の日々の中で。
ルーチェは何も変わらなかった。
あの夜から俺は抜け殻のままだった。
目指すものがない。強くなる意味も分からない。討伐に行っても心は動かない。日記も書けないまま。俺はただ時間が過ぎるのを見ていた。
こんな俺を。普通なら見放すだろう。
急に腑抜けになった相棒。何を考えているのか分からない。討伐でも以前のような冴えを見せない。ただ体だけが動いている。そんな俺と組み続けることに。意味なんてないはずだ。
だがルーチェは。
見放さなかった。
あいつは何も変えなかった。
これまで通り俺のねぐらを訪ね。これまで通り討伐の段取りを組み。これまで通り隣で戦った。俺が空っぽでも。俺が何も感じなくても。ルーチェの日々は変わらなかった。
そしてあいつは。
俺に何も要求しなかった。
「元気を出せ」とも言わなかった。「どうしたの」とも問い詰めなかった。「早く立ち直って」とも急かさなかった。ただいつも通り隣にいて。いつも通り俺の暮らしを回して。それだけだった。
俺が討伐でぼんやりして隙を見せても。ルーチェは責めずにその隙を光で埋めた。俺が日記を書けずに木箱にもたれていても。ルーチェは何も言わずに俺のぶんの記録までつけてくれた。
変わらなかった。何一つ。
その変わらなさが。
空っぽの俺には。
――どれほど救いだったか。
だが後になって思う。あの変わらなさは。ただの優しさだったのだろうか。
急いで立ち直らせようともしない。忘れさせようともしない。ただ空っぽの俺の隣に居続ける。それは辛抱強く待つということだった。俺の空白がある形に固まるのを。俺がこの空白を埋めてくれる何かを求め始めるのを。あいつはただ待っていた。急かさず。焦らず。まるでそうすればいずれ俺がどこへ向かうか。とうに知っているように。
全部が変わってしまった。
ステラは変わった。俺の知るあの少女は消えた。俺の目的も消えた。生きる理由も渇きも何もかも。あの夜を境に俺の世界は根こそぎ変わってしまった。
なのに。
ルーチェだけが。
変わらなかった。
昔からあいつはそうだった。俺が石ころ使いと嗤われていた頃も。時間を遅らせられるようになった頃も。光を曲げられるようになった頃も。そして抜け殻になった今も。ルーチェはいつも同じ静かな微笑みで。俺の隣にいた。
変わり続ける世界の中で。
ただ一つ変わらないもの。
それがルーチェだった。
俺はその変わらなさに。すがった。
空っぽの俺を繋ぎ止めているのは。もはやルーチェの存在だけだった。あいつがいなければ。俺はとっくに崩れていた。討伐をやめ、ねぐらに引きこもり、抜け殻のまま朽ちていた。だろう。
だがルーチェがいた。
毎朝俺を訪ねて。討伐へ連れ出して。隣で戦って。日々を回してくれる。その変わらない気配が。かろうじて俺をこの世界に繋ぎ止めていた。
ある日の討伐の帰り道。
俺たちは珠地域の縁の丘の上で休んでいた。眼下に都市が広がっている。遠く丘の上には貴族街の白い塀。あの境界の向こう。
俺はぼんやりとそれを見ていた。
あの塀の向こうに。ステラがいる。あの男の腕の中で。満ち足りて。
だが不思議と。
その光景を思い浮かべても。もうあの嘔吐するような痛みは来なかった。
ただ空っぽだった。遠い他人事のように。あそこに俺の知らない女がいる。俺の恋した少女はもういない。それだけの事実が。ただそこにあった。
「……クロト」
隣に座っていたルーチェが静かに言った。
金の髪が夕陽に染まっていた。碧い目が俺と同じ方向。あの白い塀を見ている。
「まだあそこを見てるの?」
「……いや」
俺は首を横に振った。
「もう何も感じない。……ただ、見てただけだ」
ルーチェはしばらく黙っていた。それから静かに言った。
「……無理に忘れなくていいのよ」
その声は優しかった。
「ステラのことも。あなたの目指してたものも。……無理に忘れようとしなくていい。ただ今は隣にいさせて。それだけでいいから」
隣にいさせて。
その言葉に。俺はなぜか胸が詰まった。
空っぽの俺に。ルーチェは何も求めなかった。元気になれとも。忘れろとも。前を向けとも。ただ隣にいさせてと。それだけ。
俺はその控えめな言葉に。かえって深く寄りかかってしまった。
「……ありがとう、ルーチェ」
俺はそう言った。
声が少し震えていた。
「お前がいなかったら。俺はたぶんもう。……ここにいない」
それは本心だった。
ステラを失い目的を失い空っぽになった俺を。この世界に繋ぎ止めているのは。もうルーチェだけだった。あいつの変わらない気配だけが。俺を生かしていた。
ルーチェは。
俺の言葉を聞いて。
少しのあいだ黙っていた。
夕陽に染まったその横顔。碧い目がまっすぐ都市を見下ろしている。何を思っているのか。俺には読めなかった。
だが。
やがてあいつは。静かに微笑んで。言った。
「……いなくならないわ。私は。ずっとあなたの隣にいる」
ずっと。
その言葉が。空っぽの俺の胸に。じんわりと染みてきた。
全部が変わってしまった世界で。ずっと隣にいると言ってくれる誰か。それがどれほど心強いか。ステラを失った今の俺には。その言葉だけが。すがれる唯一のものだった。
夕陽が沈んでいく。
俺とルーチェは並んでそれを見ていた。
空っぽの俺の胸に。ルーチェの気配が。静かに寄り添っている。ステラを想ったあの渇くような痛みとは。まるで違う。もっと静かで。もっと確かな。温もり。
この温もりにすがって。俺は生きていくのかもしれない。
ふとそんなことを思った。
目指すものはない。渇きもない。だが隣にルーチェがいる。あいつが変わらず隣にいてくれる。それだけで。俺はまだ朝を迎えられる。討伐に行ける。生きていける。
――それでいいのかもしれない。
そう思った。
ステラは遠い。俺の目的は消えた。だがルーチェがいる。もうそれだけで。俺の世界は辛うじて形を保っている。
俺はまだ気づいていなかった。
俺の世界のその辛うじて保った形の。中心に。いつのまにかステラではなく。ルーチェがいることに。
かつて俺の世界の中心にはステラがいた。あの風に散る黒髪が。俺の全ての行動の中心に。俺はあいつを軸にして回っていた。だがその軸があの夜消えた。軸を失った俺の世界は崩れるはずだった。
だが崩れなかった。
いつのまにか新しい軸が。その空いた中心に収まっていたからだ。金の髪の軸が。俺は気づかぬうちに。ステラを軸に回っていた世界から。ルーチェを軸に回る世界へ。乗り換えていた。同じように回っているから。軸が入れ替わったことにすら気づかずに。
ただ隣に変わらない温もりがあることを。ありがたいと。
そう思っていた。
夕陽が沈み。都市に灯がともり始める。
俺はその隣で静かに微笑む金の髪を。ただぼんやりと感じていた。
ただ隣の温もりに。すがっていた。